小さな政府江戸幕府 42 風俗と統制 富興行
江戸時代にブームを迎えたものに富興行がある。富くじ、富札、富突など呼称は異なるが、同じ内容だ。寺を普請するための資金集めの方法として行われた宝くじのことである。寺社が寺社奉行に出願し、許可を受けて開いた。
当初は、江戸、京都、大坂の3カ所に限られ、回数も規制されたが、1820年から1830年頃の最盛期には、江戸市中での興行は15ヶ所20の寺社にまで広がり、興行回数は年間120回も開催されていたという。
富興行のシステムはこうだ。興行主(寺社)が数千枚から数万枚の木製の富札をつくり、それに番号をつける。富札店(札屋)が興行主(寺社)から、番号が記された富札を買い取る。富札店はその仕入れ値に数割の利益を乗せて市中で販売する。寺社奉行に申請する必要があったため、定価はつけられたが、賞金額と需要によって富札は上下した。
一等賞金は、1000両(千両富)、500両(五百両富)、300両(三百両富)、100両(百両富)などさまざまなタイプがあり、札数が膨大な数にのぼるときは、番号に、鶴亀、松竹梅、雪月花、七福神といった組をつけ、それぞれに番号をつけた。たとえば「梅の267番」が当たったときは、松と竹の同番号の札にもいくらかの褒美金がつけられることがあった。
購入者は、市中で購入した富札(木札)を木箱に納め、同じ番号を記した紙札をもらう。当選番号を決める「富突」の日に、僧侶が箱の札をかきまぜ、側面の穴からキリで木札を突き、刺さった木札の番号を読み上げる。当選した紙札を差し出せば、その人が当選者というしくみである。
富札は高額で庶民が気軽に買えるものではなかった。たとえば、千両富(一等賞金が1000両=約1億2000万円のくじ)では、富札の料金が1枚1分(約3万円)だった。このため1枚の札を数人が共同して購入した。これは「割札」と呼ばれるもので、購入者は仮札をもらう。2人で購入した仮札は「半割札」、4人で購入した仮札は「四人割」と呼ばれた。
実際には、寺社奉行が公認した千両富は少なく、百両富が主流だったようだ。しかし、公認の富札以外に非合法の富興行が盛んに行われ、そこでは千両富が発売されたという。幕府が取締を強化したのは言うまでもない。
当選者が手にする金は、たとえば千両富が当たったとすれば、100両を普請代として興行主(寺社)に進呈し、100両を富札店にお礼として差し出した。そのほか諸経費と称して、40~50両を興行主(寺社)や富札店に渡した。だから実際に当選者のもとに入るのは700両ほどだ。おそらく最ももうかったのは興行主だろう。
当時は火災が多かったので、焼失した寺社が再建の費用を捻出するため、富興行を開くケースが多かったという。東京の目黒不動や湯島天神は、特に有名であった。その一方で、富札を購入するために借金を重ねる庶民が増え、それを防止するため、最初に千両富のみ禁止された。そして「天保の改革」期の1842年、水野忠邦によって全面禁止令が出された。
富札の禁止は「博打の禁止」と紙一重だが、水野はほかにも芝居小屋(中村座、市村座、守田座)を江戸郊外(浅草)へ移転したり、寄席を閉鎖したりするなど、庶民の娯楽にも制限を加えた。特に歌舞伎への弾圧は厳しかった。
幕府は、問題がなければ庶民の好きなようにさせたが、こと風紀が乱れるような傾向が見えると、直接介入し、規制したようだ。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 41 外交政策 朝鮮通信使と朝鮮外交・貿易
朝鮮王国が江戸幕府に派遣した公式の外交使節団を「朝鮮通信使」という。秀吉の朝鮮出兵によって断絶していた国交を回復し、捕虜を返還したのが家康だった。家康は外交に積極的で、中国(明)や朝鮮との貿易は必要不可欠と判断していたようだ。また、貿易面で朝鮮への依存度の高い対馬藩にとっては、国交回復は悲願だった。対馬藩が仲介し、家康は朝鮮の使者と面談。朝鮮通信使を受け入れることを決定した。1607年以降、1811年まで幕府は計12回、朝鮮通信使を受け入れている。
