小栗上野介が駆け抜けた時代70 近代資本主義の萌芽 新貨条例 1両=1円=1ドル
日本における資本主義の成立は、株式会社の誕生とその発展と同意語です。株式会社の原型は小栗上野介が1867年に建議書を提出した兵庫商社でした。上野介が目指した西洋式コンペニーは、外国商館の活動を制約し、日本経済の矛盾を解決する貿易商社でした。関西の出資者が役員となり、大阪に事務所を開いたものの、政治情勢の急変により、約半年だけ稼動したのち事業を中止しました。
兵庫商社が株式会社の「原型」とされるのは、広く出資者を募り、共通の目的で組織を運営し、利益は出資額に応じて配当すると定めたからです。しかし、出資金の権利を示す「株式」という概念はまだ導入されていません。明治2年には、上野介と親しかった、三井組の三野村利左衛門が「兵庫商社」を継承したかのような共同出資の組織「通商会社」と「為替会社」を設立します。これは「社中」(出資者)に出資金に対して月一歩の利息を払うことを条件としていたので、現在の株式とは異なる方式でした。「通商会社」と「為替会社」はすぐにつぶれましたが、三野村は明治4年、「三井組バンク」を創立します。
明治2年には渋沢栄一が銀行と商業会社を併用した「商法会所」を静岡に設立しました。静岡藩が新政府から借入れていた石高拝借金53万両を、殖産興業を興す基本金として立ち上げた組織で、その利益を返納金に当てることを目的としました。同年には、福沢諭吉門下の実業家、早矢仕有的(はやしゆうてき)が「丸善」の前身である「丸屋商社」を創業しています。早矢仕は親子代々世襲の個人商の欠点を指摘し、ウェーランドの『経営哲学論』を参考に元金を出資する「元金社中(株主)」と実際に働く「働社中(社員)」によって構成する会社組織を日本で最初に採用しました。蛇足ですが、この早矢仕が「ハヤシライス」の考案者だという説がありますが、定かではありません。
そして明治4年(1871年)6月27日、日本最初の貨幣法「新貨条例」によって、1両=1円=1ドルに決まります。幣制改革を主導したのは大隈重信です。大隈は通貨単位を「両」から「円」に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を円形とすることなどを決定。同年、大阪に設置された造幣寮が新貨幣の鋳造を開始し、紙幣はドイツの会社に印刷を依頼し、新紙幣を発行しました。アメリカ出張中の伊藤博文の「世界の大勢は金本位に向かいつつある」という指摘を受けて金本位制が採用されます。こうして資本主義が発展する環境は整いました。
株式会社の条件をほぼ満たした最初の企業は、明治6年に設立された第一国立銀行でしょう。渋沢栄一が会頭を務めた同銀行こそが「統一金融機関コード0001」(現在は、みずほ銀行)なのです。同行は出資者を公募して1株100円の株式を発行し、2,448,000円の資本金で設立。取締役は株主が選挙で選び、頭取は取締役会で決められました。現在の株式会社と異なるのは、営業の損益は株高に応じて株主が負担するという規定や株式の譲渡が制限されていたことが挙げられます。渋沢は明治12年に「東京海上保険会社」を株式会社として設立します。商法に照らして株式会社の要件を満たした実質的な株式会社の設立といえば、1893年(明治26年)に誕生した「日本郵船株式会舎」ということになるでしょう。これは三菱グループの源流です。
明治に誕生した近代資本主義。これらの基盤をつくったのは幕末の幕臣でした。1860年に遣米使節団の一員としてアメリカに渡り、両とドルの交換レートの交渉に成功し、のちに近代的マネジメントの源流となる多くの政策を試みた小栗上野介がいたからこそ、その後に渋沢栄一や大隈重信、伊藤博文、岩崎弥太郎らが活躍できたといっても過言ではないでしょう。
そういった観点から小栗上野介の活躍を見直し、その時代を検証してきました。
長い間、ご愛読くださった『小栗上野介が駆け抜けた時代』は、このコラムをもって終了とします。
完
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 69 近代資本主義の萌芽 三井・三菱・大倉・藤田・安田
幕末に頭角をあらわした経済人は三井組の経営陣(三野村利衛門、益田孝)や三菱財閥の祖・岩崎弥太郎、古河財閥の創業者・古河市兵衛、無数の起業に関わった渋沢栄一、明治に入って大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所(大阪商科大学の前身)などを設立する五代友厚だけではありません。
この時代には、後に大倉財閥を築く大倉喜八郎、阪神財閥のひとつとなる藤田財閥を創設した藤田伝三郎、安田財閥の祖・安田善次郎など、日本経済の種を蒔いた人物が豊富にいます。彼らの特長は組織力、資金力をどの分野、業種業態に注げば利益が生まれるのかをきっちり分析していたことにあります。あるいは本能的に察知していたのかもしれません。
新潟生まれの大倉喜八郎は18歳で上京、1857年に独立して乾物屋を経営。これは日米修好通商条約締結の前年です。1865年に「大倉屋銃砲店」を開業し、後に戊辰戦争(1868~69年)の際に官軍御用を務め、軍需品の供給で巨利を得ます。幕府でなく、官軍に軍需品を売ったことが喜八郎の先見性でしょう。明治6年、貿易商社「大倉組商会」を設立し、貿易業に着手します。やがて台湾出兵や日清・日露戦争で軍の用達商として活躍。朝鮮・中国における投資にも積極的で、帝国ホテルや大倉土木組(現・大成建設)を含め内外で多くの事業を展開し、大倉財閥を築きます。現あいおい損保、日清オイリオグループ、ホテルオークラなど大倉財閥が関与した企業は20社以上。しかし中核企業であった大倉組は大倉商事となり、中堅商社として存続しましたが、1998年に倒産し、解散しています。
藤田財閥を創設した藤田伝三郎もまた激動の時代を生きた実業家です。長州生まれの伝三郎は、維新の動乱期に高杉晋作に師事して奇兵隊に投じ、木戸孝允、井上馨、山県有朋らと交遊関係を結んでいます。明治2年、長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・砲弾・銃丸などを払い下げたとき、これらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得ます。大倉喜八郎同様、「政商」といったところでしょう。やがて大阪に出て、軍靴の製造を皮切りに建設業に手を広げ、二人の兄が事業に参加し、「藤田組」の基盤がつくられます。兄弟経営を起点としているところが藤田組の特徴です。
1877年の西南戦争では、陸軍に被服、食糧、機械、軍靴を納入、人夫の斡旋までして、三井・三菱と並ぶ利益をあげたとされています。藤田はその後、大阪商法会議所創設の発起人となり、大阪硫酸製造会社や関西貿易社の設立に参加、琵琶湖の太湖汽船会社や大阪紡績初代取締役頭取に就任し、阪神に藤田財閥を築いていきます。「ワシントンホテル」「フォーシーズンズ椿山荘」などのホテルやレジャー施設を経営する藤田観光が現在グループの中核となっています。
安田財閥の創設者の安田善次郎は、富山藩出身。17歳で江戸に出、丁稚奉公の後、1864年に両替店安田屋を開業。これは下関発砲事件や池田屋事件が起こった年です。太政官札・公債などの取引、官公預金などで蓄財し、三井と並んで江戸屈指の金融業者となります。明治9年には、第三国立銀行の創立に参加、明治13年に安田銀行(後の富士銀行。現・みずほコーポレート銀行)を開業します。15年には、創立されたばかりの日本銀行の理事に就任しています。後に損保会社(現損害保険ジャパン)、生保会社(現・明治安田生命保険)を次々と設立し、金融財閥を築きました。三井や三菱、住友と異なり、重工業に進出せず、金融グループを目指したのが安田善次郎の着眼点でしょう。安田財閥は財閥解体後、芙蓉グループとして君臨しています。
幕末に起業した彼らに共通するのは、価値観が一変する不安定な社会に生きていたからこそ、大きなリスクを承知で新たな事業に挑んだことでしょう。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 68 近代資本主義の萌芽 近江商人と資本主義
幕末に近江商人が営んだ事業は、小売・卸業、呉服業、両替商、酒造業・醤油業などです。近江商人は伊勢商人と並ぶ近世の代表的な行商人です。湖東、八幡、高島、日野など、地域ごとに得意とする商品が異なり、たとえば日野地方出身の日野商人の主力商品には清酒と薬がありました。
商人と言っても卸・小売業に特化していたのではなく、北関東地方の街道沿いを中心に店舗を設置し、清酒の製造・販売を行ってきました。また、「置き薬」のシステムを考えたのも日野商人と言われています。マーケットがある他の藩に進出して事業を展開していく戦略は、市場開拓の面からも資本主義の発想です。
幕末に頭角をあらわした近江商人は少なくありません。7代目小野善助はその一人です。初代善助は大溝藩(現在の滋賀県高島市)の出身。盛岡の叔父・村井権兵衛に呼ばれ、1682年京都から盛岡に進出し、「井筒屋善助店」を開いて陸羽地方との交易で成功しました。「井筒屋」は小野組の屋号です。
2代目は村井姓を名乗りましたが、小野の分家は多く、以降小野一族は、木綿、古手などの雑品を南部にもたらし、砂金、紅花、生糸などを持ち下り、次第に各地に支店を出して栄えました。やがて両替屋も営み、7代目善助が活躍した幕末には、三井組、島田組と並んで出納所御為替御用達となり、豪商に成長しました。明治維新には莫大な御用金によって新政府に加担し、新政府の財政確立に貢献。
政府・各府県の「為替方」になる一方、米穀・生糸取引を手がけ、製糸場や鉱山も経営。さらに後に三井組とともに「三井小野組合銀行」を設立、これが後に第一国立銀行となるなど、維新後、数年で巨大資本に発展しました。しかし政府が「為替方」に対する担保額の引き上げと担保提出強化の方針を打ち出すと、小野組はたちまち苦境に陥り、各府県が小野組に預け入れた官金の回収に動いたものの、これを支えきれず、破産に至ります。ちなみに盛岡・小野組に奉公し、頭角をあらわしたのが、後に古河鉱業を興し、古河財閥の祖となった古河市兵衛です。
著名な近江商人といえば、近江高島出身で京都に出て「高島屋飯田儀兵衛」と称して米穀店を営んでいた飯田儀兵衛と、その養子になる飯田新七がいます。新七は越前敦賀の出身ですが、京都の呉服屋に奉公中その勤勉ぶりを認められ、1831年、新七が27歳のとき、家業を呉服商に変え、屋号を「高島屋飯田呉服店」とし、京都烏丸松原で古着・木綿商を始めました。他店よりも早朝くから店を開け、安価な価格で販売。これが後の百貨店「高島屋」です。
湖東商人の伊藤長兵衛・忠兵衛兄弟は「伊藤忠商事」「丸紅」という二つの商社の創業者として富に有名です。犬上郡豊郷村(現豊郷町)に商家の次男として生まれ、実家は「紅長」(べんちょう)の屋号で繊維小売業を営んでいました。11歳から行商の経験を積み、1858年、兄の長兵衛とともに近江麻布の持ち下り商いを開始。
兄は仕入れに当たり、後に「伊藤長兵衛商店」を開業。九州・中国各地に地盤を広げます。忠兵衛は明治維新の混乱期に持ち下り行商に見切りをつけ、明治5年、大阪本町に呉服太物店「紅忠」(べんちゅう)を開き、麻布、尾張織物、関東織物を扱う「丸紅」の基礎を築きました。ここに「伊藤忠商事」と「丸紅」が誕生したのです。実家の屋号「紅長」を取り、○(マル)に「紅」という文字を入れ、のれんに使ったことから「丸紅」。忠兵衛は明治17年、「紅忠」を「紅伊藤本店」とし、明治26年、大阪市に「伊藤糸店」開業。中国との綿花、綿糸の貿易をはじめ、呉服卸売、雑貨輸入など積極的に業容を広げました。
このように幕末は、商人が豪商となり、企業家へと変身していく過程で欧米型の企業を構築した時期といえるでしょう。当時、勘定奉行を務めていた小栗上野介の「兵庫商社」構想もちょうど同じ時期であることを鑑みると、上野介も時代の流れを的確に捉えていたことがわかります。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 67 近代資本主義の萌芽 近江商人と近代資本主義
幕末は近代資本主義の芽が生まれた時代です。一般には明治維新がきっかけで資本主義の発芽が起こったと見られていますが、すでに江戸時代に株式の概念は導入され、商業では能力主義や成果報酬が用いられていたようです。共同出資というしくみも江戸時代に生まれたものです。
鎌倉時代から江戸時代を経て明治時代まで活躍した近江国(現滋賀県)出身の近江商人たちが編み出したしくみが、日本の共同経営の起源だとされています。江戸時代に京都、大坂、江戸の三都市を中心に行商をしていた近江商人は、早くから情報の共有や競争の回避、旅行の安全などを目的として「講」という団体組織を作っていました。「講」はもともと出身地別または行商先別に結成されていましたが、のちにこれが発達して権益や商権の保護なども行うようになり、株仲間のような同業者組合的性格を持つようになりました。近江商人の資金調達形態には、非常に近代的な共同出資があります。
彼らは経営の範囲が広がると個人が資本を出し合い、乗合商合(のりあいあきない)や組合商合(くみあいあきない)を行いました。これは一種の共同企業体で、ジョイントベンチャーともいえるでしょう。個人事業では資金面、技術面、人材面、労力と時間の観点からリスクが伴うプロジェクトを合資制度による企業体形成で実現しようとするものです。共同出資にすることでリスクを分散するとともに、ヒト・モノ・カネ、情報、技術、信用などの経営資源を共同で利用し、その有効活用を図ったのです。
近江商人は、まず多店舗展開のための資金調達の方法として、共同出資を始めたのです。当初は地元の業者から施設や店舗を借り受け、近江の奉公人を支配人として派遣する形態がとられました。たとえば両浜商人の藤野喜兵衛らは1738年に蝦夷地(北海道)で場所請負の共同企業をつくり、1741年には八幡商人・西川伝治が21人の出資を得て北海道海産物を商う共同企業を設立しています。蝦夷地(北海道)の商品を取り扱うには、商船、船員が必要。個人で集められなくても共同出資なら可能です。ほかには呉服商や大名貸、醸造業などが共同出資で行われました。1813年には稲本利右衛門が西村重郎兵衛と共同出資し、呉服商を開いています。
ほかには「大当番仲間」と呼ばれた制度があります。近江商人の仲で日野出身の日野商人たちは、商人相互間の扶助と幕府の保護を得るため、「日野大当番仲間」を組織しました。この組織の最大の特色は、幕府の庇護のもと、売掛金の徴収が滞まった場合にその領主に訴えて幕府の威光によって徴収できる権限を持ったことです。また、大当番仲間で東海道や中山道の各宿場に現在の指定旅館、契約ホテル制度のような「日野商人定宿」を設け、旅の便宜を図りました。組織で宿を確保することで安心して旅ができ、また料金も多少安くなったのかもしれません。宿は江戸への行き帰りに利用され、1770年には181軒もの定宿数になったようです。
さらに近江商人たちは、西洋の複式簿記と同じ形態の会計システムをすでに江戸時代に採用していたという記録が残っています。厳格な身分制度社会において労働の成果を貨幣に置き換えて評価する習慣がなかった時代に、資本と利足を保全した上でさらにそれ以上の利益が生まれると「出精金」「徳用」といって各店の支配人たちに配分され、使用人の励みになるシステムを採用したのです。これはまさにボーナスの起源です。
そうしてようやく商社という発想が生まれます。明治政府の外務大臣となった陸奥宗光は坂本龍馬の海援隊に加わっていた頃、「海援隊商法」を次のように記しています。「商法の根本は、組合を以て商社を設立すること、物資の輸送には荷為替を設けること、商売は船長に委託し、これに運上金を課すこと」。ここで注目したいのは、商法つまり「商いの方法」の根本は「組合をもって商社を設立すること」とされていることです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 66 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(15)
江戸は1718年に人口100万人を越えていたとされていることから、当時としては世界最大の都市であったようです。人口が増えれば自ずと産業が発展します。イギリスやドイツのような産業革命を体験していなくても、日本には工業経営の新しい型が形成されていたようです。織物業、製糖業、製鉄業などの分野に部分的ではあるにせよ、マニュファクチュアが存在し、問屋制家内工業が生まれました。
織物業では商人や織元から原料の織糸を供給され、自分の作業場で機織を行い、製品の布を商人や織元に渡して織賃を受け取る「賃機(ちんばた)」システムが農家の副業として普及していました。これは織元から機械を借りて仕事をすることではなく、親機業から委託を受けて、下請け製織する業者のこと、あるいは業界の制度のことです。親機業者がデザインと資材一切を賃機業者に預託し、賃機業者は設備と労力を提供するというこのシステムは、現在でも西陣織の世界で息づいています。
横浜の開港によって生まれた居留地貿易を代表するものが生糸輸出です。すぐに総輸出の5~8割に達しましたが、先週のコラムで紹介したように生糸輸出の開始は、日本の絹業に大きな影響を与えました。
絹業は養蚕・製糸・織布の3つの基本工程に分かれており、生糸の輸出の増大にともない、養蚕・製糸業はともに発達のチャンスをつかみました。しかし製糸を原料としている織布部門は品不足とインフレによって、破壊的な打撃を受けたのです。
綿業は綿作・手防・織布の3つの工程に分かれています。産業革命の産物である機械製の綿布は、1865年頃から大量に日本に流入し、織布部門は原糸を輸入糸に転換することで新しい発展の方向を求めました。当時の輸入品目を見渡すと、綿織物、綿糸、毛織物が大半を占めています。綿製品は当時の日本の日常衣料品であったため、綿製品の輸入が農民の衣料品自給生産を縮小させ、商品経済を農民に浸透させたのでしょう。
こうして外国貿易の展開は衣料品をはじめとする消費物資の輸入によって、綿、砂糖、菜種などの国内市場を対象とする商品生産の衰退を招くとともに、また生糸、茶などの国外市場を対象とする商品生産の急激な発展をもたらしました。しかし、他面ではインフレの発生が産業分野の明暗を分けたのです。
幕末の江戸では、貿易にともなう商品需給の不均衡によって2倍半~7倍余のインフレが起こりました。このような激しいインフレは貿易商人に巨利をもたらし、生糸、茶など直接輸出品に携わっている商人や一部の豪商を裕福にするその一方で、年貢の増徴が農民をますます貧窮に追いやりました。こうして領主や封建制度に対する反発が激化し、全国的に産業の自由、経済生活の平等化などを求める一揆や百姓一揆、打ちこわしが激化しました。藩の財政も一部雄藩を除いては、いっそう悪化し、下級武士の貧窮化を促しました。特に下級武士は開港を断行した幕府ならびにそれに従った上級武士、さらに外国貿易によって莫大な利益をえた貿易商人を恨み、盛んに外人殺傷、貿易商人脅迫などの事件を巻き起こしました。
このようなことから、身分的支配体制は揺り動かされ、社会の統合力は弱まっていきました。そして経済的秩序の混乱が、社会的政治的不安定に拍車をかけ、下級武士層の主導する政治変革運動の力が広まったのです。
長い鎖国のなかでそれなりの安定を保っていた貨幣制度や諸物産の生産と流通のシステムが、開国による外国貿易の本格化とともに、それまで想像できなかったような変化をもたらしました。外国から入って来た新しい商品、新しい知識、新しい技術は、そうした商品を取り扱おうとする商人たちや、輸入品を模してこれに対抗しようとする生産者たちに、ビジネスのチャンスを生み出したのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 65 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(14)
1859年から始まった幕末の貿易。港として最も栄えたのは横浜でした。日米修好通商条約では「神奈川港」を開港地としましたが、幕府は東海道に直結し、当時すでに栄えていた「神奈川湊」を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地としたのです。横浜村には、短期間で居留地、波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられました。余談ですが、今に残る横浜中華街(横浜市)は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源としています。
幕府は、外国商館に出入りする商人たちが舶来品を売りさばくことはもちろん、「居住している外国人の商店からどんな商品を買い取ることも勝手である」と全国に布告しました。貿易開始直後、神奈川奉行が幕府に提出した報告書によれば、呉服、塗り物、箱物、鳥屋、薬師店、金物店などおよそ百軒が店開きをしたそうです。こうして、たちまち横浜は長崎を抜いて、国内の貿易の扱い高第一位となりました。
日本からの輸出品で最も多いのは生糸でした。ヨーロッパの生糸が蚕の病気で壊滅状態にあったことと、日本の生糸の品質のよさが欧州の商人に認められたからです。生糸貿易の主導権を握っていたのは外国商館です。彼らは欧州やアジアとの貿易でノウハウを持っています。一方の日本人商人や幕僚には貿易の知識も交渉能力も何もありませんでした。
しかし、やがて生糸の輸出がこれ以上増えると国内の絹織物生産に悪影響を及ぼすとして、幕府は抑制しようとします。大量の輸出によって生糸はどんどん値上がりし、さらに品薄になった生糸を貿易商が買い占めたため、生糸の値段は悪循環のように値上がりを続けました。いくら需要があっても、急に蚕が増えるわけでもなく、生産の増加は望めません。
1859年、ロンドン市場に初めて日本の生糸が登場したとき、欧州の商人は日本の市価より高い一梱200ドルくらいで買い上げました。横浜が開港すると、たちまち500ドルにはね上がり、さらに800ドルまで達しました。そのため、国内の需要はそっちのけで、生糸業者は全部輸出にまわしていきました。生糸が高値で売れるとなると、農家は桑畑を増やし、蚕を飼い、繭の増産にエネルギーを注ぐようになります。米主体の農家のあり方まで変わったのです。貿易が輸出国・輸入国の産業に大きな影響を与える実例として読んでください。
輸出品が値上がりすると、絹織物の産地である桐生や伊勢崎、京都・西陣の業者がいくら金を出しても原料の生糸が手に入らなくなり、営業が困難になります。「これは貿易の結果である」という抗議が幕府に寄せられます。西陣や桐生地方の織物関係者1500人が生糸輸出の禁止を幕府に懇願した、という記録が残っています。
そして生糸の輸出は、ほかの糸偏の産業にも大きな影響を及ぼしました。原料の生糸が国内に流通しなくなると、安価な綿糸や綿織物が輸入されるようになり、今度は日本の小規模手工業である、機織りによる綿糸、綿布などの生産も大きな打撃を受けることになったのです。絹も綿も商売にならない。これでは商人たちが「幕府の貿易政策はダメだ。佐幕派に献金しよう」と考えてもおかしくありません。
これらの現象は現在、形を変えてほかの産業で進行しています。かつて特定の野菜の産地であった地域が農業政策によって廃業せざるを得なくなりました。現在では、その野菜の産地であった町のスーパーには、安全に不安が残る安価な中国野菜が並んでいます。一方、他の地域から野菜を運んでくるとなると、国内の移動にかかるコストが販売価格に反映し、その結果、国内のブランド野菜は遠隔地でも手に入るが、すこぶる高額になるという現象が起こります。細々と続けている農家が「与党の農業政策はダメだ。野党を支持しよう」と方向転換するのは当然の成り行きでしょう。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 64 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(13)
イギリス公使オールコックの後任として1865年に駐日公使に着任したハリー・パークスは、天皇と将軍という二重構造は早晩崩れることを予測していました。英国政府から指令を受けて、パークスは兵庫・大坂などの開港や関税率の引き下げに加え、条約勅許を要求します。条約勅許とは、通商条約について朝廷の許可を得ることです。そもそも鎖国は徳川幕府が実施した外交。開国も幕府が決定すればよいのですが、尊皇派は「国家の重要案件は天皇の許可を得るべきだ」という論を展開してきました。
パークスの行動にアメリカ、フランス、オランダも追随し、英米仏蘭4ヵ国と幕府との交渉が始まります。幕府寄りであったフランスのロッシュがイギリスの主張に従ったのは、条約勅許は幕府にとって好ましいと考えたからでしょう。物価高騰を防ぐという理由から開港を拒む幕府と、物価高騰は貿易のせいではなく、幕府の物価政策のせいであるとする4ヵ国の主張とは真っ向から対立します。
1865年9月、4ヵ国は連合艦隊を組んで兵庫沖に現れ、威嚇を始めます。当時の将軍は若き徳川家茂、老中は阿部正外(まさとう)と松前崇広(たかひろ)。幕府にとっては、長州征伐どころではなくなったわけです。
朝廷の勅許が出ないことを想定した4ヵ国は「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られねば、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張しました。将軍後見職の一橋慶喜は、「無勅許における条約調印は無効」と主張しましたが、阿部・松前両老中は「もし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉を開始すれば、幕府は崩壊する」とした自説を譲りませんでした。徳川家茂は「外国の要求を受け入れるべし」と考え、阿部、松前は、やむを得ず無勅許で開港を承認します。ここで慶喜は「4ヵ国と戦争になれば敗北する。朝廷にも影響を与える」と判断し、譲歩します。
しかし慶喜は朝廷の意見として、阿部・松前両老中の官位を剥奪。追い詰められた将軍家茂は、両名を老中から外します。このように朝廷が幕府の人事に容易に介入できるようになったこと自体が、幕府の権力の低下を物語っています。
さて、兵庫・大坂などの開港と関税率の引き下げですが、最終的には攘夷主義者である孝明天皇の判断に委ねられます。天皇は兵庫の開港は不可とし、その代わり条約勅許を認め、関税率の改定を事務的に行うよう指示します。外交を好まない孝明天皇が関税率改定の決定権を握っていたことは、すでに幕府の経済政策が機能していないことを証明しています。
税率改定の交渉は1866年に江戸で行われました。安政の通商条約では輸入税5~35%、輸出税はすべて5%でした。イギリス本国がパークスに指示したのは、「このいずれをも15%にさせよ」というものでした。大減率です。この申し出を孝明天皇が承諾したのです。外交を拒んだ孝明天皇が貿易に詳しいはずもなく、また朝廷に口出しできる者がもはや存在していなかったことが幕府崩壊の要因だったのかもしれません。
税率改定の交渉の中身は、安政の通商条約では「従価税」であったものを、一律15%の「従量税」に変更せよというものです。「従価税」は価格の変動によって税額も変わる課税方式で、従価税は価格が上昇するほど税収が増え、価格が下落するほど税収が減ることになるので、インフレに対応できるのが利点です。現在の日本の物品税、消費税、輸入関税の大部分がこれです。「従量税」は平均価格を定めて量(重量、長さ、面積、個数など)にかけるものです。この場合、輸入品価格の高低は関税率に影響しないので、外国にとって有利な方式です。またインフレなどによる急激な価格変動には即応できず、負担の不均衡を招く点が短所です。
1866年に家茂が病死し、将軍職に就いた慶喜は積極的に朝廷に働きかけ、兵庫開港の勅許を得ます。幕府が頑なに拒否してきた兵庫開港は、ほかならぬ将軍の努力によって成し遂げられたのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 63 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(12)
1862年、小栗上野介は勘定奉行を命ぜられます。「強力な海軍を創設すべし」という上野介の主張が採用されたのです。かといって上野介は鎖国攘夷派ではなく、当時の幕臣の中では珍しく開国論者でした。アメリカの文明のすぐれた点を説き、軍備や商業、工業においては外国を模範として日本を改革しなければいけないという考え方を持っていたのです。
当時、世界最強の海軍はイギリス海軍でした。イギリス海軍と薩摩藩が戦った薩英戦争(1863年)によって、イギリスの強さを肌で知った薩摩藩、長州藩が、かえってイギリスと親密になっていったのとは反対に、幕府はイギリスに警戒心を深めていきました。アメリカは友好国でしたが、南北戦争の最中。オランダは友好的な国ですが、かつての実力はなく、ロシアはイギリスと争ってアジア侵略を進めている最中で、最も警戒しなければいけない大国でした。上野介が積極的に外交を進めたのはフランスでした。
1864年、ロッシュがフランス公使として日本にやってきます。ロッシュはイギリス外交官オールコックと同い年。ロッシュの就任はフランスが対日政策を重要視しはじめたことの証明です。彼はイギリスを出し抜くためにオールコックに隠れ、幕府に近づいていきます。攘夷問題で苦慮している幕府に対して、「仲介役になろう」と働きかけます。やがてライバルのオールコックがイギリスへ帰国することになり、ロッシュは堂々と幕府に食い込んでいきます。
当時の幕府の交渉役は、外国奉行・栗本鋤雲(じょうん)と勘定奉行の上野介です。栗本鋤雲はロッシュの通訳と親しかったことからフランスとのパイプ役として外国奉行に命じられ、上野介とも親交を深めました。上野介もフランスとの外交に力を注いでいきます。
上野介と栗本鋤雲は幕府にフランスの資本と技術を導入して横須賀に製鉄所を造り、フランス式陸軍を導入し、内閣制を敷き、徳川絶対主義体制をつくろうと働きかけます。これを背後で指導したのが駐日フランス公使レオン・ロッシュという図式です。同年12月、上野介は軍艦奉行に就任し、フランスの援助のもと、横須賀製鉄所の建設と幕府の軍制改革に着手し、ロッシュは軍事顧問団の派遣を実施します。幕府は横須賀製鉄所の建設を正式にロッシュに依頼し、ロッシュは母国から海軍造船官ヴェルニーを招きます。
一方のイギリスは1865年、オールコックの後任として、上海領事のハリー・パークスを送り込みます。フランスとの敵対関係から、薩長と親しくする一方で、幕府に対しては通商条約上に規定された兵庫などの開港を強硬に求めるなど、巧みな外交手腕を発揮します。
パークスは着任に際し、日本の国内事情を下調べし、有能な通訳であったアーネスト・サトウの助言により、今後の対日政策をおおよそ次のように結論づけたとされています。
「日本においては幕府の他にミカド(天皇)という大きな権威が存在し、いくつかの有力大名(薩摩藩・長州藩)はこれを支持して幕府を廃し、合議政体を作ろうと画策している。幕府の統治能力はすでに失われつつあり、これからはミカドを担ぐ反幕勢力の結集を後押しして、倒幕を計り、国際的信任のおける新政府のもとで外交を行い、イギリスの対日交易の安全伸張を期するべきだ」
やがてパークスは、武器商人のグラバーを介して薩摩藩主島津久光に接近します。武器購入でグラバーに多額の債務を抱えていた薩摩藩は、その武器で幕府を倒すという目標を掲げ、薩長連合を成立させ、パークスはこれを支援したのです。主な貿易国であるイギリスに見限られた幕府の頼みは、ロッシュ一人に絞られ、ますます親仏路線が強化されます。こうして倒幕派パークス、幕府派ロッシュの間で熾烈な外交戦争が繰り広げられたのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 62 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(11)
初代駐日外交代表オールコットは1860年末、英国公使館を横浜に移転します。これを知った幕府は困惑。一方、アメリカ初代総領事のハリスは、自身が不在の談合で決定した、列国公使館の横浜移転に反対し、オールコットあてに手紙を書きました。手紙の中でハリスは、自分は江戸での居住に何ら不安を感じていないこと、第二にヒュースケンの死は夜間外出が危険であることを幕府が繰り返し警告しているのに、これを無視したためであることを綴り、フランス公使やオランダ公使らに了解を求めたのです。在外代表部が、その首都にいないというのはどう考えても異常な事態ですから、各国は結局ハリスに同調しました。こうしてオールコックもしぶしぶ納得し、1861年1月には英国領事館自身も江戸に復帰する羽目になります。
幕府に対するオールコックの姿勢が大きく変わるのは、皮肉にも彼に対する攘夷浪士による襲撃がきっかけでした。英国公使館のおかれていた高輪の東禅寺が、水戸浪士17名によって襲撃されたのです。200人近い武士が警備していたといわれています。討ち入った浪士のうち数人がその場で殺され、重傷を負った者は捕らえられました。英国人では、第一書記官のオリファントと、たまたま来訪していた長崎領事のモリソンが負傷しました。
それまでオールコックは、幕府の行っている厳重な警備は、外国人を監視することを兼ねた嫌がらせくらいに考えていたようですが、目の当たりに浪士の襲撃の見て考えが一変しました。安易な開港場・開市場の拡大は、イギリスが条約を締結している相手政府を崩壊させるという悲劇の元となりかねないことをはじめて理解したのです。列強としての利権を確保するために、オリファント、モリソンに対する賠償金ということで、オールコックは、ヒュースケン事件の先例に倣い、1万ドルずつ、計2万ドルを幕府からゆすり取っています。
一方、ライバルの米国公使ハリスは、かねてから健康上の理由から辞任を希望していましたが、この時期、ようやくその許可がおりました。1862年春3月、ハリスは日本を去ります。ハリスは軍艦の支援も受けず、単身で日本を開国させるという偉業を成し遂げたのですから、本来なら、リンカーンから英雄として迎えられても良かったでしょう。しかし、実際にはほとんど相手にされず、その後、不遇のうちに没することになります。
