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小栗上野介が駆け抜けた時代70 近代資本主義の萌芽 新貨条例 1両=1円=1ドル

日本における資本主義の成立は、株式会社の誕生とその発展と同意語です。株式会社の原型は小栗上野介が1867年に建議書を提出した兵庫商社でした。上野介が目指した西洋式コンペニーは、外国商館の活動を制約し、日本経済の矛盾を解決する貿易商社でした。関西の出資者が役員となり、大阪に事務所を開いたものの、政治情勢の急変により、約半年だけ稼動したのち事業を中止しました。


兵庫商社が株式会社の「原型」とされるのは、広く出資者を募り、共通の目的で組織を運営し、利益は出資額に応じて配当すると定めたからです。しかし、出資金の権利を示す「株式」という概念はまだ導入されていません。明治2年には、上野介と親しかった、三井組の三野村利左衛門が「兵庫商社」を継承したかのような共同出資の組織「通商会社」と「為替会社」を設立します。これは「社中」(出資者)に出資金に対して月一歩の利息を払うことを条件としていたので、現在の株式とは異なる方式でした。「通商会社」と「為替会社」はすぐにつぶれましたが、三野村は明治4年、「三井組バンク」を創立します。


明治2年には渋沢栄一が銀行と商業会社を併用した「商法会所」を静岡に設立しました。静岡藩が新政府から借入れていた石高拝借金53万両を、殖産興業を興す基本金として立ち上げた組織で、その利益を返納金に当てることを目的としました。同年には、福沢諭吉門下の実業家、早矢仕有的(はやしゆうてき)が「丸善」の前身である「丸屋商社」を創業しています。早矢仕は親子代々世襲の個人商の欠点を指摘し、ウェーランドの『経営哲学論』を参考に元金を出資する「元金社中(株主)」と実際に働く「働社中(社員)」によって構成する会社組織を日本で最初に採用しました。蛇足ですが、この早矢仕が「ハヤシライス」の考案者だという説がありますが、定かではありません。


そして明治4年(1871年)6月27日、日本最初の貨幣法「新貨条例」によって、1両=1円=1ドルに決まります。幣制改革を主導したのは大隈重信です。大隈は通貨単位を「両」から「円」に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を円形とすることなどを決定。同年、大阪に設置された造幣寮が新貨幣の鋳造を開始し、紙幣はドイツの会社に印刷を依頼し、新紙幣を発行しました。アメリカ出張中の伊藤博文の「世界の大勢は金本位に向かいつつある」という指摘を受けて金本位制が採用されます。こうして資本主義が発展する環境は整いました。


株式会社の条件をほぼ満たした最初の企業は、明治6年に設立された第一国立銀行でしょう。渋沢栄一が会頭を務めた同銀行こそが「統一金融機関コード0001」(現在は、みずほ銀行)なのです。同行は出資者を公募して1株100円の株式を発行し、2,448,000円の資本金で設立。取締役は株主が選挙で選び、頭取は取締役会で決められました。現在の株式会社と異なるのは、営業の損益は株高に応じて株主が負担するという規定や株式の譲渡が制限されていたことが挙げられます。渋沢は明治12年に「東京海上保険会社」を株式会社として設立します。商法に照らして株式会社の要件を満たした実質的な株式会社の設立といえば、1893年(明治26年)に誕生した「日本郵船株式会舎」ということになるでしょう。これは三菱グループの源流です。


明治に誕生した近代資本主義。これらの基盤をつくったのは幕末の幕臣でした。1860年に遣米使節団の一員としてアメリカに渡り、両とドルの交換レートの交渉に成功し、のちに近代的マネジメントの源流となる多くの政策を試みた小栗上野介がいたからこそ、その後に渋沢栄一や大隈重信、伊藤博文、岩崎弥太郎らが活躍できたといっても過言ではないでしょう。


そういった観点から小栗上野介の活躍を見直し、その時代を検証してきました。
長い間、ご愛読くださった『小栗上野介が駆け抜けた時代』は、このコラムをもって終了とします。



By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 69 近代資本主義の萌芽 三井・三菱・大倉・藤田・安田

幕末に頭角をあらわした経済人は三井組の経営陣(三野村利衛門、益田孝)や三菱財閥の祖・岩崎弥太郎、古河財閥の創業者・古河市兵衛、無数の起業に関わった渋沢栄一、明治に入って大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所(大阪商科大学の前身)などを設立する五代友厚だけではありません。


この時代には、後に大倉財閥を築く大倉喜八郎、阪神財閥のひとつとなる藤田財閥を創設した藤田伝三郎、安田財閥の祖・安田善次郎など、日本経済の種を蒔いた人物が豊富にいます。彼らの特長は組織力、資金力をどの分野、業種業態に注げば利益が生まれるのかをきっちり分析していたことにあります。あるいは本能的に察知していたのかもしれません。


新潟生まれの大倉喜八郎は18歳で上京、1857年に独立して乾物屋を経営。これは日米修好通商条約締結の前年です。1865年に「大倉屋銃砲店」を開業し、後に戊辰戦争(1868~69年)の際に官軍御用を務め、軍需品の供給で巨利を得ます。幕府でなく、官軍に軍需品を売ったことが喜八郎の先見性でしょう。明治6年、貿易商社「大倉組商会」を設立し、貿易業に着手します。やがて台湾出兵や日清・日露戦争で軍の用達商として活躍。朝鮮・中国における投資にも積極的で、帝国ホテルや大倉土木組(現・大成建設)を含め内外で多くの事業を展開し、大倉財閥を築きます。現あいおい損保、日清オイリオグループ、ホテルオークラなど大倉財閥が関与した企業は20社以上。しかし中核企業であった大倉組は大倉商事となり、中堅商社として存続しましたが、1998年に倒産し、解散しています。


藤田財閥を創設した藤田伝三郎もまた激動の時代を生きた実業家です。長州生まれの伝三郎は、維新の動乱期に高杉晋作に師事して奇兵隊に投じ、木戸孝允、井上馨、山県有朋らと交遊関係を結んでいます。明治2年、長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・砲弾・銃丸などを払い下げたとき、これらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得ます。大倉喜八郎同様、「政商」といったところでしょう。やがて大阪に出て、軍靴の製造を皮切りに建設業に手を広げ、二人の兄が事業に参加し、「藤田組」の基盤がつくられます。兄弟経営を起点としているところが藤田組の特徴です。


1877年の西南戦争では、陸軍に被服、食糧、機械、軍靴を納入、人夫の斡旋までして、三井・三菱と並ぶ利益をあげたとされています。藤田はその後、大阪商法会議所創設の発起人となり、大阪硫酸製造会社や関西貿易社の設立に参加、琵琶湖の太湖汽船会社や大阪紡績初代取締役頭取に就任し、阪神に藤田財閥を築いていきます。「ワシントンホテル」「フォーシーズンズ椿山荘」などのホテルやレジャー施設を経営する藤田観光が現在グループの中核となっています。


安田財閥の創設者の安田善次郎は、富山藩出身。17歳で江戸に出、丁稚奉公の後、1864年に両替店安田屋を開業。これは下関発砲事件や池田屋事件が起こった年です。太政官札・公債などの取引、官公預金などで蓄財し、三井と並んで江戸屈指の金融業者となります。明治9年には、第三国立銀行の創立に参加、明治13年に安田銀行(後の富士銀行。現・みずほコーポレート銀行)を開業します。15年には、創立されたばかりの日本銀行の理事に就任しています。後に損保会社(現損害保険ジャパン)、生保会社(現・明治安田生命保険)を次々と設立し、金融財閥を築きました。三井や三菱、住友と異なり、重工業に進出せず、金融グループを目指したのが安田善次郎の着眼点でしょう。安田財閥は財閥解体後、芙蓉グループとして君臨しています。


幕末に起業した彼らに共通するのは、価値観が一変する不安定な社会に生きていたからこそ、大きなリスクを承知で新たな事業に挑んだことでしょう。

By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 68 近代資本主義の萌芽  近江商人と資本主義

幕末に近江商人が営んだ事業は、小売・卸業、呉服業、両替商、酒造業・醤油業などです。近江商人は伊勢商人と並ぶ近世の代表的な行商人です。湖東、八幡、高島、日野など、地域ごとに得意とする商品が異なり、たとえば日野地方出身の日野商人の主力商品には清酒と薬がありました。


商人と言っても卸・小売業に特化していたのではなく、北関東地方の街道沿いを中心に店舗を設置し、清酒の製造・販売を行ってきました。また、「置き薬」のシステムを考えたのも日野商人と言われています。マーケットがある他の藩に進出して事業を展開していく戦略は、市場開拓の面からも資本主義の発想です。


幕末に頭角をあらわした近江商人は少なくありません。7代目小野善助はその一人です。初代善助は大溝藩(現在の滋賀県高島市)の出身。盛岡の叔父・村井権兵衛に呼ばれ、1682年京都から盛岡に進出し、「井筒屋善助店」を開いて陸羽地方との交易で成功しました。「井筒屋」は小野組の屋号です。


2代目は村井姓を名乗りましたが、小野の分家は多く、以降小野一族は、木綿、古手などの雑品を南部にもたらし、砂金、紅花、生糸などを持ち下り、次第に各地に支店を出して栄えました。やがて両替屋も営み、7代目善助が活躍した幕末には、三井組、島田組と並んで出納所御為替御用達となり、豪商に成長しました。明治維新には莫大な御用金によって新政府に加担し、新政府の財政確立に貢献。


政府・各府県の「為替方」になる一方、米穀・生糸取引を手がけ、製糸場や鉱山も経営。さらに後に三井組とともに「三井小野組合銀行」を設立、これが後に第一国立銀行となるなど、維新後、数年で巨大資本に発展しました。しかし政府が「為替方」に対する担保額の引き上げと担保提出強化の方針を打ち出すと、小野組はたちまち苦境に陥り、各府県が小野組に預け入れた官金の回収に動いたものの、これを支えきれず、破産に至ります。ちなみに盛岡・小野組に奉公し、頭角をあらわしたのが、後に古河鉱業を興し、古河財閥の祖となった古河市兵衛です。


著名な近江商人といえば、近江高島出身で京都に出て「高島屋飯田儀兵衛」と称して米穀店を営んでいた飯田儀兵衛と、その養子になる飯田新七がいます。新七は越前敦賀の出身ですが、京都の呉服屋に奉公中その勤勉ぶりを認められ、1831年、新七が27歳のとき、家業を呉服商に変え、屋号を「高島屋飯田呉服店」とし、京都烏丸松原で古着・木綿商を始めました。他店よりも早朝くから店を開け、安価な価格で販売。これが後の百貨店「高島屋」です。


湖東商人の伊藤長兵衛・忠兵衛兄弟は「伊藤忠商事」「丸紅」という二つの商社の創業者として富に有名です。犬上郡豊郷村(現豊郷町)に商家の次男として生まれ、実家は「紅長」(べんちょう)の屋号で繊維小売業を営んでいました。11歳から行商の経験を積み、1858年、兄の長兵衛とともに近江麻布の持ち下り商いを開始。