朝鮮通信使は将軍の交代や世継ぎ誕生の際、将軍家を祝賀するためにやってきた。ルートは釜山-対馬-瀬戸内海-大坂-淀と航行し、淀から陸路を行列。京都から東海道をわたって行列したことから、行列自体が庶民の娯楽となり、ひいては将軍の権威を誇示するために利用された。鎖国政策を敷いてからは、直接中国大陸文化にふれることりできる貴重な機会となった。
当時の日本人は「再び朝鮮半島を攻撃されると困るので、朝鮮通信使が貢物を持って将軍の機嫌をとりに来る」と考えていたようだが、韓国では朝鮮通信使を「日本は韓国の先進学問を学ぶために懸命だったので、使節団は外交使節としてのみならず、先進文化を日本に伝播する役割を果たした」と位置づけている。事実、茶道、儒教、書道、水墨画、易、暦、建築、漢方、陶芸など、朝鮮半島から伝わってきたものばかりだ。
実は朝鮮出兵の際に日本に連れ去られた儒教家や陶工は、日本では手厚い待遇を受けていた。茶器や陶器をつくりだす陶工は大名によって保護され、各地に焼き物の窯が開かれた。朝鮮通信使が来日し、捕虜の返還を求めた際、拉致されている陶工の多くが、日本に留まることを望んだという。朝鮮では儒教思想による身分制度によって陶工が最下位に位置づけられ、奴隷のような労働を強いられていたからだ。
一方、対馬藩は釜山に建設した「倭館」と呼ばれる日本人居留地で外交と通商を行なった。幕府から許された特権を最大限に活用したのだ。外交官と商人が混在していたことが倭館の特徴だ。倭館に居住を許された日本人は、対馬藩から派遣された館主、代官、書記官、通訳、彼らの使用人、仕立屋、酒屋、医学留学生などだ。館主、代官、書記官は、対馬藩の貿易担当役人だが、それ以外は民間人である。常時400~500人滞在していたと推定される。この倭館が外交と交易の場となった。
江戸時代前期、朝鮮は、朝鮮人参(高麗人参)、トラ皮に加え、中国産の生糸、絹織物などを日本に輸出していた。中国のシルクは高級品として日本の貴族、大名に好まれていたが、日本船は中国(明)への入港を拒否されていたため、朝鮮から購入せざるを得なかった。対馬藩は倭館で中国-朝鮮-日本というルートの中継貿易を営み、巨額の利益を得た。
しかし、18世紀に入ると日本国内で絹生産の技術が向上し、中国産の絹の輸入は減少した。また、朝鮮側が門外不出としていた朝鮮人参の種が密かに日本に持ち出され、国内で朝鮮人参の栽培が始まったため、朝鮮人参は日本に輸出されなくなったという。対馬藩にとってそれは大きな痛手だった。さらに通信使接待の莫大な負担もあって、対馬藩の財政は窮乏した。
さて、幕府が対馬藩の交易にどれだけ関与していたのかといえば、実は深くタッチしていなかった。対馬藩や倭館は幕府の直轄領ではないので、いわば「経済は自由にしろ」という状態。対馬藩は、幕府にメリットとなる朝鮮通信使の窓口という国の仕事と、藩の財政を安定させるための交易を同時に実現していたのである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 40 外交政策 鎖国と貿易 古伊万里
江戸幕府の外交政策といえば、三代将軍家光がポルトガル船の来航を禁止した鎖国政策が有名だ。政府が民間の自由貿易を規制することは「小さな政府」の方向に反するが、世界貿易機関(WTO) やFTA(自由貿易協定)のない時代、欧州列強による貿易目的の侵略が横行していたことを考えると、鎖国の意味は変わってくる。ポルトガルやイギリス、オランダ、スペインなど当時の列強の植民地にならなかったのは鎖国政策があったからだとする意見もある。
また、鎖国するまでの日本は輸入大国で、金銀が大量に海外に流出していたので、貿易量を規制して流出を阻止するしか術はなかったという見方もある。当時の日本は世界屈指の金銀の産出国であったため、金銀の純度の高い貨幣を鋳造していた。貿易を行えば、金銀が流出するのは当然のこと。