その原因は、ハリスの行動に常に不明朗さがつきまとっていたことが挙げられます。金銀比価の違いから小判の大量流出が起きた時、そうした不正行為を取り締まる立場にいた彼自身が先頭に立って、小判の貯め込みをやっていたからです。また、横浜の米国商人の保護もほとんどしなかったので、在日米人の間から彼の罷免要求が出ていたともいわれています。彼の帰国は、そうした不明朗さを糾弾されての罷免という要素が強かったので、とても凱旋将軍というわけには行かなかったのです。
ハリスの後任はプリュインです。幕末史に名を刻んでいない理由は、彼を通じて幕府がアメリカから軍艦を買おうとした時、民間企業との間に入って利鞘を取ろうとしたものですから、幕府が距離を置いたからです。
オールコットはその後、幕府の内乱の危機を回避するためには開港・開市の延期が必要であることを悟ります。しかし、1863年の薩英戦争を契機にイギリスは幕府支持から薩摩藩に急速に接近していきます。薩摩藩は、外国船をいたずらに攻撃したり、異人斬りなどの「小攘夷」の愚を知り、開国による富国強兵を行い、外国に劣らない武力を備える必要性を悟ったのです。また、オールコットの後任公使パークスは、幕府にかわって薩摩などの雄藩が連合政権を作ることを期待し、薩摩藩や長州藩を密かに支援するようになります。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 61 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(10)
今週と来週のコラムは幕末の外交、特に外国公使との折衝と駐在外国人同士の主導権争いに着目してみます。幕府の官僚の弱点は長い鎖国による“外交オンチ”に尽きます。その象徴的な事件が「ヒュースケン殺害」です。駐在アメリカ総領事館の通訳兼ハリスの秘書を担っていたヒュースケンが1861年、攘夷派の薩摩藩士に襲撃され、殺害されました。ヒュースケンを暗殺すれば、幕府と列強の関係がまずくなり、幕府が窮地に立つだろうということを狙って行ったものです。
アメリカ本国は幕府からヒュースケン暗殺に対する誠意ある回答を引き出すようハリスに指示しました。ハリスはそれを「幕府から賠償金を取り立てるように」という意味の指示と考え、その後数ヶ月かけて幕府と交渉します。ハリス自身は「幕府は十分警護をしていた。しかし本人が不用心に出歩くということを繰り返したことから起きたのは明らか。だから幕府として責任を負うべき筋合いのものとは思えない」と語り、「ヒュースケンの死は彼の自業自得であり、幕府に責任はない」と各国公使宛に公言していましたが、最終的に本国のミッションに従ったということです。
ハリスに借りがあると感じていた老中・安藤信正は、この交渉に結局応ずることにし、ヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払うことを承諾。関税収入の洋銀を弔慰金に充てて交付したようです。以降幕府は、辻番所に外国人保護を訴える標識を立て、外国御用出役を新設するなど外国人警護に務めるようになります。
この事件は外交史から見れば、大きな分岐点になりました。これにより幕府は外国人の襲撃事件で賠償金を支払うという前例を作ってしまったからです。以後、襲撃事件が起こる度に、列強から賠償金をゆすり取られるようになります。そのピークが「下関砲台砲撃事件」(1864年)で、幕府はその莫大な償金に苦労し、債務の大半を支払いきれずにいる間に滅亡し、明治政府に引き継いでしまうことになります。
ヒュースケン事件以前にも外国人襲撃事件が頻発しており、当初その犯人が誰なのかわからないという状況が続いたので、駐在外国人は、幕府による政治的暗殺ではないかと疑心暗鬼になっていました。そんな折にヒュースケン事件が起こったことから、外国人はが過剰反応を示しました。幕府は、外国人に害意のないことを示すポーズとして、急ぎプロイセンとの話し合いをまとめ、事件の10日後にプロイセンとの通商条約に調印しています。
一方、幕府が新潟開港を実施しようとしないのに腹を立てていた英国公使オールコックは、この機を捉えて英国公使館にフランス及びオランダの代表を集め、数時間にわたって談合したようです。ヒュースケン事件を口実にしながら、その直接当事者である米国の代表をわざと呼ばずに会議を開いたのです。米国に取って代わって、対幕交渉の主導権を持とうとするオールコットの野心が手に取るように見えてきます。
オールコットは、幕府には外国人を保護する能力も誠意もないので、一時横浜に引き上げ、海兵隊の力を借りて自衛の道を講じようと決定しました。本来、在外公館は相手国の首府に駐在してこそ、その存在の意義があります。それを首府から一斉に離れるというのですから、幕府に対する揺さぶりは相当なものだったのでしょう。オールコックには複数の目論見がありました。
第一に、ハリスが勝手に約束した、開港・開市延期をもう一度元に戻すための圧力です。日本の開国により最大の利益を上げているのは、先鞭を付けた米国ではなく、英国の商人です。彼らは一日も早い全面開国を待ち望んでいたはずです。第二に、これまでハリスが務めていた在日外交団の幹事役をオールコックが奪い取り、英国の対日影響力を増大しようという狙いです。第三を挙げるなら、横浜の外国人居留地を、中国における外国人租界のように、自らの武力で守る治外法権の地とすることを狙った領土的野心があったのでしょう。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 60 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(9)
1862年、幕府は遣欧使節団を欧州に派遣しました。約半年に渡ってフランス、イギリス、オランダ、プロシア(現ドイツ)、ロシア、ポルトガルの6ヵ国を視察しました。正使は外国奉行兼勘定奉行の竹内保徳、副使は外国奉行兼神奈川奉行の松平康直。副使は当初、水野忠徳の予定でしたが、英国公使オールコックが強く異を唱えたのです。外国奉行・水野忠徳が神奈川奉行の職を兼ねていた頃、ロシア軍艦の士官殺害事件がありました。水野はその責任を問われて、外国奉行と神奈川奉行の職をともに解かれました。
この遣欧使節団の随員には通訳として福沢諭吉が加わっていたほか、松木弘安(後の寺島宗則)も参加していました。そしてこの使節団は、日本側が本当の目的とした通商条約の改正、つまり開港開市の延期に成功したのです。
遣欧使節団は、まず当初パリに行って条約改正交渉に挑みますが、交渉はうまくいかず、次の目的地であるロンドンへ向かいます。しかし英国外務省は現地情報が十分ではないため対応できず、結局使節団はそこでオールコックが英国に帰国するまで1ヶ月も待たされることになります。
オールコックは、帰国すると早速ラッセル外相に日本の状況を詳しく説明し、説得したので、英国政府はオールコックの提案に従い、通商条約の修正を承諾することにしました。遣欧使節団との間で「新潟、兵庫両港の開港及び江戸及び大阪の開市を1863年1月から5年間延期することを認める」という条約(通称ロンドン覚書)を締結。交換条件として、函館、横浜、長崎3港では条約をきちんと遵守すること、外国人を排斥する古法は廃止することなどがついていますが、さしあたり特に問題になるようなものではありませんでした。
日本市場に最大の利害関係を持つ英国が、このように譲歩したのですから、フランス以下の関係国もこれに倣いました。この通称条約修正の成功により、幕府は攘夷の実行問題で一息つくことができるようになったのです。この激動期に5年の猶予は実に大きなものといえます。
こうしてみると、オールコックのような駐日公使たちの働きがいかに重要であったのか見えてきます。日本の開国により最大の利益を上げているのは、先鞭をつけた米国ではなく、英国の商人です。彼らは一日も早い全面開国を待ち望んでいたわけです。そしてこれまでハリスが務めていた在日外交団の幹事役をオールコックが奪い取り、英国の対日影響力を増大しようと目論んでいたことが想像できます。
遣欧使節団派遣のちょうど1年前、1861年に「ロシア艦対馬占拠事件」が起こっています。ロシアの戦艦ポサドニックがいきなり対馬に来航し、土地租借などを要求して島の一部を占領するという前代未聞の事件でした。対馬藩ではとても手に負えず、新任の外国奉行である小栗上野介が交渉の任に当たりました。上野介はビリレフ艦長と面談するものの交渉は難航し、最終的にはイギリス公使オーツコックの介入により解決をみたわけです。小栗はこの件の責任をとって外国奉行を辞任します。
ここで影響力を誇示したのがオールコックでした。彼は指揮下の軍艦オーディン号を対馬に派遣してロシア艦を威圧し、ロシア艦を退去させたといわれています。一説には対馬藩主がオールコックを通じて英国の東インドシナ艦隊司令官ホープと交渉し、ホープ司令官が英国艦隊2隻を対馬に派遣したというものもあり、定かではありません。しかし、日本が列強のパワーバランスの渦に巻き込まれていたことは事実です。
クリミア戦争に敗れたロシアが、西への進出を諦めて、東に矛先を向けていることは明らかでした。この極東におけるロシアの脅威に対し、オールコックとしては早急に何らかの手を打つ必要があったのです。幕府は単純にオールコックがロシアを追い払ってくれたと考えたものですから、これにより、オールコックと幕閣の間に一定の信頼関係が生まれたことは確かです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 59 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(8)
1862年に行われた「文久の改革」の中身を説明する前に、当時の諸藩の基本となる考え方を政治思想面から分類しておきます。諸藩には次の二つの派閥があったと考えるとわかりやすいでしょう。ひとつは薩摩藩に代表される公武合体派、もうひとつは長州藩に代表される尊皇攘夷派です。
開国を主張した薩摩藩と、外国人を排除して平和を保つ攘夷を訴えた長州藩は相容れない方向性ですが、この二つの流れが後に「討幕」に向かって手を結ぶことになるのです。
ここに公武合体派の急先鋒、薩摩藩藩主の父、島津久光が登場します。外様大名の父で、薩摩藩の実質的リーダーとはいえ、幕府には何の影響力も持たない人物です。現在でいえば知事の父といった位置でしょうか。
その久光が公武合体の立場から幕政改革の必要性を朝廷に説明し、同意を得ます。天皇の使いである勅使を江戸に派遣してもらい、それを警備するという名目で自身も兵を率いて江戸へ入り、幕政改革を迫ったことが「文久の改革」の発端です。久光は幕府と交渉し、徳川慶喜の将軍後見識、越前藩前藩主・松平慶永の政事総裁職就任を実現させます。
久光が朝廷の意向を踏まえて行動したとはいえ、これまで政治的な実権を持っていなかった朝廷の圧力によって改革を余儀なくされたことは、幕府の政治力が弱まっていることを証明しています。
改革で実行されたのは人事ばかりでなく、制度も改められました。それまで隔年交代制であった大名の参勤交代を3年に一度に変更、江戸在留期間も100日に改めました。また人質として江戸に置かれていた大名の妻子は帰国を許可されました。国政が混乱している最中なので、外交・貿易面での特筆すべき改革は見当たりませんが、軍事面では西洋式兵制(三兵戦術)の導入、石高に応じて旗本から農兵や金を徴収する「兵賦令」の発布などが挙げられます。
着目すべき点は参勤交代の期間を変更したことでしょう。地方の外様大名にとって参勤交代にかかるコストは莫大です。地方財政が困窮している際に大勢の家来を連れて江戸を往復するくらいなら、地方自治に資金を使いたいと考えるのが外様大名の本音でしょう。
さて、時間は1年前にさかのぼります。1861年、まだ安藤信正が老中として実権を握っていた頃の幕府は、遣欧使節の派遣を決定しています。これは英国の初代駐日大使オールコックの進言が採用されたものです。ちょうどロンドンで1862年5月から国際大博覧会(ロンドン万博)が開催されることになっていました。それにあわせて日本代表がイギリスに行けば、欧州の文明を一度に見ることができます。またそこで日本の優れた工芸品を展示することにすれば、日本からの輸出促進にもつながるとオールコックは考えたわけです。
一方、幕府がオールコックの進言を採用したのは、輸出促進ではなく、1858年の通商条約により、幕府は1863年より江戸と大坂の開市、兵庫と新潟の開港を約束しましたが、その開市開港の5年間の延長を懇願することと、和宮降嫁を実現する際に、10年以内に再び鎖国体制に戻すということを朝廷に公約したので、そのための了解を遣欧使節の派遣によって本国政府から取り付けようというわけです。
1861年(文久元年)12月22日、遣欧使節団は出発しました。幕府内部には、この時期の出発をいたずらに攘夷論者を刺激するものとして難色を示すものがありました。しかし安藤信正はこれを断行しました。この決断が、この翌年早々に起きる「坂下門外の変」の原因のひとつとなります。
一行は、正使、副使、観察使の3名に、通訳その他36名の部下を従えて英国軍艦オーディン号で出発しました。遣米使節団は総勢80名でしたから、それに比べると半分以下の規模です。これは幕府財政が苦しい折から、渡航費用を全面的に招待者側に依存したので、英国政府から人数の削減を求められたためです。招待費用を中心となって負担をしたのは英国ですが、そのほか、フランス、オランダ、ロシアなど、幕府と条約を締結していた国が分担しました。したがって、使節はこれらすべての国を歴訪することになったわけです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 58 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(7)
安藤信正が老中を務めた1860~1862年は、小栗上野介が歴史の表舞台に登場した時期と重なります。1860年に上野介は外国奉行に抜擢されます。しかし、上野介はアメリカ公使通訳ヒュースケン殺害事件の後始末に加え、ロシア艦隊の対馬国不法占拠に対する交渉役を務めるなど難題を抱えることになります。
時代は大きな転機にさしかかっていました。そして当時の幕府の人事は、門閥や年功序列によって行われていた結果、前線指揮官であるべき地位に老人が多く、世代交代が求められていました。安藤が老中在職中の文久元(1861)年、まず御旗奉行、槍奉行、持ち頭及び先手という軍事上の重職に「極老の者」、つまり老人を任命しないことが決まります。これは軍事面の改革の第一弾で、続いて積極的な軍制改革が行われました。幕府の軍事面での中核組織として、「海陸御備え並びに軍制取調御用」という委員会を発足させ、軍制改革構想を検討させたのです。この委員会に、勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行及び大小目付という実力派を委員としたという点は「国益主法掛」と共通しています。この委員会に上野介と勝海舟という、後世に名を残す実力者が参加します。
この軍制改革案は、軍制を完全に洋式のものに切り替えるという壮大かつ抜本的なものでした。陸軍については、歩兵、騎兵、砲兵の三兵計1万3625人の常備軍を設立しようと計画します。海軍については、江戸及び大阪防衛のため2艦隊(艦船43隻、乗組員4904人)を作り、将来的には日本の沿岸全体を防衛するため、6艦隊(艦船370隻、乗組員6万1205人)を編成しようというものです。財政的にどこまで可能かはともかく、艦隊ごとに艦種を想定し、各艦ごとの水兵の端数までも計算するという点で、精密な立案でもあったようです。
しかし、「桜田門下の変」で安藤が失脚したので、安藤はその具体的な実施にまで着手する時間的余裕がありませんでした。安藤失脚後の1962年6月に初の勘定奉行勝手方に命じられた上野介が、後に横須賀製鉄所の建設に着手することになるわけです。
安藤失脚後に政権を担当したのは、一橋慶喜(将軍後見職)と松平慶永(政事総裁職)です。政事総裁職とは、幕末に新設された将軍後見職、京都守護職と並ぶ三要職のひとつです。
このように新たな役職が誕生した背景には紆余曲折があります。1862年に朝廷と薩摩藩は、越前福井藩主松平慶永を大老職に、一橋慶喜を将軍後見職に就任するよう求めました。将軍後見職とは、若年の将軍徳川家茂を補佐する役です。徳川家茂は御三家のひとつ紀州藩藩主。一方の一橋慶喜は水戸藩主の七男で、同じく御三家のひとつ一橋家を相続し、早くから将軍になることを待望されていました。
かつて14代将軍の後継者問題が浮上した際に、紀州徳川家の家茂を推す南紀派と慶喜を推す一橋派が対立し、南紀派の井伊直弼が大老に就任後、井伊の断行で家茂が14代将軍に決定したという因縁があります。井伊が反対派を強硬に処罰した「安政の大獄」で一橋派の多くの者が登城停止、謹慎処分を受けたので慶喜と松平が要職に就いたのは「一橋派の復讐」という面もあったのでしょう。朝廷や一橋派と争いを避けたい幕府は、新たに役職を新設せざるを得なくなり、こうして一橋慶喜と松平慶永による「文久の幕政改革」が進められたのです。
松平は当初攘夷派でしたが、後に積極開国論に転じ、開明派の藩主として知られた人物です。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推し、井伊直弼政権下の「安政の大獄」で謹慎処分を受けていたので、松平は政権が変わったことで復活を果たしたわけです。彼は公武合体派として幕府と朝廷の間の調整役を務めます。
では、続いて「文久の改革」の中身を見てみましょう。最も重要なことは、それまで国政を全面委任されていた幕府に対し、朝廷から改革が指示され、その大部分を受け入れざるを得なくなった点にあります。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 57 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(6)
万延元年(1860年)、国内の全市場を支配するための中核機構「国益会所」プランは勘定方の下で順調に発展しました。牽引したのは、老中の安藤信正と久世広周(ひろちか)です。2人が推進した政策論は公武合体です。つまり、公家(朝廷)の伝統的権威と武家(幕府)を結びつけて幕府権力の再強化を図ろうというものです。
幕府は1861年には、孝明天皇の妹の和宮を14代将軍家茂夫人として婚姻関係を結ぶことに成功します。孝明天皇はもともと鎖国を主張していた人物で、井伊直弼が独断で諸外国と通商条約を結んだことを不満に思っていました。外国人排除を唱える攘夷論を貫き、西洋医学の禁止を命じるなど保守的な考え方を示しました。その攘夷論者の孝明天皇と徳川家が親戚となることで、老中の安藤と久世は公武合体を推進したわけです。
皇妹和宮の降嫁による幕府の支出は莫大であったと想像できます。しかし、幕府は井伊政権時にこじれきった朝廷との関係を修復するため、金に糸目を付けない歓迎をしなければいけませんでした。この婚礼行列は総勢6000人という規模に膨れ上がり、これが中山道の全行程を旅したわけですから、旅費・飲食代だけでも莫大なものになります。
しかも勤王の志士による和宮奪回計画の噂があがり、幕府は沿道警備に計29藩の藩士を動員したといわれています。それに要した費用をすべて財政の疲弊している各藩に負担させるわけにはいかず、幕府が何らかの形で資金を諸藩に提供したのでしょう。火の車であった幕府の財政は、さらに圧迫されたはずです。
さて、老中の安藤信正と久世広周が主導した「国益会所」ですが、12月には会所頭取が任命され、翌文久2年2月に国益会所が正式に発足しました。5月からは実際の事務を取り始めたのです。しかし、7月になって会所そのものが廃止されます。その理由は、この構想の推進役であった安藤信正が「坂下門外の変」を機に失脚し、久世広周も公武合体の失敗を理由に罷免させられたからです。政権は一橋慶喜(将軍後見職)、松平慶永(政事総裁職)に交替していきます。
「坂下門外の変」とは、文久2年(1862年)1月15日、江戸城坂下門外で、老中安藤信正が、幕政改革を目指す水戸の尊皇攘夷派浪士ら6名に襲撃された事件です。井伊直弼から続く開国路線が尊攘派の反発を呼び、さらに安藤が推進した、朝幕関係の改善を目指す公武合体路線の具体策である皇妹和宮降嫁が、尊攘派の怒りを買っていたのです。水戸浪士の意図は討幕ではなく幕政改革で、安藤の命にも別状はありませんでしたが、幕府の要人が再度白昼に襲撃され、幕府の権威をさらに傷つけることになったため、安藤は同年4月に老中を罷免されます。
ところで水戸藩といえば徳川御三家のひとつ。幕府に近い藩がどうして尊皇攘夷の思想を抱いていたのかといえば、水戸藩・徳川光圀が開いた「水戸学」に天皇を尊ぶ尊王思想が記されており、水戸藩はこれに強く影響を受けていたからです。
安藤と久世の失脚後に政権を担当したのは、水戸徳川家出身で、同じく御三家の一橋家を継いだ一橋慶喜(将軍後見職)と、松平慶永(政事総裁職)です。2人はすでに実施に入っていた「国益会所」による全国的流通の把握をめざす政策を廃棄します。2人が実施した「文久の幕政改革」のうち、経済上の政策である全国市場の幕府による独占的支配という構想は大きく後退し、軍政改革に重点がおかれるようになります。
商業を全面的に国家がコントロールしようという考え方は、かつてのロシアや東欧圏諸国が押し進め、失敗に終わっています。しかし当時の日本では諸藩が財政危機を乗り切るために同様の施策を展開し、成功を収めていました。社会主義国の発想ですが、仮に流通の中央支配が成功していれば、幕府には莫大な利潤が確保できたことでしょう。安藤信正の失脚により、幕府は惜しまれるチャンスを逃したのかもしれません。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 56 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(5)
万延元年に入ると、貿易は本格化してきます。同年の輸出総額は471万1千ドル(前年は89万ドル)、輸入総額は165万9千ドル(前年は60万ドル)に達しました。これらの貿易により正確にいくらの関税収入があったのかはわかっていません。仮にすべての輸出入品が一律5パーセントの関税率とすれば、新通貨で120万両以上の関税収入があったはずです。
安藤信正が「五品江戸回送令」を利用して輸出量の削減を計った翌文久元(1861)に若干輸出量が減少したことを除いては、この後明治維新までの間、輸出は毎年著しい伸びを示し続けます。また、輸入は例外なく毎年伸びています。万延元年以降、幕府の崩壊までの間、改鋳差益と並んで、関税収入は幕府の重大な財政基盤となっていくことになります。
老中・安藤信正政権で行った万延改鋳は、当初水野忠徳が建議した抜本策ではなく、金貨の流出防止だけを念頭に置いた策でした。したがって、物価の暴騰や輸出過多など、貿易から生まれた問題に対しては、別途対策を立てる必要が生じました。生活必需品が海外に流出することによる品薄と改鋳がインフレの原因であるなら、輸出制限という政策(保護貿易)が必須ですが、貿易による関税収入はすでにこの時期の幕府財政において無視できないほどに巨大なものになっていました。そうすると取るべき経済政策は、貿易量を適当に維持しつつ、同時により一層の増収をもたらし、幕府の財政再建に結びつくものでなければいけません。
万延元(1860年)年4月、国民の困窮を救済し、国益を増す目的を掲げて設立されたのが、経済政策の中核機関である「国益主法掛(こくえきしゅほうがかり)」とよばれる組織です。これは、町奉行、勘定奉行という従来からの経済官僚に加えて、大目付及び目付を加えて設立された行政委員会で、政策立案ばかりでなく、その実施作業にも当たる強力な組織です。遣米使節団の一員として渡米した小栗上野介は帰国後、すぐに勘定奉行に就任していますから、上野介もこの組織に参加したのでしょう。
もともと幕府は、沿海の港に代官支配の通船改所や産物会所を置いて、全国の市場と対外貿易を支配統制しょうと計画していました。外国との貿易利益を幕府が一手に収めることにより、国内経済を統制すると共に、幕府財政を立て直そうという意図があったのです。
国益主法掛は、そのために物資の把握を試みました。国益主法掛の打ち出した様々な政策の中でも最も重要なものが「国益会所」の設立です。国益会所とは、国内の全市場を支配するための中心機関のことです。これを通じてすべての輸出入品を幕府の支配下におくことができれば、幕府は開国による利潤を独占することができるわけです。それは同時に国内の流通を統制することを意味しますから、狂乱物価を抑制するなど、経済混乱の防止にもつながります。
この国益会所への諸国の産物の買い集め方式をめぐって、国益主法掛の中心を構成する勘定方と目付たちとの間に、深刻な理論対立が生じたとされています。前者の代表は、小栗上野介です。目付たちが「すべての商人を管轄して、一挙に利権を官に帰せん」と主張したのに対して、経済通の勘定方は「最初から官吏がやろうとすると失敗するから、まず商人にやらせて路線を確立した上で、徐々に官に権限を移行しよう」と反対しました。
この対立は、現代にも通じるところがあります。法律をつくって国民を一律に管理するのか、あるいは最初に国が推進し、やがて民間に委ねていくのか。その反対に、民間に託して自由にやらせ、方向性が決まったら国営にして運営するというのもひとつの手です。
さて、目付方と勘定方の対立ですが、やがて勘定方が主導権を握ることになり、国益会所のプランは順調に発展しました。そのプランは最終的には全国の産物を江戸及び大阪に設ける「会所」によって総括しようという壮大なものでした。さしあたって江戸に会所を設立し、諸藩の物産と関八州、甲信及び伊豆の産物を、豪商を手先にして買い集めようとしたのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 55 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(4)
小栗上野介が遣米使節団の監査として渡米した万延元年(1860年)、安藤信正が老中に就任します。急増する輸出需要に生産供給が追いつかず、物価高騰を招いたことを抑止すべく、安藤は開港と自由貿易に対して妨害的とさえいえる行動を様々な場面で見せるようになります。しかし「五品江戸回送令」によって発生した貿易量の落ち込みはそう多くではありませんでした。そしてもうひとつの大きな問題「金貨の流出」に歯止めをかけることもできませんでした。
経済の混乱状態を打開するには、井伊直弼が処分を行ったエリート官僚たち、たとえば岩瀬忠震や水野忠徳を再起用して対応させれば良さそうなものですが、安藤にはそういう戦略はなかったようです。
開港に伴って物価が高騰した理由は、通商条約が採用している為替レートが実勢に見合っていないために、外国から見て日本製品に割安感があったからです。従ってレートを改訂すれば輸出量は阻止でき、国内に商品は行き渡り、物価高騰を鎮めることができるわけです。
当時は実質的に銀本位制でしたから、基本レートは銀貨が決済単位でした。銀貨を改鋳して、より高品位にすればやっかいな対外交渉などしなくとも、自動的に為替レートの改訂ができます。例えば「銀1分=1ドル」というペリーの時点のレートに戻せば、外から見た日本の物価は一気に3倍以上に跳ね上がることになりますから、激しい輸出はいやでも止まるはずです。
さらに金貨が流出する理由を説明すれば、銀貨をベースとする為替レートに基づく小判の価値に比べて、海外の金の取引価格が高すぎるからです。そこで、日本の銀貨の対外価値を高めれば、自動的に小判の対外価格も高くなり、金の流出はやはり止まるはずです。仮に上記のように、銀1分=1ドルとすれば、自動的に小判は4ドルという計算になりますから、海外よりも金が高くなり、うまくいけば流出した金が戻って来るくらいになるはずです。つまり、物価の高騰も金貨の流出も、銀貨の高品位化というひとつの政策で解決可能ということになります。
そもそも、こうした問題が起こった原因は、この時期の一分銀が幕府通貨史の中でも際立って粗悪な通貨だったことにあります。劣悪な一分銀が安政元年(1854年)まで鋳造・発行され続けており、最終的な発行量は総計で4520万0589両、1億8080万枚になります。さらにそれより粗悪な安政一分銀も井伊直弼によって発行されていました。
閑職に追い込まれていた水野忠徳は、南鐐(質の良い銀)貨幣を復活し、これを為替レートを決定する際の基本通貨とすればよいと考えました。南鐐二朱銀はその重量から計算すると43セント程度に相当し、南鐐は二朱ですから1両はその8倍、したがって3ドル43セント程度になります。つまりこれが基本レートになれば、日本通貨はそれまでよりも約2.3倍強くなり、輸出にも歯止めがかかるし、金の流出も止まるということになります。
しかし、水野のプランは、アメリカ外交官のハリスの強硬なクレームを受けて実施には至りませんでした。ハリスはその改革が実行されると、日本との貿易で利益が少なくなることをすぐに理解したのです。しかし、為替レートの変更を外国との交渉ではなく、国内における改鋳という処理だけで行いうる点では、水野のアイディアはとても優れていたといえるでしょう。
改鋳による為替レートの変更を諦めた水野は、改めて次の策を建議します。それは金の流出だけでも食い止めようという方策でした。小判が国内的には一分銀の4倍の価値しかないのに、それに含まれる金の量が国際水準から見て高すぎることが流出原因でした。したがって、国際水準から見て一分銀の4倍程度しか金を含んでいない小判を発行すれば、いやでも金の流出は止まると推測したのです。こうして発行されたのが、かの有名な万延小判です。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 54 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(3)
幕末の貿易は、函館、横浜、長崎の3港の開港とともに生糸などの輸出品を中心に活性化します。さらに中国・清朝末期の大反乱「太平天国の乱」(1851~1864年)にイギリス・フランスの介入が本格化し、本来ならば需要がないはずの雑穀や蝋などの軍需品の輸出増加も始まりました。こうした急増する輸出需要に対し、生産供給が追いつかず、全般的に物価が高騰するなど、日本経済に大きな混乱が生じていました。最も大きな被害をこうむったのは、江戸の問屋です。
井伊直弼の補佐をしていた老中の安藤信正は、井伊直弼が「桜田門の変」で暗殺された際にそばにいた人物で、井伊暗殺後、最高権力者となります。独裁政権を進め、経済対策面では無策であった井伊とは異なり、安藤は経済の混乱に対応するために「五品(ごひん)江戸廻送令」として知られる命令を発します。これは「雑穀、水油、蝋(ろう)、呉服、糸など五つの商品を江戸経由で流通せよ」という政策です。水油とは灯油、つまり行灯(あんどん)に使う菜種油で、糸とは生糸の意味です。
要するに「多くの商品が横浜に集まってしまった結果、江戸が品薄になって庶民が困っているので、特に生活必需品である五品について当分の間は、いったんは江戸に回しなさい」という政策です。確かに雑穀から呉服までの4品については日用品で、これらが品薄になれば庶民の生活に響くだろうということは想像できます。しかし、同時にこのような幕末の日本人の日常に密着した商品が、この時代に欧州やアメリカまで運ぶ貿易の対象になったとは思えません。灯油や雑穀は欧州やアメリカのほうが豊富で、また外国人は呉服を着用しません。したがって、開港のために江戸の庶民の必需品が不足したというのは疑ってかかったほうがよいでしょう。
着目すべき品目は、生糸だけです。江戸に住む一般庶民が、生糸から自分の衣類を生産したとか、江戸市中に機織り工場があったわけではありません。また、普通の庶民は絹織物を日常に着ていたわけでもありません。つまり、生糸が江戸に流通しなくなったからといって庶民が困ったという事実はないのです。この「五品江戸回送令」の本当の狙いは、生糸に関する利益にあったということです。
では、このような法令をわざわざ出すことで、安藤信正は何を狙ったのでしょうか? 名目は「物価高騰の抑制」ですが、従来の通説では「開港場に地方商人が直接輸出品を売り込むようになったので、それまで独占的に商品を扱っていた江戸の特権商人が打撃を受けたことから、幕府を動かして出させた」と記されています。仮にそうであるならば、「五品江戸回送令」は輸出抑制策でも物価対策でもなく、単に江戸商人の利潤確保策です。
たとえば「幕臣が彼らからワイロを受け取ったから」と想像するのは、うがった見方でしょうか。井伊直弼時代の幕府財政は、金銀の改鋳益に頼る以外、何ら具体的な歳入増加策はなく、「火の車」であったと想像できます。そこで幕府、つまり江戸の財政拡大のための起死回生の策が「五品江戸回送令」だったのでしょう。青写真を描いたのは、井伊直弼だったのかもしれません。江戸商人たちは、多額の上納金を行うことで、この法令を井伊直弼、あるいは安藤信正から引き出すことに成功したのでしょう。
列強各国が「条約に規定する自由貿易を妨げる」と反発したのは当然のことです。一方、「五品江戸回送令」に従い、在郷商人の荷物は、建前上いったんは江戸に回されますが、実際には単に問屋の送り状を受けただけでそのまま横浜に送られることになりました。江戸商人は、送り状の発行に当たってマージンが確保できれば満足で、生糸の現物を必要としていたわけではないからです。したがってこの時点での「五品江戸回送令」は、貿易そのものには影響を与える措置ではありませんでした。また、在郷商人は直接、横浜へ配送する者が多く、法令の効果は上がりませんでした。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 53 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(2)
小栗上野介、水野忠徳とともに「幕末の政治家三傑」に挙げられる岩瀬忠震(ただなり)は1858年、当時目付の職でしたが、大老に就任したばかりの井伊直弼の同意を得ぬままポーハタン号へ赴き、独断によりハリスを相手に日米通商条約に調印しました。岩瀬は早くから横浜開港説を唱えるほどの開国実務派で、「日本の中のアメリカ人」と陰口を叩かれていたと言われています。彼が日米通商条約の締結を遮二無二に急いだのは、フランスの養蚕地が蚕の伝染病で全滅したため、世界市場で生糸の相場が高騰し始めていたときでした。つまり、日本にとって貿易の好機が到来していたのです。