兄は仕入れに当たり、後に「伊藤長兵衛商店」を開業。九州・中国各地に地盤を広げます。忠兵衛は明治維新の混乱期に持ち下り行商に見切りをつけ、明治5年、大阪本町に呉服太物店「紅忠」(べんちゅう)を開き、麻布、尾張織物、関東織物を扱う「丸紅」の基礎を築きました。ここに「伊藤忠商事」と「丸紅」が誕生したのです。実家の屋号「紅長」を取り、○(マル)に「紅」という文字を入れ、のれんに使ったことから「丸紅」。忠兵衛は明治17年、「紅忠」を「紅伊藤本店」とし、明治26年、大阪市に「伊藤糸店」開業。中国との綿花、綿糸の貿易をはじめ、呉服卸売、雑貨輸入など積極的に業容を広げました。


このように幕末は、商人が豪商となり、企業家へと変身していく過程で欧米型の企業を構築した時期といえるでしょう。当時、勘定奉行を務めていた小栗上野介の「兵庫商社」構想もちょうど同じ時期であることを鑑みると、上野介も時代の流れを的確に捉えていたことがわかります。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 67 近代資本主義の萌芽  近江商人と近代資本主義

幕末は近代資本主義の芽が生まれた時代です。一般には明治維新がきっかけで資本主義の発芽が起こったと見られていますが、すでに江戸時代に株式の概念は導入され、商業では能力主義や成果報酬が用いられていたようです。共同出資というしくみも江戸時代に生まれたものです。


鎌倉時代から江戸時代を経て明治時代まで活躍した近江国(現滋賀県)出身の近江商人たちが編み出したしくみが、日本の共同経営の起源だとされています。江戸時代に京都、大坂、江戸の三都市を中心に行商をしていた近江商人は、早くから情報の共有や競争の回避、旅行の安全などを目的として「講」という団体組織を作っていました。「講」はもともと出身地別または行商先別に結成されていましたが、のちにこれが発達して権益や商権の保護なども行うようになり、株仲間のような同業者組合的性格を持つようになりました。近江商人の資金調達形態には、非常に近代的な共同出資があります。


彼らは経営の範囲が広がると個人が資本を出し合い、乗合商合(のりあいあきない)や組合商合(くみあいあきない)を行いました。これは一種の共同企業体で、ジョイントベンチャーともいえるでしょう。個人事業では資金面、技術面、人材面、労力と時間の観点からリスクが伴うプロジェクトを合資制度による企業体形成で実現しようとするものです。共同出資にすることでリスクを分散するとともに、ヒト・モノ・カネ、情報、技術、信用などの経営資源を共同で利用し、その有効活用を図ったのです。

 
近江商人は、まず多店舗展開のための資金調達の方法として、共同出資を始めたのです。当初は地元の業者から施設や店舗を借り受け、近江の奉公人を支配人として派遣する形態がとられました。たとえば両浜商人の藤野喜兵衛らは1738年に蝦夷地(北海道)で場所請負の共同企業をつくり、1741年には八幡商人・西川伝治が21人の出資を得て北海道海産物を商う共同企業を設立しています。蝦夷地(北海道)の商品を取り扱うには、商船、船員が必要。個人で集められなくても共同出資なら可能です。ほかには呉服商や大名貸、醸造業などが共同出資で行われました。1813年には稲本利右衛門が西村重郎兵衛と共同出資し、呉服商を開いています。 


ほかには「大当番仲間」と呼ばれた制度があります。近江商人の仲で日野出身の日野商人たちは、商人相互間の扶助と幕府の保護を得るため、「日野大当番仲間」を組織しました。この組織の最大の特色は、幕府の庇護のもと、売掛金の徴収が滞まった場合にその領主に訴えて幕府の威光によって徴収できる権限を持ったことです。また、大当番仲間で東海道や中山道の各宿場に現在の指定旅館、契約ホテル制度のような「日野商人定宿」を設け、旅の便宜を図りました。組織で宿を確保することで安心して旅ができ、また料金も多少安くなったのかもしれません。宿は江戸への行き帰りに利用され、1770年には181軒もの定宿数になったようです。


さらに近江商人たちは、西洋の複式簿記と同じ形態の会計システムをすでに江戸時代に採用していたという記録が残っています。厳格な身分制度社会において労働の成果を貨幣に置き換えて評価する習慣がなかった時代に、資本と利足を保全した上でさらにそれ以上の利益が生まれると「出精金」「徳用」といって各店の支配人たちに配分され、使用人の励みになるシステムを採用したのです。これはまさにボーナスの起源です。


そうしてようやく商社という発想が生まれます。明治政府の外務大臣となった陸奥宗光は坂本龍馬の海援隊に加わっていた頃、「海援隊商法」を次のように記しています。「商法の根本は、組合を以て商社を設立すること、物資の輸送には荷為替を設けること、商売は船長に委託し、これに運上金を課すこと」。ここで注目したいのは、商法つまり「商いの方法」の根本は「組合をもって商社を設立すること」とされていることです。

By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 66 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(15)

江戸は1718年に人口100万人を越えていたとされていることから、当時としては世界最大の都市であったようです。人口が増えれば自ずと産業が発展します。イギリスやドイツのような産業革命を体験していなくても、日本には工業経営の新しい型が形成されていたようです。織物業、製糖業、製鉄業などの分野に部分的ではあるにせよ、マニュファクチュアが存在し、問屋制家内工業が生まれました。


織物業では商人や織元から原料の織糸を供給され、自分の作業場で機織を行い、製品の布を商人や織元に渡して織賃を受け取る「賃機(ちんばた)」システムが農家の副業として普及していました。これは織元から機械を借りて仕事をすることではなく、親機業から委託を受けて、下請け製織する業者のこと、あるいは業界の制度のことです。親機業者がデザインと資材一切を賃機業者に預託し、賃機業者は設備と労力を提供するというこのシステムは、現在でも西陣織の世界で息づいています。


横浜の開港によって生まれた居留地貿易を代表するものが生糸輸出です。すぐに総輸出の5~8割に達しましたが、先週のコラムで紹介したように生糸輸出の開始は、日本の絹業に大きな影響を与えました。

絹業は養蚕・製糸・織布の3つの基本工程に分かれており、生糸の輸出の増大にともない、養蚕・製糸業はともに発達のチャンスをつかみました。しかし製糸を原料としている織布部門は品不足とインフレによって、破壊的な打撃を受けたのです。


綿業は綿作・手防・織布の3つの工程に分かれています。産業革命の産物である機械製の綿布は、1865年頃から大量に日本に流入し、織布部門は原糸を輸入糸に転換することで新しい発展の方向を求めました。当時の輸入品目を見渡すと、綿織物、綿糸、毛織物が大半を占めています。綿製品は当時の日本の日常衣料品であったため、綿製品の輸入が農民の衣料品自給生産を縮小させ、商品経済を農民に浸透させたのでしょう。


こうして外国貿易の展開は衣料品をはじめとする消費物資の輸入によって、綿、砂糖、菜種などの国内市場を対象とする商品生産の衰退を招くとともに、また生糸、茶などの国外市場を対象とする商品生産の急激な発展をもたらしました。しかし、他面ではインフレの発生が産業分野の明暗を分けたのです。


幕末の江戸では、貿易にともなう商品需給の不均衡によって2倍半~7倍余のインフレが起こりました。このような激しいインフレは貿易商人に巨利をもたらし、生糸、茶など直接輸出品に携わっている商人や一部の豪商を裕福にするその一方で、年貢の増徴が農民をますます貧窮に追いやりました。こうして領主や封建制度に対する反発が激化し、全国的に産業の自由、経済生活の平等化などを求める一揆や百姓一揆、打ちこわしが激化しました。藩の財政も一部雄藩を除いては、いっそう悪化し、下級武士の貧窮化を促しました。特に下級武士は開港を断行した幕府ならびにそれに従った上級武士、さらに外国貿易によって莫大な利益をえた貿易商人を恨み、盛んに外人殺傷、貿易商人脅迫などの事件を巻き起こしました。


このようなことから、身分的支配体制は揺り動かされ、社会の統合力は弱まっていきました。そして経済的秩序の混乱が、社会的政治的不安定に拍車をかけ、下級武士層の主導する政治変革運動の力が広まったのです。


長い鎖国のなかでそれなりの安定を保っていた貨幣制度や諸物産の生産と流通のシステムが、開国による外国貿易の本格化とともに、それまで想像できなかったような変化をもたらしました。外国から入って来た新しい商品、新しい知識、新しい技術は、そうした商品を取り扱おうとする商人たちや、輸入品を模してこれに対抗しようとする生産者たちに、ビジネスのチャンスを生み出したのです。


 
By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 65 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(14)

1859年から始まった幕末の貿易。港として最も栄えたのは横浜でした。日米修好通商条約では「神奈川港」を開港地としましたが、幕府は東海道に直結し、当時すでに栄えていた「神奈川湊」を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地としたのです。横浜村には、短期間で居留地、波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられました。余談ですが、今に残る横浜中華街(横浜市)は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源としています。


幕府は、外国商館に出入りする商人たちが舶来品を売りさばくことはもちろん、「居住している外国人の商店からどんな商品を買い取ることも勝手である」と全国に布告しました。貿易開始直後、神奈川奉行が幕府に提出した報告書によれば、呉服、塗り物、箱物、鳥屋、薬師店、金物店などおよそ百軒が店開きをしたそうです。こうして、たちまち横浜は長崎を抜いて、国内の貿易の扱い高第一位となりました。


日本からの輸出品で最も多いのは生糸でした。ヨーロッパの生糸が蚕の病気で壊滅状態にあったことと、日本の生糸の品質のよさが欧州の商人に認められたからです。生糸貿易の主導権を握っていたのは外国商館です。彼らは欧州やアジアとの貿易でノウハウを持っています。一方の日本人商人や幕僚には貿易の知識も交渉能力も何もありませんでした。


しかし、やがて生糸の輸出がこれ以上増えると国内の絹織物生産に悪影響を及ぼすとして、幕府は抑制しようとします。大量の輸出によって生糸はどんどん値上がりし、さらに品薄になった生糸を貿易商が買い占めたため、生糸の値段は悪循環のように値上がりを続けました。いくら需要があっても、急に蚕が増えるわけでもなく、生産の増加は望めません。


1859年、ロンドン市場に初めて日本の生糸が登場したとき、欧州の商人は日本の市価より高い一梱200ドルくらいで買い上げました。横浜が開港すると、たちまち500ドルにはね上がり、さらに800ドルまで達しました。そのため、国内の需要はそっちのけで、生糸業者は全部輸出にまわしていきました。生糸が高値で売れるとなると、農家は桑畑を増やし、蚕を飼い、繭の増産にエネルギーを注ぐようになります。米主体の農家のあり方まで変わったのです。貿易が輸出国・輸入国の産業に大きな影響を与える実例として読んでください。