さらに、将軍はもとより幕臣に外交能力がなければ、余計な外交をして経済が混乱するより、外交をしない政策が国内市場への介入を少なくする方策であったともいえる。江戸時代に国家の存亡にかかわるような事件がなく、平和が長く続いたので、産業と金融が発展し、近代化の基盤となったのは事実である。
貿易を規制したとはいえ、実際には以下の4つのチャンネルで貿易は行われていた。1.長崎・出島-オランダ船、中国船の窓口。幕府の直轄地で幕府の管理で貿易が行われた。2.対馬-朝鮮との窓口。対馬藩の宗氏が対朝鮮外交・貿易の仲介者となった。3.薩摩-薩摩藩・島津氏が琉球を支配したことで、琉球を通じた貿易が行われた。4.蝦夷-松前藩による蝦夷地での北方貿易が盛んであった。
なかでも長崎・出島ルートは、日本の特産物を諸外国に届ける貴重なルートだった。たとえば江戸前期に肥前国(現佐賀県)で焼かれた古伊万里の皿の破片が、メキシコで見つかっている。古伊万里の研究家が調査した結果、その文様から1660年~1680年頃に有田で生産された磁器であることが判明。では、古伊万里は、どうして国交のなかったメキシコまでやって来たのだろうか? じつはこの謎には、中国と台湾とフィリピンが深くかかわり、謎を解くカギはスペイン人が握っていた。
その美しさからヨーロッパで絶大な人気を誇った磁器の生産国である中国は、明から清への移行期間、民間貿易を禁じる海禁令(1656年~1684年)を発令した。そこで肥前国の磁器の産地では、中国製品の代用品として輸出向け製品がつくられた。当時の日本は鎖国状態だったが、オランダ船と公認の中国船のみ長崎への来航が許されていた。1647年には、中国商人によってカンボジアへの伊万里の輸出が始まり、台湾経由でフィリピンにも運ばれた。1659年にはオランダ東インド会社がハノイ(ベトナム)に納めた。これが人気を呼び、1659年から中東やヨーロッパへ大量の日本製磁器が輸出された。
当時日本とスペインは直接の交易はなかったが、フィリピンとメキシコはともにスペインの植民地だった。公認の中国船が長崎から台湾まで古伊万里を運び、次にジャンク船が台湾からマニラへ製品を届ける。それを購入したスペイン人がマニラからメキシコまで伊万里を運んだのだ。
スペインの貿易船は当時、マニラで香辛料や絹を積み、太平洋ルートでメキシコに運んでいた。その船に古伊万里も載せられていたのだろう。そしてメキシコのスペイン人が、中国製品の代用品として古伊万里を使用。その破片が埋められた。メキシコで見つかった古伊万里の破片は、こういった貿易ルートを物語っている。
鎖国状態であったとはいえ、世界の貿易は活況を呈し、日本の製品も海外に輸出されていたということだ。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 39 名君・名家老の藩財政改革 土佐藩
土佐藩は、「関が原の戦い」の際に東軍についた山内一豊が徳川氏から与えられた領地だ。藩政が確立したのは、二代目藩主・山内忠義の時代。奉行の野中兼山に命じて「寛永の藩政改革」を推進し、それが成功したことで藩の財政システムができあがったのだ。
兼山の評価は、二つに分かれる。ひとつは比類のない政治家で、土佐藩の経済的基盤を形成した名家老とするもの、もうひとつは藩政を支配して領民の反発を招いた極悪人というものだ。
外様大名である土佐藩山内家は、徳川氏から大規模な公共事業「手伝普請」に駆り出されていた。また、地理的な条件から参勤交代にかかる費用が莫大であったため、増収策に熱心であった。熊本藩や薩摩藩のように借金の多い「貧乏藩」ではなかったが、支出が多かったのだ。