岩瀬はずいぶん葛藤したと想像できます。5日後に到着するという英仏艦隊の砲艦外交に屈し、日本をアジア諸国のように英仏の植民地としてしまうのか、あるいはその前にアメリカを相手に戦火を交えるのか、もしくは日米通商条約を締結し、自由貿易を始めるのか――。岩瀬が選んだ選択肢は、結果として日本の近代化を促すために役立ったわけです。調印後に外国奉行に昇進した岩瀬ですが、井伊直弼によって免職させられます。
井伊は生糸の増産、開国と貿易開始の実現に努めてきた海防問題を専門的に扱う部署「海防掛」を解体し、「外国奉行」を新設しました。その第一号が岩瀬です。井伊が「もはや、開国は時の趨勢(すうせい)」といった言葉(ことば)を書き残しているのは事実です。しかし、鎖国を国是としたうえでの限定開国であり、生糸貿易によって一気に富国強兵、殖産興業を実現させようとしたひとつ前の老中堀田正睦や岩瀬、次に紹介する水野忠徳ほどの先見性はなかったようです。
のちに外国奉行を務めた水野忠徳は、岩瀬と同じく阿部正弘によって抜擢された旗本でした。日英和親条約、英・仏各通商条約交渉の全権を担ったほか、岩瀬とともに蘭・露各追加条約に調印し、また神奈川開港地問題、通貨問題など条約締結後の諸問題の解決に能力を発揮した幕府の外務官僚です。
水野の業績として忘れてはならないのが、長崎奉行時代に挑んだ「長崎海軍伝習所」の設立です。これは幕府が海軍士官育成のために設けた教育機関で、幕臣や諸藩士が抜擢され、西洋技術や航海術、蘭学などを学ばせました。第1期には幕臣として勝海舟、薩摩藩の五代友厚がいます。練習艦の咸臨丸(かんりんまる)は、のちに遣米使節団とともにアメリカへ渡たり、その時の艦長が勝海舟であったことは有名です。
英・仏各通商条約交渉の全権を担った優秀な外務官僚であった水野は、1859年には神奈川奉行を兼任します。その年に「ロシア国士官暗殺事件」が横浜で発生し、その処置が業務怠慢と受け取られ、外国奉行と神奈川奉行の職を解かれ、軍艦奉行に左遷。この問題で1860年の遣米使節団に参加できませんでした。岩瀬は将軍の跡継ぎ問題で井伊直弼と意見を異にしたため官位を奪われていたので、やはり使節団には参加できず、そこで新たに使節候補に挙がったのが、新見正興(まさおき)、村垣範正(のりまさ)、そして小栗上野介の3名だったのです。
さて、1859年から函館、横浜、長崎の3港で貿易が開始され、港に居留する外国商人と日本人商人との間で取引が行われるようになります。日本からは主に生糸が輸出されました。この貿易は岩瀬忠震が目論んだとおりでした。
特にフランスの養蚕地が蚕の伝染病で全滅したため生糸は、国内市場よりも貿易市場の方が高値で取引されました。それによって生産地と市場を仲立ちしていた商人は、江戸などの大都市の問屋ではなく、直接開港場へ生産品を卸すようになります。そのため、江戸の問屋商人を中心とする従来の流通機構が徐々にほころびを見せ始めるのです。これは中間マージンを省き、物流をスピードアップさせる近代的なビジネスに通じることですが、幕末の経済は混乱しました。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 52 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(1)
今週から幕末期の主な貿易と外交にスポットを当て、広くは幕府、幕臣、各藩の経済政策を俯瞰してつづっていきます。今日の貿易や外交、経済政策にも通じる点が多く、また幕末の要人たちが考えた方針や政策には先見的な政策も多くあったことにも注目してください。
小栗上野介は幕臣としていろんな役職につきましたが、1860年から約1年間、「外国奉行」という重職を拝命しています。これは1858年、日米修好通商条約が締結された際に設置されたもので、主な仕事は対外交渉などの実務でした。つまり、外交官兼外務大臣といった職務です。
外国奉行として功績をあげた人物の名を挙げるなら、岩瀬忠震(ただなり)、水野忠徳、新見正興、そして小栗上野介の4名でしょう。
岩瀬は、黒船来航という非常事態に直面した当時の老中阿部正弘が挑んだ思い切った人材登用によって1854年、目付に抜擢されます。阿部は東大の前身の蕃書調所を開校したり、大船製造禁止令を解いて船の建造を認めたり、いくつかの改革を実行した政治家です。その阿部に引き上げられた岩瀬は、1855年にはロシアのプチャーチンと交渉して日露親和条約締結に挑み、1858年にはアメリカ合衆国の総領事タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、日米修好通商条約に署名した人物です。直後に初代の外国奉行に命じられ、出世を果たしましたが、井伊直弼の大老就任に反対したため2ヶ月後には作事奉行に左遷、翌年には同奉行を解任され、不遇のまま1861年に44歳の若さで死去しました。
同じ時期に活躍した人物に、下総佐倉藩主の堀田正睦(まさよし)がいます。岩瀬と同様、阿部正弘の推挙を受け、幕府の老中に就いた開国派です。攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、「一国も早く諸外国と通商すべし」と説いたとされていますが、一説には積極的に交易をするつもりはなく、のらりくらりとアメリカ側の要望をかわしたため、ハリスが激怒したとも伝えられています。真相は不明ですが、やがて日米修好通商条約の締結に必要な朝廷の許可を得られず、井伊直弼に大老の職を譲ります。
岩瀬は開国に積極的な幕臣で、幕末の混迷する外交路線を積極的な開国・通商の方向にリードしていった外交官です。幕末の政治家の三傑として「岩瀬忠震、水野忠徳、小栗上野介」を挙げる専門家は少なくありません。1860年に上野介が初の遣米使節団の監査として渡米する頃には、岩瀬はすでに幕臣ではなかったわけですが、上野介が岩瀬から何らかの影響を受けたことは確かです。
アメリカ総領事のハリスが岩瀬を高く評価したのは、外交担当の岩瀬が聡明だったからでしょう。岩瀬はハリスとの最初の交渉の席で下記のように宣言したと伝えられています。
「我々は通商とか貿易といったことについて全く知らない。貴下は通商が我が国にとり莫大な利益があると言明された。よって、我々は貴下を信頼し、条約草案の起稿を一切お任せする。願わくは我が国に利益のある草庵を作り、貴下の言明に偽りのないことを明らかに示していただきたい」
ずる賢いハリスはアメリカの利益になるよう考えながらも、一方で日本の利益になることも条約に盛り込もうと考えたといわれています。
そして1858年6月、ハリスは岩瀬を呼びつけて、こう忠告したとされています。
「英仏艦隊が5日後に到着します。その前に調印すれば、アメリカは貴国と英仏の間でトラブルが生じた場合、斡旋(あっせん)の労を惜しみません。しかし、応じないときには、英仏に先んじ、重大な決断を下さざるを得ないでしょう」
ハリスはこう言って即時調印を迫ったようです。「アメリカは日本と友好的に通商する目的で来ています。しかしイギリスとフランスの方針は日本を植民地化することだ」というニュアンスです。イギリスとフランスがアロー戦争で清国を武力で侵略したことは、岩瀬の耳にも入っていたことでしょう。即時調印しなければいけない、と岩瀬は察したのでしょう。まさに、そのとき歴史が動いたのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 51 激変した世界地図の中の江戸時代 欧米の帝国主義化
幕末に幕府が兵庫(神戸)、新潟などの開港をしぶったのは、輸出による物価高騰で国民の生活が窮乏しているという理由からでした。日本の開港に期待を寄せる欧米諸国と幕府の封建体制とは、本質的に相容れないものでした。1864年にイギリスが、フランス、オランダ、アメリカの4カ国連合艦隊を組んで関門海峡に来襲し、下関を襲撃した意図は、自由貿易を進めようとしない日本への失望感があったと推測できます。
4カ国連合艦隊による下関攻撃の効果は、長州藩の排外方針を全面的に転向させると同時に、イギリスの対日貿易を以前にも増して繁栄に導きました。長州は列強を排斥するのでなく、むしろ力を借りて幕府を倒すことに焦点を定め、イギリスと手を結び、また長州は薩摩藩とも親密になります。薩長連合は反幕府という政策で一致し、幕府を武力で倒す決意を固めます。やがて大政奉還が発表され、日本は明治維新へと展開していきます。日本は欧米式の自由貿易の時代を迎えるのです。
一方、ヨーロッパにおける自由貿易のネットワークは、長くは続きませんでした。日本では明治維新以降にあたる1870年代以降、工業力で英国に対する追い上げを図るドイツは高率の関税を採用し、アメリカは建国以来、厳格な相互主義原則を堅持し、高関税率を維持しました。後発工業国の保護政策の思想的基盤は、自国の未熟な産業を保護することにありました。後発工業国は国内の近代化政策の推進と保護貿易政策を通じて、自国の望ましい比較優位構造が実現し得ると考えたのです。
ドイツは国内市場の独占を国内企業に認め、その利潤をもって外国市場の販路を拡大します。アメリカは羊毛、毛織物、鋼、鋼レールなどに関税を課し、工業生産者に国内市場を与え、利潤の増大、生産の拡張を図ります。ヨーロッパでの不況と農産物価格の低下がきっかけとなって、ロシア、フランスも同様に 19世紀末期には保護主義に転換していきます。
さらにイギリスにおいてもアメリカ、ドイツなどの後進国の急速な経済的台頭により、製品輸出が次第に困難になり、逆に輸入が漸次増加して従来の工業生産者にとっての貿易利益が必ずしも享受されなくなります。またイギリス植民地もそれ自身の工業をもつようになり、イギリス商品の安易な購入を手控えるようになります。このような状況の下で、イギリス本国では帝国特恵関税の設定、保護関税案が提案されますが、当時その案は否決され、辛くも自由貿易は堅持されます。
しかし、アメリカ、ドイツの経済的台頭とともに相対的に経済的地位が低下したイギリスは、アメリカを中心とする保護措置に対して、従来の一方的自由貿易主義を貫くことが困難な状況に陥っていきます。やがて資本の拡大を目指して領土(植民地)の奪い合いが激しくなり、「帝国主義」の思想が生まれ、列強は第一次世界大戦へと進んでいくわけです。
次週からは再び幕末の日本に戻り、小栗上野介はもちろんのこと幕末の要人が外国貿易や外交をどのように考えていたのか、ひいては現代にも応用できる経済政策のあり方をひもといていきます。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 50 激変した世界地図の中の江戸時代 欧州自由貿易主義
日本が幕末を迎えていた頃、ヨーロッパの列強は自由貿易主義に移行します。穀物法廃止に代表される一方的なイギリスの自由貿易主義は、外国が保護貿易措置を執っている限り、そこから得られる貿易利益には限界がありました。一方、この条約の背景には、フランスのイタリア統一戦争介入による英仏関係の悪化を経済面から緩和しようというフランスの政治的意図もあったようです。
このような背景を理解しておくと、幕末にイギリスやフランスがどうして日本に開国を迫り、自由貿易を求めたのか、その理由が見えてきます。そして1864年にフランス、イギリス、オランダ、アメリカの4カ国連合艦隊が関門海峡に来襲し、長州藩が大敗北した「下関砲撃事件」の重要性が理解できます。
長州藩が前年、下関海峡を通過する外国船(フランス船、アメリカ船、オランダ船)を砲撃したことから勃発したこの事件は、当時の列強が関門海峡の封鎖解除を求めたものでした。列強の間では、一国の領海内における無害航行は、すでに国際法上認められる船舶の権利という認識が生まれていました。また、関門海峡の機能が、欧州におけるスエズ運河とよく似ていたことも挙げられます。博多や長崎、瀬戸内海航路を結ぶ運河としての下関海峡は、列強にとって欧州におけるスエズ運河のように重要な航路だったのです。列強には「自由貿易のルールを理解できない長州には武力で理解させろ」という目論見があったのでしょう。
アメリカ、フランス、オランダの三ヶ国が長州への抗議行動に、被害国ではなかったイギリスの参加を強く求めたのは、イギリスの東洋艦隊が最も優れた勢力を保持していたからです。当初静観していたイギリスが積極的に4カ国連合艦隊に加わったのは、関門海峡の封鎖がイギリスの貿易に深刻な影響を与えることに気づいたからでしょう。長崎の貿易は横浜のそれと比べると小規模でしたが、対日貿易の約20%を占め、兵庫(神戸)、大坂がまだ開港されていない当時にあっては、西日本における重要な貿易の窓口であることに変わりはなかったということです。長崎貿易が破滅的状態に陥ったことで、イギリスは始めて危機感を覚えたのです。
4カ国連合艦隊であるイギリス、フランス、オランダ、アメリカは、水面下で駆け引きをしていたともいえるでしょう。イギリスが下関を襲撃した意図は排他的な傾向の長州藩に是正を進め、開港に導くための軍事的デモンストレーションでした。イギリスはこれと同じことを清国で行って成功しています。「アロー戦争」です。
一方、フランスは当初幕府支援にまわり、対日政策でイギリスとは異なる姿勢を見せました。極東マーケットに食い込もうとしているイギリスの活動を牽制することがフランス側の狙いだったといえるでしょう。アメリカは当時、南北戦争の渦中にあったのでイギリスやフランスが日本に注ぐほどの関心を抱いていなかったと推測できます。古くから日本との貿易をしてきたオランダは不意に長州から砲撃を受けたので、その報復をするといった程度だったと想像できます。
最も進歩的だったのはイギリスです。幕府への期待を薄め、薩長連合に将来の政権構想を求めていました。武器商人を通じて両藩に武器を調達したのも、武器販売による利益を求めただけでなく、いわば薩長のクーデターを支援するものだったともいえます。フランスが恐れたのは、イギリスと長州藩が手を結ぶことだったのでしょう。だからフランス側はイギリスに対抗するために小栗上野介に近寄り、幕府に造船所建設の支援を申し出たのではないでしょうか。その一方で4カ国連合艦隊に参加せざるを得なかったのは、軍事力に優れたイギリスに勝手な行動をさせないための苦肉の策といえるでしょう。しかし、結果的にイギリスが幕府に求めたのは、輸入税を原則として一律16%に引き下げ、輸入税は5~10%に改訂することでした。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 49 激変した世界地図の中の江戸時代 自由主義経済の思想
日本に黒船が来航する数年前のことです。
イギリスでは「穀物法」と並んで重商主義の2大支柱と言われた「航海条例」が1849年に廃止されました。
そもそもこの条例の目的は植民地との中継貿易からオランダを締め出すことにありました。
植民地およびヨーロッパ諸港との貿易を「乗務員の4分の3以上が英国人であること、英国製の船であること、所有者が英国人であること」といった条件を満たす船に限定し、それ以外の入港を禁止していたのです。
しかし自由主義経済の思想が広まったことと、植民地の経済の発展に伴い拡大した植民地からの不満が大きくなったこと、植民地独占体制維持のための行政費と軍事費の増大による納税負担の上昇などを背景に、「航海条例」は廃止されたのです。
イギリスが世界経済の発展に一肌脱いだように見えますが、実質的にはイギリスの「一方的自由貿易主義」が成立することになります。
「航海条例」の廃止は、思想的背景を持ちつつも、貿易相手国の所得増大によるイギリス製品の輸出増大、輸入原材料価格等の低下による輸出コストの低下など、イギリスの利益の観点から実施されたものでした。
残念ながら経済学者リカードの「比較優位の法則」は活用されておらず、後進工業国は食料品、工業用原材料を生産し続け、先進工業国であるイギリスは、強い国際競争力を背景に、世界の工業品市場を独占するという役割分担が継続されることを前提としていたのです。
また、最も政治的困難を伴った穀物法の撤廃は、議会制民主主義下での新興商工業者などへの参政権の拡大と、穀物の大凶作という政治的な環境が整って初めで実施されたという背景もあるのです。
そういった意味で自由貿易論は、強い工業国が貿易によって利益を得るための「強者の論理」としての域を出ていませんでした。
これはある意味では、アメリカが、正確にはアメリカの企業が利益を得るためにアナウンスされた、現代のグローバリズムの思想とよく似ています。
どの時代にあってもその時の強国が自国に有利なルールをつくり、それを外国に押しつける傾向があるようです。
さて、イギリスの政策と並行して、ヨーロッパ大陸においては、統一の遅れたドイツ地方において、1818年以降、主要領邦国家であったプロイセンが領邦内の内部関税の廃止と他のドイツ諸邦との関税協定等を推進し、1833年にはそれら多数の関税協定の結果としてドイツ関税同盟が形成されました。
その後、ドイツだけでなく、オーストリアとハンガリーの関税同盟、スイス内部などで統一的な関税同盟が矢継ぎ早に成立することとなり、ヨーロッパ大陸においても自由通商の基盤が着実に形成されていきました。
では、上野介が製鉄所建設の技術提携国に選んだフランスは、1860年頃どのような状況にあったのでしょうか。
ちょうどナポレオン三世(皇帝在位1852~1870年)の時代です。
1852年に国民投票を経て帝政を開始、1853年にクリミア戦争にイギリスやオスマン帝国側に加担し、ロシア帝国を破り、パリ条約で世界にフランスの力を見せつけました。
1856年には、イギリスと共同してアロー戦争を起こして清朝を屈服。
1858年、インドシナへ出兵してコーチシナ植民地を獲得します。
そして1860年に「英仏通商条約」を締結し、自由貿易を始めます。
こうしてフランスも重商主義から由由貿易へと移行します。
イギリスのヨ-ロッパにおける重要な貿易相手国であったフランスは、他国がフランス商品に特恵的措置な執った場合に、自国の関税も軽減・廃止するという相互主義の立場をとっていました。
このような状況の下で締結された二国間通商条約によって、イギリスは保護関税をほぼ全廃し、フランスは旧来の輸入禁止措置を撤廃し、最高税率を従価3割としたのです。
これによりフランス製のぶどう酒、酢、オリーブ油の対英輸出やイギリス製の綿製品、鉄製品、陶器の対仏輸出など二国間の貿易が促進されたのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 48 激変した世界地図の中の江戸時代 欧州列強の重商主義政策
小栗上野介が幕末に行った事業のひとつに製鉄所建設の推進がありました。
その後の日本を近代国家へと牽引する造船業や重工業の萌芽となる事業でした。
結果だけを見てみると、開国した幕末から明治維新にかけては、日本は農業国から製造輸出国へ、保護貿易から自由貿易へと転換する道を選んだ時期ともいえます。
それよりも数十年も前の1846年、イギリスは穀物法を廃止して農業の保護を断念し、工業への特化が始まっていました。
それ以前のイギリス、つまり地主階級を国際競争から守るため、物の厳しい輸入制限を定めた穀物法を遵守していた頃のイギリスでは、輸出産業であった毛織物の国際的独占を図るため、原毛の輸出を禁止していました。
完成品輸入に高関税を賦課するとともに制海権の基礎であり、収益源でもあった海運業の保護育成のため、植民地貿易などをイギリス船に限定し、ヨーロッパからの商品の輸送をイギリス船か原産地船に限定する「航海条例」も制定していました。
ずいぶん保守的な政策ですが、これはイギリスだけではありませんでした。
フランスでも同様に工業原料の輸入には関税を減免し、完成品輸入には高率の関税を課していました。
特にレース織、絹織物、コブラン織、鏡などの嗜好品や贅沢品の製造業者に対しては補助金が施され、輸出が奨励されるとともに輸入が制限されていました。
この時期の強国の貿易政策は、このように貨幣獲得の観点から「輸出を善、輸入を悪」とするいわゆる重商主義政策を取っていたのです。
イギリスにおいては、18世紀に産業革命が進展し、動力化された綿工業を中心として、世界随一の工業力を持つに至っていました。
この時期、経済的・政治的に台頭した綿業資本家は、海外市場の拡大による規模の利益の実現を目指し、自由貿易の推進を主張するようになったのです。
先週のコラムで記したように経済学者の理論が自由貿易推進の支柱になっていたのです。
イギリスにおける産業革命が完成期に近づいた19世紀始めには、経済学者のデビッド・リカードが比較生産費説を唱え、各国が貿易を自由化し、相互に比較優位を持つ財の生産に特化することが双方の利益になるという主張を展開しました。
政治面では、1820年にはロンドンの商人たちが原材料価格を低下させ、安価な商品を海外市場に輸出するために、保護関税制度の撤廃を議会に請願するなどの動きが生じました。
また、リカードは「穀物生産は収益逓減の産業」とも説きました。
つまり、土地の生産力は労働および資本の投入によって増大させることができるが、肥沃度は次第に劣悪化し、ある一定の時点において、資本の投下量を倍増しても、生産物は倍増しないということです。
生産物の価値の増大は、一方では優等地との差が拡大することにつながり、劣等地地代の増大に発展するわけです。
地主は土地の生産力が落ちたら、生産物からの収入が少なくなるので、それを補うために地代を値上げする。
だから農業生産者の利益はますます減っていくということです。この収益逓減の理論は、今日でも実際の経済で応用されています。
思想面、政治面で自由放任の論調が強くなる中で、イギリスは1823年に二国間の条件付き相互主義を内容とする相互関税法を制定し、対外的に関税交渉を進めました。
しかし、後発欧州諸国は国内産業の保護を理由にこれに応じず、イギリスは相互主義を放棄し、1833年に原綿の輸入関税を50%ほど引き下げたことを手始めに、原材料の輸入関税引下げ、関税収入から所得税への財政収入の振替等の関税改革を進め、1840年代後半から50年代に穀物法廃止、一連の関税引下げなど相手国の対応にかかわらず、一方的に関税を引き下げる措置を実施し、輸入の自由化を進めたのです。
イギリスの有税品関税率は、1841年35%でしたが、1860年の関税改正法をもって、保護関税は基本的に全廃されました。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 47 激変した世界地図の中の江戸時代 イギリス経済学
1863年、5人の長州密航留学生がイギリスへ渡りました。のちに「長州ファイブ」と呼ばれる、野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三、井上聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)です。イギリスが欧米の列強諸国に先んじて産業革命(1760年代から1830年代)を果たしたことから、政治や経済のしくみを学ぶなら、当時はイギリスが最適だったということでしょう。見方を変えるなら、イギリスは「経済学」が生まれ、最初に資本主義という概念が誕生した国ともいえるでしょう。
伊藤らが留学する約90年前、アメリカが独立した同じ年の1776年にアダム・スミスが『国富論』を発表しています。この名著は、「どうしたら富を獲得できるか」を説明し、富の因果の法則を明らかにした市場主義経済の古典です。アダム・スミスは、重商主義や保護貿易主義を批判し、自由経済の効用を唱え、「個人の私利をめざす投資が、“見えざる手”に導かれて、社会の利益を促進する」と指摘しました。現在でいうところの「競争の原理」を重視し、個人や企業が競争することで経済が活性化するという理論は、すこぶる正しいわけですが、かといってイギリスの保護貿易がすぐに解かれ、自由貿易主義に転換したわけではありません。
イギリスでは1815~1846年に「穀物法」という法律が施行されました。穀物価格の高値維持を目的としたもので、地主や貴族層の利益を保護するものでした。国内価格がある程度の高値に達するまで外国産小麦の輸入は禁止され、その後、穀物価格の騰落に応じて輸入関税を増減する方式に改められていました。これに反対したのは、産業革命によって新たに生まれた産業資本家層です。彼らが穀物法に反対した背景には、当時、工業労働者の賃金は最低限の生活費が基準になっており、穀物価格の高騰は賃金水準の上昇を意味していたことが挙げられます。
当時のイギリスは長期にわたる保護貿易の結果として、ヨーロッパ諸国と比べ穀物が高い価格帯を維持してきました。資本家たちは「穀物が安価に供給されると、物価が下がり、賃金の引き下げもできる」と考えたわけです。当の労働者層は単純に安価なパンを求め、「穀物法廃止」を望みました。廃止運動の結果、1846年に穀物法は撤廃され、自由貿易体制が確立されます。
穀物法廃止の基本的な理論は、アダム・スミスに触発された経済学者デビッド・リカードが記した『経済学および課税の原理』(初版1817年)です。彼は経済学に「限界モデル」を持ち込んだ先駆者です。「資本蓄積につれて労働=穀物需要が増加し、穀物の限界生産費、地代、穀物価格、賃金が高まる。これによって利潤が減少し、やがて資本蓄積が停止する」と説き、「穀物生産量が増えても穀物価格が上昇すれば生活水準が圧迫され、労働者の実質的な賃金は低下する。賃金を上げると利潤は増えない。自ずと限界がある」という成長モデルを提示したわけです。そして「穀物法を廃止して海外の優等地で生産された安価な穀物を輸入すれば、利潤は回復し、資本蓄積が再開される」という理論を展開します。
この「国内の価格より国際価格が安い場合は輸入し、逆に国際価格のほうが高い場合は輸出する」という考え方は、自由貿易のひとつの基盤となる「比較優位」の法則を説いたものです。リカードは、二つの国(ポルトガルとイギリス)と二つの商品(ワインと布)という例を挙げ、ポルトガルが両方の商品について絶対的なコスト優位性を持っている場合でも貿易にはメリットがあると論じました。商品が国内コストよりも低い値段で輸入されれば、貿易は蓄積と成長をもたらし、実質賃金低下と利益の増加をもたらす。そして両国とも貿易を行わないより、行った時のほうが利益を得る、とリカード論じたのです。
この理論には一部矛盾があるものの、すでに江戸時代にこういう理論が生まれていことに驚きを隠せません。当時の日本はこと経済学については、イギリスより100年遅れていたといえるでしょう。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 46 激変した世界地図の中の江戸時代 ジャーデン・マセソン商会
小栗上野介が幕府初の遣米使節団の監査役として渡米したのは1860年でした。その3年後、5人の長州密航留学生がイギリスへ渡りました。野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三、井上聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)です。当初はこの5名でしたが、井上聞多と伊藤の2名は、実際に海外に出て攘夷の無謀を痛感し、タイムズ記事で長州と英米仏蘭との間で戦争が始まるとの情報が入ったことから留学を放棄し、1864年4月にロンドンを発ち、帰国します。
この長州留学生たちは、ジャーデン・マセソン商会のウィリアム・ケズウィックや英国領事ジェイムス・ガワーの協力を得て、ジャーディン商会所有のチェルスウィック号で上海に渡り、ロンドン行きの貨物船ペガサス号とホワイト・アッダー号に分乗しながらロンドンに到着しています。
英国留学中に世話役になったのは、ジャーデン・マセソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンでした。
このヒュー・マセソンの紹介で、長州留学生はロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン博士と出会います。ウィリアムソン博士は、ユニバーシティー・カレッジの化学教授を務めながら、英国学士院会員、ロンドン化学協会会長などの要職に就いており、偏見にとらわれない世界主義的見解の持ち主でした。また、思想的には、ジョン・S・ミルの功利主義やオーギュスト・コントの実証哲学の信奉者として知られていました。
長州留学生5人はウィリアムソン博士がいるユニバーシティー・カレッジに学びながら、揃ってイングランド銀行を見学するなど最先端の知識を吸収していきます。結果として彼らが明治初期に活躍したのですから、彼らの留学は日本の近代化に大いに役立ったといえるでしょう。
伊藤博文はのちに初代総理大臣、井上馨は外務大臣や内務大臣など要職に就きます。井上勝は初代鉄道局長官として日本の鉄道の発展に寄与し、山尾庸三は工部大臣として活躍、遠藤謹助は洋式の新貨幣を鋳造して現在の造幣局のもとをつくります。
では、薩長の留学生を密航させたグラバー商会とジャーデン・マセソン商会は、どうしてそのような協力を買って出たのでしょうか? 利益に敏感なビジネスマンが単なる親切で行ったとはとうてい思えません。
幕府が1862年7月に外国艦船の購入を許可すると、幕府や各藩は競って契約に乗り出し、日本は格好の外国艦船マーケットとなりました。こうした中でグラバーはジャーデン・マセソン商会から委託されて、鉄製蒸気スクリュー船カーセッジ号(12万ドル)を幕府経由で佐賀藩に売却し、1864年10月を契機に本格的な艦船取引に乗り出していきます。
艦船取引は利潤も大きく、このカーセッジ号についても販売価格12万ドルに対して簿価は4万ドルとなっており、この取引だけでジャーデン・マセソン商会は5万8000ドルの純益をあげていることになります。
留学生達が英国で学んでいた頃、すなわち1864年から68年の5年間にグラバーないしはグラバー商会の名前で販売された艦船は24隻、価額にして168万ドルに及びます。これは、同時期に長崎で売却された艦船の約30%、価額にして36%にあたります。売却先は薩摩藩が最も多い6隻、ついで熊本藩の4隻、幕府、佐賀藩、そして長州藩の各3隻となっています。しかし、薩摩藩6隻の内のユニオン号(桜島丸、後に乙丑丸)は土佐藩士である上杉宗次郎(近藤長次郎)が仲介して長州藩が薩摩藩名義で購入した船であり、実際には薩摩藩5隻、長州4隻となります。
グラバーはこうした艦船の売却以外に、各藩の依頼によって英国での船舶建造も仲介していました。この建艦は、グラバーの長兄であるチャールズ、そして薩摩留学生達をロンドンで出迎えたジェイムズらがアバディーンで設立した船舶保険会社グラバー・ブラザーズ社を通じて行われました。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 45 激変した世界地図の中の江戸時代 世界最大の都市・江戸
幕末の日本の人口は、約2500万人と推定され、元禄年間の江戸の人口は約80万人とされています。当時ヨーロッパ最大の都市ロンドンの人口が約50万人とされていることから、江戸は1700年前後に世界最大の都市になったといえるでしょう。当時そのイギリスは世界最大の軍事大国でしたが、長州藩との紛争(1863年)以外いたって友好的だったのは、南下しつつあるロシアの極東での活動を封じ込めるために外交戦略上必要であったということが挙げられます。
もうひとつ異なった見方もできます。イギリスにとって日本は中国ほど大きな市場ではなかったので、江戸での商取引を保護するために軍隊を派遣する必要はないという判断が下されていたということです。軍隊派遣にかかる経費は商取引上の利益をはるかに上回るものだったのでしょう。
幕末における日本の対外交易の少なくとも3分の1は対イギリスでしたが、一方それはイギリスの全対外貿易の50分の1にも満たないものでした。日本との交流を失う危険まで冒して、江戸に3万の軍隊を駐留させようとは思うはずがありません。
1865年に日本を訪れた冒険家のシュリーマンは『シュリーマン旅行記 清国・日本』で「ヨーロッパにおける絹、茶、木綿の暴落と幕府が打ち出す交易に対する無数の障害によって、採算のとれている外国商人はほとんどいない」と記しています。
そんな状況にあっても、日本との交易で財を成す外国人ビジネスマンは少なからずいました。アヘン貿易で財を築き、香港に本拠を置くイギリス系商社「ジャーデン・マセソン商会」は上海にも支店を置き、のちに横浜に支店を出しました。代表はウィリアム・ケズウィックです。同社は中国へのアヘン貿易で富を蓄え、明治維新期の日本へ武器を供給していたことでも、その足跡を記録に残しています。
長崎の武器商人グラバーが興したグラバー商会は、ジャーデン・マセソン商会の長崎支店長的な立場の人物でした。グラバーが輸入した英国産の武器が大量に薩摩や長州に売り渡されて、明治維新が成ったというのは、すでに何度もお伝えしてきました。見方を変えるなら、イギリスが討幕に一役買ったといえるでしょう。
一方、横浜に支店を開いたジャーデン・マセソン商会のケズウィックは、日本の物価の安さに目をつけました。小判を両替して利鞘を稼ぐより商品を買いつけて中国沿岸まで運んで売りさばいたのです。外国人商人が手当たり次第に商品を買いあさったので、つられて貿易と直接関係のない商品の値段も引きずられるように高騰しました。いわゆる便乗値上げです。幕末の物価上昇の要因には、こういうミクロの見方もできそうです。
さらに伊藤博文や井上馨を含む5名の若者が1863年に横浜からイギリスに向けて出航できたのも、1865年に森有礼ら薩藩留学生15人と五代友厚や寺島宗則ら4人の外交使節が海を渡ったのも、グラバーやジャーデン・マセソン商会のケズウィックの手引きがあったからだとされています。彼らを送り出した薩長藩は、幕府の規則(海外渡航は国禁)を無視し、秘密裏に洋行の準備を進めました。
グラバー商会は、資金の大部分をオランダ貿易会社とジャーデン・マセソン商会に依存しており、留学生の学資もジャーデン・マセソン商会(香港)の信用状にもとづいて、マセソン商会(ロンドン)が薩長藩の手形を割り引く形で前貸ししていたとのことです。従って、実質的な留学生の支援者はジャーデン・マセソン・グループであったといえます。つまり、この時点で国際金融資本が日本に流れていたということです。
グラバーの日本での活動はジャーデン・マセソン商会を通じて英国政府に伝えられていたことは間違いありません。それでは、英国政府は日本から来た留学生をどのように受け入れたのでしょうか?