輸出品が値上がりすると、絹織物の産地である桐生や伊勢崎、京都・西陣の業者がいくら金を出しても原料の生糸が手に入らなくなり、営業が困難になります。「これは貿易の結果である」という抗議が幕府に寄せられます。西陣や桐生地方の織物関係者1500人が生糸輸出の禁止を幕府に懇願した、という記録が残っています。


そして生糸の輸出は、ほかの糸偏の産業にも大きな影響を及ぼしました。原料の生糸が国内に流通しなくなると、安価な綿糸や綿織物が輸入されるようになり、今度は日本の小規模手工業である、機織りによる綿糸、綿布などの生産も大きな打撃を受けることになったのです。絹も綿も商売にならない。これでは商人たちが「幕府の貿易政策はダメだ。佐幕派に献金しよう」と考えてもおかしくありません。


これらの現象は現在、形を変えてほかの産業で進行しています。かつて特定の野菜の産地であった地域が農業政策によって廃業せざるを得なくなりました。現在では、その野菜の産地であった町のスーパーには、安全に不安が残る安価な中国野菜が並んでいます。一方、他の地域から野菜を運んでくるとなると、国内の移動にかかるコストが販売価格に反映し、その結果、国内のブランド野菜は遠隔地でも手に入るが、すこぶる高額になるという現象が起こります。細々と続けている農家が「与党の農業政策はダメだ。野党を支持しよう」と方向転換するのは当然の成り行きでしょう。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 64 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(13)

イギリス公使オールコックの後任として1865年に駐日公使に着任したハリー・パークスは、天皇と将軍という二重構造は早晩崩れることを予測していました。英国政府から指令を受けて、パークスは兵庫・大坂などの開港や関税率の引き下げに加え、条約勅許を要求します。条約勅許とは、通商条約について朝廷の許可を得ることです。そもそも鎖国は徳川幕府が実施した外交。開国も幕府が決定すればよいのですが、尊皇派は「国家の重要案件は天皇の許可を得るべきだ」という論を展開してきました。


パークスの行動にアメリカ、フランス、オランダも追随し、英米仏蘭4ヵ国と幕府との交渉が始まります。幕府寄りであったフランスのロッシュがイギリスの主張に従ったのは、条約勅許は幕府にとって好ましいと考えたからでしょう。物価高騰を防ぐという理由から開港を拒む幕府と、物価高騰は貿易のせいではなく、幕府の物価政策のせいであるとする4ヵ国の主張とは真っ向から対立します。


1865年9月、4ヵ国は連合艦隊を組んで兵庫沖に現れ、威嚇を始めます。当時の将軍は若き徳川家茂、老中は阿部正外(まさとう)と松前崇広(たかひろ)。幕府にとっては、長州征伐どころではなくなったわけです。


朝廷の勅許が出ないことを想定した4ヵ国は「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られねば、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張しました。将軍後見職の一橋慶喜は、「無勅許における条約調印は無効」と主張しましたが、阿部・松前両老中は「もし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉を開始すれば、幕府は崩壊する」とした自説を譲りませんでした。徳川家茂は「外国の要求を受け入れるべし」と考え、阿部、松前は、やむを得ず無勅許で開港を承認します。ここで慶喜は「4ヵ国と戦争になれば敗北する。朝廷にも影響を与える」と判断し、譲歩します。


しかし慶喜は朝廷の意見として、阿部・松前両老中の官位を剥奪。追い詰められた将軍家茂は、両名を老中から外します。このように朝廷が幕府の人事に容易に介入できるようになったこと自体が、幕府の権力の低下を物語っています。


さて、兵庫・大坂などの開港と関税率の引き下げですが、最終的には攘夷主義者である孝明天皇の判断に委ねられます。天皇は兵庫の開港は不可とし、その代わり条約勅許を認め、関税率の改定を事務的に行うよう指示します。外交を好まない孝明天皇が関税率改定の決定権を握っていたことは、すでに幕府の経済政策が機能していないことを証明しています。


税率改定の交渉は1866年に江戸で行われました。安政の通商条約では輸入税5~35%、輸出税はすべて5%でした。イギリス本国がパークスに指示したのは、「このいずれをも15%にさせよ」というものでした。大減率です。この申し出を孝明天皇が承諾したのです。外交を拒んだ孝明天皇が貿易に詳しいはずもなく、また朝廷に口出しできる者がもはや存在していなかったことが幕府崩壊の要因だったのかもしれません。


税率改定の交渉の中身は、安政の通商条約では「従価税」であったものを、一律15%の「従量税」に変更せよというものです。「従価税」は価格の変動によって税額も変わる課税方式で、従価税は価格が上昇するほど税収が増え、価格が下落するほど税収が減ることになるので、インフレに対応できるのが利点です。現在の日本の物品税、消費税、輸入関税の大部分がこれです。「従量税」は平均価格を定めて量(重量、長さ、面積、個数など)にかけるものです。この場合、輸入品価格の高低は関税率に影響しないので、外国にとって有利な方式です。またインフレなどによる急激な価格変動には即応できず、負担の不均衡を招く点が短所です。


1866年に家茂が病死し、将軍職に就いた慶喜は積極的に朝廷に働きかけ、兵庫開港の勅許を得ます。幕府が頑なに拒否してきた兵庫開港は、ほかならぬ将軍の努力によって成し遂げられたのです。

By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 63 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(12)

1862年、小栗上野介は勘定奉行を命ぜられます。「強力な海軍を創設すべし」という上野介の主張が採用されたのです。かといって上野介は鎖国攘夷派ではなく、当時の幕臣の中では珍しく開国論者でした。アメリカの文明のすぐれた点を説き、軍備や商業、工業においては外国を模範として日本を改革しなければいけないという考え方を持っていたのです。


当時、世界最強の海軍はイギリス海軍でした。イギリス海軍と薩摩藩が戦った薩英戦争(1863年)によって、イギリスの強さを肌で知った薩摩藩、長州藩が、かえってイギリスと親密になっていったのとは反対に、幕府はイギリスに警戒心を深めていきました。アメリカは友好国でしたが、南北戦争の最中。オランダは友好的な国ですが、かつての実力はなく、ロシアはイギリスと争ってアジア侵略を進めている最中で、最も警戒しなければいけない大国でした。上野介が積極的に外交を進めたのはフランスでした。


1864年、ロッシュがフランス公使として日本にやってきます。ロッシュはイギリス外交官オールコックと同い年。ロッシュの就任はフランスが対日政策を重要視しはじめたことの証明です。彼はイギリスを出し抜くためにオールコックに隠れ、幕府に近づいていきます。攘夷問題で苦慮している幕府に対して、「仲介役になろう」と働きかけます。やがてライバルのオールコックがイギリスへ帰国することになり、ロッシュは堂々と幕府に食い込んでいきます。


当時の幕府の交渉役は、外国奉行・栗本鋤雲(じょうん)と勘定奉行の上野介です。栗本鋤雲はロッシュの通訳と親しかったことからフランスとのパイプ役として外国奉行に命じられ、上野介とも親交を深めました。上野介もフランスとの外交に力を注いでいきます。

上野介と栗本鋤雲は幕府にフランスの資本と技術を導入して横須賀に製鉄所を造り、フランス式陸軍を導入し、内閣制を敷き、徳川絶対主義体制をつくろうと働きかけます。これを背後で指導したのが駐日フランス公使レオン・ロッシュという図式です。同年12月、上野介は軍艦奉行に就任し、フランスの援助のもと、横須賀製鉄所の建設と幕府の軍制改革に着手し、ロッシュは軍事顧問団の派遣を実施します。幕府は横須賀製鉄所の建設を正式にロッシュに依頼し、ロッシュは母国から海軍造船官ヴェルニーを招きます。


一方のイギリスは1865年、オールコックの後任として、上海領事のハリー・パークスを送り込みます。フランスとの敵対関係から、薩長と親しくする一方で、幕府に対しては通商条約上に規定された兵庫などの開港を強硬に求めるなど、巧みな外交手腕を発揮します。

パークスは着任に際し、日本の国内事情を下調べし、有能な通訳であったアーネスト・サトウの助言により、今後の対日政策をおおよそ次のように結論づけたとされています。

「日本においては幕府の他にミカド(天皇)という大きな権威が存在し、いくつかの有力大名(薩摩藩・長州藩)はこれを支持して幕府を廃し、合議政体を作ろうと画策している。幕府の統治能力はすでに失われつつあり、これからはミカドを担ぐ反幕勢力の結集を後押しして、倒幕を計り、国際的信任のおける新政府のもとで外交を行い、イギリスの対日交易の安全伸張を期するべきだ」


やがてパークスは、武器商人のグラバーを介して薩摩藩主島津久光に接近します。武器購入でグラバーに多額の債務を抱えていた薩摩藩は、その武器で幕府を倒すという目標を掲げ、薩長連合を成立させ、パークスはこれを支援したのです。主な貿易国であるイギリスに見限られた幕府の頼みは、ロッシュ一人に絞られ、ますます親仏路線が強化されます。こうして倒幕派パークス、幕府派ロッシュの間で熾烈な外交戦争が繰り広げられたのです。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 62 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(11)

初代駐日外交代表オールコットは1860年末、英国公使館を横浜に移転します。これを知った幕府は困惑。一方、アメリカ初代総領事のハリスは、自身が不在の談合で決定した、列国公使館の横浜移転に反対し、オールコットあてに手紙を書きました。手紙の中でハリスは、自分は江戸での居住に何ら不安を感じていないこと、第二にヒュースケンの死は夜間外出が危険であることを幕府が繰り返し警告しているのに、これを無視したためであることを綴り、フランス公使やオランダ公使らに了解を求めたのです。在外代表部が、その首都にいないというのはどう考えても異常な事態ですから、各国は結局ハリスに同調しました。こうしてオールコックもしぶしぶ納得し、1861年1月には英国領事館自身も江戸に復帰する羽目になります。

 
幕府に対するオールコックの姿勢が大きく変わるのは、皮肉にも彼に対する攘夷浪士による襲撃がきっかけでした。英国公使館のおかれていた高輪の東禅寺が、水戸浪士17名によって襲撃されたのです。200人近い武士が警備していたといわれています。討ち入った浪士のうち数人がその場で殺され、重傷を負った者は捕らえられました。英国人では、第一書記官のオリファントと、たまたま来訪していた長崎領事のモリソンが負傷しました。


それまでオールコックは、幕府の行っている厳重な警備は、外国人を監視することを兼ねた嫌がらせくらいに考えていたようですが、目の当たりに浪士の襲撃の見て考えが一変しました。安易な開港場・開市場の拡大は、イギリスが条約を締結している相手政府を崩壊させるという悲劇の元となりかねないことをはじめて理解したのです。列強としての利権を確保するために、オリファント、モリソンに対する賠償金ということで、オールコックは、ヒュースケン事件の先例に倣い、1万ドルずつ、計2万ドルを幕府からゆすり取っています。


一方、ライバルの米国公使ハリスは、かねてから健康上の理由から辞任を希望していましたが、この時期、ようやくその許可がおりました。1862年春3月、ハリスは日本を去ります。ハリスは軍艦の支援も受けず、単身で日本を開国させるという偉業を成し遂げたのですから、本来なら、リンカーンから英雄として迎えられても良かったでしょう。しかし、実際にはほとんど相手にされず、その後、不遇のうちに没することになります。