兼山の藩政改革で効果があったのは、まず新田開発だ。土佐藩は水田が少なく、山間部は畑で占められていたので、米が不足していた。兼山は「関が原の戦い」以前の旧領主・長宗我部氏時代の在郷武士で農民扱いになっている集団を新田開発に取り立て、年貢の徴収に当たらせた。民間からの役人登用だ。それは新しい領主となった山内家を嫌う彼らの不満を解消することと、農民支配、新田開発による増収を一度に実現できる策だった。
次に効果的だったのが、港湾の改修、堤防の建設、用水路建設など治水事業と木材の育成・販売だ。築港によって藩内の特産物を船で諸藩に運ぶことが可能になり、また藩外から商品を受け入れることが容易になった。特に長崎から取り寄せた砂糖は、土佐藩には貴重品だった。
森林経営から得た利益は、藩の財源にあてた。兼山が優れていたのは、木材を港に集めるために先に河川を改修したことと、むやみな伐採による山の荒廃を防ぐため材木業者にルールを定めたことだ。トラックのない江戸時代、伐採された木材は上流から下流に流された。川が輸送ルートだったので、河川改修が先に行われたのである。兼山は同時に植林を推奨した。台風の多い土佐における植林は防風林となり、海岸の土砂崩れ防止のためにも必要であった。高知県産の材木、特にヒノキと紙が現在ブランドになっているのは、兼山が導入した「森林の管理」という考え方が浸透したからである。
また、捕鯨、陶器、養蜂、鰹節などの技術の移入を積極的に進め、専売制を強化した。土佐の捕鯨は江戸時代から有名だが、実は紀州の太地で生まれた組織的な捕鯨法が手本だ。鯨はビジネスになると見込んだ兼山が、捕鯨法を"技術輸入"したのが始まりである。養蜂は、ミカン、レンゲ、ビワなど蜜源が豊富な地域に適しており、土佐の暖かい気候は養蜂に最適だった。現在、高知県の養蜂は特産物となっている。ほかに茶、漆、油菜などを専売制にして藩で買い上げ、転売して利益をあげた。これらの政策によって藩財政は好転し、明治維新にいたるまで土佐藩の経済的基盤となった。
その一方で、兼山には多くの反発が集まった。過酷な税の徴収、米価の統制、米の売り惜しみの禁止、贅沢の禁止などの政策が領民に不満を植えつけたのだ。また、茶や鰹節、油や野菜の専売制の強行によって、漁民・商人・職人のいずれもが苦境に立たされることになった。
二代目藩主・山内忠義が隠居後、兼山は彼に不満を持つ家老によって弾劾される。藩政改革は成功したが、個人的な恨みを買ったということだ。いつの時代も本質的な部分は変わりないようだ。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 38 名君・名家老の藩財政改革 薩摩藩
外様大名の中で加賀藩(102万石)に次ぐ石高90万石を築いたのが薩摩藩だ。薩摩藩藩主は、鎌倉時代に当地の守護に任じられた島津氏だ。島津氏は江戸幕府が開かれて以降に琉球王国を服属させ、いち早く中国との貿易を開始したことから、もともと貿易のセンスがあったようだ。奄美産の砂糖で利益をあげていたという。
しかし、藩内の土壌が農作に向かない火山灰層であったため、実際の石高は半分程度だったといわれている。薩摩藩ほどの大きな藩の財政が苦しかった理由は、台風や火山の噴火など災害を受けやすい立地であったばかりでなく、幕府の大規模な公共事業「手伝普請」に駆り出され、大きな出費が生まれていたからだ。徳川コンツェルンの命令で、徳川氏の領土の土木工事をさせられたのである。もちろん、これは外様大名が資金や武力を蓄えられないようにするための戦略である。
石高は大きいが、実態は「貧乏藩」だった薩摩藩の藩制改革に着手したのは、10代藩主島津斉興(なりおき)と、11代藩主島津斉彬(なりあきら)だ。斉興が藩主となった当時、500万両にも及ぶ莫大な借金を抱え、破綻寸前だった。現在の金額に換算すると約4000億円。
完全に「財政再建団体」である。斉興の部下である家老の調所広郷は、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いとした一方で、琉球を通じて清と密貿易を行ない、利益をあげた。大島や徳之島で収穫できる砂糖を専売制にして財政改革を進め、250万両の蓄えができるまで財政は回復する。調所広郷は、財政の救世主でありながら、データィーな側面も併せ持っていたようだ。