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 44 激変した世界地図の中の江戸時代 シュリーマン
トロイア遺跡の発掘で知られるハインリッヒ・シュリーマンは、その発掘に先立つ6年前、世界旅行の途中、中国に立ち寄り、つづいて幕末の日本を訪れました。その見聞録が『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)です。
シュリーマンが清国と日本を訪れたのは1965年。小栗上野介が勘定奉行勝手方になり、横須賀製鉄所の竣工式で鍬入れを行った年です。幕末の大きな事件を挙げれば、長州再征の勅許が下された年です。
シュリーマンは清国政府が税務業務に外国人を登用している様子を見て、次のように記しています。
「清国と英仏間に締結された条約の結果、賠償金を支払い終えるまで、外国人官吏を登用せざるを得なかったが、そうするとほどなく税収が大幅に増え、それまでの自国役人の腐敗堕落が明らかになった。それで清国政府は彼らを罷免し、代わりにシナ語を話せる外国人を雇うようになったのである」
清国と英仏間に締結された条約とは、1860年に結ばれた「北京条約」のことです。天津など11港が開港し、外国公使の北京在住などが認められました。そしてイギリスは香港島の対岸の九龍(クーロン)半島南部を植民地として手に入れたのです。
シュリーマンの旅行記で興味深いのは、北京で流通している貨幣を彼がこのように表現していることです。
「清国の唯一の貨幣は、三分の一が亜鉛で三分の二が鉛でできているのだが、この硬貨は大きいうえに重くて、ひどく汚れている。多額の取引の支払いは、すべて港で、メキシコ・ピアストルを使ってなされる。ただし国内ではメキシコ・ピアストルは通用しないから、銭を使う場合、高額すぎる支払いは延棒やさまざまな大きさの銀で行われる」
メキシコ・ピアストルとは、メキシコ・ドルのことです。このメキシコ・ドル1枚は日本での交換を2回行い、再び欧米に持っていくと3倍の価値になったのです。
●1メキシコ・ドル→(港の運上所にて交換)→ 一分銀三枚→(市中の両替店で両替)→金貨3/4両→(海外で金と銀にして交換)→3メキシコ・ドル
そしてシュリーマンは幕末の江戸を訪れ、「幕府はメキシコ・ピアストル以外の外国貨幣を認めない。しかもこの貨幣すら1ピアストルが天保一分銀2.2個から2.5個という法外な兌換率で、しかも横浜、長崎、函館でしか兌換できない」とぼやいています。さらに続けて意味深いことを語っています。
「(幕府は)外国との交易がいっそうやりにくくなるように、そしておそらくはそれ以上の悪い意図もあって、幕府は日本にいる全外交官、公使館、領事館の館員すべてと湾内の軍艦の乗り組員全員に対して1ピアストルを一分銀三個で一定額、交換することを許可している。(中略)この差額は通商の不利益をも顧みず、莫大な利益を、これら高官に与えている」
シュリーマンは、この不思議な両替をいくぶんかの怒りを持って記しています。幕府はわざわざ不利益になることをどうして行っているのか、といった口調です。そして外交官や船員が莫大な利益を得ていることは、シュリーマンでなくても不思議に思えるでしょう。
幕府は金貨の流出を阻止するために改鋳を行ってきましたが、場当たり的な政策がインフレを進行させ、俸給生活者である武士階級が経済的に困窮し、結果として幕府崩壊の原因のひとつになったのです。
それでは領事として日本に住んでいた大使は、そうとう高額な利益を手にしていたことでしょう。では、アメリカ合衆国の初代駐日公使であるハリスの1年間の収支を見てみましょう。
●収入 年俸5000ドル、小判の利殖で2500ドル、外国為替相場の利殖で2500ドル
●支出 1500ドル
●収支 8500ドル
8500ドルは当時のアメリカ都市部在住サラリーマンの年収約700ドルと比べると、約12年分となります。つまり、ハリスは1年間で12年分の収入を得ていたということです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 43 激変した世界地図の中の江戸時代 朝鮮半島
現在の韓国と北朝鮮にあたる李朝の交易は、江戸時代には清帝国に貢ぐような貿易のほか、対馬を介した日本との交易、琉球との交易が中心でした。日本からの輸入品は銅、銀などで、日本への輸出は、塩、生糸、絹織物などでした。対馬との貿易のピークは18世紀中頃。金額ベースで日清、日蘭貿易をしのいでいたとされています。しかし、日本銀の生産量が激減すると、江戸幕府は中国への銀輸出を規制するようになり、続いて李朝への銀輸出禁止令が発布されました。
この金銀についてですが、日本国内では、当時大きな経済問題が進行していました。江戸幕府後期に発生した、日本と外国の金銀比価の違いによる金の流失です。金と銀の交換率は、外国では1対15であったのに対し、日本では1対5でした。外国では金を1グラム買うのに銀を15グラム支払わねばいけませんが、日本では銀を5グラム支払えば金を1グラム手に入れることができたということです。
だから日本が開国し、貿易を開始するやいなや、外国の商人たちは銀を日本に持ち込んで金を買い、外国でそれを銀にかえ、その銀でまた日本の金を買うという繰り返しで巨利を得ていました。幕府がこのことに気づいて貨幣を改鋳した時には、すでに国内から10万両以上の金が流出してしまったあとだったといわれています。幕府は金銀の為替には特に敏感になっていたというわけです。
小栗上野介が1860年に挑んだ、アメリカの金貨と日本の小判の含有量を調べ、それによって交換比率を決めた「史上初の為替レート交渉」には、こういった台所事情も含まれていたのです。じつはアメリカの金貨には銀はほとんど含まれていませんでしたが、日本の小判には相当量の銀が含まれていました。だから、日米の金貨の交換比率は、銀の含有量を含めて評価し、決定することになったのです。
再びアジアに目を向けましょう。アジア諸国との貿易経験のある李朝でしたが、一方で進出してくるヨーロッパの列強に対しては、強固な鎖国政策をとってきました。キリスト教と西欧文化を弾圧する党派が主流になるわけですが、これがのちに朝鮮朝廷の混乱の原因になっていきます。やがて江戸幕府と同じように開国派が主流になっていきます。
1868年に明治政府が成立した際に独立維持の鍵となったのが、じつは朝鮮半島でした。清が李朝やベトナム、琉球などの国を保護国化し、アジアで大きな影響力を発揮しようと改革を進めていた頃、ロシアの南下と朝鮮半島の支配を強化しようとする清を牽制するために日本は1875年、開国を求めて江華島(こうかとう)へ浸入しました。翌1876年、鎖国状態にあった李朝と強引に「日朝修好条規」を結びます。これは李朝を清の属国でなく、独立国として認め、李朝と自由貿易を行うために結ばれた条約です。以降、李朝はアメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスとも同様の条約を締結することにより、列強に開国することになります。
「日朝修好条規」は、自由貿易とはいえ、明らかに不平等条約でした。李朝の港で日本人が起こした犯罪は日本に領事裁判権があるとされたほか、開港場における日本貨幣の使用を認めることが条件になっていました。それより早い1871年に結んだ「日清修好条規」は対等なものでしたから、明治政府はまず朝鮮半島に一定の影響力を持とうとしたのでしょう。李朝では、日本にならって主権国家を目指す勢力と、王朝体制を維持しようとする勢力が対立を深めていきます。と同時に、日本と清との対立も深まっていきます。
こうして「アヘン戦争」や「アロー号事件」などイギリスを中心とした列強の中国侵略に、やがてロシアや日本が加わることになります。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 42 激変した世界地図の中の江戸時代 産業革命
小栗上野介が遣米使節団としてアメリカ合衆国に渡った1860年当時、世界の工業生産順位は、1位イギリス、2位フランス、3位アメリカ、4位ドイツの順でした。アメリカ以外は逸早く産業革命に成功したヨーロッパの列強ばかりです。
やがてこの順位は、1870年代に1位イギリス、2位アメリカ、3位フランス、4位ドイツへと変化し、世界が大不況に包まれる1873~96年には、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、1900年にはアメリカ、ドイツ、イギリス、フランスへと移っていきます。日本では明治維新直後の政府が不安定な時期に、列強は狂ったように植民地の獲得に乗り出し、「世界の分割」を完成させます。
たとえばアフリカ。1880年代~1900年代頃までにエチオピア、リベリアを除くすべてのアフリカが分割されました。アフリカ分割の中心は、1875年にエジプトからスエズ運河の管理権を獲得したイギリスと、アルジェリアからサハラ砂漠を横切り、東岸に至ろうとするフランスでした。イギリスとフランスは長い間、植民地抗争を続けてきました。「七年戦争」(1756~63年)に敗れて北アメリカの植民地をイギリスに譲り、続いてインドにおける主導権も失ったフランスは当時未開の地であったアフリカを目指したということです。
一方のアメリカ合衆国は、南米との中間に位置し、大西洋と太平洋の中継海域の「カリブ海」の支配が重要であったため攻勢をかけていきます。
では、幕末から明治維新の頃のアジア諸国はどのようになっていたのでしょうか? 日米和親条約を結んだ1854年以降、幕府はイギリス、ロシア、オランダと間で和親条約を締結しましたが、清国との「日清修好条規」、李朝(朝鮮)との「日朝修好条規」が結ばれたのは、明治になってからのことでした。
現在の中国やモンゴル、チベットなどは、統一王朝の清が支配していました。長い歴史をもつ中国は早くに文明が開化し、清帝国の全盛期にはモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮、琉球、マカオ、ベトナムなどが清帝国に忠誠心を示してきました。イギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパの列強より強国でした。
鎖国を続けた江戸幕府との外交はありませんでしたが、中国商船の長崎貿易は許されていました。しかし、19世紀に入ると、逸早く産業革命に成功したヨーロッパ諸国との力関係が逆転していくのです。
清帝国は1636年に建国され、1912年まで続いた大国です。18世紀末にイギリス商人がヨーロッパの対中国貿易戦争に勝利し、開港地・広州で茶貿易を推進したことを起点にイギリスと清の長く続く関係が生まれます。イギリスはその後、アヘン戦争を仕掛け、清を半植民地化していきます。清はイギリス人と交流することで、ヨーロッパの軍事技術、生産システムなど積極的に導入し、支配体制の再建をはかりました。しかし、それは儒教官僚による統治や伝統的社会を温存して西洋の技術だけを取り入れるもので、表面的な改革であったといえるでしょう。日本が開国に踏み切った背景には、幕府の弱体化だけでなく、清帝国を反面教師にしたという見方もできるでしょう。つまり、「中途半端な改革では近代化は成功しない」「清はイギリスの植民地のままで進んでしまう」という戒めがあったということです。
一方、江戸幕府が現在の韓国と北朝鮮にあたる李朝を脅威に感じていなかった理由のひとつは経済力の低さです。朝鮮王朝のイデオロギーである儒教主義では、商人は極めて卑しい者とされていたため、李朝は経済政策が進んでおらず、貨幣経済自体は自力では成り立っていませんでした。王朝は幾度となく貨幣制度の導入を行ったものの、貨幣の材料である銅を日本に依存し、流通量は極めて少なかったようです。また、豊臣秀吉の朝鮮出兵や清の攻略で国内の産業基盤はズタズタにされていたので、近代化どころの話ではなかったようです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 41 激変した世界地図の中の江戸時代 ヨーロッパ列強
小栗上野介が生きた幕末は、世界地図が頻繁に塗り替えられた時代でした。当時、北アフリカ、中東から現在のトルコ一体に巨大な帝国がありました。王家オスマン家を君主としたオスマン帝国です。多民族帝国であったことで、民族運動が起こり、また産業革命に乗り遅れたことでヨーロッパ列強との経済力の差は歴然となっていました。
ヨーロッパ列強が競って紛争に介入した、オスマン帝国内の民族運動は「東方問題」と呼ばれました。その起点となったのが、ギリシア独立戦争(1821~29年)です。ロシア、イギリス、フランスの支援を受けてギリシアはオスマン帝国から独立しますが、その際にロシアは黒海とエーゲ海を結ぶ海峡の航行権を獲得しました。その後、フランスの援助を受けたエジプトが2回にわたってオスマン帝国からの自立を求めて戦いました。列強の利害は対立しましたが、結局イギリスの主導のもとに解決がはかられ、ロシアの地中海進出とフランスの影響下にあるエジプト独立の阻止がなされました。
ロシアはその後「クリミア戦争」を起こしますが、イギリスとフランスがオスマン帝国を援助したことで敗北し、ロシアの南下政策は完全に挫折します。一方のイギリスは植民地インドを土台に貿易で栄え、中国進出を目指します。これらの動向は「産業革命によって生み出された新しい経済システムがアジア世界を飲み込み始めた」とも解釈できるでしょう。当時の幕府にとって脅威なのは、貿易面では最も交易が深いものの、アジアの植民地化を進めるイギリスと、南下政策を推し進めるロシアだったのでしょう。
17世紀半ば以降、「鎖国」を続けてきた江戸幕府も、アメリカ合衆国使節ペリーの浦和来航をきっかけに大きく動揺します。幕末の国論は、ご存知のように「尊王・攘夷」と「開国」に二分されました。そして1854年、遂に215年ぶりの開国に踏み切りました。小栗上野介が遣米使節団としてアメリカ合衆国に赴いたのは、1860年のことです。上野介は造幣施設のほかにワシントンの造船所にも訪れています。「アメリカは鉄の国、日本は木の国」と感想をもらしたとされています。鉄があれば戦艦の製造に着手できます。逸早く産業革命に成功したヨーロッパの列強と、広大な領土を持つロシアとアメリカは、上野介にとってまさにすべてが「鉄の国」に見えたことでしょう。
島国の日本が攻められるとすれば、当時は当然のごとく軍艦によってでした。ここで上野介はロシア海軍とイギリス海軍の侵攻を恐れていたように思われます。「アメリカの支援がなければ、日本はいずれロシア海軍に支配されるのではないか」といった危機感があったのでしょう。そのアメリカは独立戦争で海外進出の余裕はありませんでした。
当時アメリカは、イギリスと共同で香港に艦隊基地を所有していました。対ロシア戦略と幕府海軍の育成を想定した場合、上野介が横浜周辺に海軍の基地が必要だと考えたのは当然のことでしょう。こうして上野介は帰国後、幕府に海軍増強を進言し、1866年に横須賀造船所が完成します。上野介には「大海軍構想」がありました。それは「戦艦は海外から購入すればよい」と主張した勝海舟とは反対のビジョン、すなわち自前の戦艦を製造することでした。歴史は興味深い事実を物語ります。1872年、横須賀造船所は明治政府海軍省の管轄になり、のちに軍艦を製造することになります。上野介の構想が見事に現実化したわけです。
その後、日本が1894年に「日清戦争」を仕掛け、清軍に勝利しますが、これによって日本は東アジアにおける中華秩序を崩壊させ、独自の勢力圏を形成し、同時に本格的な産業革命を進めるための資金を獲得したとも言えるのではないでしょうか。その後、列強の長引く不況によって「帝国主義」が誕生したことは歴史の教科書をひもとくまでもありません。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 40 激変した世界地図の中の江戸時代 幕末の自由貿易
日本人商人と外国の民間商人との間で自由貿易が行われるようになった幕末。当時の日本の輸出品の第1位は生糸です。輸出品の8割を占めていたとのことです。これは生糸の産地であるフランスやイタリアが蚕の疫病にかかり、壊滅状態に陥っていたからなのです。輸出品の第2位はお茶です。
反対に輸入品のほとんどは綿織物や毛織物などの繊維品でした。その他の輸入品として武器、艦船があります。幕末に坂本龍馬が武器を輸入していたことは以前説明しましたが、これらの武器は薩摩や長州が官軍として、幕府軍と戦う際に威力を発揮します。
さて、幕末における最大の貿易相手国はどの国だったのでしょうか? じつは先に交易を開始したアメリカではなく、列強のイギリスだったのです。これにも当時の世界情勢が大きく影響しています。アメリカは南北戦争(1861年~1865年)の勃発によって貿易がおろそかになっていたのです。
交易の9割は、横浜港で行われていました。貿易の変化として重要なのは、圧倒的な輸出超過で始まった交易が、1866年に輸入超過に転じたことです。これは輸入品の税率が20%から5%に引き下げられたことが原因です。
日本が列強諸国と結んだ条約では、関税自主権がなく、諸外国との話し合いで税率を決めるシステムを取っていました。これを「協定関税制度」と呼びます。
幕府は1866年、兵庫の開港期限を延長するかわりに、関税率をさらに引き下げ、自由貿易をさまたげる諸制限を撤廃することなどを取り決めた改税約書に調印しました。そういう流れがあり、外国商品がどっと安く国内に流れ込み、急に輸入額が増加したのです。
その頃、アメリカは北軍が勝利し、南北戦争は終結。アメリカ合衆国の再統一が進みます。国内市場の拡大、西部開発、安い労働力の急増は、アメリカの工業を急成長させ、19世紀末にはイギリスを抜いて世界第一位の工業国になります。工業化を後押ししたのは鉄道です。1869年に大陸横断鉄道が完成し、合衆国の鉄道総距離は26・2キロに延びました。これによって西部の開拓が促進されます。大陸横断鉄道の完成は、それまでの遅くて危険な駅馬車の時代を終わらせ、鉄道が経済の大動脈として機能する時代の到来を告げました。
大陸横断鉄道の開通によって、東海岸と西海岸の間の移動は、それまで陸上であれば数ヶ月、パナマ経由の船でも数週間を要していたものが、1週間に短縮されました。さらに1876年に運行された大陸横断超特急は、二ューヨークを出発してからサンフランシスコに到着するまで83時間39分という記録を作りました。当時の日本は明治維新の直後、やっと廃刀令が施行された頃です。この状況を比較するだけで当時の国力の差は歴然といえるでしょう。
この鉄道の完成より前に、小栗上野介は江戸-横浜の鉄道の建議を幕府に提出しています。小栗は1860年に遣米使節団の監査として視察に参加した際に初めて鉄道を見たのでしょう。また、鉄道事業によって自国の経済が活性化することを理解していたのでしょう。しかし、小栗の先見性を見抜いた人物は江戸幕府にはいなかったようです。
アメリカの発展の過程で注目したいのが、大陸横断鉄道の建設労働者が、アイルランド人移民、南北戦争の退役軍人、モルモン教徒、中国人移民などが多かったことです。アメリカは100年以上前から外国人労働者の受け入れに寛大であったという見方もできます。当時、中国人移民はカリフォルニアの金鉱山やクリーニング業、調理師などに従していました。カリフォルニア中から中国移民がかき集められたという記録が残っています。
このように南北戦争を機にアメリカの経済構造は激変しました。一方、ヨーロッパでは衰えるオスマン帝国に列強が群がるようになります。東地中海、黒海周辺での列強の争いはヨーロッパ最大の国際問題へと発展していきます。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代39 激変した世界地図の中の江戸時代 ヨーロッパによる世界制覇
振り返ってみれば日本が幕末と呼ばれた時代は、ヨーロッパによる世界制覇の時代とも呼べます。各地でヨーロッパ列強が覇権をかけた戦いを繰り返しました。
たとえば同盟国(イギリス、フランス、オスマン帝国)とロシアによる「クリミア戦争」(1853~1856年)、イギリスの支配下にあった北インドの軍事基地でインド人の傭兵が起こした「セポイの反乱」(1857年)、「アロー号事件」をきっかけにイギリスが清帝国を襲った「アロー戦争」(1857~1860年)、サルデーニャ王国がオーストリアと開戦して勝利した「イタリア統一戦争」(1859年)、プロイセン王国(北ドイツ)がオーストリアに圧勝した「普墺戦争」(1866年)。
一方、独立後のアメリカは、実力行使に出た南部軍に北部軍が対峙した「南北戦争」(1861~1865年)の時代を迎えます。
では、同じ時代の日本にカメラを移動しましょう。1853年、ペリーが黒船4隻を引き連れて浦賀へやってきて「開国しろ」と幕府に迫りました。幕僚は返事を先延ばしして、とりあえずペリーに帰国してもらいます。しかし、同じ年に今度はロシア大使プゥチャーチンが長崎を訪れ、ペリーと同じように開国を迫ったのです。ロシアの南下政策はついに極東の島国にまで及んできたわけです。
1854年にペリーが再来し、遂に「日米和親条約」を結んで開国します。これはロシアのプチャーチンに先を越されないための防衛策でもあったのでしょう。
「日米和親条約」には、アメリカを優遇するという項目が記されていました。つまり、他の国との条約の中に日米和親条約より有利な条項が入った場合は、自動的にアメリカにもその条項が適用されるというものです。
和親条約は、イギリス、ロシア、オランダとの間でも結ばれます。しかし、ロシアのプチャーチンと結んだ「日露和親条約」だけは他国と内容が異なるので注意してください。その後の日本の歴史に大きな影響を与えることになるのです。「北方の領土については、択捉(エトロフ)島より南が日本領、得撫(ウルップ)島より北をロシア領として、樺太については両国人の雑居の地」としたのです。ここに初めて北方領土に「国境」という概念が生まれたのです。
さて、1856年になると、ハリスがアメリカの初代総領事として来日し、下田に駐在します。彼の使命は、日本と通商条約を結ぶことでした。つまり、自由貿易を求めるものです。そして1858年、大老・井伊直弼が天皇の勅許を得ないまま、「日米修好通商条約」に調印します。これには1856年に起こった「アロー号事件」が大きな影響を与えていました。
イギリスがフランスと組んで清帝国を攻め入り、広東を軍事制圧したことを井伊直弼は耳にしていたのでしょう。そしてハリスが「アロー号事件」を例に挙げてイギリスとフランスの脅威を説き、アメリカと条約を結ぶほうが有利であると主張したのでしょう。これには「イギリスやフランスがひどい内容の不平等条約を押し付けてきた場合には、アメリカが阻止してあげよう」といった安保条約にも似た誘いが加味されていたのです。
井伊直弼はイギリスに攻撃されるより、アメリカと交易を始めるほうがリスクは少ないと考えたのでしょう。井伊直弼の独断が朝廷や攘夷主義者の大きな怒りを買い、のちに暗殺につながるわけです。
その後、幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同じような条約を結びます。列強諸国との貿易には原則として役人はタッチせず、日本人商人と外国の民間商人との間で行われました。これが自由貿易です。
1859年の輸出総額は約89万ドル、輸入総額は約60万ドルに過ぎませんでしたが、取引額は数年の間に飛躍的に伸びていきます。1865年には輸出総額約1850万ドル、輸入総額約1515万ドルにもなりました。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 38 激変した世界地図の中の江戸時代 遣米使節団
成立したばかりのアメリカ合衆国は、極めてまとまりのない国家でした。強力な中央政府を樹立し、「国民国家」をつくろうとする北部に対して、イギリスに綿花を供給する南部は経済的にイギリスへの従属状態にあり、北部の支配下に入るのを拒んで州の自立を主張したのです。南部が奴隷制の容認、自由貿易、州の自立を主張したのに対し、北部は奴隷制の廃止、保護貿易、強力な中央政府の構築を唱えていたのです。やがてイギリスが必要とする綿花の一大供給地の「南部」と、工業化を進める「北部」の対立へと発展していきます。
小栗上野介が監察として加わる遣米使節団がアメリカに向かった1860年は、アメリカにとっても大きな分岐点となった年でした。同年11月の選挙で奴隷制廃止論者のリンカーンが第16代大統領に当選したのです。じつはアメリカ視察から帰国した小栗上野介が、最初の外国奉行に昇進したのも同じ11月でした。
翌年には南部11州が「アメリカ連合国」を立ち上げ、北部からの分離をはかります。リンカーンはこれを認めず、南部が実力行使に打って出たことで、「南北戦争」が勃発したのです。
では、南部が綿花を供給したイギリスは当時どのような状態にあったのでしょうか? イギリスは、自国の不景気を解消するために1840年に清帝国に「アヘン戦争」を仕掛け、清帝国から香港島を奪い、「南京条約」を結んで、上海などの5港を開港させ、清帝国に一律5%の関税(関税自由権の喪失)、領事裁判権などを認めさせ、同時にインドへも進出していました。東インド会社がインドの主要な地域を次々と植民地としていったのです。つまり、アジアの大国は、ヨーロッパを中心とする自由貿易圏に組み入れられていったのです。
しかし「アヘン戦争」の勝利によって香港島を支配し、上海などの5港を開港させたものの、イギリスが期待したほどの商業利益は上がりませんでした。そこで再び戦争を起こしてでも「南京条約」を改定させるべきだという風潮が高まっていきます。この口実になったのが「アロー号事件」です。
1856年、広州でイギリス船籍の密輸船アロー号が清の役人に拿捕され、清人船員が海賊の容疑で逮捕されます。その際に清の役人がイギリスの国旗を引き摺り下ろしたことに対して、当時の広東領事ハリー・パークスは「イギリスに対する侮辱だ」と抗議します。これに対して清国の大臣は、国旗が掲げられていなかったことや船籍登録の期限が過ぎていたことを主張し、アロー号船員の逮捕は合法であったと主張。広州に反英運動が高まりました。
一方のイギリスはフランスのナポレオン3世に共同出兵を求め、フランスは広西省でフランス人宣教師が殺害されたことを口実に出兵したのです。
1857年、イギリス・フランス連合は広州を占領。その後、清国内で局地戦を戦い、やがて北京を占領。1860年、北京条約が締結されます。これによって清は、天津の開港、九竜半島の割譲を飲まざるを得なくなり、ロシアは和約に仲介したとして沿海州を譲り受けたのです。
そのロシアは当時、国内政治の不満を解消すべく南下政策を推進していました。つまり、清帝国さらには日本を植民地にしようと目論んでいたのです。こうして見てみると、当時の幕府にとってイギリスが最大の脅威で、次いでロシアということになりそうです。
では、ヨーロッパの大国イタリアとドイツはどういう状況であったのかといえば、イタリアはオーストリアから領土を奪回し、1860年にイタリア王国を成立。現在のドイツは、プロイセン王国時代。軍事力を蓄えつつ、オーストリアとつばぜりあいを繰り返していました。
こういった状況の中で、小栗上野介は日米修好通商条約の締結に関する国書を携えてはるか太平洋を越えてアメリカへ渡ったのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 37 激変した世界地図の中の江戸時代 鎖国政策と海外事情
江戸時代中期から後期にかけて起こった世界情勢の激しい変化。たとえばアメリカ合衆国の独立と拡大、ゴールドラッシュの勃発、アヘン戦争を機にしたイギリスによる中国への進出など、鎖国政策を取っていた江戸幕府の首脳部は正確に把握していたのでしょうか?