その原因は、ハリスの行動に常に不明朗さがつきまとっていたことが挙げられます。金銀比価の違いから小判の大量流出が起きた時、そうした不正行為を取り締まる立場にいた彼自身が先頭に立って、小判の貯め込みをやっていたからです。また、横浜の米国商人の保護もほとんどしなかったので、在日米人の間から彼の罷免要求が出ていたともいわれています。彼の帰国は、そうした不明朗さを糾弾されての罷免という要素が強かったので、とても凱旋将軍というわけには行かなかったのです。


ハリスの後任はプリュインです。幕末史に名を刻んでいない理由は、彼を通じて幕府がアメリカから軍艦を買おうとした時、民間企業との間に入って利鞘を取ろうとしたものですから、幕府が距離を置いたからです。


オールコットはその後、幕府の内乱の危機を回避するためには開港・開市の延期が必要であることを悟ります。しかし、1863年の薩英戦争を契機にイギリスは幕府支持から薩摩藩に急速に接近していきます。薩摩藩は、外国船をいたずらに攻撃したり、異人斬りなどの「小攘夷」の愚を知り、開国による富国強兵を行い、外国に劣らない武力を備える必要性を悟ったのです。また、オールコットの後任公使パークスは、幕府にかわって薩摩などの雄藩が連合政権を作ることを期待し、薩摩藩や長州藩を密かに支援するようになります。


 
By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 61 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(10)

今週と来週のコラムは幕末の外交、特に外国公使との折衝と駐在外国人同士の主導権争いに着目してみます。幕府の官僚の弱点は長い鎖国による“外交オンチ”に尽きます。その象徴的な事件が「ヒュースケン殺害」です。駐在アメリカ総領事館の通訳兼ハリスの秘書を担っていたヒュースケンが1861年、攘夷派の薩摩藩士に襲撃され、殺害されました。ヒュースケンを暗殺すれば、幕府と列強の関係がまずくなり、幕府が窮地に立つだろうということを狙って行ったものです。


アメリカ本国は幕府からヒュースケン暗殺に対する誠意ある回答を引き出すようハリスに指示しました。ハリスはそれを「幕府から賠償金を取り立てるように」という意味の指示と考え、その後数ヶ月かけて幕府と交渉します。ハリス自身は「幕府は十分警護をしていた。しかし本人が不用心に出歩くということを繰り返したことから起きたのは明らか。だから幕府として責任を負うべき筋合いのものとは思えない」と語り、「ヒュースケンの死は彼の自業自得であり、幕府に責任はない」と各国公使宛に公言していましたが、最終的に本国のミッションに従ったということです。


ハリスに借りがあると感じていた老中・安藤信正は、この交渉に結局応ずることにし、ヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払うことを承諾。関税収入の洋銀を弔慰金に充てて交付したようです。以降幕府は、辻番所に外国人保護を訴える標識を立て、外国御用出役を新設するなど外国人警護に務めるようになります。


この事件は外交史から見れば、大きな分岐点になりました。これにより幕府は外国人の襲撃事件で賠償金を支払うという前例を作ってしまったからです。以後、襲撃事件が起こる度に、列強から賠償金をゆすり取られるようになります。そのピークが「下関砲台砲撃事件」(1864年)で、幕府はその莫大な償金に苦労し、債務の大半を支払いきれずにいる間に滅亡し、明治政府に引き継いでしまうことになります。


ヒュースケン事件以前にも外国人襲撃事件が頻発しており、当初その犯人が誰なのかわからないという状況が続いたので、駐在外国人は、幕府による政治的暗殺ではないかと疑心暗鬼になっていました。そんな折にヒュースケン事件が起こったことから、外国人はが過剰反応を示しました。幕府は、外国人に害意のないことを示すポーズとして、急ぎプロイセンとの話し合いをまとめ、事件の10日後にプロイセンとの通商条約に調印しています。


一方、幕府が新潟開港を実施しようとしないのに腹を立てていた英国公使オールコックは、この機を捉えて英国公使館にフランス及びオランダの代表を集め、数時間にわたって談合したようです。ヒュースケン事件を口実にしながら、その直接当事者である米国の代表をわざと呼ばずに会議を開いたのです。米国に取って代わって、対幕交渉の主導権を持とうとするオールコットの野心が手に取るように見えてきます。


オールコットは、幕府には外国人を保護する能力も誠意もないので、一時横浜に引き上げ、海兵隊の力を借りて自衛の道を講じようと決定しました。本来、在外公館は相手国の首府に駐在してこそ、その存在の意義があります。それを首府から一斉に離れるというのですから、幕府に対する揺さぶりは相当なものだったのでしょう。オールコックには複数の目論見がありました。


第一に、ハリスが勝手に約束した、開港・開市延期をもう一度元に戻すための圧力です。日本の開国により最大の利益を上げているのは、先鞭を付けた米国ではなく、英国の商人です。彼らは一日も早い全面開国を待ち望んでいたはずです。第二に、これまでハリスが務めていた在日外交団の幹事役をオールコックが奪い取り、英国の対日影響力を増大しようという狙いです。第三を挙げるなら、横浜の外国人居留地を、中国における外国人租界のように、自らの武力で守る治外法権の地とすることを狙った領土的野心があったのでしょう。

By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 60 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(9)

1862年、幕府は遣欧使節団を欧州に派遣しました。約半年に渡ってフランス、イギリス、オランダ、プロシア(現ドイツ)、ロシア、ポルトガルの6ヵ国を視察しました。正使は外国奉行兼勘定奉行の竹内保徳、副使は外国奉行兼神奈川奉行の松平康直。副使は当初、水野忠徳の予定でしたが、英国公使オールコックが強く異を唱えたのです。外国奉行・水野忠徳が神奈川奉行の職を兼ねていた頃、ロシア軍艦の士官殺害事件がありました。水野はその責任を問われて、外国奉行と神奈川奉行の職をともに解かれました。


この遣欧使節団の随員には通訳として福沢諭吉が加わっていたほか、松木弘安(後の寺島宗則)も参加していました。そしてこの使節団は、日本側が本当の目的とした通商条約の改正、つまり開港開市の延期に成功したのです。


遣欧使節団は、まず当初パリに行って条約改正交渉に挑みますが、交渉はうまくいかず、次の目的地であるロンドンへ向かいます。しかし英国外務省は現地情報が十分ではないため対応できず、結局使節団はそこでオールコックが英国に帰国するまで1ヶ月も待たされることになります。


オールコックは、帰国すると早速ラッセル外相に日本の状況を詳しく説明し、説得したので、英国政府はオールコックの提案に従い、通商条約の修正を承諾することにしました。遣欧使節団との間で「新潟、兵庫両港の開港及び江戸及び大阪の開市を1863年1月から5年間延期することを認める」という条約(通称ロンドン覚書)を締結。交換条件として、函館、横浜、長崎3港では条約をきちんと遵守すること、外国人を排斥する古法は廃止することなどがついていますが、さしあたり特に問題になるようなものではありませんでした。


日本市場に最大の利害関係を持つ英国が、このように譲歩したのですから、フランス以下の関係国もこれに倣いました。この通称条約修正の成功により、幕府は攘夷の実行問題で一息つくことができるようになったのです。この激動期に5年の猶予は実に大きなものといえます。


こうしてみると、オールコックのような駐日公使たちの働きがいかに重要であったのか見えてきます。日本の開国により最大の利益を上げているのは、先鞭をつけた米国ではなく、英国の商人です。彼らは一日も早い全面開国を待ち望んでいたわけです。そしてこれまでハリスが務めていた在日外交団の幹事役をオールコックが奪い取り、英国の対日影響力を増大しようと目論んでいたことが想像できます。


遣欧使節団派遣のちょうど1年前、1861年に「ロシア艦対馬占拠事件」が起こっています。ロシアの戦艦ポサドニックがいきなり対馬に来航し、土地租借などを要求して島の一部を占領するという前代未聞の事件でした。対馬藩ではとても手に負えず、新任の外国奉行である小栗上野介が交渉の任に当たりました。上野介はビリレフ艦長と面談するものの交渉は難航し、最終的にはイギリス公使オーツコックの介入により解決をみたわけです。小栗はこの件の責任をとって外国奉行を辞任します。


ここで影響力を誇示したのがオールコックでした。彼は指揮下の軍艦オーディン号を対馬に派遣してロシア艦を威圧し、ロシア艦を退去させたといわれています。一説には対馬藩主がオールコックを通じて英国の東インドシナ艦隊司令官ホープと交渉し、ホープ司令官が英国艦隊2隻を対馬に派遣したというものもあり、定かではありません。しかし、日本が列強のパワーバランスの渦に巻き込まれていたことは事実です。

クリミア戦争に敗れたロシアが、西への進出を諦めて、東に矛先を向けていることは明らかでした。この極東におけるロシアの脅威に対し、オールコックとしては早急に何らかの手を打つ必要があったのです。幕府は単純にオールコックがロシアを追い払ってくれたと考えたものですから、これにより、オールコックと幕閣の間に一定の信頼関係が生まれたことは確かです。

By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 59 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(8)

1862年に行われた「文久の改革」の中身を説明する前に、当時の諸藩の基本となる考え方を政治思想面から分類しておきます。諸藩には次の二つの派閥があったと考えるとわかりやすいでしょう。ひとつは薩摩藩に代表される公武合体派、もうひとつは長州藩に代表される尊皇攘夷派です。
開国を主張した薩摩藩と、外国人を排除して平和を保つ攘夷を訴えた長州藩は相容れない方向性ですが、この二つの流れが後に「討幕」に向かって手を結ぶことになるのです。


ここに公武合体派の急先鋒、薩摩藩藩主の父、島津久光が登場します。外様大名の父で、薩摩藩の実質的リーダーとはいえ、幕府には何の影響力も持たない人物です。現在でいえば知事の父といった位置でしょうか。


その久光が公武合体の立場から幕政改革の必要性を朝廷に説明し、同意を得ます。天皇の使いである勅使を江戸に派遣してもらい、それを警備するという名目で自身も兵を率いて江戸へ入り、幕政改革を迫ったことが「文久の改革」の発端です。久光は幕府と交渉し、徳川慶喜の将軍後見識、越前藩前藩主・松平慶永の政事総裁職就任を実現させます。


久光が朝廷の意向を踏まえて行動したとはいえ、これまで政治的な実権を持っていなかった朝廷の圧力によって改革を余儀なくされたことは、幕府の政治力が弱まっていることを証明しています。


改革で実行されたのは人事ばかりでなく、制度も改められました。それまで隔年交代制であった大名の参勤交代を3年に一度に変更、江戸在留期間も100日に改めました。また人質として江戸に置かれていた大名の妻子は帰国を許可されました。国政が混乱している最中なので、外交・貿易面での特筆すべき改革は見当たりませんが、軍事面では西洋式兵制(三兵戦術)の導入、石高に応じて旗本から農兵や金を徴収する「兵賦令」の発布などが挙げられます。