その斉興と調所を失脚させたのが、斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれ、育った島津斉彬だ。11代藩主となった彼が打ち出した政策は、砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大に加え、当時としては画期的な事業、工場群の建設だった。調所が蓄えた資金を洋式の藩営工場の設立に投資し、鹿児島城下の磯地区に工場群を築いたのだ。のちに「集成館事業」と呼ばれた政策だ。
建設された工場は、造船・製鉄・銃砲・電力・紡績・ガラス・食品・出版・医療など多伎にわたる。これらの工場は地場産業の育成という側面と、「富国強兵」政策を同時に具現化したものともいえる。驚くべきは、造船や溶鉱炉、ガラス製造やガス灯製造など当時の科学技術の最先端が集まっていることだ。少し古いたとえだが、鹿児島城下の磯地区は「シリコンバレー」のような様相だったのだろう。
斉彬は軍備にも力を入れ、オランダから軍艦「咸臨丸」を購入し、海防の強化を図った。また、独自に西洋帆船「伊呂波丸」、西洋式軍艦「昇平丸」を建造し、徳川幕府に献上した。これだけの政策をひとつの藩が実行したのだから、江戸時代は政策面では藩の自治が守られ、藩自体が「小さな政府」であったことがうかがい知れる。
下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用したのも斉彬だ。ちなみに、「日の丸」を日本船章にしようと幕府に提案したのが斉彬である。さらに斉彬は現在でいうところの「知事ネットワーク」をつくり、福井藩、宇和島藩、土佐藩、水戸藩、尾張藩らと常に情報交換し、幕政にも積極的に口を挟んだ。このトレンドがのちに倒幕の動きへつながっていくのである。
斉彬は鎖国政策の廃止とともに国防の意識も高かったようだ。それにしても、藩主が工場建設に投資するとは、時代を見通す眼力に優れていた人物である。幕末に薩摩藩が新型の蒸気船や鉄砲、大砲を大量に保有できたのは、斉彬が「集成館事業」によって製品を販売し、財力を蓄えたからである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 37 名君・名家老の藩財政改革 熊本藩
熊本藩は、「関ヶ原の戦い」で戦功をあげた加藤清正が52万石を得て築いた藩。名城の誉高い熊本城を築城したのが清正だ。その後、加藤家の断絶により小倉藩から細川忠利が入封し、廃藩置県まで細川家が藩主を務めた。
熊本藩の財政は常に危機的状況にあった。ひらたくいえば「貧乏藩」だ。特に4代将軍細川宣紀の時代に、飢饉、イナゴの大発生、洪水、疫病、台風がたて続きに起こり、40万両近い借財を抱えた。現在の金額に換算すると約320億円。今なら夕張市のように「財政再建団体」に指定されるだろう。
そのような緊迫した状態の中で、実兄で5代目藩主の宗孝が急死したことで6代藩主となった細川重賢は、「宝暦の改革」と呼ばれる藩政改革を遂行する。後に名君と謳われる重賢は、米沢藩藩主上杉鷹山の手本になった政治家である。
徳川吉宗が大岡忠相を抜擢したように、重賢はまず堀勝名を筆頭奉行に抜擢する。堀は反対派を抑えて6人の奉行に権限を集中させた。組織改革を行ない、部門別マネジメント制を敷き、命令系統の再構築を試みたのである。
奉行に任命された堀は、大坂に向かい、当時の国内最大の豪商・鴻池家に借入を申し出る。しかし鴻池は要請を拒否。熊本藩に返済能力はないと見たからだ。堀はすぐさま米問屋と両替商を兼業する加島屋に交渉する。江戸時代の「大名貸し」は、表向き信用貸しであったが、実際には蔵米が担保になった。堀は熊本藩の年貢を加島屋に渡すことを条件に資金を得る。堀は財政再建の手腕が認められ、のちに家老まで出世する。