実はかなり正確に知っていたという説があります。鎖国中であったとはいうものの、オランダ、清国、朝鮮とは貿易のつきあいがありましたから、海外の情報告は少なからず入手していたとされています。
薩摩藩の支配下にあった琉球王国には、1816年にイギリス艦隊が来航しています。こういった事態は薩摩藩を通して幕府へ伝わっていたはずです。また、毎年長崎に来るオランダ船から幕府へ提出される「オランダ風説書」と題した海外情報レポートにも国際情勢は記されていました。
清国がアヘン戦争でイギリスに負け、開国を強いられ、香港まで奪われた事実も幕臣の耳に入っていたようです。幕府は1825年に発令した「異国船打払令」を1842年に廃止し、来航した外国船には薪や水、食糧を与えて帰国してもらおうという新たな法令を発令しています。1844年には、オランダ国王から開国を促す書面を受け取っています。この背景には、イギリスやアメリカ、ロシアなどの大国が日本を植民地にする前にオランダが主導権を握りたいという目論見もあったのでしょう。世界の列強は、未開の地であるアジアへと目を向けていたのです。
ここにその時期にアメリカで貴重な体験をした一人の日本人がいます。のちに小栗上野介が監察として加わる遣米使節団(1860年)の護衛艦「咸臨丸」に通訳として乗船するジョン万次郎(本名:中濱万次郎)は、ゴールドラッシュが始まった年(1849年)にアメリカにいた数少ない日本人、あるいは唯一の日本人でしょう。
彼は1841年、14歳のときに漁師の手伝いで漁に出て遭難し、漁師とともに太平洋に浮かぶ無人島に漂着しました。彼らを救ったのがアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号です。当時の日本は鎖国状態だったので、救われた漁師たちは寄港先のハワイで降ろされました。しかし、船長に気に入られた万次郎は自ら希望し、捕鯨の航海に出かけます。船名にちなみジョン・マン(John Mung)という愛称をアメリカ人からもらい、日本ではのちに「ジョン万次郎」と呼ばれることになるのです。
カリフォル二アのゴールドラッシュは1848年1月21日朝、アメリカ東部出身のジム・マーシャルという偏屈な男がカリフォル二ア中部のコロマを流れるアメリカ河畔で数個の金塊を発見したことから始まります。これがアメリカと世界の歴史を変えたのです。
金発見の噂が流れると世界各地からゴールド・フィーバーに浮かれた人たちが集まって来ました。東部のアメリカ人は妻子や恋人を残して単身で訪れ、メキシコ人は妻子を帯同して春に来て、秋にはメキシコに帰るという季節労働者でした。フランス人は彼らだけて固まってフランス社会を形成し、その言語、文化を維持したようです。中国人は極めて保守的でパイオニア精神に欠け、いつも他民族が掘り尽くして放棄した鉱区の権利を買っては再採掘していたという記録が残っています。国民性があらわれたエピソードです。
万次郎はアメリカ東部のマサチューセッツ州フェアへブンの町で教育を受け、航海術まで学びました。その後、捕鯨船に乗り3年4カ月、7つの海を駆け巡ったとされています。1849年9月、捕鯨基地に戻るとゴールドラッシュの噂を耳にします。日本に帰る資金を稼ぐ絶好のチャンスでした。
カリフォルニア行きを決心した万次郎は、彼を救ってくれた恩人の船長に別れを告げ、海路サンフランシスコに到着。現在カリフォルニア州都のあるサクラメントで食料品、日用品を購入した後、コロマの近くの山に入り、最初は日雇人夫として働き、後に独立して僅か2カ月半で600ドルの大金を貯めることができたとされています。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 36 激変した世界地図の中の江戸時代 世界の勢力地図
徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府が開かれた1603年から1867年に大政奉還するまでの264年間、日本は江戸時代が続きました。
では、同じ時期に世界の勢力地図はどのようになっていたのでしょうか? そして日本は世界各国とどのような関係にあり、直接的にせよ、間接的にせよ、どのような影響を受けたのでしょうか? 小栗上野介が登場する幕末までの動向を同時代的に進めながら関係性を紡いでいきます。
イギリス、フランス、スペインなどのヨーロッパの強国がこぞって自国の領にすべき進出した新大陸(アメリカ)。江戸時代初期の1607年、まずイギリスが植民地を建設します。当時の幼い女王にちなんで「ヴァージニア」と命名された植民地を皮切りに、大西洋に沿って多くの植民地を開いていきます。1733年にはジョージア植民地が形成され、ここに13の植民地が揃います。
イギリスは植民地に対して本国なみの課税はせず、植民地が輸入する商品に高率の関税をかけました。また、鉄などの植民地での生産を禁止することで、植民地を本国の市場、あるいは原料供給地として確保する「重商主義」的政策を取りました。つまり、植民地は釘一本にいたるまでイギリスから輸入しなければいけなかったのです。
17世紀末から断続的に続けられていたフランスとイギリス両国の植民地支配をかけた対立は「七年戦争」と呼ばれる長期間の抗争の結果、イギリスが北米の植民地のすべてを奪うことになります。しかし、新大陸とイギリス本国は距離が遠いことから、政治的には植民地議会を中心とする自治が認められていました。フランスとの戦争で財政が悪化したイギリスは、植民地に対してさらに無茶な政策を強制します。財政難の東インド会社が植民地で茶を無税で独占販売できる特権を与えたのです。植民地ではイギリス本国に対する反対運動が広がり、対立が深まっていきます。
イギリス本国と植民地の対立は、やがて独立戦争へと発展していきます。1775年にイギリス本国軍と植民地の民兵が衝突。植民地側はジョージ・ワシントンを司令官として戦いに挑みます。ヨーロッパ諸国はこの闘争を覇権国イギリスを叩く好機と捉え、フランス、オランダ、スペインは植民地を支援。武装中立同盟のデンマーク、プロイセン、ロシアなども間接的に植民地を支援しました。こうして1776年、13の植民地はフィラディルフィアで「独立宣言」を出し、アメリカ合衆国を成立させます。
1783年のパリ条約で、13州の独立は認められ、1787年にはアメリカ合衆国憲法が制定されます。選挙による大統領の選出、司法・立法・行政の三権分立と州の強い権限を特色とする連邦国家の誕生は、のちに小栗上野介が描く国家のイメージに大きな影響を与えました。大政奉還の際に「早急に幕藩体制を廃止して、郡県制へ移行させ、そのうえで大統領制を敷く」と構想した上野介は、明らかにアメリカ合衆国をモデルにしたものです。
さて、独立を達成したアメリカ合衆国は1803年、ナポレオン1世が支配するフランスから1500万ドルでルイジアナを購入し、領土を倍増させます。以降も1819年にスペインからフロリダを購入、1845年にメキシコ領のテキサスを併合。1848年にはアメリカ合衆国が大きな飛躍を遂げるきっかけとなるカリフォルニアの併合に成功します。形式的にはメキシコから1500万ドルで購入したカリフォルニアでその年に金鉱が発見されたのです。アメリカはとても安い買い物をしたわけです。金鉱が発見された翌年の1848年からゴールドラッシュが始まります。一獲千金を求める男たちは、その年にちなんで「フォーティナイナーズ」と呼ばれました。
一方、当時のアジアも激動の時代を迎えていました。中国という巨大な市場を手に入れるためにイギリスがアヘン戦争(1840年)を仕掛け、清国が無理やり開国させられたうえ、香港がイギリスの植民地になっていたのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 35 銀行設立と財閥の誕生 三井と三菱
幕末に「兵庫商社」を設立した小栗上野介。その小栗から多くのことを学んだのが後に「三井の中興の祖」と呼ばれる三野村利左衛門です。彼は三井銀行の礎を築きました。三野村の死後、三井の後継人として活躍したのが渋沢栄一でした。第一国立銀行、東京株式取引所などを設立したのも渋沢です。
一方、幕末に活躍した坂本龍馬の海援隊の行動パターンを引きづいたのが、後に「三菱」を立ち上げる岩崎弥太郎でした。
三井はその出発点が呉服屋および両替商で、幕末、維新の転換期には、事業を金融および貿易という分野に絞り込み、一部の事業を切り捨てました。生産よりも商業コミッション、あるいは金融分野で利益をあげることが三井の事業の中心にあったということです。旧三井銀行の設立も、この流れの上にありました。
これに対して三菱は、海運事業からスタートし、造船、商事、銀行、地所などの事業へと枝分かれしていきました。海運業を母体としたことから、必然的に船舶の修理、建造を必要とし、機械工業と関連しながら重工業への道を切り開いていくことになります。このため軍需産業のウェイトが高くなり、いくつかの戦争で兵器を製造することになります。三菱は創業社長の岩崎弥太郎、2代目の弥之助 (弥太郎の弟)、3代目の久弥 (弥太郎の長男)、4代目の小弥太(弥之助の長男)まで、岩崎家が社長を務めました。これは他の財閥グループには見られないことです。世に言う「岩崎家」とは、岩崎弥太郎と2代目の久弥の2家系からなることがわかります。この両家が実権を握って企業の舵取りを続けた点が、三菱の特徴といえるでしょう。
2代目の久弥は1896年(明治26年)に、その経営手腕を買われ、第4代日本銀行総裁に就任しています。三菱為替店が三菱銀行に改組されたのは1919年です。ちなみにUFJ銀行を経て、東京三菱UFJ銀行へと合併されていく三和銀行と東海銀行は、当時まだ誕生していません。
1919年当時、すでに営業していた銀行は、
(1) 三井銀行(のちに太陽神戸三井銀行→三井住友銀行)
(2) 住友銀行(のちに大阪銀行→住友銀行→三井住友銀行)
(3) 横浜正金銀行(のちに東京銀行→東京三菱銀行→東京三菱UFJ銀行)
(4) 安田銀行(のちに富士銀行→みずほ銀行)
(5) 第一銀行(のちに第一勧業銀行→みずほ銀行)
(6) 大阪野村銀行(のちに大和銀行→りそな銀行)
(7)北海道拓殖銀行(1997年に破綻)
三菱は、銀行としては後発ながら、その後、東京銀行やUFJ銀行を吸収し、現在まで生き残っているということです。
さて、第二次世界大戦後の企業分割(財閥解体)で痛手を受けたのは、三井より三菱のほうが大きかったと想像できます。事実、三菱は激しく抵抗したが、三井は財閥内でむしろ三井本社の解体論が台頭していたとされています。
1946(昭和21)年9月、三菱本社は正式に解散し、三菱各社は戦後の混乱の中で、それぞれ独立した会社として苦難の道を歩み始めました。GHQの指令は、関係会社の社長や幹部の追放と解散に及び、三菱の商号や商標の使用も厳しく制限されました。戦後、三井本社、三井物産も同じく解体されました。三井、三菱、住友、安田の4財閥、これに富士産業を加えた5社が財閥解体の第1次指定になりました。
以降、多数の会社に分散した財閥系企業は、現在の企業グループへと形を変えて発展していくのです。
『小栗上野介が駆け抜けた時代』は、次週からは再び江戸時代に戻り、ゴールドラッシュに沸くアメリカ、当時世界の海を支配していたオランダやアジア侵略を図っていたイギリスなどの諸国の動向を追いながら、人物の交流や貿易などにスポットを当てて展開していきます。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 34 銀行設立と財閥の誕生 三菱商会
1873(明治6)年に岩崎弥太郎自身が社長となって“三菱”を名乗り、三菱商会、三菱蒸汽船会社、郵便汽船三菱会社と改名を重ねながら、活発な活動を展開していきました。明治7年頃から、日本の海運業は三菱に独占されたのです。
三菱を敵視する渋沢栄一と井上馨、三井物産の益田は、三菱の営業スタイルに反感を抱いている地方の船オーナー、問屋、荷主などに声をかけ、反三菱グループを設立しようと企てました。「一大海運会社を設立するから出資してほしい」と打診したのです。このときに誕生したのが「東京風帆船会社」です。しかし、岩崎は次の手を打ち、「三菱が全面協力するから、自分で物産会社を設立してはどうか」とすすめたのです。この誘いが巧みだったのか、三菱は明治15年頃まで海運業を独占しました。
しかし、時代の風は常に順風とは限りません。1882年、反三菱勢力の急先鋒、東京風帆船会社と北海道運輸会社、それに三菱系の越中風帆船会社の3社が合併して「共同運輸会社」が創立します。当時の金で資本金600万円という巨大企業で、260万円を政府が出資しました。そして郵便汽船三菱会社と同じ航路、同じ時間の就航をスタートされるのです。三菱は再度値下げ攻勢に出て、共同運輸を撤退させようと画策します。受ける共同運輸もさらなる値下げで対抗しました。競争は激化し、両者の争いはもはや政府が放置できないところまで達します。
1884年、岩崎弥太郎が他界します。1885(明治18)年には、共倒れと混乱を恐れた政府が両社の間に入り、郵便汽船三菱会社は反三菱派が後押しする政府保護の共同運輸会社と対等合併を強いられました。こうして誕生したのが「日本郵船会社」です。出資は共同600万円、三菱500万円と評価されました。表面的には三井が実権を握っているように見えますが、共同の株式は分散しており、なお岩崎に買い占められていました。従って重役は三菱系で占められました。これにより三菱は、中心事業であった海運業の独占状態から三井との合併会社となり、社員の多くが新会社の日本郵船会社に移籍しました。
この日本郵船が、日本の近代的株式会社のシンボル的存在となるのです。伊藤博文までが会議に参加したとされています。日本最初の定年制、日本最初のボーナス制、日本最初の退職金制度など、日本最初の会社制度が日本郵船から始まっています。これは小栗上野介が、横須賀製鉄所運営に用いようとした手法によく似ています。
さて、その後、三菱が事業を継続できたのは、生前、岩崎弥太郎が海運に代わる営業部門を確保していたことによるでしょう。先見の明があったということです。1873(明治6)年の吉岡鉱山や1881(明治14)年の高島炭砿の買収に始まる鉱業(三菱鉱業の前身、現・三菱マテリアル)、1884(明治17)年の官営長崎造船所(現・三菱重工業)を借り受けて進めた造船業などがそれです。これらの二つの事業は以後、三菱が推進する事業の中核となります。
1885(明治18)年に2代社長に就任した弥太郎の弟の弥之助は、三菱社を設立し、鉱業、造船を中心に会社の再興を図りました。やがて日本郵船も三菱に復帰し、1893(明治26)年に、弥之助は軌道に乗った三菱社を三菱合資会社に改組します。
なお、弥太郎の時代に東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、明治生命保険(現・明治安田生命保険)、三菱為換店(現・三菱東京UFJ銀行)が設立されています。こうして三井を追いかけるように、三菱も財閥への道を歩いていったのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 33 銀行設立と財閥の誕生 郵便蒸気船会社
三井が「三井銀行」と「三井物産」を設立したのが明治9年。その3年前に岩崎弥太郎は「三菱商会」を設立しています。自身の家紋である「三階菱」から取り、トレードマークに菱形を採用します。こうして民間の汽船運輸業をスタートさせます。
彼の前にたちはだかったのが、半官半民の「郵便蒸気船会社」。三井の三野村利左衛門と渋沢栄一の合作の企業です。これは現在でいうところの大蔵省主税局長であった頃の渋沢が地方から租税を中央に集めるために汽船を必要としたことから始まっています。半官半民とは、会社設立の資金が三井の管轄する国庫金から捻出されていたからです。つまり、政府の運営でありながら、その半分は三井グループの運営ということです。
見方を変えれば、幕末に小栗上野介が提示した「自前で船を造ることで近代化を推し進められる」というビジョンを、三野村が受け継いだともいえるでしょう。資金力に恵まれた郵便蒸気船会社の登場によって、民間の弱小海運業社は倒産していきました。しかし、郵便蒸気船会社にも弱点がありました。郵便蒸気船会社は官の気風が抜けずに高慢な運営をしていたのです。汽船運輸業を始めた岩崎弥太郎は、そこに活路を見いだしました。
弥太郎は当時の権力者である大久保利通や大隈重信に積極的に接近しました。明治7年、江藤新平が明治政府に対する「佐賀の乱」を起こした際、大久保はこれを鎮圧するために必要な海上輸送の一部を三菱商会に依頼。同年の「台湾出兵」の際には、これに井上馨、渋沢栄一が反対したため、大久保は彼らと親密な関係にある「郵便蒸気船会社」を使わず、三菱商会の船を使ったのです。
つまり、「大久保利通-大隈重信-三菱商会」というラインと、「井上馨-渋沢栄一-三井グループ(郵便蒸気船会社)」というラインが激しく対立したわけです。
弥太郎が政商として活躍しはじめ、郵便蒸気船会社と三菱商会の立場は逆転します。やがて郵便蒸気船会社は解散。同社が所有していた船18隻は政府が買い取り、政府所有の13隻の船とあわせてほとんど無償で三菱商会に払い下げされ、さらに三菱商会に助成金まで交付したのです。三菱商会はこうして日本近海の航路を独占することになります。大久保利通が暗殺されたのちは、大隈重信が三菱商会を援護し、上海航路を開くことを弥太郎にすすめます。
三菱商会は半官半民であった「郵便蒸気船会社」の業務を引き継ぎ、吸収する形で社名を「郵便汽船三菱会社」と改め、外国船の運賃より値下げした運賃で打って出ます。政府の支援もあり、三菱は徹底したディスカウント戦略で海外の海運業者を退けていきます。
政界から天下りした渋沢栄一が「第一国立銀行」の頭取に専念していた頃、時代の風雲児・岩崎弥太郎は「台湾出兵」や明治10年の「西南の役」などの軍事輸送で巨額の富を得、三菱は三井に匹敵するほどの富豪にまで成長していきます。明治10年末の時点で、郵便汽船三菱会社の所有する汽船は61隻。当時の日本の汽船総トン数の73%を占めるまでに至りました。
弥太郎は汽船を中心とする為替業、海上保険業、倉庫業と事業範囲を広げていきます。三菱で荷為替を組んだ製品はすべて三菱の船で運び、三菱の船で運ぶ荷物はすべて三菱の保険をつけ、三菱の倉庫に納めるというビジネスです。荷為替料、保険料、運賃、倉庫料のすべてで儲けたわけです。
三菱が海運を独占したことで直接打撃を受けたのは、益田孝率いる三井物産でした。わずかな汽船しか所有しない三井物産は、嫌でも三菱の汽船を利用しなければいけませんでした。三井物産は三菱に対して莫大な運賃を支払っていましたが、値引き交渉をしても岩崎弥太郎は拒絶し続けました。
渋沢と益田は弥太郎に反撃を開始します。独占の排除を訴え、三菱を敵対する地方の船のオーナー、問屋、荷主などに声をかけ、一大海運会社を設立し、三菱に対抗しようという狙いです。こうしてライバルは激突したのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 32 銀行設立と財閥の誕生 三井組ハウス
明治5年6月、三井が銀行業務を行うための「三井組ハウス」が日本橋に完成しました。しかし、三井単独の銀行設立に「待った」がかかります。この建物を三井・小野の「共同銀行」に譲るべし、という井上馨、渋沢栄一の命が下ったのです。当時の井上は大蔵大輔(現大蔵大臣)、渋沢は大蔵官僚でした。三井の大番頭、三野村はこれを拒否し、駿河町にあった両替店を急遽、新築の「三井組ハウス」に移転させたのです。
すると井上、渋沢は三井が務めていた政府の為替方を廃止し、「預かっている官金を即納せよ」と迫り、「三井・小野組合銀行」に大蔵省為替御用を命じるよう辞令を交付しました。そして政府は「三井組ハウス」をこの銀行に譲渡するよう、三井に命じたのです。三井は政府の決定に逆らうことをあきらめ、苦々しい思いのまま受け入れました。「三井組ハウス」は建築費の2倍以上の価格で譲渡されました。
この銀行は同年11月、正式に「第一国立銀行」と命名されました。これが日本初の“商業銀行”です。同行は日本最初の株主公募広告を新聞に掲載しましたが、応じたのは59名のみでした。役員として、頭取の上に総監役として渋沢栄一が就任。2年後、渋沢は頭取に就任します。これが日本の“役人天下り”の第一号です。渋沢はその後、東京ガス、東京海上保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなどの企業の設立にかかわります。
一方、三井は幕藩時代からのライバル小野組を排除したいと願っていました。明治7年、そのチャンスが到来します。当時、大蔵卿(現在の大蔵大臣)であった大隈重信が、三井、小野、島田に預けている官金の担保を3分の1から一挙に全学に増額させようと画策します。三野村は井上馨からその情報を入手し、全力を挙げて担保を準備しました。そして大蔵省から正式に通達が布告されたとき、小野組、島田組はまったく対策ができませんでした。結果、小野組と島田組は倒産します。三井は小野組の負債の整理を引き受けます。
同年、三井両替店は「為替バンク三井組」に改組。「第一国立銀行」から手を引き、2年後の明治9年、日本初の“民間銀行”を設立します。これが「三井銀行」の誕生です。創立願を受理した当時の東京都知事は、かつての幕臣、大久保一翁です。
一方、明治5年に大蔵省を辞任した井上馨は明治7年、大蔵省の益田孝とともに貿易会社「先収社」を創業。その後、政界返り咲きに成功した井上は、先収社の利権を益田に譲渡します。当時、三井の三野村は社内に「三井国産方」を設立し、貿易を担当させていました。これに目をつけた三野村は先収社と三井国産方を合併させ、ここに「三井物産」が誕生します。初代社長・益田は三井家の「雇われ社長」ではあったものの、経営の実権を全面的に委任されました。
三井は明治中期に「三井銀行」「三井物産」とも明治政府の公的業務を返上し、民間取引に専念。政商を脱却し、財閥の道を歩むことになります。旧三井物産は当時の国民経済にとって最大の生産物だった米の国内の流通整備を推進、さらに日本の米を日本の船でヨーロッパに初めて輸出することに成功します。また綿糸紡績業を支え、イギリスから最新鋭の紡績機械を輸入、中国、インド、米国からは綿花を輸入し、日本綿紡躍進の陰の立役者となります。
益田はのちに官営三井炭鉱の払い下げ入札で三菱の岩崎弥太郎と争い、落札に成功します。旧三井物産が飛躍的な発展を遂げたのは、三井鉱山の石炭があったからとされています。石炭の市場を上海、香港、シンガポールなどに開拓したのです。こうして益田は、明治40年代に巨大な三井財閥を完成させるのです。別の角度から見れば、それは最大のライバル三菱との死闘の歴史ともいえます。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 31 銀行設立と財閥の誕生 三井組
新政府へ資金援助を続けた三井組は、大政奉還が実施された慶応3年(1867年)、金穀出納所御用となります。つまり、新政府の資金の窓口を担うようになったのです。利権はこれだけではありません。会計事務局為替方も担当したので、新政府の経理や為替政策も担ったということです。
三井組は明治2年(1869年)、大阪の豪商に呼びかけ、貿易と金融の両方を業務とする「東京貿易商社」を設立。そののち金融業務を専門に行う「東京 為替会社」を誕生させ、東京貿易商社を「東京 通商会社」に改組し、貿易関係の業務を引き継ぎます。以降、「大阪 為替会社」「大阪 通商会社」といった具合に全国8都市にペアで設立されます。
前身となる東京貿易商社の設立は、三井組の大番頭に出世した三野村利左衛門の発案でしたが、小栗上野介が描いた「兵庫商社」の精神が受け継がれていることは明白です。業務内容も外国貿易のコントロール、貸付、預金、為替など兵庫商社の業務と似通っています。
通商会社は地方商社を通じて諸国物産の流通をコントロールします。全国から物産を集め、輸出するわけです。輸出によって得た利益は為替会社にプールし、「為替札」を発行します。この構想も上野介が描いた兵庫商社や「国益会所」と共通しています。
通商会社、為替会社はすぐに閉鎖されます。役員が「会社」運営についてよくわからなかったからです。三野村利左衛門は、共同出資の会社がうまく運営できないのなら、為替会社のかわりに三井組が単独でバンクを設立し、通商会社のかわりに貿易部門をつくればいいと考えました。この構想がのちに三井銀行、三井物産へと発展し、三井は日本屈指の財閥へと成長していくのです。
明治4年、利左衛門は「三井組バンク」の創立と紙幣発行の願書を明治政府に提出します。三井は幕末期、上野介の指揮のもと、紙幣発行を経験しています。利左衛門は、当時大蔵官僚であった渋沢栄一に「英語のバンクを何と訳すべきか?」と聞いたとされています。渋沢は「金行」か「銀行」か迷った末、「銀行」を選びました。利左衛門に銀行設立の内諾を与えたのは、当時大蔵大輔の職にあった井上馨でした。井上はのちに三井財閥の最高顧問になり“三井の大番頭”ともいわれる人物です。
三井による銀行設立の動きを察知した三井組のライバルも黙ってはいませんでした。「為替御三家」と呼ばれた三井、小野、島田のうち三井だけに銀行設立が認められたとあって、他の2社は巻き返しを図ります。小野組は、明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任した五代友厚を頼ります。五代は1869年に退官し、金銀分析所などを設立し、鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ実業家として道を歩んでいました。いわば大阪の実業家の大御所です。「三井が認められるなら小野組にも銀行設立の承認を」という五代の要求を、井上馨とその部下の渋沢栄一は無視できませんでした。
明治5年、三野村利左衛門は井上馨と渋沢栄一に呼び出されます。「三井が単独で銀行を始めるつもりなら、呉服業をやめなければいけない。呉服業を取るか、銀行を取るか、どちらかにしろ」と無理難題を押しつけたのです。明治に入ると、呉服店は時代の流れに添えなくなっていました。明治維新により、武家の得意先を失い、洋服も登場していました。利左衛門は呉服業をやめるべきだと考え、三井家同族を説得。こうして呉服業は分離され、「三井呉服店」となり、のちに「三井」の「三」と「越後屋」の「越」をとった「三越」が誕生するわけです。ここにも利左衛門の冴えた決断力が見受けられます。
明治5年、日本橋に高層西洋建築の建物が完成しました。三井はここで銀行をスタートさせようとしたのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 30 銀行設立と財閥の誕生 銀行設立と財閥
今週から小栗上野介が幕末に実行した金融政策がひとつのアイディアとなって銀行設立にまで発展する過程と、それと並行して財閥が誕生していく様子をつづっていきます。
上野介が勘定奉行を務めていた頃、のちに三井の中興の祖となる三野村利衛門が上野介の屋敷に出入りしていたことは以前紹介しましたが、上野介が両替商・三井組に百万両の御用金の内示をした際に三井の代理人として御用金免除を上野介に訴えたのが利衛門でした。知恵のまわる利衛門は、泣き落としではなく、ある構想を上野介に提案したのです。
それは江戸幕府が江戸町人に商品担保の市中貸出しを営むというものでした。現代風にいうならば「中小企業金融公庫」の設立です。その資金十万両を三井組が請け負うという構想です。上野介は開港によって登場した外国商館が商人に対して前貸し金融を営み、全国の生産地をコントロールしつつあることを苦々しく思っていたので、三井組がその金融業務を代行してくれることを好都合だと判断しました。商人への貸出しにあたっては、商品担保を設定するからリスクは少ないと見込んだのでしょう。
こうして上野介は新たな金融政策を実施したのです。「江戸市中荷物御引当御貸付金」というのが、この制度の名前です。上野介は三井組に「御貸付金」の取扱いを命じ、御用金を大幅に免除したのです。
インフレと外国商館に利益を吸収されていた江戸や横浜の商人は、この金融制度によって活力を取り戻したといわれています。市中の問屋が資金を得て活性化し、外国商館の生産地支配を防ぐのに役立ったようです。当時経済的に困窮していた三井組は新規事業の進出によって危機を脱し、江戸の経済は活況を帯びるという一石二鳥の政策でした。
「江戸市中荷物御引当御貸付金」を実施するために三井組は「三井御用所」を新設します。こうして三井組は両替商以外の事業に進出し、三野村利衛門は三井組に正式に採用され、「三井御用所」に勤務することになります。以降、上野介の財政政策を三野村利衛門が支え、三井組がその政策の中核を成すようになっていきます。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 29 江戸時代の貨幣制度 トマス・グラバー
今回は貨幣制度から少し離れ、政治と経済が混乱する幕末に、むしろそれを利用してビジネスに挑んだ人々を紹介しましょう。
第二次長州征伐では、大軍で長州へ攻め入った幕府軍が敗退しましたが、長州軍の勝因は最新の西洋式兵器を所持していたからだとされています。西洋式兵器の大半は、薩摩藩が外国商人から購入し、船で密かに長州へ送ったものでした。外国商人とは、スコットランド生まれのトマス・グラバーです。「薩長の黒幕」とも「死の商人」とも呼ばれるグラバーは、中国を拠点にする英国のジャージン・マセソン商会の代理人(日本支社長)として長崎に訪れ、1861年に「グラバー商会」を開業しました。
ジャージン・マセソンといえば、香港に進出し、清国(中国)に阿片を売りつけ、阿片戦争を誘導し、イギリスが香港を取得する筋書きを書いた男です。マセソンを背後で操っていたのは、ロンドン・ロスチャイルド家です。同じ時代に、ひとつの国を乗っ取るような輩が世界にはいたわけですから、外交と財政に疎い幕府の閣僚は歯が立たないわけです。
グラバー商会へは、坂本龍馬、伊藤博文をはじめ、のちに三井財閥の最高顧問になった井上馨、のちに大坂商工会議所の初代会長になる“政商”五大友厚、のちに大阪府知事に就任する後藤象二郎、明治時代に外交官として活躍した寺島宗則、明治政府初代文部大臣の森有礼などが通っていました。こうして名前を挙げると、坂本龍馬と小栗上野介とは異なり、明治時代に政財界で活躍する多くの人物が通っていたことがわかります。
慶応3年(1867年)には、のちに「三菱商会」を立ち上げる岩崎彌太郎が土佐藩の開成館長崎出張所に赴任し、すぐさまグラバーとの商談に取りかかったという記録が残っています。貨幣制度が崩壊していた幕末においても、ビジネスマンの臭覚は敏感で、どこに商材があるのかを常にかぎまわっていたということでしょう。また、岩崎彌太郎と井上馨を結ぶラインも案外、グラバー商会にあったのかもしれません。
そのグラバーは貿易にとどまらず、日本での事業にも乗り出します。慶応4年(1868年)、肥前藩から経営を委託され、長崎の高島炭鉱にイギリス製の最新採炭機械を導入し、本格的な採掘を開始します。明治7年(1871年)、廃藩置県によって炭鉱はいったん官営となったのち後藤象二郎に払い下げられ、同14年(1881年)になって岩崎彌太郎が買収し、三菱の経営に移ります。また、薩摩藩と共同で長崎に日本初の洋式ドックを建設します。設備はすべてイギリスからの輸入でした。
さて、薩摩と長州とを握手させたのは、かの坂本龍馬だとされています。龍馬は長崎のグラバー商会の窓口としても活躍し、ビジネスマンとしての才覚もすぐれていたようです。薩長連合が誕生する1866年まで、薩摩藩は龍馬を介して洋式兵器は豊富に揃ったものの、食糧は不足していました。逆に長州藩では食糧は豊かにあったものの、近代兵器は揃っていませんでした。これでは幕府の長州征伐が決行されれば負けてしまいます。そこで龍馬が考えたのが、薩摩藩の武器と長州藩の食糧を交換させるという計画でした。龍馬はこの商談で大きな利益を得たとされています。
皮肉をこめていえば、幕末の混乱期に、大量の貨幣がグラバーなどの武器商人の手に渡ったということです。映画『ラスト・サムライ』にも武器商人の様子が描かれていますが、龍馬はグラバーを通じて利益をあげたということでしょう。巨額の資金がなければ、龍馬が貿易会社「海援隊」を組織し、自ら船を購入することなどできなかったでしょう。また、彼は紀州藩の軍艦との衝突事件(いろは丸沈没事件)では、紀州藩に賠償金を請求し、87000両という大金を手にするなど、巧みな交渉術も発揮しています。歴史小説やテレビドラマでは、坂本龍馬は日本の将来を案じたヒーローとして描かれていますが、そろそろ、したたかなビジネスの側面にも着目してほしいものです。
小栗上野介が駆け抜けた時代 28 江戸時代の貨幣制度 銀高金安
幕末の改鋳は、大いなる矛盾をはらんでいました。幕府が開港を迎えるにあたって新鋳した安政二朱銀は従来の秤量貨幣とは異なり、額面が記載された表記貨幣でした。それまで流通していた天保一分銀の重量が8.6グラムであったのに対し、新しく登場した安政二朱銀の重量は13.5グラム。その貨幣価値は、金貨である二朱金と等価とされ、したがって1/8両、また1/2分に相当しました。ちなみに当時の洋銀(メキシコ・ドル)の重量は26.8グラム、含有純銀量は24.1グラムでした。
江戸時代末期、国内の金銀の相対比価は1対5でした。これに対して国際相場は1対13~16。海外の相場から大きく乖離し、「銀高金安」が進んでいたということです。もともと江戸時代の金相場は物価と相反する動きをしてきました。すなわち、物価上昇期には金相場が下落(銀高)が起こり、反対に物価下降期には金相場が上昇(銀安)が生じていたのです。
しかし1850年以降には物価が加速度的に上昇しました。幕末になると、開港によって銀貨が「同種同量の原則」に基づき、素材価値は低いが重量のある洋銀と両替されることになりました。
ここで洋銀→一分銀→小判→洋銀という裁定(利ザヤ取り)取引によって、相当量の金貨(小判)が海外へ流出する事態が発生しました。利益に敏感な米英の貿易商人や金融業者たちはもちろんのこと、各国の大使や公使までもが小判を買いあさりました。幕府は金貨の流出を防ぐために再び金貨を改鋳し、品質を落し、さらにインフレを助長したのです。現在なら内閣の閣僚は「即刻退陣」というところでしょう。
「幕末の改鋳が江戸幕府を滅ぼした」と分析する経済学者は、改鋳により金貨の海外流出が進み、国内の通貨の価値を下落させ、物価高騰が起こり、経済混乱を招いたことで、討幕の動きが活発になったと指摘しています。
江戸幕府が発行した最後の小判となった「万延小判」は、それまでの3分の1の大きさになり、純金量も慶長小判の約1/8しかありませんでした。下記にその推移を記します。
●慶長小判の金の含有量 15.351グラム
●元文小判の金の含有量 8.45グラム
●文政小判の金の含有量 7.28グラム
●天保小判の金の含有量 6.39グラム
●安政小判の金の含有量 5.13グラム
●万延小判の金の含有量 1.824グラム
(万延小判からすれば、慶長小判の金の使用料は約8.4倍。幕末には、同じ金の量で8倍もの枚数の小判を発行していたということです)
ものを売る側にしてみれば、「万延小判で1両だ」と言われても納得できず、「大きさが3分の1なので3両(小判3枚)でないと売らない」「純金量が少ないので、万延小判には天保小判や安政小判ほどの価値はない」ということになります。すると必然的に物価は上がります。つまりインフレです。