着目すべき点は参勤交代の期間を変更したことでしょう。地方の外様大名にとって参勤交代にかかるコストは莫大です。地方財政が困窮している際に大勢の家来を連れて江戸を往復するくらいなら、地方自治に資金を使いたいと考えるのが外様大名の本音でしょう。


さて、時間は1年前にさかのぼります。1861年、まだ安藤信正が老中として実権を握っていた頃の幕府は、遣欧使節の派遣を決定しています。これは英国の初代駐日大使オールコックの進言が採用されたものです。ちょうどロンドンで1862年5月から国際大博覧会(ロンドン万博)が開催されることになっていました。それにあわせて日本代表がイギリスに行けば、欧州の文明を一度に見ることができます。またそこで日本の優れた工芸品を展示することにすれば、日本からの輸出促進にもつながるとオールコックは考えたわけです。


一方、幕府がオールコックの進言を採用したのは、輸出促進ではなく、1858年の通商条約により、幕府は1863年より江戸と大坂の開市、兵庫と新潟の開港を約束しましたが、その開市開港の5年間の延長を懇願することと、和宮降嫁を実現する際に、10年以内に再び鎖国体制に戻すということを朝廷に公約したので、そのための了解を遣欧使節の派遣によって本国政府から取り付けようというわけです。


1861年(文久元年)12月22日、遣欧使節団は出発しました。幕府内部には、この時期の出発をいたずらに攘夷論者を刺激するものとして難色を示すものがありました。しかし安藤信正はこれを断行しました。この決断が、この翌年早々に起きる「坂下門外の変」の原因のひとつとなります。


一行は、正使、副使、観察使の3名に、通訳その他36名の部下を従えて英国軍艦オーディン号で出発しました。遣米使節団は総勢80名でしたから、それに比べると半分以下の規模です。これは幕府財政が苦しい折から、渡航費用を全面的に招待者側に依存したので、英国政府から人数の削減を求められたためです。招待費用を中心となって負担をしたのは英国ですが、そのほか、フランス、オランダ、ロシアなど、幕府と条約を締結していた国が分担しました。したがって、使節はこれらすべての国を歴訪することになったわけです。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 58 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(7)

安藤信正が老中を務めた1860~1862年は、小栗上野介が歴史の表舞台に登場した時期と重なります。1860年に上野介は外国奉行に抜擢されます。しかし、上野介はアメリカ公使通訳ヒュースケン殺害事件の後始末に加え、ロシア艦隊の対馬国不法占拠に対する交渉役を務めるなど難題を抱えることになります。

時代は大きな転機にさしかかっていました。そして当時の幕府の人事は、門閥や年功序列によって行われていた結果、前線指揮官であるべき地位に老人が多く、世代交代が求められていました。安藤が老中在職中の文久元(1861)年、まず御旗奉行、槍奉行、持ち頭及び先手という軍事上の重職に「極老の者」、つまり老人を任命しないことが決まります。これは軍事面の改革の第一弾で、続いて積極的な軍制改革が行われました。幕府の軍事面での中核組織として、「海陸御備え並びに軍制取調御用」という委員会を発足させ、軍制改革構想を検討させたのです。この委員会に、勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行及び大小目付という実力派を委員としたという点は「国益主法掛」と共通しています。この委員会に上野介と勝海舟という、後世に名を残す実力者が参加します。


この軍制改革案は、軍制を完全に洋式のものに切り替えるという壮大かつ抜本的なものでした。陸軍については、歩兵、騎兵、砲兵の三兵計1万3625人の常備軍を設立しようと計画します。海軍については、江戸及び大阪防衛のため2艦隊(艦船43隻、乗組員4904人)を作り、将来的には日本の沿岸全体を防衛するため、6艦隊(艦船370隻、乗組員6万1205人)を編成しようというものです。財政的にどこまで可能かはともかく、艦隊ごとに艦種を想定し、各艦ごとの水兵の端数までも計算するという点で、精密な立案でもあったようです。


しかし、「桜田門下の変」で安藤が失脚したので、安藤はその具体的な実施にまで着手する時間的余裕がありませんでした。安藤失脚後の1962年6月に初の勘定奉行勝手方に命じられた上野介が、後に横須賀製鉄所の建設に着手することになるわけです。


安藤失脚後に政権を担当したのは、一橋慶喜(将軍後見職)と松平慶永(政事総裁職)です。政事総裁職とは、幕末に新設された将軍後見職、京都守護職と並ぶ三要職のひとつです。
このように新たな役職が誕生した背景には紆余曲折があります。1862年に朝廷と薩摩藩は、越前福井藩主松平慶永を大老職に、一橋慶喜を将軍後見職に就任するよう求めました。将軍後見職とは、若年の将軍徳川家茂を補佐する役です。徳川家茂は御三家のひとつ紀州藩藩主。一方の一橋慶喜は水戸藩主の七男で、同じく御三家のひとつ一橋家を相続し、早くから将軍になることを待望されていました。


かつて14代将軍の後継者問題が浮上した際に、紀州徳川家の家茂を推す南紀派と慶喜を推す一橋派が対立し、南紀派の井伊直弼が大老に就任後、井伊の断行で家茂が14代将軍に決定したという因縁があります。井伊が反対派を強硬に処罰した「安政の大獄」で一橋派の多くの者が登城停止、謹慎処分を受けたので慶喜と松平が要職に就いたのは「一橋派の復讐」という面もあったのでしょう。朝廷や一橋派と争いを避けたい幕府は、新たに役職を新設せざるを得なくなり、こうして一橋慶喜と松平慶永による「文久の幕政改革」が進められたのです。


松平は当初攘夷派でしたが、後に積極開国論に転じ、開明派の藩主として知られた人物です。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推し、井伊直弼政権下の「安政の大獄」で謹慎処分を受けていたので、松平は政権が変わったことで復活を果たしたわけです。彼は公武合体派として幕府と朝廷の間の調整役を務めます。


では、続いて「文久の改革」の中身を見てみましょう。最も重要なことは、それまで国政を全面委任されていた幕府に対し、朝廷から改革が指示され、その大部分を受け入れざるを得なくなった点にあります。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 57 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(6)

万延元年(1860年)、国内の全市場を支配するための中核機構「国益会所」プランは勘定方の下で順調に発展しました。牽引したのは、老中の安藤信正と久世広周(ひろちか)です。2人が推進した政策論は公武合体です。つまり、公家(朝廷)の伝統的権威と武家(幕府)を結びつけて幕府権力の再強化を図ろうというものです。


幕府は1861年には、孝明天皇の妹の和宮を14代将軍家茂夫人として婚姻関係を結ぶことに成功します。孝明天皇はもともと鎖国を主張していた人物で、井伊直弼が独断で諸外国と通商条約を結んだことを不満に思っていました。外国人排除を唱える攘夷論を貫き、西洋医学の禁止を命じるなど保守的な考え方を示しました。その攘夷論者の孝明天皇と徳川家が親戚となることで、老中の安藤と久世は公武合体を推進したわけです。


皇妹和宮の降嫁による幕府の支出は莫大であったと想像できます。しかし、幕府は井伊政権時にこじれきった朝廷との関係を修復するため、金に糸目を付けない歓迎をしなければいけませんでした。この婚礼行列は総勢6000人という規模に膨れ上がり、これが中山道の全行程を旅したわけですから、旅費・飲食代だけでも莫大なものになります。


しかも勤王の志士による和宮奪回計画の噂があがり、幕府は沿道警備に計29藩の藩士を動員したといわれています。それに要した費用をすべて財政の疲弊している各藩に負担させるわけにはいかず、幕府が何らかの形で資金を諸藩に提供したのでしょう。火の車であった幕府の財政は、さらに圧迫されたはずです。


さて、老中の安藤信正と久世広周が主導した「国益会所」ですが、12月には会所頭取が任命され、翌文久2年2月に国益会所が正式に発足しました。5月からは実際の事務を取り始めたのです。しかし、7月になって会所そのものが廃止されます。その理由は、この構想の推進役であった安藤信正が「坂下門外の変」を機に失脚し、久世広周も公武合体の失敗を理由に罷免させられたからです。政権は一橋慶喜(将軍後見職)、松平慶永(政事総裁職)に交替していきます。


「坂下門外の変」とは、文久2年(1862年)1月15日、江戸城坂下門外で、老中安藤信正が、幕政改革を目指す水戸の尊皇攘夷派浪士ら6名に襲撃された事件です。井伊直弼から続く開国路線が尊攘派の反発を呼び、さらに安藤が推進した、朝幕関係の改善を目指す公武合体路線の具体策である皇妹和宮降嫁が、尊攘派の怒りを買っていたのです。水戸浪士の意図は討幕ではなく幕政改革で、安藤の命にも別状はありませんでしたが、幕府の要人が再度白昼に襲撃され、幕府の権威をさらに傷つけることになったため、安藤は同年4月に老中を罷免されます。

ところで水戸藩といえば徳川御三家のひとつ。幕府に近い藩がどうして尊皇攘夷の思想を抱いていたのかといえば、水戸藩・徳川光圀が開いた「水戸学」に天皇を尊ぶ尊王思想が記されており、水戸藩はこれに強く影響を受けていたからです。


安藤と久世の失脚後に政権を担当したのは、水戸徳川家出身で、同じく御三家の一橋家を継いだ一橋慶喜(将軍後見職)と、松平慶永(政事総裁職)です。2人はすでに実施に入っていた「国益会所」による全国的流通の把握をめざす政策を廃棄します。2人が実施した「文久の幕政改革」のうち、経済上の政策である全国市場の幕府による独占的支配という構想は大きく後退し、軍政改革に重点がおかれるようになります。


商業を全面的に国家がコントロールしようという考え方は、かつてのロシアや東欧圏諸国が押し進め、失敗に終わっています。しかし当時の日本では諸藩が財政危機を乗り切るために同様の施策を展開し、成功を収めていました。社会主義国の発想ですが、仮に流通の中央支配が成功していれば、幕府には莫大な利潤が確保できたことでしょう。安藤信正の失脚により、幕府は惜しまれるチャンスを逃したのかもしれません。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 56 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(5)

万延元年に入ると、貿易は本格化してきます。同年の輸出総額は471万1千ドル(前年は89万ドル)、輸入総額は165万9千ドル(前年は60万ドル)に達しました。これらの貿易により正確にいくらの関税収入があったのかはわかっていません。仮にすべての輸出入品が一律5パーセントの関税率とすれば、新通貨で120万両以上の関税収入があったはずです。


安藤信正が「五品江戸回送令」を利用して輸出量の削減を計った翌文久元(1861)に若干輸出量が減少したことを除いては、この後明治維新までの間、輸出は毎年著しい伸びを示し続けます。また、輸入は例外なく毎年伸びています。万延元年以降、幕府の崩壊までの間、改鋳差益と並んで、関税収入は幕府の重大な財政基盤となっていくことになります。