重賢は質素倹約を推奨し、江戸藩邸の費用に限度額を設定。米だけに依存することに限界を覚えていた重賢は、殖産興業を命じる。生糸、ロウソクの原料になる櫨(はぜ)、和紙の原料になるコウゾなどを専売制に切り替え、藩が強制的に買い上げた。それらの原料を仕入れた藩は、加島屋から借りた金を資金にして建設した藩営工場で和紙やロウソクなどに加工し、大坂の加島屋を通じて藩外に輸送し、大きな収入を得た。重賢は、製造業の振興と流通整備をやってのけたのである。藩がメーカーとなり、加島屋がブローカーとなって、商品を流通させる方法は画期的だ。この改革によって財政は好転していく。
重賢は財政改革のみならず、教育や法制改革も実施した。熊本城内に藩校「時習館」を開き、許可さえ得れば身分に関係なく入校できるようにした。さらに現在でいう「奨学金制度」を導入し、人材育成に力を注いだ。また、医学校「再春館」も設立した。のちに熊本医学校を経て熊本大学医学部となる。ちなみに熊本県の薬品メーカー「再春館製薬所」は「再春館」にちなんで命名されている。また、1883年に熊本県で生まれた、「日本細菌学の父」北里柴三郎は熊本藩校「時習館」、熊本医学校を経て、現在の東大医学部に進んでいるので、重賢は「日本細菌学の父」の父ということになる。
さらに重賢は行政と司法を分離し、刑法を改定した。それまでの刑罰は、死刑か追放刑しかなかったが、懲役を設けて厳刑制度をつくり、罪人の社会復帰を容易にした。この「刑法叢書」は明治憲法下の刑法の手本とされ、熊本県から多くの人材が法曹界に採用された。
このように幅広い分野で改革を実施し、貧乏藩を再興した細川重賢の政治家としての手腕は現在も高く評価されている。細川家は明治に入り、侯爵の位につき華族となる。ちなみに、第79代内閣総理大臣の細川護熙氏は、細川家第18代当主。熊本県知事から「日本新党」代表として衆院選に立候補して当選。閣僚を経ずに首相になった。政界引退後は、陶芸家として活躍している。その育ちの良さから「殿様」と呼ばれたが、廃藩置県がなく、細川家が藩主のままであったなら、間違いなく本当に殿様になっていた人物である。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 36 名君・名家老の藩財政改革 岡山藩
「関ヶ原の戦い」で西軍から東軍に寝返り、東軍勝利のきっかけとなった小早川秀秋が立藩した岡山藩。秀秋は子供に恵まれなかったため、東軍の武将として大きな功績をあげた池田輝政を本流とする池田氏が岡山藩主となる。名君と謳われた池田光政は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主を務めた大物外様大名で政治家だ。
しかし大名の宿命として、幕府から与えられた藩に「国替え」を命じられれば、従わざるを得ない。大名は徳川家から藩主に任命され、各藩に派遣される形だ。しかし三つの藩で藩主を務めた政治家は珍しい。現在なら兵庫県、鳥取県、岡山県の知事に続けて就任したようなものである。
池田光政は岡山藩主を務めた10年間で藩の改革を成功させ、明治まで続く池田氏支配体制を確立した。光政の政治の基本は、質素倹約、教育の充実、新田開拓、産業振興、有能な人材の登用だ。最も有名なのが、1641年に全国初の藩校「花畠教場」を開校、同時に庶民のための「手習所」を藩内数百カ所につくり、のちに統一して1670年に日本最古の庶民の学校「閑谷学校」を開校したことだ。
閑谷学校は藩立の学校としてスタートしたが、藩主が代わった場合でも学校が存続するよう特別に「学校領」を設け、藩財政より独立させた。学校所有の田畑や林から得た収入で学校の運営をまかなえるようにしたのである。施設の建築費と人材募集は藩が行ない、いわば「県立学校」としてスタートさせ、軌道に乗れば第三セクターの機関が「私立学校」として独立採算で運営していくという方式だ。これは世界的にも画期的なシステムである。