通貨の価値が下がった要因は、改鋳だけではありません。貿易の開始も物価の急騰をもたらしたのです。1859年から1866年にかけての物価の伸びは、米価換算で10倍。たとえば生糸一包みは、200ドルから800ドルと4倍も高騰しています。封建的な経済を続けてきた国がいきなり自由貿易をすると、どうなるかという見本のようです。貿易開始から幕府滅亡までは10年もかかっていないという事実から、当時の日本が貿易に疎く、先進国のカモになったという見方もできます。
当時の記録をひもといてみると、最初は儲かっていた外国との貿易も、1866年を境に赤字になってゆきます。外国人商人の手練手管に日本人商人は歯が立たなくなったのでしょう。さらに欧州の列強は兵庫の開港が遅れた代償として、改税約書を押し付けてきました。また、攘夷運動が下火にならないのは、天皇が通商条約の勅許を出さなかったからだとして、兵庫に軍艦9隻を並べて圧力をかけてきます。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 27 江戸時代の貨幣制度 元文の改鋳
先週に引き続き、改鋳の歴史を説明しましょう。「元文の改鋳」で貨幣の実質価値の差異を増歩(ましぶ)交換政策によって乗り切った吉宗は、徳川幕府が期待したとおり新金貨との交換が急速に進み、貨幣流通量は改鋳前との比較において約40%増大しました。この貨幣供給量の増加は物価の急上昇をもたらし、深刻なデフレ下にあった日本経済に恵みを与えたとされています。経済情勢も好転し、元文期に制定された金銀貨は、その後80年もの間、安定的に流通しました。
この一連の流れをメカニズムとして捉えるなら、次のような流れになります。
改鋳(含有純金量は減少)→増歩交換方式による新旧貨幣の交換→貨幣供給量の増大→物価の上昇。一方、幕府財政は、相対米価の上昇、年貢の増徴のほか、貨幣流通量増加の一部が改鋳差益として流入したこともあって大きく改善しました。この傾向は1760年代初頭まで続きました。このように元文の改鋳は、日本経済に好影響をもたらしたと積極的に評価される数少ない改鋳でした。
ところで、金座で新規に鋳造された貨幣(金貨)は、どのような流れで流通していったのでしょうか? 両替商が重要な機関として機能したのです。江戸の金座で鋳造された金貨が大坂市中に流通していくプロセスを説明しておきましょう。
江戸金座→大坂の三井組、鴻池屋が受け取る→系列メンバーの両替商に貨幣を割り当てる→両替所で新旧貨幣を交換→三井組、鴻池屋あてに旧貨を上納→幕府より三井組、鴻池屋あてに報酬→参加の両替商に報酬を分配。こういうプロセスとなります。
しかし、小栗上野介が活躍した幕末にかけては、財政窮乏を補うため質を落とした改鋳がたびたび行われ、慢性的なインフレを引き起こしました。「この改鋳が江戸幕府を経済的に崩壊させた」と説く研究家は少なくありません。江戸期最後の万延小判は大きさも極端に小さく、純金量も慶長小判の約1/8しかありませんでした。
幕末に行われた安政・万延の改鋳は、1854年に締結された「日米親和条約」、1858年に締結された「日米修好通商条約」(神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港と自由貿易の許可)によって、諸外国との貿易が開始されるようになって、日本の金がどんどん外国に流出していったことに対処するために実施されました。開港によって表面化した内外の金銀比価の乖離が引き金になったのです。
しかし、改鋳の結果、万延元年(1860年)以降、猛烈な勢いでインフレが進行する「ハイパーインフレ」が発生します。1859年の開港後、明治2年(1869年)までの間に名目貨幣量は5,300両から1億3,000万両へと急増しています。10年にわたり年率9%近い比率で増加した貨幣供給量が物価高騰をもたらしたのです。
小栗上野介が遣米使節団の監査としてアメリカへ旅立った安政7年1月(同年3月に万延に改元)、彼が持参した小判は「万延小判」でした。一行が出発した2日後、それまで流通していた天保小判1両の増価が布告されました。金銀含有量が多く、型も大きい天保小判1両は、新鋳の万延小判3両1分2朱とすることが発表されたのです。天保小判1両を持っていれば、それが3倍以上の価値になったのです。この情報を聞いたのが、のちに三井家の中興の祖となる三野村利左衛門でした。小栗家の出入り業者で小規模の両替商であった彼は、かき集められるだけ金をかき集めて天保小判を手に入れたといわれています。
一方、開港によって日本に訪れた欧米人は当時、一般に金貨を使用することはなく、もっぱら銀貨、それもメキシコドルを使用していました。当時の通貨条項は「同種同量の交換」でした。つまり、金貨は金貨と、銀貨は銀貨と同量交換されるというものです。開港場の両替所では、役人が一方の秤にドルを、一方の秤に銀貨を載せて重さを測ったのです。つまり、開港によって実質的な金銀本位体制が始まったのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 26 江戸時代の貨幣制度 貨幣の改鋳
江戸時代には、幾度となく貨幣の改鋳が行われました。改鋳とは、金貨や銀貨の重量や金・銀の含有量を変更することです。改鋳の度に金座などの貨幣鋳造機関や両替商など商人を主体とする機関が、政府部門と民間部門との仲立ちとなって新旧貨幣の交換業務に携わりました。
改鋳は幕藩体制を経済的に支える米の価格を調整するために行われましたが、経済の拡大にともなう通貨の流通不足と幕府財政の悪化、金銀相場の内外格差を是正する目的もありました。
改鋳が行われた時代と回数は以下のようになっています。元禄・宝永・正徳・享保・元文(金貨のみ)・明和(銀貨のみ)・文政・天保・嘉永(銀貨のみ)・安政・万延(金貨のみ)の計11回(ただし、一方のみの改鋳もあるので、実際には金貨・銀貨ともにそれぞれ9回)。
このため、江戸幕府最初の金貨である「慶長小判」の時には現在の単位に換算して重さ約17.8g、金含有率84.3%あったものが、最後の「万延小判」に至っては重さ約3.3g、金含有率56.8%と辛うじて金貨の体裁を維持しているに過ぎない水準にまで低下しています。
改鋳の歴史は、幕府が貨幣制度を改定し、確立していく過程でもあります。興味深いのは、たとえば貨幣大系の中心に据えられた金貨は「一両」という額面の価値を与えられていたにもかかわらず、改鋳によって品位が変更したことと、額面は一定であっても金の純分量が異なったことです。後者については、秤量貨幣の矛盾点といえるでしょう。鋳造された時期によって金や銀の含有量が異なるのであれば、貨幣の価値も時期によって異なってしかるべきだと考えがちですが、「一両」の額面価値は同じでした。ただし、実質価値が異なった場合には、新旧貨幣は「増歩(ましぶ)」というプレミアムを付加して交換されたようです。
江戸幕府による最初の改鋳が行われたのは1695年。慶長金銀貨に比べて質を落とした金銀貨が発行され、貨幣流通量の増大が図られました。しかし、物価上昇が激しくなったため、再び改鋳が行われ、質の高い正徳・享保小判が発行されました。もっとも正徳・享保の改鋳では、小判の品位が引き上げられた一方で、「旧小判2枚が新小判1枚」とされたことから貨幣量が急激に減少し、経済活動が停滞したといわれています。
荻生狙徠の提言を受け、徳川吉宗によって行われた元文改鋳(1736年)は、貨幣量の適正化を目的として行われました。この時には質を落とした元文小判が発行されました。金貨は品位・量目ともに、享保小判の75%(貨幣の単位純量としては56%)、銀貨の品位は、享保丁銀の57.5%に切り下げられました。これが「元文小判」と呼ばれるものです。新旧貨の交換の際につけられる「増歩」は、金貨100両につき65両、銀10貫目につき5貫目でした。旧小判1両=新小判1.65両というプレミアムがついたのです。
八代将軍吉宗は、徳川幕府中興の祖として名高く、「享保の改革」を通じて、五代将軍綱吉の放漫財政や災害の発生などにより危機的状況に瀕していた幕府財政を見事に立て直した政治家としても知られています。享保7年(1722年)、町人請負方式による新田開発を解禁のうえ年貢米の増収を図ったり、米価の調整に腐心したりしたことで名高いですが、財政立て直しに最も寄与したのは、国内産業の振興策ではなく、「元文改鋳」という金融面からのリフレ政策でした。
吉宗は当初、倹約による財政緊縮を重視したため、幕府はもとより諸大名も財政支出の削減という強力なデフレ政策を実行しました。その結果、江戸の経済は深刻な打撃を受け、街は火が消えたようになったといわれています。物価も下落傾向をたどりました。とりわけ米価の下落が著しかったようです。年貢米の売却で生計を立てていた武士階級の場合、米価安は直ちに所得の低下を意味したため、米価の独歩安は彼らの生活を圧迫しました。そこで、改鋳が決断されたわけです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 25 江戸時代の貨幣制度 藩札
江戸時代に全国統一的な貨幣制度が確立したとはいうものの、金貨・銀貨が支払い手段として使われたのは、実質的には江戸や大坂、京都といった徳川幕府の直轄地においてのみでした。
それ以外の地域では何が利用されていたのかといえば、「藩札」(はんさつ)と呼ばれる地域通貨です。藩札とは江戸中期以降、領内で正貨(金・銀・銅貨)を流通させる代わりに領民に使用させた紙幣のことです。和紙に木版刷りが基本で、すかしや着色紙などの偽造防止などを取り入れたものもありました。明治4年の廃藩置県時には244藩もあり、諸藩の約8割が藩札を発行していました。江戸時代の日本は複数の「藩」から成る合衆国で、州法や州税と同じように藩だけの通貨が流通していたということになります。
藩札が生まれた背景には、大量の金貨・銀貨が海外流失した一方で、各藩の経済が発展し、貨幣の需要が増大したことが挙げられます。地方での貨幣不足が経済問題に発展することを危惧して各藩が藩札を発行したのです。つまり藩札には自領内の貨幣の不足を補い、通貨量を調整する機能が託されていたのです。しかし実質的には、藩札発行で得られる実通貨の納庫を目論み、これによって藩の財政難の解消をする目的があったようです。
藩札の発行には以下のような基本的なルールがありました。
(1) 領内における正貨の流通禁止、個人間での正貨と藩札の交換の禁止
(2) 藩士の給与は藩札で支給する
(3) 年貢など藩への支払いは藩札で行う
それでは商人が江戸や大坂で入手した正貨を持ち帰ると、どのような事態になったのでしょうか。藩は藩札の交換場所を設けて、正貨と引き換えに藩札を交付したのです。反対に領民がお伊勢参りや行商のため領外に出る際は、藩札と交換して正貨を渡しました。これは正貨を紛失したり、磨耗したりするのを防ぐためであったようです。
実際には藩札は、藩の財政をまかなうために正貨を大きく上回る額が発行されたようです。多くの藩では、藩札の乱発からその信用力を大きく損ない、藩札の価値が急落しました。表書きの金銀などの兌換保証が前提ですが、実際のところ、藩にそれだけの正貨が用意できなかったところがほとんどだったのです。反対に領民の藩札に対する理解が高い藩では、藩札は円滑に流通していました。たとえば「赤穂浪士」「忠臣蔵」で名高い赤穂藩(現在の兵庫県の一部)。浅野内匠頭が藩主になった時代に初めて発行された赤穂藩札は、信用力が極めて高く、藩内はもとより、江戸でも藩邸を出入りする商人の間で流通したといいます。塩田収入による経済力と、大石内蔵助を中心とする藩の通貨管理政策が順調だったのでしょう。
ちなみに浅野内匠頭が吉良上野介を刀傷した直後、出入りの商人たちはが「藩札引き換えをご検討のこと」と記した書状を出したとされています。藩が取り潰しされれば藩札はただの紙切れになるからです。それを受けた大石内蔵助は、一夜にして藩札の六分返し(額面の6割相当の正貨の払い戻し)を決断したとされています。
貨幣ではなく物品との兌換を明示した藩札もありました。最も有名なのが、米札(こめふだ)です。彦根藩の場合、藩札の額面にたとえば「納米弐升 此代壱匁預」と記され、米と銀との引き替えが行われていたために「米札」と称されていました。この米札は、経済的に窮乏する彦根藩士を救済することを目的に幕府から許可を得たものです。彦根藩は幕府の許可を得て、藩内での幕府発行貨幣の流通を禁止し、米札だけを通用させるという「皆米札」(みなこめふだ)政策を実施しました。これにともない皆米札奉行が新設され、領内には米札の引替所が置かれたようです。
このように江戸時代の貨幣制度は、江戸と大坂・京都、各藩によってそれぞれ異なる形態を持っていたのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 24 江戸時代の貨幣制度 信用制度
今回は江戸時代に大坂で発達した決算手段、銀目(ぎんめ)手形を紹介します。江戸時代は、全国統一的な貨幣制度がはじめて確立した時期として知られていますが、同時に藩札や江戸・大坂間を中心とした隔地間為替など“信用制度”も大きな発達をみた時期でもありました。
江戸時代の大坂は、全国各地から諸物産が集まる拠点で、集積した物資は問屋、仲買の手によって売買され、各地に送られました。大坂での取引は、一般に「江戸の金遣い(金建て)、大坂の銀遣い(銀建て)」といわれるように、秤量貨幣である銀貨(丁銀・豆板銀)を使って決済されていました。その取引のほとんどは、通帳に基づき信用で売買された後、商品ごとに定められた期日に代金が支払われました。この際に決済手段として利用されたのが銀目手形です。秤量貨幣の場合、重量が大きく、商人間の大口取引には不便であったことが、銀目手形が生まれた理由だとされています。
銀目手形の流通は、金銀貨幣の交換や預金・為替を取り扱っていた両替商を核として発達した信用制度により支えられていました。両替商が銀目手形を引き受け、決済や資金融資を行っていたのです。
銀目手形は形態的に2つのタイプに分けられます。両替商が預金者に対して発行した預り証(または銀貨の保管証)としての「預り手形」と、預金者が両替商に対して預金を引き当てに振り出した「振り手形」の2種類です。
預り手形は、両替商が預金者に発行した「預金証書」あるいは「銀貨の保管証」であり、現代の「預金小切手」に相当します。これらは両替商が正貨との引き替えで発行した自己宛の預金小切手であり、支払人である両替商の高い信用力に基づき支払手段として広く受け入れられていました。預り手形は第三者への譲渡が容認されていたことから“事実上の貨幣”として流通していたようです。
一方の振り手形は、今日の「小切手」に相当します。券面の右下に「何某殿へ」という受取人を示す名前が示されます。たとえば九右衛門さんが両替商の徳兵衛さん宛に発行した「正金五百両」の振り手形の手形受取人に吉兵衛さんの記名があれば、名義人(吉兵衛さん)がこの振手形を徳兵衛に持参することができ、正金五百両を受け取ることができたのです。振出人の九右衛門の「金銀取渡通」に相当の残高がなければ「不渡手形」になりました。
振り手形の日付は、振出人の資金繰りなどの都合によって先日付で振り出されることもあったようです。これを「延(のべ)手形」と呼び、受取人は満期日当日に両替商に預け入れ、現金化を図るのが一般的だったようです。大坂では両替商同士の資金決済にも銀目手形が用いられていました。
こうして調べていくと、大坂の両替商は、手形交換所や振替銀行に匹敵する資金決済システムを構築していたということが見えてきます。それは完全なピラミッド構造を成していました。三井や鴻池屋など大手の両替商が、幕府の政策に従って傘下の両替商を統轄していたのです。家格の異なる両替商との取引は、すべて親両替と称される系列のなかのひとつ上に位置する両替商を経由して行われたのです。
金・銀・銭の交換は変動相場制によるものだったため、商人や両替商は多額の為替差益を手にしていました。たとえば江戸では銀相場が安い時(金高銀安)に大坂に商品の注文をするのが有利、逆に大坂では金相場が軟調な時(金安銀高)に江戸に販売すれば利益が多くなりました。
銀目手形が廃止されたのは、慶応4年(1868年)でした。近代国家にはなくてはならない「通貨統一」という政策が決行され、「円」が誕生したわけですが、関西で通用していた銀の通貨としての役割が廃止されたので、大坂の商人は、銀目の手形を持って両替屋に押しかけ、両替商の経営が破綻したといわれています。これが銀の暴落を招き、関西経済に大きな打撃を与えてしまいました。
次週は金貨、銀貨、銀目手形以外の貨幣「藩札」を紹介しましょう。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 23 江戸時代の貨幣制度 手形取引と先物取引
江戸時代の貨幣制度が、金・銀・銅(銭)の三種類からなる「三貨制度」であったことは前回説明しましたが、では、江戸時代の人たちは実際にはどのようにこれら三貨を使い分けていたのでしょうか。その説明の前に貨幣特徴が生まれた順番と特徴を詳しく記しておきましょう。
天下の実権を握った徳川家康が最初に手がけたのが、1601年(慶長6年)に鋳造された、慶長小判をはじめとする「慶長金銀貨」です。
金貨は、甲州武田氏が鋳造した甲州金貨の価値尺度を踏襲のうえ、「両」を基本単位とする計数貨幣として発行されました。慶長金貨は、恩賞、儀礼等の特殊な用途に利用される大判(拾両)、一般的な交換手段として発行された小判(1両)、および一分金(4分の1両)の3種類から成っていました。金貨にも種類があるとは、なんとも面倒くさいことです。このうち、大判については額面金額ではなく、金の含有量を基準として流通し、実際には7.5両前後で取引されていたようです。
一方、銀貨は当時の流通実態を踏まえて、重量を基準として価値が示される“秤量貨幣”として、丁銀(ちょうぎん)と豆板銀(まめいたぎん)が鋳造されました。丁銀はナマコ形と呼ばれるやや不揃いな棒状の銀塊で、重量は不定ですが、おおよそ43匁 (約161.25g)前後。額面は記載されておらず、重量によって貨幣価値が決まりました。銀貨は主に当時の大坂を中心とした西日本で使われました。
一方の豆板銀は、形状は小粒の銀塊で、重量は不定ですが、1匁(約3.75g)から10匁(37.5g)程度。それ自体を利用するほか、丁銀の補助貨幣的な役割を持ちました。
この間、徳川幕府では、公鋳貨の安定的供給のため、全国に散在する金銀銅などの主要鉱山のほとんどを直轄領として掌中に納めたほか、金座・銀座を通じて流通金銀の回収を図るなど、貨幣素材の確保に努めました。
一方、小額貨幣である銭貨の統一作業は遅れ、1636年(寛永13年)になってやっと「寛永通宝」と称される銅一文銭の鋳造が始まりました。幕府は寛永通宝の鋳造・発行とともに、古銭(渡来銭・私鋳銭)の回収に努めました。その後、寛永通宝は、銭座の増設などを媒介として大量に鋳造されたこともあって、やがてほぼ全国に浸透し、1670年(寛文10年)には寛永通宝以外の銭貨の通用が禁止されました。余談ですが、この間、寛永通宝との交換により回収された古銭のほとんどは、現物のまま、あるいは北宋銭に鋳直されて東アジア諸国へ輸出されたとされています。
そして1608年(慶長13年)、金1両=銀50匁=銭4貫文(4000文)という金銀銭貸間の交換比率が公定されたのです。しかし、実際の交換比率は市場実勢、つまり相場によって決められ、日々変動していました。
こうした貨幣が流通した江戸時代の人々がどのような使いをしたのかというと「値の高いものは金貨(銀貨)で支払い、安いものは銭貨で支払う」としていたようです。
たとえば2両の買い物をしたとしましょう。銭で支払うとなるとこれはもう大変な作業です。12000文もの寛永通宝が必要になるからです。12000文もの寛永通宝を払う方は重くて運びにくいし、受け取る方は数えるのが面倒です。反対にそば屋に行って16文のそばを食い、1両を出しておつりをもらう、ということも考えにくいものです。5984文のおつりをそば屋が用意しているとは思えないからです。ですから、江戸時代には基本的に売り手側の値段表示が銭なら銭で払い、金なら金で払うというのが普通だったようです。
興味深いのは、大量の貨幣を運ぶのを避けるため、手形取引が発達したことです。1620年頃から世界に先駆けて、大坂の堂島で先物取引が始まったという記録も残っています。次回は天下の台所、大坂で使われた手形について説明しましょう。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 22 江戸時代の貨幣制度 貨幣政策
小栗上野介が駆け抜けた時代は、経済史の側面から見れば、貨幣制度が確立した時代といえるでしょう。乱世が続いたことで長く統一貨幣経済の育たなかった日本が歴史上初めて自前の通貨制度をもった時代、それが江戸時代なのです。先行する時代に「天正大判・小判」などの試みがありましたが、全国的規模で貨幣経済の基本を確立したのは、徳川幕府開府後の慶長年間以降になります。だからこそ、上野介がドルとの「交換レート」交渉に臨むことになるわけですが、この貨幣制度はとても複雑にできていました。
そもそも強力な統一政権による自前の貨幣制度の確立は、全国の金銀鉱山を独占した徳川幕府の成立によって初めて成し遂げられたと言ってよいでしょう。17世紀初頭に発見された佐渡金山や発掘技術、鋳造技術の進歩がこの幕府の貨幣政策を強力に後押しすることになりました。まるで19世紀半ばアメリカのゴールドラッシュのように、大きな金銀鉱山の発見が、国の経済の転機になったのです。
幕府は、金、銀、銭の三貨の鋳造をそれぞれ金座、銀座、銭座と呼ばれる場所で行いました。経営は幕府直轄でなく、民間による一種の請負い業務であったようです。ちなみに金座は現在の日本銀行の所在地に設けられ、当初の銀座は現在の京橋にありました。銀座は町名として残ったわけです。
徳川幕府は、貨幣の発行権の独占と貨幣の様式の統一を進めました。これまで誰も手をつけてこなかった経済政策に着手したわけです。江戸時代の貨幣制度の特徴は「三貨制度」です。三貨制度とは、金、銀、銅(銭)の三種の異なる貨幣からなるものです。金貨の単位には、両、分(ぶ)、朱の単位があり、銀貨には、匁(もんめ)、貫、分、銭貨には貫、文といったお金の単位が存在しました。
金貨は小判1枚の1両を基準とし、1両は4分、1分は4朱といった4進法の単位で表わし、銀貨は重さがそのまま貨幣としての価値となり、銅(銭)は1個が1文(もん)、1000文が1貫文といった具合に、それぞれ独自のルールで運用されていくのです。つまり同じお金なのに個別の体系を持っていたということです。そこで貨幣を交換する際に「相場」が必要となったのです。
相場が必要になった理由は、ほかにもあります。江戸幕府の直轄地においては、金、銀貨が支払手段として広く流通していましたが、それ以外の地域においては、「藩札」という藩政府が発行した地域通貨のような紙幣が一般交換手段として利用されていたのです。
そもそも貨幣が通用する理由とは、受け取った人がその貨幣をその貨幣の価値だけ使えると思っているからです。たとえば、すべての人が「1万円札」を1万円分の価値のある紙だと思い込んでいるから物やサービスとの交換が成立するわけです。国内のある地域では1万円札が使えなかったり、その1万円札が8000円の価値しかなかったりすれば、貨幣の存在意味が問われます。このような事態に陥ることを回避しなければ、国内の経済は成り立ちません。
さらに金貨1両あたりの相場は時代によって異なりました。また、地域ごとに金銀貨の流通範囲が違っていたので、異なる貨幣間の交換が必須となりました。それぞれの交換比率は毎日相場が立って変化しましたが、大まかに金1両=銀50~60匁、幕末には80匁、金1両=銭4000文~6000文、幕末には10000文という具合でした。
相場は上下を繰り返しながら幕末に向けて金が値上がりする傾向でした。これらの実際の交換業務を行ったのが、三井家などの「両替商」です。「両替商」とは、「両」(金貨)を他の貨幣に「替える」ことに由来するのです。現在でも海外に行けば、空港や銀行などで円を現地のお金に「両替」しますが、この言葉は江戸時代の生まれたものだったのです。工業や商業などの産業が発展した江戸時代には、三貨の変動相場による収入は莫大なものであったことが想像できます。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 21 小栗上野介の事業と政策 郡県制度
上野介は幕府の役人としては、驚くほど革新的な政治を目指していたようです。民間商社が主体となる自由貿易の実現などは、日本の経済史を50年も前に先取りしたかのような驚くべき構想です。
さて、今回は上野介が建議書を提出したと言われている、幕藩体制に代わる「郡県制度」と幕府の新財源となった税制、鉱山開発などにふれましょう。
上野介は、機能していない幕藩体制を廃止し、郡県制に移行し、ゆくゆくは大統領制を敷くという大きな構想を持っていたようです。つまり、中央集権国家を築き、最終的には国のリーダーを投票によって選出するという方法です。これは南北戦争を戦ったアメリカの制度を学んでいたから浮かんだ発想でしょう。近代国家の統一に反対する長州藩は武力で統一し、幕府の手によって近代国家への脱皮を図るべきだというビジョンがあったのでしょう。
ちなみに廃藩置県が実施されたのは明治4年。中央集権を進めるために大きな障害になる大名領(藩)を廃止し、中央から府知事が派遣されます。上野介の構想とはやや異なる結果かもしれませんが、モチーフは上野介の「郡県制度」にあるようです。
上野介の進歩性はこれだけではありません。住宅税や営業税、消費税など現代から考えても驚くほど進歩的な税制を考案し、その調査に乗り出したのです。そのひとつが「酒類その他の嗜好品に課税し、富家より変則的所得税を徴収」するというものです。現在でいうなら、酒税、タバコ税、所得税です。これは幕府の新財源とも呼べるでしょう。また、同時に日本最初の政府による統一兌換紙幣(本位貨幣たる金貨や銀貨と交換ができる紙幣)を発行し、あえて外債を募ったのも彼の英断でした。
その一方で上野介は、幕府の行政改革にも着手しています。職制を改革し、人員を削減しながら、「役人俸給表」を作成して給与体系を合理化したのです。これを官僚的・権力的な改革とするか、近代的・合理的な改革とするかは判断が分かれるところですが、働きもしないのに高給をもらい続ける役人の数を少なくすることや、公務員の給与を見直す動きは、現在にも通じるところがあります。上野介からすれば、ほとんどの役人が給料分の働きをしていないように見えたのでしょう。
ともあれ、前述した改革は幕藩体制では実現できない、資本主義経済下での政策であることは確かです。
上野介が着手した事業の中でこれまで大きく扱われなかった鉱山開発についても紹介しておきましょう。上野介は1864年、中小坂(現群馬県)に溶鉱炉を建造する建議を提出しています。横須賀製鉄所の建議書提出と同じ年に、上野介は鉱山開発にも目を向けていたのです。
アメリカを視察した際に「町が鉄でできている。日本のそれは木でできている」ともらしたと言われています。日本の近代化には「鉄」が不可欠であることを痛感していたのでしょう。造船業だけでなく、製鉄業も近代国家には欠かせない要因のひとつです。
こうして江戸時代に鉄鉱石を原料とする近代的製鉄が行われた中小坂製鉄所は、良質な磁鉄鉱と周囲から得られる豊富な木炭を燃料として、明治期に入ると本格的な操業が行われました。経営を担ったのは、明治政府の財政問題を担当し、のちに第4第東京府知事となった由利公正でした。彼はイギリス人技師を雇って高炉、蒸気機関、熱風炉などを完成、スウェーデン人技師の技術指導で、トロッコによる水平移動により高炉炉頂へ運ぶ方式が取られたと記されています。
このように上野介が道を拓いた改革、事業は数え切れません。偉大なる業績、先見性、行動力は当時の幕臣では屈指です。もっと評価されてもよいと考えるのは、私だけではないでしょう。
次週からは、上野介が格闘した、江戸時代の貨幣制度のあらましをお送りします。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 20 小栗上野介の事業と政策 経済政策
上野介は横須賀製鉄所の建設、兵庫商社の設立、ガス灯や鉄道建設構想のほかにも、日本の近代化のために多くの事業を興し、あるいは計画しました。今回は主に経済政策を紹介します。
1865年(慶応元年)、上野介は「諸色会所」設置計画という建議書を幕府に提出しています。「諸色」とは現在でいうところの「物価」を表わす言葉。つまり、「諸色会所」とは物価調整のための商人の組織です。現在で最も近い団体を探すなら、商工会議所ということができるでしょう。
商工会議所制度の誕生は、明治維新後、日本の経済社会が資本主義制度に移行していく過程と一致しています。時代の要請に基づいたものといえるでしょう。明治政府は、長い鎖国政策により欧米諸国に立ち遅れた国力を増進強化すべく、富国強兵、殖産興業、文明開化を国策の中心に掲げており、特に外国貿易振興のための商工業者の機関を必要としていました。これは、まさに上野介が描いた兵庫商社の目的と同じです。
一方で、「日本には商工業の世論を結集する代表機関がなく、世論を論拠とした明治政府の主張は虚構にすぎない」との反駁を諸外国から強く受けたことも発端となり、伊藤博文、大隈重信が渋沢栄一に商工業者の世論機関の設立を働きかけました。日本で最初の商工会議所となる東京商法会議所が設立されたのは明治11年。初代会頭は、渋沢栄一でした。
上野介はさかのぼる1861年(文久元年)に「国益会所」の設立という構想を幕閣に建議しています。これは外国との貿易で日本が損をしないようなしくみをつくる組織です。これがのちに「兵庫商社」へと発展します。
上野介には「国益会所」構想以外に「日仏組合法」というモチーフもありました。これは日本の商社「商業・航海大会社」を設立し、その代表をパリに駐在させ、フランスの商社「フランス輸出入会社」の代表が横浜に駐在し、相場に応じて物資の売買を行うという構想です。建議書には「商社の設立資金は、それぞれの国の商人から出資させる」という資金調達の方法まで記されていました。「国が貿易の青写真をつくるから、あとは民間で進めるべし」という方法は、まるで「民間でできることは民間に」という政策のようです。
これらは上野介の発想が、いかに時代を先取りしていたのかがわかる構想です。
上野介が掲げたもうひとつの大きなビジョンに、中央銀行設立の計画がありました。これは遣米使節としてアメリカを見聞した上野介らしい発想でした。モチーフはアメリカの「ナショナル・バンク」です。ご存知のように江戸幕府としての実現はなりませんでしたが、上野介の中央銀行構想は、1873年に三井組が主導して開業した、第一国立銀行という名で実現します。ただし、国立銀行といっても国営ではなく「国立銀行条例」に基づき設立された私立の銀行で、発行する銀行券は金貨との交換を義務づけられていました。
それにしても上野介の構想を引き継いだのが、上野介と親しかった三井家の三野村利左衛門であり、やがて三井家に入り込んでいく渋沢栄一であったことは何かの縁でしょうか。
三井が新政府に食い込んでいけたのは、資金のなかった新政府に三井が献金したことがきっかけになっています。当時の三井組の大番頭、三野村利左衛門はそれまで上野介とのコネクションを通じて幕府と深くつながってきました。明治政府の献金命令を受けても、鴻池家や加島屋などの豪商の多くは応じませんでしたが、すぐに調達を申し入れた三井組は優遇されました。上野介の助言があったのかもしれません。
1874年、三井組、小野組、島田組の“為替方三家”に対し、明治政府は官金取扱高の1/3の抵当差し出しを命じています。小野、島田は運用資金の回収に失敗し破産。生き残った三井組が、「御為替方」として新政府からの御用を務めることになったわけです。三井は井上馨や渋沢栄一に接近し、明治政府の資金を無利子で運用し、利益獲得に成功。のちに三井単独での銀行設立を目指すのです。幕末に上野介と深く関係した三井家が最初に銀行を設立したことには、何か明確なラインが見えるようです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 19 小栗上野介の事業と政策 コンパニー
「日本初の株式会社」あるいは「株式会社の原型」と呼ばれる「兵庫商社」の設立にあたり、上野介が提示したのが「コンペニー」(カンパニー)という言葉です。日本史上初めて公式文書に「コンペニー」という外来語が登場したのです。当時「コンパニー」という単語は、「株式会社」を指すのではなく「貿易と金融を行う会社」を指していたようです。
同じ時代に坂本龍馬が結成した「海援隊」は慶応1867年3年4月の設立。同年末に設立された兵庫商社より早かったため、正確には海援隊が「日本最初のカンパニー(貿易と金融を行う組織)」で、兵庫商社が「日本最初の株式会社(複数の民間人からの出資を受け資金運用をする組織)」ということになるのかもれしれません。
1867年(慶応3)年5月、江戸幕府は兵庫開港の勅許を得、同年12月に開港が実現します。しかし実際の貿易港となったのは「兵庫津」=兵庫の港ではなく、その東側の神戸村の海岸でした。幕府は勅許を得る以前から開港準備として居留地の造成を進めていましたが、その当時からすでに居留地は神戸に設けられることが決定していたようです。
さて、幕府は上野介の計画にもとづき、1867年(慶応3年)6月、関西の代表的な商人20名を京都に集合させました。彼らは出資者であると同時に役員となりました。頭取には「鴻池(こうのいけ)屋」の山中善右衛門、「加島屋」の広岡久右衛門、長田作兵衛が就任します。今日でいうところの、会長、社長といった肩書きでしょう。
もともと酒造業と海運業で財を成した鴻池家は、江戸時代には「両替商」に進出し、金銭売買、貸付、手形振出、預金などを取扱い、今日の銀行のような役割を果たしていました。加島屋も両替商として君臨した豪商です。のちに三井家や住友家も役員に加わります。
兵庫商社は、20人の大富豪だけに貿易利益を独占させないようにするために、「武士、町人、百姓の差別なく出資できる」とされ、最終的には100人規模の出資者が集まりました。まさに株式会社の原型がここにあります。
商社の事務所は大坂・中之島におかれ、「商社会所」と呼ばれました。慶応4年の兵庫開港後、当面の業務は、開港準備金の調達と出資金に見合った金札の発行でした。開港準備金として集まったのが1万両強、金札発行も発行計画百万両に対して、実際は1万両のみと運用が軌道に乗らないうちに、大政奉還、幕府崩壊となってしまったため事業が中止。残念ながら幕府が消滅したことにより兵庫商社の運営は約半年間のみとなりましたが、兵庫商社設立には大きな意義がありました。一部の歴史家は兵庫商社を「貿易利潤の幕府による独占の機関」として非難しましたが、「貿易や生産を幕府が支配するのか、外国商館が主導権を握るのか」という二元論しか持たなかった日本に、株式会社が自由に貿易を運営する方法を導いたのは上野介なのではないでしょうか。
余談ですが、兵庫商社設立の同じ年、土佐藩が欧米の商人たちから船舶や武器弾薬の類を輸入する窓口にしていた長崎土佐商会の主任に土佐出身の岩崎弥太郎が就任しています。岩崎は同郷の坂本龍馬が設立した海援隊の経理を担当していた縁で職を得、艦船や武器弾薬の英国人ブローカーであるグラバーとも懇意になります。グラバー商会はロイズ保険、香港上海銀行などの代理店も営んでいました。いずれもロスチャイルド財閥グループです。三菱グループは当初ロスチャイルド財閥と組んでいたことがわかります。その6年後、岩崎弥太郎は九十九商会(後の三菱商会)を設立します。