老中・安藤信正政権で行った万延改鋳は、当初水野忠徳が建議した抜本策ではなく、金貨の流出防止だけを念頭に置いた策でした。したがって、物価の暴騰や輸出過多など、貿易から生まれた問題に対しては、別途対策を立てる必要が生じました。生活必需品が海外に流出することによる品薄と改鋳がインフレの原因であるなら、輸出制限という政策(保護貿易)が必須ですが、貿易による関税収入はすでにこの時期の幕府財政において無視できないほどに巨大なものになっていました。そうすると取るべき経済政策は、貿易量を適当に維持しつつ、同時により一層の増収をもたらし、幕府の財政再建に結びつくものでなければいけません。


万延元(1860年)年4月、国民の困窮を救済し、国益を増す目的を掲げて設立されたのが、経済政策の中核機関である「国益主法掛(こくえきしゅほうがかり)」とよばれる組織です。これは、町奉行、勘定奉行という従来からの経済官僚に加えて、大目付及び目付を加えて設立された行政委員会で、政策立案ばかりでなく、その実施作業にも当たる強力な組織です。遣米使節団の一員として渡米した小栗上野介は帰国後、すぐに勘定奉行に就任していますから、上野介もこの組織に参加したのでしょう。


もともと幕府は、沿海の港に代官支配の通船改所や産物会所を置いて、全国の市場と対外貿易を支配統制しょうと計画していました。外国との貿易利益を幕府が一手に収めることにより、国内経済を統制すると共に、幕府財政を立て直そうという意図があったのです。


国益主法掛は、そのために物資の把握を試みました。国益主法掛の打ち出した様々な政策の中でも最も重要なものが「国益会所」の設立です。国益会所とは、国内の全市場を支配するための中心機関のことです。これを通じてすべての輸出入品を幕府の支配下におくことができれば、幕府は開国による利潤を独占することができるわけです。それは同時に国内の流通を統制することを意味しますから、狂乱物価を抑制するなど、経済混乱の防止にもつながります。


この国益会所への諸国の産物の買い集め方式をめぐって、国益主法掛の中心を構成する勘定方と目付たちとの間に、深刻な理論対立が生じたとされています。前者の代表は、小栗上野介です。目付たちが「すべての商人を管轄して、一挙に利権を官に帰せん」と主張したのに対して、経済通の勘定方は「最初から官吏がやろうとすると失敗するから、まず商人にやらせて路線を確立した上で、徐々に官に権限を移行しよう」と反対しました。


この対立は、現代にも通じるところがあります。法律をつくって国民を一律に管理するのか、あるいは最初に国が推進し、やがて民間に委ねていくのか。その反対に、民間に託して自由にやらせ、方向性が決まったら国営にして運営するというのもひとつの手です。


さて、目付方と勘定方の対立ですが、やがて勘定方が主導権を握ることになり、国益会所のプランは順調に発展しました。そのプランは最終的には全国の産物を江戸及び大阪に設ける「会所」によって総括しようという壮大なものでした。さしあたって江戸に会所を設立し、諸藩の物産と関八州、甲信及び伊豆の産物を、豪商を手先にして買い集めようとしたのです。

 
By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 55 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(4)

小栗上野介が遣米使節団の監査として渡米した万延元年(1860年)、安藤信正が老中に就任します。急増する輸出需要に生産供給が追いつかず、物価高騰を招いたことを抑止すべく、安藤は開港と自由貿易に対して妨害的とさえいえる行動を様々な場面で見せるようになります。しかし「五品江戸回送令」によって発生した貿易量の落ち込みはそう多くではありませんでした。そしてもうひとつの大きな問題「金貨の流出」に歯止めをかけることもできませんでした。


経済の混乱状態を打開するには、井伊直弼が処分を行ったエリート官僚たち、たとえば岩瀬忠震や水野忠徳を再起用して対応させれば良さそうなものですが、安藤にはそういう戦略はなかったようです。


開港に伴って物価が高騰した理由は、通商条約が採用している為替レートが実勢に見合っていないために、外国から見て日本製品に割安感があったからです。従ってレートを改訂すれば輸出量は阻止でき、国内に商品は行き渡り、物価高騰を鎮めることができるわけです。


当時は実質的に銀本位制でしたから、基本レートは銀貨が決済単位でした。銀貨を改鋳して、より高品位にすればやっかいな対外交渉などしなくとも、自動的に為替レートの改訂ができます。例えば「銀1分=1ドル」というペリーの時点のレートに戻せば、外から見た日本の物価は一気に3倍以上に跳ね上がることになりますから、激しい輸出はいやでも止まるはずです。


さらに金貨が流出する理由を説明すれば、銀貨をベースとする為替レートに基づく小判の価値に比べて、海外の金の取引価格が高すぎるからです。そこで、日本の銀貨の対外価値を高めれば、自動的に小判の対外価格も高くなり、金の流出はやはり止まるはずです。仮に上記のように、銀1分=1ドルとすれば、自動的に小判は4ドルという計算になりますから、海外よりも金が高くなり、うまくいけば流出した金が戻って来るくらいになるはずです。つまり、物価の高騰も金貨の流出も、銀貨の高品位化というひとつの政策で解決可能ということになります。


そもそも、こうした問題が起こった原因は、この時期の一分銀が幕府通貨史の中でも際立って粗悪な通貨だったことにあります。劣悪な一分銀が安政元年(1854年)まで鋳造・発行され続けており、最終的な発行量は総計で4520万0589両、1億8080万枚になります。さらにそれより粗悪な安政一分銀も井伊直弼によって発行されていました。


閑職に追い込まれていた水野忠徳は、南鐐(質の良い銀)貨幣を復活し、これを為替レートを決定する際の基本通貨とすればよいと考えました。南鐐二朱銀はその重量から計算すると43セント程度に相当し、南鐐は二朱ですから1両はその8倍、したがって3ドル43セント程度になります。つまりこれが基本レートになれば、日本通貨はそれまでよりも約2.3倍強くなり、輸出にも歯止めがかかるし、金の流出も止まるということになります。


しかし、水野のプランは、アメリカ外交官のハリスの強硬なクレームを受けて実施には至りませんでした。ハリスはその改革が実行されると、日本との貿易で利益が少なくなることをすぐに理解したのです。しかし、為替レートの変更を外国との交渉ではなく、国内における改鋳という処理だけで行いうる点では、水野のアイディアはとても優れていたといえるでしょう。


改鋳による為替レートの変更を諦めた水野は、改めて次の策を建議します。それは金の流出だけでも食い止めようという方策でした。小判が国内的には一分銀の4倍の価値しかないのに、それに含まれる金の量が国際水準から見て高すぎることが流出原因でした。したがって、国際水準から見て一分銀の4倍程度しか金を含んでいない小判を発行すれば、いやでも金の流出は止まると推測したのです。こうして発行されたのが、かの有名な万延小判です。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 54 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(3)

幕末の貿易は、函館、横浜、長崎の3港の開港とともに生糸などの輸出品を中心に活性化します。さらに中国・清朝末期の大反乱「太平天国の乱」(1851~1864年)にイギリス・フランスの介入が本格化し、本来ならば需要がないはずの雑穀や蝋などの軍需品の輸出増加も始まりました。こうした急増する輸出需要に対し、生産供給が追いつかず、全般的に物価が高騰するなど、日本経済に大きな混乱が生じていました。最も大きな被害をこうむったのは、江戸の問屋です。


井伊直弼の補佐をしていた老中の安藤信正は、井伊直弼が「桜田門の変」で暗殺された際にそばにいた人物で、井伊暗殺後、最高権力者となります。独裁政権を進め、経済対策面では無策であった井伊とは異なり、安藤は経済の混乱に対応するために「五品(ごひん)江戸廻送令」として知られる命令を発します。これは「雑穀、水油、蝋(ろう)、呉服、糸など五つの商品を江戸経由で流通せよ」という政策です。水油とは灯油、つまり行灯(あんどん)に使う菜種油で、糸とは生糸の意味です。


要するに「多くの商品が横浜に集まってしまった結果、江戸が品薄になって庶民が困っているので、特に生活必需品である五品について当分の間は、いったんは江戸に回しなさい」という政策です。確かに雑穀から呉服までの4品については日用品で、これらが品薄になれば庶民の生活に響くだろうということは想像できます。しかし、同時にこのような幕末の日本人の日常に密着した商品が、この時代に欧州やアメリカまで運ぶ貿易の対象になったとは思えません。灯油や雑穀は欧州やアメリカのほうが豊富で、また外国人は呉服を着用しません。したがって、開港のために江戸の庶民の必需品が不足したというのは疑ってかかったほうがよいでしょう。


着目すべき品目は、生糸だけです。江戸に住む一般庶民が、生糸から自分の衣類を生産したとか、江戸市中に機織り工場があったわけではありません。また、普通の庶民は絹織物を日常に着ていたわけでもありません。つまり、生糸が江戸に流通しなくなったからといって庶民が困ったという事実はないのです。この「五品江戸回送令」の本当の狙いは、生糸に関する利益にあったということです。


では、このような法令をわざわざ出すことで、安藤信正は何を狙ったのでしょうか? 名目は「物価高騰の抑制」ですが、従来の通説では「開港場に地方商人が直接輸出品を売り込むようになったので、それまで独占的に商品を扱っていた江戸の特権商人が打撃を受けたことから、幕府を動かして出させた」と記されています。仮にそうであるならば、「五品江戸回送令」は輸出抑制策でも物価対策でもなく、単に江戸商人の利潤確保策です。


たとえば「幕臣が彼らからワイロを受け取ったから」と想像するのは、うがった見方でしょうか。井伊直弼時代の幕府財政は、金銀の改鋳益に頼る以外、何ら具体的な歳入増加策はなく、「火の車」であったと想像できます。そこで幕府、つまり江戸の財政拡大のための起死回生の策が「五品江戸回送令」だったのでしょう。青写真を描いたのは、井伊直弼だったのかもしれません。江戸商人たちは、多額の上納金を行うことで、この法令を井伊直弼、あるいは安藤信正から引き出すことに成功したのでしょう。


列強各国が「条約に規定する自由貿易を妨げる」と反発したのは当然のことです。一方、「五品江戸回送令」に従い、在郷商人の荷物は、建前上いったんは江戸に回されますが、実際には単に問屋の送り状を受けただけでそのまま横浜に送られることになりました。江戸商人は、送り状の発行に当たってマージンが確保できれば満足で、生糸の現物を必要としていたわけではないからです。したがってこの時点での「五品江戸回送令」は、貿易そのものには影響を与える措置ではありませんでした。また、在郷商人は直接、横浜へ配送する者が多く、法令の効果は上がりませんでした。

By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 53 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(2)

小栗上野介、水野忠徳とともに「幕末の政治家三傑」に挙げられる岩瀬忠震(ただなり)は1858年、当時目付の職でしたが、大老に就任したばかりの井伊直弼の同意を得ぬままポーハタン号へ赴き、独断によりハリスを相手に日米通商条約に調印しました。岩瀬は早くから横浜開港説を唱えるほどの開国実務派で、「日本の中のアメリカ人」と陰口を叩かれていたと言われています。彼が日米通商条約の締結を遮二無二に急いだのは、フランスの養蚕地が蚕の伝染病で全滅したため、世界市場で生糸の相場が高騰し始めていたときでした。つまり、日本にとって貿易の好機が到来していたのです。


岩瀬はずいぶん葛藤したと想像できます。5日後に到着するという英仏艦隊の砲艦外交に屈し、日本をアジア諸国のように英仏の植民地としてしまうのか、あるいはその前にアメリカを相手に戦火を交えるのか、もしくは日米通商条約を締結し、自由貿易を始めるのか――。岩瀬が選んだ選択肢は、結果として日本の近代化を促すために役立ったわけです。調印後に外国奉行に昇進した岩瀬ですが、井伊直弼によって免職させられます。


井伊は生糸の増産、開国と貿易開始の実現に努めてきた海防問題を専門的に扱う部署「海防掛」を解体し、「外国奉行」を新設しました。その第一号が岩瀬です。井伊が「もはや、開国は時の趨勢(すうせい)」といった言葉(ことば)を書き残しているのは事実です。しかし、鎖国を国是としたうえでの限定開国であり、生糸貿易によって一気に富国強兵、殖産興業を実現させようとしたひとつ前の老中堀田正睦や岩瀬、次に紹介する水野忠徳ほどの先見性はなかったようです。


のちに外国奉行を務めた水野忠徳は、岩瀬と同じく阿部正弘によって抜擢された旗本でした。日英和親条約、英・仏各通商条約交渉の全権を担ったほか、岩瀬とともに蘭・露各追加条約に調印し、また神奈川開港地問題、通貨問題など条約締結後の諸問題の解決に能力を発揮した幕府の外務官僚です。
水野の業績として忘れてはならないのが、長崎奉行時代に挑んだ「長崎海軍伝習所」の設立です。これは幕府が海軍士官育成のために設けた教育機関で、幕臣や諸藩士が抜擢され、西洋技術や航海術、蘭学などを学ばせました。第1期には幕臣として勝海舟、薩摩藩の五代友厚がいます。練習艦の咸臨丸(かんりんまる)は、のちに遣米使節団とともにアメリカへ渡たり、その時の艦長が勝海舟であったことは有名です。


英・仏各通商条約交渉の全権を担った優秀な外務官僚であった水野は、1859年には神奈川奉行を兼任します。その年に「ロシア国士官暗殺事件」が横浜で発生し、その処置が業務怠慢と受け取られ、外国奉行と神奈川奉行の職を解かれ、軍艦奉行に左遷。この問題で1860年の遣米使節団に参加できませんでした。岩瀬は将軍の跡継ぎ問題で井伊直弼と意見を異にしたため官位を奪われていたので、やはり使節団には参加できず、そこで新たに使節候補に挙がったのが、新見正興(まさおき)、村垣範正(のりまさ)、そして小栗上野介の3名だったのです。


さて、1859年から函館、横浜、長崎の3港で貿易が開始され、港に居留する外国商人と日本人商人との間で取引が行われるようになります。日本からは主に生糸が輸出されました。この貿易は岩瀬忠震が目論んだとおりでした。


特にフランスの養蚕地が蚕の伝染病で全滅したため生糸は、国内市場よりも貿易市場の方が高値で取引されました。それによって生産地と市場を仲立ちしていた商人は、江戸などの大都市の問屋ではなく、直接開港場へ生産品を卸すようになります。そのため、江戸の問屋商人を中心とする従来の流通機構が徐々にほころびを見せ始めるのです。これは中間マージンを省き、物流をスピードアップさせる近代的なビジネスに通じることですが、幕末の経済は混乱しました。

By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 52 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(1)

今週から幕末期の主な貿易と外交にスポットを当て、広くは幕府、幕臣、各藩の経済政策を俯瞰してつづっていきます。今日の貿易や外交、経済政策にも通じる点が多く、また幕末の要人たちが考えた方針や政策には先見的な政策も多くあったことにも注目してください。


小栗上野介は幕臣としていろんな役職につきましたが、1860年から約1年間、「外国奉行」という重職を拝命しています。これは1858年、日米修好通商条約が締結された際に設置されたもので、主な仕事は対外交渉などの実務でした。つまり、外交官兼外務大臣といった職務です。
外国奉行として功績をあげた人物の名を挙げるなら、岩瀬忠震(ただなり)、水野忠徳、新見正興、そして小栗上野介の4名でしょう。


岩瀬は、黒船来航という非常事態に直面した当時の老中阿部正弘が挑んだ思い切った人材登用によって1854年、目付に抜擢されます。阿部は東大の前身の蕃書調所を開校したり、大船製造禁止令を解いて船の建造を認めたり、いくつかの改革を実行した政治家です。その阿部に引き上げられた岩瀬は、1855年にはロシアのプチャーチンと交渉して日露親和条約締結に挑み、1858年にはアメリカ合衆国の総領事タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、日米修好通商条約に署名した人物です。直後に初代の外国奉行に命じられ、出世を果たしましたが、井伊直弼の大老就任に反対したため2ヶ月後には作事奉行に左遷、翌年には同奉行を解任され、不遇のまま1861年に44歳の若さで死去しました。


同じ時期に活躍した人物に、下総佐倉藩主の堀田正睦(まさよし)がいます。岩瀬と同様、阿部正弘の推挙を受け、幕府の老中に就いた開国派です。攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、「一国も早く諸外国と通商すべし」と説いたとされていますが、一説には積極的に交易をするつもりはなく、のらりくらりとアメリカ側の要望をかわしたため、ハリスが激怒したとも伝えられています。真相は不明ですが、やがて日米修好通商条約の締結に必要な朝廷の許可を得られず、井伊直弼に大老の職を譲ります。


岩瀬は開国に積極的な幕臣で、幕末の混迷する外交路線を積極的な開国・通商の方向にリードしていった外交官です。幕末の政治家の三傑として「岩瀬忠震、水野忠徳、小栗上野介」を挙げる専門家は少なくありません。1860年に上野介が初の遣米使節団の監査として渡米する頃には、岩瀬はすでに幕臣ではなかったわけですが、上野介が岩瀬から何らかの影響を受けたことは確かです。


アメリカ総領事のハリスが岩瀬を高く評価したのは、外交担当の岩瀬が聡明だったからでしょう。岩瀬はハリスとの最初の交渉の席で下記のように宣言したと伝えられています。
「我々は通商とか貿易といったことについて全く知らない。貴下は通商が我が国にとり莫大な利益があると言明された。よって、我々は貴下を信頼し、条約草案の起稿を一切お任せする。願わくは我が国に利益のある草庵を作り、貴下の言明に偽りのないことを明らかに示していただきたい」
ずる賢いハリスはアメリカの利益になるよう考えながらも、一方で日本の利益になることも条約に盛り込もうと考えたといわれています。


そして1858年6月、ハリスは岩瀬を呼びつけて、こう忠告したとされています。
「英仏艦隊が5日後に到着します。その前に調印すれば、アメリカは貴国と英仏の間でトラブルが生じた場合、斡旋(あっせん)の労を惜しみません。しかし、応じないときには、英仏に先んじ、重大な決断を下さざるを得ないでしょう」


ハリスはこう言って即時調印を迫ったようです。「アメリカは日本と友好的に通商する目的で来ています。しかしイギリスとフランスの方針は日本を植民地化することだ」というニュアンスです。イギリスとフランスがアロー戦争で清国を武力で侵略したことは、岩瀬の耳にも入っていたことでしょう。即時調印しなければいけない、と岩瀬は察したのでしょう。まさに、そのとき歴史が動いたのです。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 51 激変した世界地図の中の江戸時代   欧米の帝国主義化

幕末に幕府が兵庫(神戸)、新潟などの開港をしぶったのは、輸出による物価高騰で国民の生活が窮乏しているという理由からでした。日本の開港に期待を寄せる欧米諸国と幕府の封建体制とは、本質的に相容れないものでした。1864年にイギリスが、フランス、オランダ、アメリカの4カ国連合艦隊を組んで関門海峡に来襲し、下関を襲撃した意図は、自由貿易を進めようとしない日本への失望感があったと推測できます。


4カ国連合艦隊による下関攻撃の効果は、長州藩の排外方針を全面的に転向させると同時に、イギリスの対日貿易を以前にも増して繁栄に導きました。長州は列強を排斥するのでなく、むしろ力を借りて幕府を倒すことに焦点を定め、イギリスと手を結び、また長州は薩摩藩とも親密になります。薩長連合は反幕府という政策で一致し、幕府を武力で倒す決意を固めます。やがて大政奉還が発表され、日本は明治維新へと展開していきます。日本は欧米式の自由貿易の時代を迎えるのです。


一方、ヨーロッパにおける自由貿易のネットワークは、長くは続きませんでした。日本では明治維新以降にあたる1870年代以降、工業力で英国に対する追い上げを図るドイツは高率の関税を採用し、アメリカは建国以来、厳格な相互主義原則を堅持し、高関税率を維持しました。後発工業国の保護政策の思想的基盤は、自国の未熟な産業を保護することにありました。後発工業国は国内の近代化政策の推進と保護貿易政策を通じて、自国の望ましい比較優位構造が実現し得ると考えたのです。


ドイツは国内市場の独占を国内企業に認め、その利潤をもって外国市場の販路を拡大します。アメリカは羊毛、毛織物、鋼、鋼レールなどに関税を課し、工業生産者に国内市場を与え、利潤の増大、生産の拡張を図ります。ヨーロッパでの不況と農産物価格の低下がきっかけとなって、ロシア、フランスも同様に 19世紀末期には保護主義に転換していきます。


さらにイギリスにおいてもアメリカ、ドイツなどの後進国の急速な経済的台頭により、製品輸出が次第に困難になり、逆に輸入が漸次増加して従来の工業生産者にとっての貿易利益が必ずしも享受されなくなります。またイギリス植民地もそれ自身の工業をもつようになり、イギリス商品の安易な購入を手控えるようになります。このような状況の下で、イギリス本国では帝国特恵関税の設定、保護関税案が提案されますが、当時その案は否決され、辛くも自由貿易は堅持されます。


しかし、アメリカ、ドイツの経済的台頭とともに相対的に経済的地位が低下したイギリスは、アメリカを中心とする保護措置に対して、従来の一方的自由貿易主義を貫くことが困難な状況に陥っていきます。やがて資本の拡大を目指して領土(植民地)の奪い合いが激しくなり、「帝国主義」の思想が生まれ、列強は第一次世界大戦へと進んでいくわけです。


次週からは再び幕末の日本に戻り、小栗上野介はもちろんのこと幕末の要人が外国貿易や外交をどのように考えていたのか、ひいては現代にも応用できる経済政策のあり方をひもといていきます。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 50 激変した世界地図の中の江戸時代   欧州自由貿易主義

日本が幕末を迎えていた頃、ヨーロッパの列強は自由貿易主義に移行します。穀物法廃止に代表される一方的なイギリスの自由貿易主義は、外国が保護貿易措置を執っている限り、そこから得られる貿易利益には限界がありました。一方、この条約の背景には、フランスのイタリア統一戦争介入による英仏関係の悪化を経済面から緩和しようというフランスの政治的意図もあったようです。