現在連載中の『ヨーロッパの財閥と企業グループ』(毎週月曜配信)の内容とも深くリンクする部分なので、注目してください。「西南の役」をきっかけに岩崎弥太郎はロックフェラー家と接近、反対に三井財閥は大番頭の渋沢栄一がロスチャイルド財閥と親密になっていきます。以降、ロスチャイルド財閥の系列となる三井グループ、ロックフェラー財閥の系列となる三菱グループという図式ができあがっていくのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 18 小栗上野介の事業と政策 日本初の株式会社兵庫商社
上野介が成し得た偉業として忘れてはいけないのが、「日本初の株式会社」あるいは「株式会社の原型」と呼ばれる「兵庫商社」の設立です。1867年(慶応3年)4月、勘定奉行の小栗上野介は幕府に対し、兵庫開港に際して「コンペニー」設立の必要性を提案します。財政、通商、産業政策面での上野介の能力を幕閣がすでに認めていたために、上野介の提案は承認されました。
兵庫商社設立に至るまでには伏線があります。上野介が横須賀製鉄所の建設に没頭している間に政治情勢は一変していきます。“富国強兵”に資金を投下すべきだと考えていた上野介の考えに反して第二次長州征伐が発令されます。そして元号は元治から慶応へと変わります。
そこへ思いがけない事件が発生します。慶応元年、英米仏蘭4ヵ国の軍艦9隻が突如、大坂湾に進入、兵庫開港を要求してきたのです。1860年に結ばれた「修好通商条約」で決められた開港期限はその後、ロンドン条約(1862年)によって延期が承認されていました。しかし、尊皇攘夷の動きに便乗し、幕府にゆさぶりをかけてきたのです。英米仏蘭4ヵ国の軍艦の大坂湾への進入を仕掛けたのは、イギリス公使パークスでしたが、その背後には西郷隆盛がいました。
最終的には天皇の決断で「修好通商条約」勅許が決定し、兵庫開港はまた延期されました。上野介は早いうちに開港の日が来ると考え、「兵庫商社」の構想を思い立ったのです。ここには横浜開港の大きな教訓が活かされます。
1859年に開港した横浜では、生糸や茶、海産物など輸出額が増えていたにもかからわらず、その利潤は外国商館に独占されていました。商業取引に必要な知識や手続き、さらに語学力の不足などによって外国商館に取引利益を奪われていたのです。加えて関税自主権がないことも商業取引において非常な不利益が日本側に与えられていました。資本力がなく、貿易の経験のない日本人商人は外国人商人に手玉に取られていたわけです。上野介はこの事態に日本経済の危機を感じ取っていたのです。
そこで上野介が建議書として幕府に提出したの日本人による「貿易商社」の設立だったのです。建議書の概要は「横浜や長崎のような開港の仕方では、開港ごとに莫大な損出を招く。また西洋各国だけが利益を得るのは開港の意図に反する。それは商人らの組合の法を設けず、商人が自分の利益だけを追求しているからである」という分析から始まります。そして「そういう現状だからこそ、ひとつは貿易の発達のために、もうひとつは財政の利益を確保するために、大坂の商人たちで貿易商社を組織し、大資本をもって外国人商人と競争することが望ましい」と展開します。
上野介のロジカルな思考が垣間見える建議書です。続いて上野介は具体的な運営方法と利益構造を示します。
「組織に加わる商人たちから百万両の出資をしてもらう。幕府はその商社に3年を期限として、百両の金札(金貨と交換できる紙幣)発行権を許可し、幕府はそれを兵庫開港の資金に充てる。3年後には兵庫開港によって生じる税金が百万両に達するであろうから、これを元手に幕府は商社へ新たに百万両の紙幣を発行する。幕府は商社の売上から税金を徴収し、その資金で軍備を整え、ガス灯や郵便局を建設し、鉄道も敷いていきたい」
商社の売上が増えれば、公共事業を展開するために必要な資金も調達できるという上野介の経済学は、資本主義の構造を見事に表わしています。のちにケインズは「政府が公共事業を主導することで一般企業の仕事が増え、失業率も低下する」と唱えますが、上野介は「一般企業が利益をあげることで、国が公共事業に充てる資金も生まれる。だから会社が必要」と考えたのです。今日でいうところの「小さな政府」を標榜していたのかもしれません。次週は上野介が「兵庫商社」設立のために推進した計画を具体的に紹介します。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 17 小栗上野介の事業と政策 近代的マネジメント導入
徳川幕府の大いなる遺産、横須賀製鉄所の経営に近代的なマネジメントの手法を導入した上野介。彼を「日本における近代マネジメントシステム導入の父」と呼ぶ経営学者もいるほどです。今週は上野介が横須賀製鉄所の経営にあたって実施したマネジメントに着目してみましょう。
上野介は、組織、職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、簿記、流通機構の整備などの近代的マネジメントを取り入れました。これはアメリカで実地に見聞した経験に基づいたものをベースに造船所建設の協力国であるフランスのアドバイスもあり、実現できたものでしょう。
下記に上野介が横須賀製鉄所の運営のために導入、採用した経営手法を具体的に紹介します。
(1) ライン部門のほかにスタッフ部門を設け、「部長」「課長」などの名称を採用し、近代的な経営組織の原型となる命令系統を明確化。
(2) 江戸幕府の伝統的組織形態の「交替制」を一部廃止し、責任と権限の明確な区別を促す「専任制」の実現。
(3) 採用と作業のためのシステムを確立し、これを明文化、共通化し、徹底した。雇用システムでは、作業時間、休日制、昇進・昇給制度、臨時工制度を導入し確立。またユニフォームを制定した。
(4) 給与、賃金の制度を仕事の内容に応じて決定する「実力主義」「能力主義」を導入。具体的には奨励給システムを導入し、能力のある者は監督者、管理者に抜擢。
(5) 複式簿記による近代的な会計システムの採用。
(6) 売上げを原価と利潤に分解し、利益の意味を明確にした。
(7) 企業教育、経営教育の必要性を説き、そのための学校を設立した。日本最初の企業内教育を実践する工業高等教育機関「横須賀製鉄所学舎」の開設。同校では、技師生徒にはエンジニアリング、頭目生徒には図学などを教え、農村の青少年から「職工生徒」を募集、入学させた。
(8) 流通と価格政策の整備。石炭の流通機構が一部の組織に独占されていたため改善を提案。「石炭会所」を設立し、採掘地、船積地間の輸送費、船積み荷役料、海上運送費、石炭会所事務所費の合計5~10%の利益を加算して、合理的に価格を決定すべきと主張。
以上はおそらく“日本初”の経営マネジメントと呼んでもさしつかえないでしょう。
注目すべき点はいくつもあります。たとえば「原価(コスト)」という概念はそれまでの日本の経営にはなかったものです。イギリスの先駆的な製鉄、造船工場で原価計算が始まったのが1870年代とされているので、1860年代末に売上げを原価と利潤に分解し、利益の意味を明確にしたことは画期的な仕事といえるでしょう。
さらに興味深いのは、上野介が流通の再構築、価格政策の実施を促す際に、原価に利潤を加算する方法を提案していることです。のちに世界の商法の原則となる、原価に利潤を加算する「コスト・プラス・コントラクト」(原価加算契約)の導入は、極めて現代的な方法といえるでしょう。
斬新なのは能力主義、実力主義の採用です。横須賀製鉄所の雇用システムを見ると、日本的経営を紹介する際に用いられる「日本企業は歴史的に年功序列、終身雇用を特質としてきた」というキャッチフレーズが正しくないことがわかります。上野介自身がそうであったように、何度も職を解かれながらも実力で職位を奪い返していく、幕末から明治の日本人像は、戦後のサラリーマン像とは大きく異なります。社会制度や価値観が大きく変わった当時は、実力主義、能力主義が重んじられた時代であったようです。
横須賀製鉄所の運営を見る限り、労働稼働率はすこぶる高かったことでしょう。個人事業者がプロジェクトごとに参画する時代であったからこそ、奨励給システムや企業内教育制度が熟練工を確保するために必要な制度であったことがわかります。横須賀に出現した日本資本主義の最初の近代工場は、上野介の手腕によって新たな試みがなされた実践の場であったようです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 16 小栗上野介の事業と政策 横須賀製鉄所
今週から数週に分けて小栗上野介が行ったすべての事業、政策を紹介します。
遣米使節の監査役として渡米し、「史上最初の為替レート交渉」を成功させた上野介。帰国後、彼が外国奉行、勘定奉行などのポジションで活躍したのはわずか7年間でした。現在なら外務大臣と経済産業大臣といったところでしょうか。
上野介はその7年間に新たな政策を打ち出し、多くの事業を推し進めました。そのうちのひとつが横須賀製鉄所の創設です。日本が1956年にイギリスを抜いて世界一の造船国(現在は韓国に次いで第2位)になったのは、上野介の英断があったからでしょう。
上野介が製鉄所建設を推し進めた理由は、合衆国の工業化を視察してショックを受けたこと、ロシア軍艦の侵犯なので屈辱感を味わっていたことなどが挙げられるでしょう。小栗は日本の造船工業の幼稚さに落胆し、勝海舟が提案する軍艦購入ではなく、自力建設の路線を選びます。つまり、先進国からの技術導入を訴えたのです。それでは、上野介はどの国から技術を学ぼうとしたのでしょうか。
江戸時代末期、世界最強の海軍を持っていたのはイギリスでした。薩長と戦ったイギリスの戦力を幕府は恐れていました。もちろんイギリスが行った、隣国である清国への武力による侵略行為は幕府の耳にも届いていました。イギリスと組むのは危険だと上野介は察したようです。
アメリカは遣米使節の派遣以来、友好国でしたが、当時のアメリカは南北戦争の真っ最中。断念せざるを得ませんでした。ロシアはイギリスと争うように露骨にアジア侵略戦略を進めていたので最も警戒すべき国でした。歴史的にも日本と親しかったオランダには一時期の勢いはなく、幕府が長崎在住のオランダ人技師に打診したところ、やんわりと断られたようです。
残るのはフランスでした。手始めに幕府は所有艦の修理をフランス人技師に委託します。技術水準が高く、価格も安く、誠実な対応に幕府は好感を抱きます。諸外国を比較検討した結果、上野介は技術提携先の国にフランスを選びます。
一方フランス公使ロッシュは、当時三度目の勘定奉行に就任していた小栗に具体案を提案します。当時のフランスはヨーロッパ全土に蔓延した蚕病によって養蚕業が壊滅状態だったので、フランスの輸出品である絹織物が危機的状況を迎えていました。フランスは日本の上質の絹がどうしても必要だったのです。そこで公使ロッシュとしても勘定奉行と深い関係を築いておく必要があったのです。
次の課題は工場立地です。横浜、横須賀、長崎製鉄所の拡大、長崎製鉄所の神戸移転案、江戸湾内石川島、駿河湾内戸田などいくつかの候補地と案が挙がります。実地測量の結果、横須賀が選ばれました。建設の正式決定は1864年でした。
横須賀製鉄所は「製鉄所」という名称ですが、製鉄、造機、造船を含めた総合的な大工場です。小栗は横須賀に本格的な大工場をつくる前に、中規模の工場を横浜に建設します。この横浜製鉄所が今日の石川島播磨重工業の前身のひとつです。
建設計画では、期間は4年、総工費240万ドル(現在の240億円以上)。アジア最大の大工場であり、世界でも最大級です。これが日本の近代造船業の夜明けでした。この計画が発表されると、内外から小栗に対する批判、妨害が繰り返されました。イギリス公使パークスが上野介の計画を非難すると、薩長からも反対の声があがります。江戸城内でも上野介の政策を批判する声は鳴りやみませんでした。
1965年、横須賀製鉄所の鍬入れ式が行われます。しかし完成を待たずに幕府は倒れ、明治政府が誕生。上野介は殺害され、事業は明治新政府が引き継ぎます。
横須賀製鉄所の経営に近代的なマネジメントの手法を導入したのも上野介でした。次週はこのマネジメントに着目してみましょう。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 15 円金本位制度の確立
先週のコラムで1円銀貨鋳造の目的が、メキシコ・ドルの追放にあったことを紹介しました。それは明治政府がアジア圏で経済的なイニシアチブを握るための方策でした。長い間鎖国政策を敷いてきた日本は、国の近代化にも国際市場の進出にも大きく出遅れたという焦りがあったのでしょう。
明治初期の日本は、慢性的な国際収支の赤字状態が続きました。内外における市場金銀比価は法定比価を上回り、これまで良貨であった銀貨は逆に悪貨となりました。実質的には銀が本位貨幣の地位を占めていましたが、一方で明治4年に公布された貨幣制度に記された金本位制は維持されていきます。
金が再び本位貨幣の座に復帰したのは、明治30年になってからです。明治政府は、金のみを本位貨幣とする貨幣法を公布します。この貨幣法では、「1円は純金750mgと等価である」と定められました。
対外的には1ドルとほぼ同量の金であり、1両とほぼ同量の金を含む1円金貨を本位貨幣に据えることで、近代的貨幣制度の基本前提が完成したといえるでしょう。
円とドルの交換比率は、明治初期には1ドル=1円と定められていましたが、その後、実際にはドルのほうが圧倒的に力があるため、次第に円安に動き、昭和初期には1ドルが3~4円程度になっていたようです。
しかし、この金本位制はイギリスを除く欧米列強よりも先駆けるものであったことが、その後の100年の歴史を大きく左右することになります。日本経済を欧米列強が中心となっている国際市場へ直結させことになったのです。
1929年の世界恐慌により、金本位制は機能しなくなり、やがてすべての国が金本位制を脱退、第二次世界大戦後、米ドル金為替本位制度を中心としたIMF体制(ブレトン・ウッズ体制)が創設されます。
日本が太平洋戦争の敗戦国として再出発し、IMFという国際社会の仲間入りを許可された時には、固定相場が引かれ、円の対ドルレートは360円と評価されました。戦後の超インフレ時には仕方がなかったといえます。
長く続いた固定相場の時代から、円とドルの通貨の交換比率を示す外国為替レートは、その後、スミソニアンレート(1ドル=308円)という時代を経て、1973年2月より完全な変動相場制に移行したのは、周知のごとくです。その後、円の価値は上昇し、1985年の「プラザ合意」を経て、1988年には対ドル120円45銭という交換レートがマークされます。
日本の本位金貨、旧1円、2円、5円、10円、20円や新5円、10円、20円は1987年(昭和62年)5月末限りで流通停止となり、現在の管理通貨制度が実施されることになります。
単純にいえば、1988年の「対ドル120円」というレートは、国際社会復帰時の円に対して、およそ3倍の価値を持つようになったということです。「円高・ドル安」の推移は、他のコラムに譲りますが、「円」に見られるこの現象は、世界貨幣史上におけるひとつの奇跡と称されても差し支えないでしょう。
約150年前に小栗上野介が日米間初の為替レート交渉に臨んで以降、「円」は絶えず「ドル」の存在を意識しながら、時にはアメリカの金融政策に翻弄されながら今日に至ります。
ひるがえってみれば、ドル・円の為替レートの土台を築いたのが、江戸時代の敏腕外交官・小栗であったことが明確に見えてきます。国際通貨ではなかった両の為替レート交渉に挑んだ小栗の評価は、日本ではそれほど大きくありませんが、日本が近代国家へ転換する礎を築いた人物として再評価されてもよいでしょう。足早に紹介してきた小栗上野介の足跡は、日本が国際社会にデビューするきっかけを見いだした歴史ともいえるでしょう。
次週からは「小栗上野介が駆け抜けた時代」の各論、上野介が実施した政策に着目してみます。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 14 円銀鋳造はメキシコ・ドルの追放
明治政府が「1円金貨100円は、洋銀100ドルと等価である」と定めた結果、1円=洋銀1ドルというレートが生まれました。ここで注意しなければいけないのは、「1円金貨」と「1円銀貨(貿易銀)」の二つのコインがあったことです。内定していた銀本位制を覆して金本位制を選びながらも、実質的には「金銀本位制」が採用されたということです。
銀貨は貿易上の便益をはかる目的で鋳造されたとされていますが、新貨の1円銀貨は円銀の海外流出を願ってつくられたと同時に、メキシコ・ドルの追放という目的があったようです。明治政府は日本に悪をもたらす元凶として横行している洋銀、特にアジアを中心に流通していたメキシコ・ドルを国内から追放し、アジア市場に占めるメキシコ・ドルの地位を奪取、ひいては「円を国際通貨として流通させる」という構想を描いていたのです。
明治維新からさかのぼること4年前に当たる1864年(元治元年)、イギリスが香港造幣局を設立します。アジアに植民地を求めて進出してきたイギリス政府が、その造幣局で鋳造する香港ドルによって、アジアからメキシコ・ドルを追放し、それにかわって香港ドルを流通させるために建設したものです。
しかし、イギリス政府にとって予想もしない事態が起こりました。メキシコ・ドルの信用という壁を打ちかぶれなかったばかりか、中国人が香港ドルを額面価格の1%の割引でしか受け入れなかったのです。さらに中国人は受け取った香港ドルをただちにメキシコ・ドルに交換するという行為に出たのです。
このために香港ドルの鋳造は2年しか行われず、鋳造高もわずか200万ドルに終わりました。香港造幣局は明治元年に閉鎖されます。
この香港造幣局の機械を購入したのが明治政府でした。おまけに明治3年には、機械と一緒に元香港造幣局に勤めていたイギリス人技術者を雇用します。しかもこの機械は金貨や銅貨の鋳造には不向きの、銀貨専用の機械であったのです。いや、明治政府は銀貨専用の機械であることを知って購入したのです。メキシコ・ドルをアジアから追放し、アジアに流通させる円銀を鋳造する目的で機械を買ったのです。つまり、円銀が香港ドルの遺志を託された後継者のような存在になったのです。
国際通貨になることを願って鋳造された円銀ですが、当初は香港ドルと同じ運命をたどります。中国人が0.5~1.5%の割引率で扱ったのです。明治政府は明治6年、「損失・負担をかけた場合にはその費用・利子を日本政府が負う」という条件で、円銀をメキシコ・ドルと等価通用扱いで銀行に委託したり、円銀の鋳造手数料を引き下げたりしました。
やがて円銀は品位の確かさや贋造の少なさ、デザインの美しさなどの好条件も手伝って、徐々にメキシコ・ドルを駆逐し、流通圏を着実に広げていきます。やがてマレー半島から完全にメキシコ・ドルを追放し、中国や朝鮮、フランス領のインドシナの各地では、その国の貨幣と同等の価値として流通していきます。
しかし、明治26年にインドが「金為替本位制度」を採用、これに続くようにフィリピンやシャム、オランダ領東インド諸島、フランス領のインドシナなどが「金為替本位制度」を導入したことや、貨幣法が制定された明治30年の「第二次金本位制」の確立によって、銀貨は国際通貨の地位から脱落、アジアに流通していた円銀も本位貨幣ではなくなります。
そもそも新貨条例(明治4年施行)は金本位制度の確立を意識して作成されたものなのに、どうして明治政府が「1円銀貨」を鋳造したのかという疑問に対する答えは、「メキシコ・ドル対策」であったということです。これこそが、明治政府が最初に挑んだ海外に対する経済政策であったといえるのではないでしょうか。
しかし、円が国際通貨として認められるには、まだ数十年の歳月を要します。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 13 明治新貨幣制度のスタート
1868年に明治政府がスタートしてからも数年間は、国内に多種多様な紙幣・貨幣が流通していました。明治政府が発行した太政官札(殖産興業を名目とした新政府の紙幣)や二分金、一分銀、幕府貨幣や藩札のほか、徳川時代の金・銀・銀貨などです。交換比率が設定されていたとはいえ、ひとつの国に多くの異なる貨幣が流通していたことで社会は大いに混乱しました。
明治元年、新政府はただちに海外へ造幣機械を発注、造幣所の建設に着手しました。そして明治政府は江戸時代の貨幣制度をそのまま踏襲か、新鋳するならどのような貨幣が適切なのかについて検討を始めます。最終的に全国統一の貨幣制度を確立することが近代国家の基盤になると判断されました。
こうして明治4年、「新貨条例」が公布されます。この条例によって、十進法に基づく円、銭、厘を単位とする新硬貨が発行されます。当時のアジアの貿易国が銀本位制を採用していたので、当初は銀本位制が内定していましたが、新制度では金本位制が採用されました。金貨を本位貨幣(金1.5g=1円)と定めたのです。
銀本位制から金本位制に変更されたのは、アメリカの政治・経済システムを学ぶ目的で渡米中の伊藤博文から「欧米諸国は金本位制へ移行している。日本も歩調を合わせるべきだ」という意見が出されたことによるといわれています。事実、イギリス(1816年)、ドイツ(1871年)、米国(1873年)、フランス(1876年)など、欧米主要国は次々と金銀複本位制や銀本位制などから金本位制へと移行し、この時期は国際的な金本位体制が確立する過程にあったのです。
しかし、その一方で明治政府は本位金貨に加え、貿易上の便益をはかる目的で「1円銀貨」(貿易銀)の鋳造も行われました。実質的には改革は「金銀本位制」で進められたというわけです。
新しい貨幣の呼称は「円」に決定し、アメリカ・ドル金貨1ドルに相当する1円金貨が基本貨幣に定められます。
新貨幣の呼び名が「円」に決定した理由には、
(1)新貨の形が円形に統一されたこと
(2)洋銀の中国別称である「洋円」を継承したこと
などが挙げられます。ほかにも香港銀貨の「壱圓」(洋円1個の意味)にちなんだという説もあります。また、大隈重信が「元」という呼称を提案していたという記録も残っています。
当時の日本の基本通貨は、幕末の金流出を契機として大量に発行された万延二分金でした。この二分金は2枚(1両)でアメリカ・ドル1ドルとほぼ等価とみなされていました。
そこで明治政府は、1両=1円金貨=1ドルと等価と定めたのです。「旧貨幣1両=新貨幣1円」と読み替えるだけで済むから、スムーズに新体制へ移行できると政府首脳が考えたのでしょう。
小栗上野介がアメリカで為替レートの改正に挑んでから11年後、ようやく「円」が誕生し、1円金貨=1ドルに落ちついたわけです。
「新貨条例」公布の翌年、明治5年には新しい政府紙幣(額面は百円、五十円、十円、五円、二円、一円、半円、二十銭、十銭)が発行されます。それまでに流通していた多種多様の紙幣の統一を図るのが目的でした。旧紙幣はこれらと交換回収されたのです。
しかし、貨幣システムが定着するまでには時間がかかります。幕末から明治初めの「負の遺産」が明治政府にはありました。明治政府はこれといった資産のないままにスタートしています。旧幕府軍と新政府軍が戦った「鳥羽・伏見の戦い」から「函館戦争」に至る、いわゆる「戊辰戦争」の戦費を明治政府は豪商からの御用金と不換紙幣でまかなっていました。明治政府を御用金によって金銭的に支援したのは三井でした。小栗上野介と親交の深かった三野村利左衛門が判断し、朝廷の軍資金に提供したのです。
一方、正貨準備のない不換紙幣は、なんの保証のない紙幣です。明治政府はこの不換紙幣を乱発したので、ますます価値が下がり、明治政府の財政は瀕死の状態でした。貨幣の価値は一気に下がり、これに正比例して物価は急上昇。インフレの到来です。明治10年には、再び不換紙幣を乱発し、金融システムは混乱します。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 12 上野介斬首の背景
「王政復古」の発令後、薩摩藩が江戸で挑発的な乱暴を働くようになります。薩摩の西郷隆盛が藩士を使い、江戸城西の丸を放火し、旧幕臣やその家族を襲撃し、江戸の町と幕府を撹乱する戦法を選んだのです。現代的に表現するなら「ゲリラ活動」です。江戸には不穏な空気が漂いました。血気にはやる旗本らが報復に出ます。江戸にある薩摩藩の屋敷を焼き討ちしたのです。しかしこれは慶喜の新政府への参加を防ぐために仕掛けられた、討幕派のワナでした。この焼き討ちが「鳥羽・伏見の戦い」へと発展していくのです。
1968年1月、大坂城にいた旧幕府軍と会津・桑名藩の兵は、天皇がいる京の封鎖を試みて伏見に向かいました。薩摩・長州藩を中心とする朝廷政府軍は、京都の入口である鳥羽と伏見で待ち構え、ここで武力衝突が始まります。これが「鳥羽・伏見の戦い」です。
旧幕府軍15,000人、対する朝廷軍5,000人。わずか3分の1の人数で朝廷軍が勝利します。これは両軍の装備に圧倒的な違いがあったからです。旧幕府軍が火縄銃を武器にしたのに対して、朝廷軍は外国から輸入した最新式の小銃や大砲で迎え撃ちました。旧幕府軍の敗戦が決定的になると、慶喜は側近とともに密かに大坂城を脱出し、大坂湾に停泊中の軍艦開陽丸に乗って品川沖に着き、江戸城に帰還します。総大将の退去を知った多くの藩が旧幕府軍を見限ります。新政府が送り出した征討の軍隊は、こうして「官軍」と呼ばれるようになります。
慶喜が帰還した江戸城で開かれた緊急対策会議の席で上野介は、官軍に対する迎撃作戦を唱えます。上野介と榎本武揚が主戦派の急先鋒でした。迎撃作戦とは、東海道を進撃してきた官軍の一部を箱根の山中に誘い込み、後続の官軍を駿河湾に待機した旧幕府の軍艦が砲撃するという計画です。しかし主戦派の主張は退けられ、すぐさま上野介は役職を解かれます。
上野介の身を案じた、小栗家のかつての出入り業者であった三井の中興の祖、三野村利左衛門はこの時期に上野介にフランスへ逃げるよう懇願したといわれています。その時、上野介は「謀略ばかりの政治にはもはや興味はない。これからは教育が必要だ。学校をつくり、世界に通用するリーダーを育てたい」と語ったとされています。
役職を解かれた上野介は、「主君慶喜が新政府に逆らわないと決めたのなら、旧幕府軍が抗戦しても大義名分がない」として、彼の領地のひとつであった上州の権田村に移り住み、村の青年を集めて外国語や数学などを教え、余生を送ることにします。前将軍の慶喜は、謹慎生活に入ります。
しかし官軍は、上野介が望むようなのどかな暮らしを許しませんでした。1868年4月、東山道総監府軍(官軍)が「小栗に反逆の意図あり」として上野介追討令を上州の各藩に出します。官軍にとって旧幕府の主戦派の急先鋒であった上野介は恐れる相手だったのでしょう。
権田村の住まいの周辺を官軍に囲まれた上野介は家族だけ逃がし、官軍に捕らえられます。そして反逆に対するなんの取り調べもなく、家臣とともに斬首さます。小栗上野介、41歳。ここに彼の人生は閉じます。
上野介が斬首される約半月前、江戸城は無条件で官軍に明け渡されます。西郷隆盛を実質的な最高司令官とする官軍との和平交渉にあたったのは、旧幕府陸軍総裁を務めた勝海舟でした。かつて外国軍艦を買いあさり、幕府に経済的な負担を与えた勝海舟が「江戸城無血開城」に貢献した人物として歴史に残り、公共事業の推進や株式会社の設立を唱え、近代的国家の枠組みをつくろうとした上野介が官軍の手によって斬首されたのは、皮肉な結果です。
「「江戸城無血開城」の後、旧幕臣の抵抗による局地戦が続きますが、官軍の前にことごとく破れ去ります。こうして1868年はそのまま明治元年となり、新政府が誕生します。
次週は、明治政府のもとで貨幣制度の構造改革が進められ、1両=1円の割合が決定するまでを紹介します。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 11 上野介の運命を変えた大政奉還
今週と来週は、上野介の晩年を紹介します。それは政治・経済など国家を支える社会システムが激変した時代と重なります。
討幕運動が盛んになり、政治的な混乱が続きました。同時に開国にともなう経済的な変化が社会全体を不安にさせました。江戸や大坂などの大都市では物価が激しく上昇、経済政策に対する幕府の無能さがあらわになっていきます。
この時期に現在の赤字国債に近い性質の金融政策が実施されました。上野介が発案した、江戸と横浜においてのみ通用する金札の発行です。発行所は三井御用所、発行額は十万両。二十五両、十両、五両の三種の金札が用いられました。通用期間は2年で、2年後に正貨と交換するというものです。三井からすれば2年後に関税収入で充当してもらえるとしても、それまでは立替となるわけです。こんな非常手段を用いなくてはいけないほど、幕府の財政は追い詰められていました。
当時、各藩では藩内だけで通用する藩札を発行していましたが、領民たちはいやいや使っていたようです。新たに発行された、幕府が信用保証する金札は三井の信用に依存したものといえるでしょう。
1867年当時、上野介は海軍奉行と陸軍奉行を兼任していました。薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、推し進めている倒幕運動に対抗する重要なポストです。
同年10月、将軍の政権返上を政治路線として考えていた土佐藩から15代将軍徳川慶喜にあてて、大政(統治権)を天皇に返上する建議書が提出されました。そして遂に慶喜は「大政奉還」を発表しました。264年間に渡って江戸幕府、徳川将軍家が保持していた政権を朝廷へ返上すると申し出たのです。
大政奉還の上奏文を要約すると、「今日の時勢に至ったのは私の不徳のいたすところで恥じ入るばかりです。最近は外国との交際が盛んになり、政権がひとつにならないと秩序が保てなくなりました。政権を朝廷に返しますので、広く天下の議論をつくして天皇の決断をあおぎ、協力しあってゆけば海外の国々と肩を並べられるようになるでしょう」という内容でした。
折りしも、薩摩・長州両藩と朝廷内の実力者である公家の岩倉具視らによって「討幕の密勅」が発せられるようとした時でした。つまり、軍事力によって政権を奪うクーデターが勃発しようとしていたのです。慶喜はこの動きを未然に防いだという解釈もできます。また、慶喜は一旦は形式的に政権を手放すが、いずれ徳川家が政権を握れると判断したのかもしれません。
一方、結果的に討幕運動を停止させられてしまった薩長両藩と岩倉具視らは、天皇を手中にして朝廷をコントロールする計画を進めていました。
同年12月に「王政復古」の大号令を出します。これは「政権は天皇に移った」と宣言する政変でした。大政奉還しても朝廷による新政権は、徳川家がイニシアチブを握ることが予想されたことから、先に摂関制度(摂政・関白)と幕府を廃止し、総裁、議定、参与の三職を置く、天皇による新政府の設立を宣言したのです。と同時にこれは徳川幕府の廃絶を意味するものでした。
上野介は江戸城で主戦論を展開しました。薩長藩を武力で統一するという考え方が生まれたのは、幕府によって近代国家への脱皮を図るべきだという未来予想図を描いていたからでしょう。
「王政復古」の大号令の後に開かれた会議によって、慶喜は内大臣の官位辞任と領地の返上が命じられました。この会議に慶喜は出席しておらず、会議で決定した内容を聞くと京都から大坂城へ身を退きました。このニュースが伝わると、旧幕府側や多くの大名から不満の声があがり、同情論とあいまって新政府のリーダーに慶喜を据えようという動きも活発になります。旧幕府と薩長同盟の対立は激しさを増していきます。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 10 上野介の幕府財政・軍事構造改革
幕末の財政の立て直しを指揮した小栗上野介。今回は上野介が挑んだふたつの大きな改革を紹介しましょう。
幕末期の幕府が担った出費の最も大きなもののひとつに、諸外国から購入した44隻の戦艦の購入費があります。その総額は333万6千ドル(現在の価値で340億円以上)でした。しかも満足に操縦できる人材が不足し、他国との交渉材料になりませんでした。他国から軍艦を購入すべきだと唱えたのは、かの勝海舟でした。
遣米使節の目付として渡米した経験のある上野介は、アメリカで造船所を見学しています。強い海軍を創設するためには自力で軍艦を建造することが必要だと考えたのでしょう。上野介は具体的な造船所の建設計画を練り上げます。アドバイスをしたのは、フランス公使レオン・ロッシュでした。
フランスが積極的であった理由は、当時ヨーロッパ全土に蔓延した蚕病によって養蚕業が壊滅状態にあり、フランス最大の輸出品である絹織物の供給源として品質に優れた日本の絹が必要であったからです。実はロッシュはナポレオン三世の意向を受け、日本から絹を輸入する窓口になるべく、フランスから送り込まれてきた人物でした。
上野介は1864年(元治元年)、造船所建設案を幕府に提出します。勝海舟をはじめ大名からも多くの反発を受けましたが、2年後に第15代将軍となる徳川慶喜の支援もあり、建設案は受理されます。建設予定地は横須賀に決定します。
造船所の建設費は総額240ドル(現在の価値で240億円以上)。幕府は絹の利権を担保にフランスからの借款で充当することにしました。1865年(元治2年)、横須賀製鉄所の建設がスタートします。規模と建設費を考慮すると、当時のアジア最大の建設プロジェクトであったといえるでしょう。幕府認定の工事の責任者にフランス人を抜擢し、西欧の雇用規則や教育など近代経営を導入します。
さらに上野介は1867年(慶応3年)、15代将軍の徳川慶喜にある提案をします。「兵庫(現神戸)開港にともない、外国人と取引をする商社コンペニーを設立すべきだ」というものです。コンペニーとは、上野介がアメリカ視察で覚えた「株式会社」、特に外国貿易を営む商社のことです。上野介のビジョンは、有力商人から100万両を出資してもらい、株式会社を設立。そのコンペニーは3年間有効の同額の金札、銀札を発行、3年後に正貨と交換する。その財源の100万両は、兵庫開港による関税収入を充当。続いて幕府が100万両の金札を発行。これによって200万両の資金を幕府は利用できる。簡単にいえば、こういう構想でした。
やがて日本初の株式会社と呼ばれる「兵庫商社」が設立されます。
上野介は一度軍事奉行に転任するものの、勘定奉行を三度務めました。最後の役職は、海軍奉行を兼任する陸運奉行でした。この間に、前述した大きな改革を成し遂げただけでなく、諸色会所(商工会議所の前身)の設立、横浜フランス語伝習所(フランス語専門学校)の設立、横須賀製鉄所学舎(工業高等教育機関、企業内教育制度)の設立など多くの事業を起しました。また、中央銀行設立の計画、新聞発行の計画など近代化に欠かせないアイディアを提供しました。これらは外国貿易の商社(コンペニー)の利潤によって行えるとする画期的な構想でした。
1867年(慶応3年)に着工された「築地ホテル」は、明治5年に焼失するまで日本最初の本格的なホテルとして外国人から高い評価を得たホテルです。このホテルの開設について上野介は、「民間で行う者があれば土地は幕府が無償で提供し、利益は経営者のものとしてよい。資金は民間から募り、利益を出資金に応じて分配する方法にするよう」と指導しています。第三セクター方式プラス株式システムの導入で自由競争をすべし、という近代的な発想です。
しかし、1867年の「大政奉還」によって上野介の人生は大きな転機を迎えます。将軍慶喜が「政権を朝廷に返上する」と発表したのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 9 上野介の資金繰り