このような背景を理解しておくと、幕末にイギリスやフランスがどうして日本に開国を迫り、自由貿易を求めたのか、その理由が見えてきます。そして1864年にフランス、イギリス、オランダ、アメリカの4カ国連合艦隊が関門海峡に来襲し、長州藩が大敗北した「下関砲撃事件」の重要性が理解できます。


長州藩が前年、下関海峡を通過する外国船(フランス船、アメリカ船、オランダ船)を砲撃したことから勃発したこの事件は、当時の列強が関門海峡の封鎖解除を求めたものでした。列強の間では、一国の領海内における無害航行は、すでに国際法上認められる船舶の権利という認識が生まれていました。また、関門海峡の機能が、欧州におけるスエズ運河とよく似ていたことも挙げられます。博多や長崎、瀬戸内海航路を結ぶ運河としての下関海峡は、列強にとって欧州におけるスエズ運河のように重要な航路だったのです。列強には「自由貿易のルールを理解できない長州には武力で理解させろ」という目論見があったのでしょう。


アメリカ、フランス、オランダの三ヶ国が長州への抗議行動に、被害国ではなかったイギリスの参加を強く求めたのは、イギリスの東洋艦隊が最も優れた勢力を保持していたからです。当初静観していたイギリスが積極的に4カ国連合艦隊に加わったのは、関門海峡の封鎖がイギリスの貿易に深刻な影響を与えることに気づいたからでしょう。長崎の貿易は横浜のそれと比べると小規模でしたが、対日貿易の約20%を占め、兵庫(神戸)、大坂がまだ開港されていない当時にあっては、西日本における重要な貿易の窓口であることに変わりはなかったということです。長崎貿易が破滅的状態に陥ったことで、イギリスは始めて危機感を覚えたのです。


4カ国連合艦隊であるイギリス、フランス、オランダ、アメリカは、水面下で駆け引きをしていたともいえるでしょう。イギリスが下関を襲撃した意図は排他的な傾向の長州藩に是正を進め、開港に導くための軍事的デモンストレーションでした。イギリスはこれと同じことを清国で行って成功しています。「アロー戦争」です。


一方、フランスは当初幕府支援にまわり、対日政策でイギリスとは異なる姿勢を見せました。極東マーケットに食い込もうとしているイギリスの活動を牽制することがフランス側の狙いだったといえるでしょう。アメリカは当時、南北戦争の渦中にあったのでイギリスやフランスが日本に注ぐほどの関心を抱いていなかったと推測できます。古くから日本との貿易をしてきたオランダは不意に長州から砲撃を受けたので、その報復をするといった程度だったと想像できます。


最も進歩的だったのはイギリスです。幕府への期待を薄め、薩長連合に将来の政権構想を求めていました。武器商人を通じて両藩に武器を調達したのも、武器販売による利益を求めただけでなく、いわば薩長のクーデターを支援するものだったともいえます。フランスが恐れたのは、イギリスと長州藩が手を結ぶことだったのでしょう。だからフランス側はイギリスに対抗するために小栗上野介に近寄り、幕府に造船所建設の支援を申し出たのではないでしょうか。その一方で4カ国連合艦隊に参加せざるを得なかったのは、軍事力に優れたイギリスに勝手な行動をさせないための苦肉の策といえるでしょう。しかし、結果的にイギリスが幕府に求めたのは、輸入税を原則として一律16%に引き下げ、輸入税は5~10%に改訂することでした。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 49 激変した世界地図の中の江戸時代 自由主義経済の思想

日本に黒船が来航する数年前のことです。
イギリスでは「穀物法」と並んで重商主義の2大支柱と言われた「航海条例」が1849年に廃止されました。


そもそもこの条例の目的は植民地との中継貿易からオランダを締め出すことにありました。
植民地およびヨーロッパ諸港との貿易を「乗務員の4分の3以上が英国人であること、英国製の船であること、所有者が英国人であること」といった条件を満たす船に限定し、それ以外の入港を禁止していたのです。


しかし自由主義経済の思想が広まったことと、植民地の経済の発展に伴い拡大した植民地からの不満が大きくなったこと、植民地独占体制維持のための行政費と軍事費の増大による納税負担の上昇などを背景に、「航海条例」は廃止されたのです。


イギリスが世界経済の発展に一肌脱いだように見えますが、実質的にはイギリスの「一方的自由貿易主義」が成立することになります。


「航海条例」の廃止は、思想的背景を持ちつつも、貿易相手国の所得増大によるイギリス製品の輸出増大、輸入原材料価格等の低下による輸出コストの低下など、イギリスの利益の観点から実施されたものでした。


残念ながら経済学者リカードの「比較優位の法則」は活用されておらず、後進工業国は食料品、工業用原材料を生産し続け、先進工業国であるイギリスは、強い国際競争力を背景に、世界の工業品市場を独占するという役割分担が継続されることを前提としていたのです。


また、最も政治的困難を伴った穀物法の撤廃は、議会制民主主義下での新興商工業者などへの参政権の拡大と、穀物の大凶作という政治的な環境が整って初めで実施されたという背景もあるのです。


そういった意味で自由貿易論は、強い工業国が貿易によって利益を得るための「強者の論理」としての域を出ていませんでした。


これはある意味では、アメリカが、正確にはアメリカの企業が利益を得るためにアナウンスされた、現代のグローバリズムの思想とよく似ています。


どの時代にあってもその時の強国が自国に有利なルールをつくり、それを外国に押しつける傾向があるようです。


さて、イギリスの政策と並行して、ヨーロッパ大陸においては、統一の遅れたドイツ地方において、1818年以降、主要領邦国家であったプロイセンが領邦内の内部関税の廃止と他のドイツ諸邦との関税協定等を推進し、1833年にはそれら多数の関税協定の結果としてドイツ関税同盟が形成されました。


その後、ドイツだけでなく、オーストリアとハンガリーの関税同盟、スイス内部などで統一的な関税同盟が矢継ぎ早に成立することとなり、ヨーロッパ大陸においても自由通商の基盤が着実に形成されていきました。


では、上野介が製鉄所建設の技術提携国に選んだフランスは、1860年頃どのような状況にあったのでしょうか。


ちょうどナポレオン三世(皇帝在位1852~1870年)の時代です。
1852年に国民投票を経て帝政を開始、1853年にクリミア戦争にイギリスやオスマン帝国側に加担し、ロシア帝国を破り、パリ条約で世界にフランスの力を見せつけました。


1856年には、イギリスと共同してアロー戦争を起こして清朝を屈服。
1858年、インドシナへ出兵してコーチシナ植民地を獲得します。


そして1860年に「英仏通商条約」を締結し、自由貿易を始めます。
こうしてフランスも重商主義から由由貿易へと移行します。


イギリスのヨ-ロッパにおける重要な貿易相手国であったフランスは、他国がフランス商品に特恵的措置な執った場合に、自国の関税も軽減・廃止するという相互主義の立場をとっていました。


このような状況の下で締結された二国間通商条約によって、イギリスは保護関税をほぼ全廃し、フランスは旧来の輸入禁止措置を撤廃し、最高税率を従価3割としたのです。


これによりフランス製のぶどう酒、酢、オリーブ油の対英輸出やイギリス製の綿製品、鉄製品、陶器の対仏輸出など二国間の貿易が促進されたのです。


By Master K/益田 慶


小栗上野介が駆け抜けた時代 48 激変した世界地図の中の江戸時代   欧州列強の重商主義政策

小栗上野介が幕末に行った事業のひとつに製鉄所建設の推進がありました。
その後の日本を近代国家へと牽引する造船業や重工業の萌芽となる事業でした。
結果だけを見てみると、開国した幕末から明治維新にかけては、日本は農業国から製造輸出国へ、保護貿易から自由貿易へと転換する道を選んだ時期ともいえます。
それよりも数十年も前の1846年、イギリスは穀物法を廃止して農業の保護を断念し、工業への特化が始まっていました。


それ以前のイギリス、つまり地主階級を国際競争から守るため、物の厳しい輸入制限を定めた穀物法を遵守していた頃のイギリスでは、輸出産業であった毛織物の国際的独占を図るため、原毛の輸出を禁止していました。


完成品輸入に高関税を賦課するとともに制海権の基礎であり、収益源でもあった海運業の保護育成のため、植民地貿易などをイギリス船に限定し、ヨーロッパからの商品の輸送をイギリス船か原産地船に限定する「航海条例」も制定していました。
ずいぶん保守的な政策ですが、これはイギリスだけではありませんでした。

フランスでも同様に工業原料の輸入には関税を減免し、完成品輸入には高率の関税を課していました。
特にレース織、絹織物、コブラン織、鏡などの嗜好品や贅沢品の製造業者に対しては補助金が施され、輸出が奨励されるとともに輸入が制限されていました。
この時期の強国の貿易政策は、このように貨幣獲得の観点から「輸出を善、輸入を悪」とするいわゆる重商主義政策を取っていたのです。


イギリスにおいては、18世紀に産業革命が進展し、動力化された綿工業を中心として、世界随一の工業力を持つに至っていました。
この時期、経済的・政治的に台頭した綿業資本家は、海外市場の拡大による規模の利益の実現を目指し、自由貿易の推進を主張するようになったのです。
先週のコラムで記したように経済学者の理論が自由貿易推進の支柱になっていたのです。

イギリスにおける産業革命が完成期に近づいた19世紀始めには、経済学者のデビッド・リカードが比較生産費説を唱え、各国が貿易を自由化し、相互に比較優位を持つ財の生産に特化することが双方の利益になるという主張を展開しました。
政治面では、1820年にはロンドンの商人たちが原材料価格を低下させ、安価な商品を海外市場に輸出するために、保護関税制度の撤廃を議会に請願するなどの動きが生じました。


また、リカードは「穀物生産は収益逓減の産業」とも説きました。
つまり、土地の生産力は労働および資本の投入によって増大させることができるが、肥沃度は次第に劣悪化し、ある一定の時点において、資本の投下量を倍増しても、生産物は倍増しないということです。
生産物の価値の増大は、一方では優等地との差が拡大することにつながり、劣等地地代の増大に発展するわけです。


地主は土地の生産力が落ちたら、生産物からの収入が少なくなるので、それを補うために地代を値上げする。
だから農業生産者の利益はますます減っていくということです。この収益逓減の理論は、今日でも実際の経済で応用されています。


思想面、政治面で自由放任の論調が強くなる中で、イギリスは1823年に二国間の条件付き相互主義を内容とする相互関税法を制定し、対外的に関税交渉を進めました。
しかし、後発欧州諸国は国内産業の保護を理由にこれに応じず、イギリスは相互主義を放棄し、1833年に原綿の輸入関税を50%ほど引き下げたことを手始めに、原材料の輸入関税引下げ、関税収入から所得税への財政収入の振替等の関税改革を進め、1840年代後半から50年代に穀物法廃止、一連の関税引下げなど相手国の対応にかかわらず、一方的に関税を引き