小栗家に出入りしていた紀ノ国屋利八、のちの三野村利左衛門の情報収集能力を逸早く見抜いていた男がいました。三井両替店の一番番頭、斉藤専蔵です。専蔵は利八を通じて勘定奉行の小栗上野介と接点が持てるよう働きかけます。
三井は横浜が開港された際に幕府に願い出て、外国奉行所御用達にしてもらった経緯があります。しかし新たに着任した上野介とは面識がありませんでした。
当時の外国貿易は幕府の管理下にありました。外国へ商品を販売した場合、外国商人からの代金はいったん奉行所へ入り、奉行所から商品を納品した国内の商人に支払われました。その際に関税も徴収されました。それらの業務を担ったのが、御用の認可を受けた三井のような商人でした。幕末は“民営化”が進んだ時代ともいえるでしょう。
貿易代金の納入から支払いまで60日の期間がありました。ご用達はこの間に資金の運用ができたわけです。この時代の金利は月1%が普通でした。三井両替店はここでも利益を上げていましたが、様々な要因から財政破綻の危機にあった幕府は、三井家などの裕福な豪商に献上金を強制しました。
一方の三井家もまた融資の焦げ付きや洋銀相場での失敗などが重なり、経営状態は悪化していました。
幕末に幕府財政が火の車であった理由は、1863年(文久3年)将軍家茂の二度にわたる上洛費、長州征伐費、軍艦購入費、四国連合艦隊との交戦の賠償金、薩摩藩士によるイギリス人殺傷「生麦事件」の賠償金など臨時の出費がかさんだからです。当時の幕府の財源は、直轄領400万石からの租税がメインでした。
財政危機をしのぐために考え出されたのが、豪商に対する献金命令です。幕府ご用達の両替商は地方で納められた税金を江戸で納金するので、巨額の公金を無利子で運用できました。納入から支払いまで原則60日でしたが、90日、150日といった特例も認められたといいます。そこで、三井家に献金命令が下されていたわけです。幕府が三井家に要求した額は50両でした。
三井家にできるのは減額申請だけです。そこで三井両替店の一番番頭、斉藤専蔵は小栗家に出入りしている紀ノ国屋利八を使って、上野介に減額申請を説くか、ワイロを渡して手加減してもらうか、戦略を練ったのでしょう。専蔵は献金を減額できる方法がないか、上野介に尋ねてもらえるよう利八に打診します。
紀ノ国屋利八を介して専蔵に返された返事は、「天下のためにできることを考えて欲しい」ということでした。
上野介の構想は次のようなものでした。
「融資する金のない幕府に代わって三井家が中小の商人に対して融資をする。原資は10万両。出荷商品を担保としてその商品価格の70%を3ヵ月期間で貸し付ける。利子は12%。原資10万両は横浜の三井両替店が預かっている関税を充当するが、これはもともと公金なので、三井家は幕府に年利10%の利子を支払う。商人に融資する利子と幕府に支払う利子の差額2%によって三井家は利益が出る。これを引き受けるなら、献金の減免を考えてもいい」
無利子だったものが、一転して幕府に年利10%の利子を支払うことになったことを苦々しく思った専蔵ですが、最終的に小栗案を了承します。しかし、京都の本店に納得させるには、献金の減免の確約と証人が必要です。これに対して上野介は「紀ノ国屋利八なら信用できる」と返答します。専蔵は勘定奉行の信頼の厚く、金融情報に明るい利八を雇い入れることによって大きなメリットが生まれることを悟ります。
上野介の幕府財政建て直し計画は、すぐさま実施されます。1866年(慶応2年)、中小商人に対する小口の融資制度「江戸市中荷物御引受当御貸付金」を施行。三井家はこの新制度の運営のために、両替店とは切り離した組織「三井御用所」を設置し、利八には「通勤支配格」と称する取締役クラスの役職が与えられました。利八は三野村利左衛門と改名し、三井グループの中で地位を築いていきます。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 8 上野介と三井のつながりの始まり
1862年(文久2年)2月、小栗上野介が対峙したロシア軍艦の対馬占領事件、通称「対馬事件」で上野介は実力でロシア艦を退去させることはできませんでした。東洋での利権の争奪戦を演じているイギリスとロシアを互いに牽制させるというアイディアは上野介の発案であったとされていますが、実際に駐日英国大使オールコックに相談したのは老中安藤信正でした。上野介は外国奉行の役職を解かれます。解任については、安藤信正が上野介を更迭したという説と、上野介自身が辞表を提出したという説が残っています。
どちらにしても上野介がロシア軍艦を自力で排除できなかったことに屈辱を感じたことは確かでしょう。アメリカ帰りの上野介はこの時、おそらく日本の経済力、軍事力、工業技術の低さを痛感したからこそ、のちに幕府の反対を押し切って横須賀製鉄所を建設し、さらには日本初の株式会社と呼ばれる「兵庫商社」を設立するに至ったのではないでしょうか。
同年6月、上野介は勘定奉行勝手方(かつてかた)に登用されます。勘定奉行には、公事方(くじかた)と勝手方があり、前者は裁判を担当、後者は財政を受け持ちました。といっても財政大臣ではなく、中央官庁でたとえるなら次官か主計局長クラスです。
この時期に小栗家に出入りしていたのが、のちに三井銀行を創設する「三井の大番頭」三野村利左衛門です。素性ははっきりしていませんが、当時彼は菜種油や砂糖を販売する「紀ノ国屋」に気に入られ、入り婿となり、紀ノ国屋利八を襲名していました。コンペイトウの行商で貯めた資金を元手に両替商の利権を買い、油や砂糖の商売のかたわら、小規模な両替商も兼業していたようです。
当時の両替商は、両(金貨)を他の貨幣に替える商いでした。江戸時代には、金貨・銀貨・銭貨という3種類の貨幣が利用されていましたが、金銀貨の流通範囲は地域によって異なっていました。特に江戸と大坂では金銀貨と銭貨との価値が異なっていたので、3貨幣の交換業務が不可欠だったのです。
やがて両替商の業務範囲は広くなり、商人や大名などを主な取引相手として預金を受け入れたり、手形の発行・決済をしたり、金銭の貸し付け、為替の決済などの金融業務を担うようになりました。大手の両替商は大名向けの貸し出しを行い、大名の財政を資金面から支えるようになっていました。江戸で最大の両替商が、幕府御用達の「三井両替店」でした。
三井組(のちに三井グループ)の始祖、三井高利は伊勢・松阪から江戸に進出し、「越後屋」の看板で呉服店を経営し、短期間に財を築いた人物です。この越後屋が「三越百貨店」の起源です。三井高利は京都に仕入店(本店)を構え、大坂にも呉服店と両替店を開きました。
当時の呉服商人は、大名、武家、大商人をメインの顧客とする訪問販売を営んでいました。代金支払いは年2回が普通でした。掛売りですから値段も高かったようです。越後屋呉服店は発想を転換し、値段を安くして店頭売りとし、そのかわりに掛売りなしの現金商売を行いました。低料金の新品の着物を販売したことで庶民の人気を博しました。
越後屋呉服店からすれば、訪問販売に費やす人件費が削減でき、現金取引なので資金の回収が早いというメリットがありました。呉服で財を築いた三井組は、横浜の開港とともに横浜にも両替店を設けていました。
こうして三井と江戸幕府は深くつながっていきます。そして幕府の財政危機によって上野介と三野村利左衛門を窓口とした三井との関係も深くなっていくのです。
その接点が、小栗家に出入りしていた紀ノ国屋利八なのです。彼は勘定奉行の上野介が奉行所下役に対して「金と銀との交換レートを、金に対して約3倍有利なレートに変更する」と告げているのを小耳にはさみ、金の含有量の高い天保小判を買いあさりました。交換レート変更の布令が出たのちに銀と交換すれば3倍の利益が得られるからです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 7 尊敬すべきタフ・ネゴシエイター
フィラディルフィアの造幣局に乗り込んだ小栗忠順は、「金以外の含有量を分析して正しい交換比率を決定すべき」と主張し、一歩も引きませんでした。当時のアメリカの新聞記事から小栗の様子を引用します。
「オグロ(小栗)は、どれだけ時間がかかっても結構と言って、動かなかった。それは、あきれかえるほどの忍耐心であった」
もともとアメリカ側は大がかりな合同実験を日本使節団とやることになるなど考えていなかったようです。小栗の要求でやむを得ず挑んだというのが正直なところでしょう。しかもこの交渉は幕府から正式に命令を受けたものでなく、いわば小栗の自己判断でした。彼は「一切自分ひとりで責任を取る」と言い切って交渉を開始したと伝えられています。
合同実験の結果、日本の小判のほうがアメリカの金貨に比べてはるかに良質であることが証明されました。ここで決まった新通貨交換・為替レートは次のようなものです。
●安政小判1両=3ドル41セント
日本側にきわめて有利な結論が出て、“日米間初の為替レート交渉”は終了します。
この実験結果を踏まえて交換レートは再評価され、日本は無用な金の流出を防止することが可能になったのです。
当時のアメリカの新聞は「将来、日本人がアメリカ人の教師になる時がくるだろう」と記しています。もともと独立精神の強いアメリカ人は自分の考え方を堂々と主張する人間を高く評価する傾向があります。小栗がアメリカで尊敬のまなざしで見られたのは、彼が子供の頃から宿していた“生意気さ”であったのかもしれません。日本では敬遠されがちな歯に衣着せぬ物言いが、アメリカでは効果的だったのでしょう。
そういった意味では、小栗は最初にアメリカ人に認められた交渉人、しかもタフ・ネゴシエイターであったようです。
一方、小栗はアメリカで多くのことをつかんだようです。港の大きさと船の巨大さに驚き、また初めて本格的な蒸気機関車に乗り、この鉄道を日本に建設するために必要な構造から建設に要するコストの計算まで行っていたといわれています。そして港や鉄道など巨額な建設資金を調達する方法として「コンペニー」(カンパニー=株式会社)というシステムがあることも知ります。
軍艦、新聞、造幣技術、蒸気機関車など科学技術の進歩を目の当たりにし、日本もこれらの科学技術をできるだけ早く吸収し、世界に対抗できる国にしなければいけないと考えたのでしょう。のちに勘定奉行に任官される小栗は、兵庫開港に際し、真っ先に「コンペニー」創立の必要性を説きます。
さて、遣米使節団一行は帰国します。諸説では帰国時に歓迎の儀式はまったくなかったとされています。帰国した1860年(万延元年)11月、小栗忠順は外国奉行に任官されます。翌1861年(文久元年)、小栗上野介に昇進。当時は名を変えることは昇進とされ、多くは役職の位が上がるのを機に改名されました。
しかし同年、上野介にひとつの試練が待ち構えていました。ロシア軍艦の対馬占領事件、通称「対馬事件」が勃発したのです。
ロシア軍艦のポサドニック号が対馬付近を測量し、芋崎浦に停泊。船体修理を名目として永住施設を建設しはじめたのです。対馬藩の抗議に対し艦長ビリレフは、設営資材・食糧・遊女を要求、芋崎付近の永久租借権とロシア軍による警備権をも要求してきたのです。
土地を侵された島民は激しく抵抗しました。幕府から派遣された外国奉行の小栗は藩の上層部とともに折衝に当たります。島民の抵抗を押さえる一方、艦長と交渉するとともにイギリスに折衝を依頼します。小栗はここでもタフ・ネゴシエイターぶりを発揮します。駐日英国大使オールコックが2隻の軍艦を派遣して退去を強硬に迫り、ポサドニック号は退去、事件は落着します。しかし小栗は事件の責任を問われて免職となります。
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小栗上野介が駆け抜けた時代 6 日米間初の為替レート交渉
今回は小栗忠順の「万延元年の為替レート交渉」を詳しく紹介します。これが日米間の史上最初の為替レート交渉です。幕府はアメリカの初代総領事ハリスをはじめ、オランダ、イギリス、ロシア、フランスの各総領事とも「同種同量の貨幣の交換」という条文を交わしていました。小栗はこのような不法行為はいつの日にか正すべきであると考えていたのでしょう。
サンフランシスコに到着した遣米使節団は大歓迎を受けました。市主催の歓迎式典に出席し、街を見物します。一行はその後、パナマ~カリブ海を北上~首都ワシントンというルートで進みました。ワシントンではホワイトハウスで大統領ブキャナンと批准書の交換を行いました。そして小栗は正使・新見正興とともに合衆国造幣局を訪れました。アメリカの金貨と日本の小判における金の含有量を調べ、交換比率を決めようとしたのです。
会議が開始されると、小栗は象牙でつくられた「天秤ばかり」を、従者の一人にはソロバンを持たせて臨みました。当時のアメリカの新聞は次のように記しています。
「それを見て、われわれはショックを受けた。アメリカでは鉄で出来ている部分が、日本製では象牙でつくられている。約1フィートの長さにわたって精緻な目盛りが刻まれ、皿とおもりがついている。実験してみると、一分の狂いもない精密さを維持していた」
またソロバンの便利さにも驚きを表わしています。
「日本の高級役人の一人は計算器を持っていた。五つずつ木のボタンが十五列並んでいる。そのボタンをあちこちに滑らせると、恐るべきスピードで計算ができてしまう」
チョンマゲを結った異国の人々の科学的な合理性を見直したのでしょう。
「さらに驚いたことに、日本の重量の単位は十進法だった。日本人のほうが、アメリカ人よりも合理的なのである」とも記しています。
小栗が主張したのは、「これまでのような目方だけで行うのではなく、金の含有量の多少によって正確に定めるべきである」というものです。アメリカ側もこれを当然な意見として聞き入れ、両国代表の立会いのもとで、アメリカ金貨と日本の小判における金の含有量の測定を行ったのでした。
再び当時のアメリカの新聞から引用します。
「日本使節団のメンバーが、通貨交換比率、為替レート問題のような、微妙でかつ難解なテーマについて、それを理解するに十分な知性と明敏さを持っていたことに、われわれは心から驚き、そして日本人に対して格別に好意的な印象を抱くようになった。この中で日本人最高の人物は、監査官オグロ・ブンゴ・ノカミであった。デュポン大使はオグロのことを“法務長官”と呼んで、特別に尊敬の意を示した」
小栗が「オグロ」と呼ばれていることはさておいて、実に堂々とした交渉の態度であったようです。
そして実験の結果、日本の小判のほうがアメリカ金貨よりも、かなりの多めに金を含有していることが判明しました。
しかしこれで交渉が終わったわけではあません。小栗は持論を説明します。
「日本の小判にもアメリカの金貨にも金以外の金属が含まれている。日本では銀を多く含有させているが、ドル金貨はどうなっているのか? これからの含有量も分析しなければ正しい交換比率の決定はできない。あなたの国のハリス総領事は、江戸で間違った交換比率を要求し、日本政府がそれを受け入れたために、通商貿易とは別に交換レートによって日本の経済は大きな損害を被っている。今回の合同実験で交換レートを正確に定める必要がある」
小栗は自信を持っていました。訪米前にアメリカの金貨には銀がほとんど含有されていないことを調査していたのです。突然の申し出にアメリカ側は「金の含有量を調べるだけで十分ではないか」「技術的に難しい」として小栗の提案を一度は拒否します。
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小栗上野介が駆け抜けた時代 5 安政の大獄と万延元年の遣米使節団
1855年(安政2年)、小栗忠順のちの小栗上野介は、家督を継ぎました。幕府では、それほど地位の高くない使番(つかいばん)でした。これは大名の監察、城の受け渡しの立ち会い、目付けとしての地方出張などが主な任務です。
日米修好通商条約が調印された翌年の1859年(安政6年)、ようやく大老の井伊直弼に抜擢され、旗本や御家人を監察する本丸目付となり、外交担当の外国掛(がいこくがかり)に任命されます。その秋、小栗忠順は日米修好通商条約批准書交換の使節の一人に選ばれ、さらにその年の末、豊後守に任官され、小栗豊後守忠順が誕生します。
大老の井伊直弼が独断で行ったのは、日米修好通商条約の調印だけではありませんでした。紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派の中心人物であった井伊は、一橋慶喜を将軍にしようとする一橋派を押し切って、強引に徳川慶福を将軍の後継者を選んでしまったのです。しかも独裁に反対する一橋派を謹慎や江戸城登城禁止など徹底的に弾圧しました。これが世に言う「安政の大獄」(1858年~1859年)です。
厳しい処罰を受けた歴史上の重要な人物をひとり挙げるなら、処刑された吉田松陰でしょう。長州(山口県)の萩で松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰し、多くの弟子を育成しました。門下からは高杉晋作、内閣総理大臣・山県有朋(やまがたありとも)、同じく総理大臣を務めた伊藤博文などが輩出しています。
さて、1860年(安政7年、3月に万延と改元)1月、77名の遣米使節団が迎船パウアタン号に乗り込み、アメリカに向かって出港しました。随行船(護衛船)は幕府の軍艦・咸臨丸(かんりんまる)。艦長はのちに小栗忠順と対立する勝海舟です。咸臨丸には従者として若き日の福沢諭吉、通訳として中浜万次郎(ジョン万次郎)が乗船していました。
遣米使節団の三役は、外国奉行であった新見正興(まさおき)が全権を与えられた正使、村垣淡路守範正が副使に、小栗豊後守忠順が監察に名を連ねました。遣米使節団の最大のミッションは、日米修好通商条約の批准書(ひじゅんしょ)の交換でした。批准書の交換とは、調印した条約を国家として正式に認めて最終的に確定する手続きのことです。
しかし小栗忠順には他にも「日米両国の通貨の為替価値決定」という目標がありました。小栗は小判と金貨の交換レートに疑問を抱いていたのでしょう。のちに記しますが、彼は交渉をスムーズに進めるためにある道具を積み込んでいたのです。
パウアタン号は途中サンドイッチ諸島(ハワイの旧称)に寄港し、1860年3月、サンフランシスコ港に到着します。
同じ頃、日本は万延元年に改元し、井伊直弼暗殺事件「桜田門外の変」が勃発します。「安政の大獄」で前水戸藩主徳川斉昭が自宅謹慎処分されたことに激怒した水戸藩士の一部が脱藩し、薩摩脱藩藩士らとともに井伊の暗殺をたくらんだのです。白昼堂々と幕府の大老が襲われ、殺害されたことで、幕府の権威は一気に失墜します。幕府の力が弱まった理由は、経済面にも見受けられます。
おりしも、これまで使用していた小判の金の含有量を3分の1に減らした万延小判を改鋳したことで物価高が起こっていた時期。さらに自由貿易によって外国製品が安く国内に流れ込み、急に輸入額が増加していました。また、国内の既存の流通システムが崩れたのもこの頃です。江戸時代はあらゆる商品はいったん産地から江戸や大坂などの問屋に集められ、問屋から仲買、小売へと流れる物流システムが確立していました。
しかし、生糸や茶などの輸出品はとても人気が高かったため、農村を拠点とする在郷商人は、農家から生糸や茶を買い付けると、問屋を通さずにそのまま開港場へ直送してしまったのです。消費地である大都市では生糸や茶が極端な品薄状態になり、価格が上昇、連動して物価が上がっていたのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 4 日米修好通商条約と通貨の流出
1858年(安政5年)、総領事ハリスの通商開国の申し出を受け、幕府はこれに調印することになります。
しかし、これですぐに条約が結ばれたわけではありません。当時、対外的な条約のような国の重大事項については、勅許(ちょっきょ)、つまり朝廷(天皇)の許可が必要とされたのです。老中首座の堀田正睦は、京都に出向き、当時の天皇である孝明天皇に勅許を求めます。すると外国人嫌いの孝明天皇は、これを拒否。その頃の朝廷は排除思想ともいうべき「攘夷」に傾いていたのです。
堀田はこれを機に幕府での政治的な力を失います。将軍の後継者争い、攘夷思想の高まりなど多くの問題を抱えていた幕府は1858年春、彦根藩主井伊直弼を大老に据え、一挙に問題解決を図ります。のちに井伊直弼が渡米使節団の一員として小栗上野介を任命するのです。
井伊直弼は藩政改革を断行した名君として知られていました。また、ペリー艦隊が来航した際に江戸湾の防備に活躍し、発言力も増していたようです。
この井伊直弼が大老になった直後、歴史が変わります。井伊直弼は天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのです。この独断が朝廷や攘夷主義者の大きな怒りを買い、事件に発展するわけですが、それはこのあとの連載で記すとして、先に日米修好通商条約の要点を記しておきましょう。
(1) 神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港と江戸・大阪の開市
(2) 通商は自由貿易
(3) 開港場に居留地を置き、外国人の国内旅行は禁止
(4) 領事裁判権(治外法権)の承認
(5) 関税自主権のない協定関税制度の承認
特に(5)に注目してください。この条項は、日本にとってたいへん不利なものです。外国製品の関税を決める権利が日本に認められず、アメリカと相談しなければ税を決定できないという制度が採用されたのです。この「不平等条約」を解消するために幕府および明治政府は大きな外交努力を払うことになるのです。幕府が通商条約を結んだのは、アメリカ以外にオランダ、ロシア、イギリス、フランスなどがあります。
さて、ここで幕府が抱えてきた大きな問題が浮上します。幕府は鎖国体制のもとで通貨の金銀比価を行ってきましたが、これが国際相場との大きなギャップを生み出していたのです。幾度となく貨幣改鋳を実行し、幕末には計数銀貨が銀貨残高の大部分を占めていました。開港すると、その割高な銀貨は「同種同量の法則」に基づいて、素材価値が低くても重量のある洋銀(メキシコ・ドル)と両替されることになったわけです。ちなみにメキシコ・ドルとは、アジア圏内での貿易決済手段として広く流通していた銀貨です。
重量で見れば、天保一分銀3枚の総重量25.8g=洋銀(メキシコ・ドル)1枚重量26.8gとなります。
実質価値では銀高化が進み、金銀比価は当時の国際相場1対15を大きく上回り、国内では1対5でした。幕府は「金銀の交換比率は素材価値に基づいて算定すべきだ」とハリスに主張しますが、最終的に押し切られます。
開港によって何が起こるかといえば、メキシコ・ドルを日本に持ち込めば、銀貨の金貨価値が国際相場の約3倍も過大評価されるために、リスクなしで多額の利益を獲得できることになったのです。次のような流れです。
洋銀を一分銀と交換→金貨(天保小判)に両替→海外に持ち出す→地金と交換→洋銀と交換→多額の利益
つまり、通貨が流出し、国内は物価高に見舞われるという危機に直面していたのです。幕府は開港直前の1859年(安政6年)、天保一分銀よりも重量・含有純銀量を増やし、かつ額面を半分に落とした安政二朱銀を新鋳しましたが、諸外国から強い反発を受け、開港後まもなく中止します。
そして翌年、天保・安政小判の対銀貨の通用価値を約3倍に引き上げ、続いて1両当たりの純金量を約3分の1に引き下げる金貨改鋳を実施するまで、国内から巨額の通貨が流出したのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 3 日米和親条約の締結と開国
1853年、黒船に乗って来航したペリーが、久里浜において浦賀奉行に受け取らせたフィルモア大統領親書(正式な外交文書)の内容を説明します。
「与が志、二国の民をして交易を行わしめんと欲す。是を以て日本の利益となし、また兼て合衆国の利益となさんことを欲してなり。(中略)もし是等の難に遇ふに方っては、貴国に於いて其難民を撫恤(ぶじゅつ)し、其財物を保護し、以て本国より一舶を送り、救い取るを待たんこと、是与が切に請ふ所なり。日本国に石炭甚だ多く、又食料多きことは、与が會て知れる所なり。(後略)」
要約するなら、「アメリカ合衆国は日本と貿易をしたいと願っている。(つまり、日本を侵略するつもりはない)。お願いしたいことは、商船や捕鯨船などアメリカ船が立ち寄った際に物資の補給をしてもらうこと(寄港地として利用させて欲しい)、そして遭難船員の保護をしてもらうことだ」という内容です。
これに対して幕府が出した回答は「来年になったら返事をするから、とりあえず帰って欲しい」というものでした。
こうしてペリー提督を退去させた直後、今度はロシア使節で海軍中将のプチャーチンの艦隊が長崎に寄港し、開国を要求します。
当時の幕府で国政を統轄した職は老中です。5万石以上の譜代大名がこの職に就きました。将軍の補佐役である大老は、老中より位の高い最高職ですが、譜代大名の名誉職的な意味合いが強い職でした。大老として権力を行使したのは、これから登場する井伊直弼です。
老中の筆頭として財政担当を専任したのが老中首座です。ペリーが浦賀に来航した際の老中首座は、備後福山藩7代目藩主の阿部正弘です。自らが治めていた備後福山藩の藩校をリニューアルしたり、思い切った人材登用や「大船建造の禁」の緩和を実行したりするなどいくつかの改革を行った政治家ですが、ペリー来航時には鎖国を理由に開国を拒絶しています。
しかし、ペリー提督を退去させた後、意外なことに阿部正弘は、諸大名や幕臣に「開国についてどう考えるか」と広く意見を求めたのです。彼のこの態度に対して現在「指導者として主体性がない」「優柔不断」という批判と、「外様大名が幕政に参加できる機会をつくった先駆者」という賞賛の意見の両方が寄せられています。中には阿部正弘が外様大名に意見を聞いたことで、彼らが政治に目覚め、討幕運動につながっていったと分析する作家もいるくらいです。
さて、ペリー提督ですが、翌年の1854年(安政元年)に再び来航します。今度の艦数は7隻。しかし、来航は幕府が予想した以上に早かったようです。どうやらアメリカ政府あるいはペリー本人が、ロシア使節プゥチャーチンに先を越されまいと焦ったようです。
そして横浜に上陸したペリーは強硬な態度で開国を迫りました。諸大名から意見を聞いた阿部正弘はついにペリーの要求を受け入れ、「日米和親条約」を結ぶことになります。こうして日本は開国を迎えます。
のちに日本人使節団の一員として渡米する小栗上野介は、この翌年の1855年(安政2年)に家督を継ぎます。1856年にはアメリカの初代総領事ハリスが来日し、下田に駐在します。ハリスのミッションは、日本と通商条約を結ぶことでした。つまりハリスは「わが国と貿易をしよう」と言い寄る営業マンです。ハリスはもともと商人。この機会に一儲けしようと企んでいてもおかしくありません。こうしてハリスは幕府にアプローチを続けます。
一方、老中首座の阿部正弘は1855年、開国・通商派の人材を免職させたことで譜代大名たちから反発を買い、下総佐倉藩主の堀田正睦(まさよし)を老中首座に推挙して引退。新たな外交担当の堀田がハリスと交渉を続けました。ハリスの意向は自由貿易です。それは外交に無知な幕府につけこんだもので、日本に関税自主権はありませんでした。その一方で、日本は「通貨の流出」という大きな危機を迎えていました。日本はこうして初めて世界経済の荒海に見舞われていくのです。
By Master K/益田 慶
小栗上野介が駆け抜けた時代 2 ペリー来航、動揺する幕府 上野忠順の初登城
上野忠順(のちに上野介)の初登城は、15歳とも17歳とも言われています。
初登城とは、いわば本社への初出勤です。
忠順の文武の才は、城内でもすぐに注目され、若くして両御番となり、手腕をふるいました。
「両御番」とは、戦時には将軍を直接護衛する部隊で、平時には江戸城本丸の主要な門の警護、将軍外出時には乗物の警護を担当する「書院番」と、より将軍の近くを警護する「小姓組」を併せた総称です。
しかし若き忠順は率直な物言いによって、ときにまわりから疎んじられることが多く、たびたび官職を変えられたようです。やがて忠順のその後の運命を変える、大きな出来事が発生します。
忠順初登城から10年後の嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、幕府を震撼させる事件が起こります。
アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが、遣日国使兼日本遠征艦隊総指揮官として4隻の軍艦を率いて江戸湾の入口、浦賀に来航したのです。
黒い塗装の軍艦であったことから、日本では「黒船」と呼ばれました。旗艦サスケハナ号(2450トン)、ミシシッピ号(1692トン)の2隻が蒸気軍艦。
サラトガ号(882トン)、プリマス号(989トン)が帆走軍艦です。
ペリーは政治家でなく、アメリカ海軍軍人です。アメリカ初の蒸気軍艦フルトン2世号の艦長となり、1846年に始まった対メキシコ戦争ではメキシコ湾艦隊副指令官として指揮をとった海軍のエリートです。
1852年、東インド艦隊司令長官に任命され、日本派遣特派使節を兼任しました。
1848年にメキシコとの戦争に勝利し、カリフォルニアを手に入れたアメリカは、中国との綿貿易を活発にするためにカリフォルニアから太平洋を横断して中国を結ぶ汽船航路の開設が急がれていました。
そして当時の汽船は石炭を大量に消費したため、寄港地を必要としていました。
石炭の搭載量を減らすことができれば、その分の商品を積めるからです。アメリカが鎖国中の日本に寄港地を求めた理由のひとつは、中国との貿易にあったということです。
もうひとつの理由は、捕鯨業です。当時のアメリカは北太平洋で盛んに捕鯨を行っていました。
しかし、遭難して日本にたどり着いた漁師は、帰還することができず、日本で拘束されていたのです。
アメリカは人道的な見地からも、日本に開国を求めるようになっていったのです。
カリフォルニアを領土にする直前の1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドル提督率いる軍艦2艇が浦賀に入港し、幕府に開国の意志があるか打診だけして帰国したのは、どうやら幕府の感触を調べる事前調査だったようです。これがやがて1853年のペリー来航につながるのです。
当時のアメリカ海軍の情報収集能力にふれた文献が少ないので、明言はできませんが、幕府に最も近い港に来航したということから、アメリカ艦隊は日本の要所を描いた地図を持っていたことが想像できます。
また、江戸に政治を統制する機関があることを知っていたことがわかります。
余談ですが、幕末を描いたドラマではペリー艦隊が何の前ぶれもなく突然、浦賀に現われたかのように表現されますが、アメリカはこの前年、オランダ政府に対して、艦隊派遣の斡旋を依頼し、長崎のオランダ商館長を通して幕府に連絡していました。
そのことから「近くアメリカが日本に艦隊を送る準備をしている」という情報は、幕府の要人の耳には入っていたのです。
しかし、艦隊を迎え入れる準備は、何もされていませんでした。こうなった要因は、のちにこのコラムで綴ります。
アメリカ艦隊入港の情報をチャッチしておきながら、何の対策も取らなかったことに対して「危機管理能力の欠如」と指摘する作家や評論家は少なくありません。
しかしそこまで一気に飛躍するのでなく、まず「外交」という概念がまったくなかったと考えたほうがわかりやすいでしょう。
話は黒船に戻ります。ペリーは黒船に護衛させた測量艇を江戸湾深く侵入させ、江戸城の老中たちを威嚇。久里浜において、浦賀奉行に修好通商を求めるフィルモア大統領親書を受け取らせ、再来を約して退去していきます。
By Master K/益田 慶
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小栗上野介が駆け抜けた時代1 はじめに
幕末に活躍した一人の人物に様々な角度からスポットを当て、約1年半かけて彼にまつわるエピソードや事件を紹介していきます。
その人物とは、江戸幕府の勘定奉行(経済担当大臣の役割)として幕政を支え、また横須賀製鉄所の建設や日本最初の株式会社の設立をはじめ、多くの事業を興し、日本の近代化の礎となった小栗上野介(おぐり・こうづけのすけ/1827年~1868年)です。
小栗忠順(ただまさ)――のち上野介に昇進――は、文政10年(1827年)、江戸駿河台の旗本の家に誕生しました。第11代将軍徳川家斉が、太政大臣に任じられた年です。世界に目を転じれば、イギリスで蒸気機関車が実用されるようになった頃です。欧州で資本主義制度が始まり、いち早く産業革命に成功したイギリスが「世界の工場」の地位を獲得していました。しかし、そんな世界の様子は、日本には伝えられることはありませんでした。
忠順の父は、新潟奉行の小栗忠高です。小栗家は上総(現在の千葉県)、下総(現在の千葉県)、上野(現在の群馬県)、下野(現在の栃木県)などに領地を持つ禄高2500石の旗本でした。
江戸幕府の旗本とは、徳川将軍直属の家臣で1万石未満の家を指します。旗本は武家諸法度により統制され、町奉行や勘定奉行、大目付など諸役職に就きました。
父親に経済力があったため、忠順は教育を受ける環境にありました。屋敷内に開かれた塾で7、8歳から漢学を学び、剣や柔術など武芸にも優れていたようです。文武に抜き出た才能を発揮し、自身の意見をはばかることなく主張することから「天狗」と揶揄されることもあったようです。現在なら「自己主張の激しい秀才タイプ」ということでしょうか。
忠順は17歳から蘭学を学び、開明派幕臣の岩瀬肥後守忠震(ただなり)が翻刻刊行した『地図全誌』を読み、その先見的な構想にひかれ、早くから開国の必要性に目覚めたようです。ちなみに岩瀬忠震は、大老井伊直弼の代にアメリカ使節応接役を担う人物です。
やがて上野介は万延元年(1860年)、日米修好通称条約の批准書交換のために幕府初の遣米使節団として渡米し、通貨・為替交渉に当たり、1両小判と1ドル金貨の交換比率(為替レート)を決定します。不公平だった両国の為替レートをこの時期に改定したからこそ、明治4年、金本位制による「旧貨1両=1円=1ドル」という新貨幣体制へとスムーズに移行できたのです。つまり、上野介の活躍が大きな布石となり、日本の「円」が国際社会にデビューできたのです。
一方、彼が活躍した時代といえば、カリフォルニアのゴールドラッシュ(1845年~1850年代初頭)の時期と重なります。ヨーロッパが恐慌に見舞われ、多くの失業者が一攫千金を夢見て新大陸アメリカを目指した時代です。
じつはこのゴールドラッシュが世界経済に深くかかわり、ひいては「旧貨1両=1円=1ドル」という新貨幣体制の確立につながっていったのです。
当時はいち早く産業革命を迎えたヨーロッパの先進国が世界に君臨していました。欧州の強国は国外にも目を向け、海外との貿易を強化していった時代です。
一方、1848年にメキシコとの戦争に勝利してカリフォルニアを手に入れ、ゴールドラッシュを迎えたアメリカは、西海岸から太平洋を横断して上海、広東を結ぶ汽船航路の開設を目指していました。アメリカの綿工業が、中国市場で優位にあったイギリスに追いつくためにはどうしても航路の確保が必要だったのです。
このように小栗上野介が駆け抜けた時代背景を知ると、世界経済の大きな流れと日本経済の関係性までも浮かび上がってきます。毎週お届けするコラムは、エンタテインメントに軸足を置きながら、一方では現在ある制度の基礎がこの時代に確立されたことを知識として身につけてもらうための読み物でもあります。
「現代」の世界と日本経済の見取り図を知るためには、その基礎となった「近代」を知ることが肝心です。「小栗上野介が駆け抜けた時代」が皆様にとって、おもしろくて役に立つ読み物になれば幸いです。
By Master K/益田 慶