光政は学問好きの大名だったので、学問の大切さを理解していたのだろう、庶民の子供らに勉学をすすめ、役人や富豪の子供には月15日は学校に通うことを義務づけた。藩主の命令となれば、半ば義務教育である。江戸時代初期にこれほど教育に力を注いだ大名はいない。江戸幕府が藩主の個性や自治権を尊重していたということだろう。
現在、岡山県が「教育県」と呼ばれるのは、寺子屋、私塾、高等女学校の数が他県より多く、大学・短大の設置数(人口10万人当たり)が全国第6位と高い水準にあるからだが、実はその基盤を築いたのが光政なのだ。彼は家柄は無視し、有能な人物を抜擢した。陽明学者・熊沢蕃山を番頭に招き、零細農民の救済や治水事業分野と藩校「花畠教場」の運営を任せたのも光政の手腕だ。
光政の政治によって岡山藩の藩政は安定し、発展したが、大藩ともなれば支出も大きく、光政の長男で第2代岡山藩主となる池田綱政が光政から家督を継いだ頃には、財政難に見舞われていた。綱政が手がけたのは、農村再建だ。当時、岡山藩は洪水が多発し、米の収穫量が激減していた。そこで綱政は、児島湾を干拓し、百間川や倉安川の治水工事など公共事業を手がけた。これらの公共事業が藩内で雇用を生み出し、洪水の被害を回避できる新田を得た農民が米生産増量に努め、農政政策は成功した。積極的な公共投資などで経済を支えるケインズ理論と重農政策がミックスしたものだ。
綱政は造営事業にも熱心で、1700年、のちに日本三大名園と呼ばれる「後楽園」を造園している。光政・綱政親子の補佐役として重用された津田永忠が土木事業で才能を発揮し、百間川の開削や閑谷学校の建設、新田開発も津田が責任者として実施した事業。津田はこれらの成功が認められ、郡代(十万石以上の代官)に出世し、前出した後楽園の造園に着手した。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 35 名君・名家老の藩財政改革 米沢藩
江戸時代の幕藩体制は、徳川幕府と親藩・譜代・外様の諸藩で構成されている。幕府の改革は大名の改革であり、徳川家の直轄地である江戸の改革でもあった。諸藩藩主の位置づけは、全員が徳川氏の傘下であるが、江戸城勤務が命じられた幕臣以外は、いわば自治体の長として各藩の経営に専念した。幕府が300年も続いた理由のひとつに、諸藩が年貢と参勤交代という義務を遂行していれば、それ以外は藩主に藩政を委ねたことにある。直轄地は奉行や代官が高級官僚として派遣されたが、それ以外は「地元の政治は大名に一任する」という自治権を重んじたのだ。これが「小さな政府」が成立した条件のひとつである。一部の藩には名君や名家老がおり、他の藩の手本となった。
では、名君・名家老の藩財政改革をしばらくのあいだ、ひもといてみよう。まず、米沢藩から始めよう。1767年、上杉鷹山(ようざん) が17歳で藩主となったとき、藩の財政は破産寸前であった。家臣が多く、彼らの人件費が大きな負担となっていた。また前藩主・上杉重定が名家の誇りから贅沢な生活を続けたことも拍車をかけた。鷹山は上杉重定の養子である。藩主となった鷹山が手掛けたのが、産業・財政に強い部下の重用(いわば改革ブレーンの抜擢)、倹約、帰農の奨励、特産物の育成など民政事業だ。
当時は「天明の大飢饉」の最中で、東北地方には多くの餓死者がいた。鷹山は、非常食としてタラノキ、コシアブラ、ハリギリ、チョウセンニンジン、トチバニンジン、ウドなどが食べられることを藩内にアナウンス。自らも土地を耕した。今日、米沢の名産となっている山菜だ。さらに米沢藩の特産物であったコウゾ、漆、ロウを10年間で5倍以上の生産量にする計画を立てた。コウゾは和紙の材料、漆は漆塗に欠かせない原料だ。また洪水や雨に強い桑の栽培を推奨し、桑をエサにして育つ養蚕を盛んにし、織物の普及に励んだ。
同時に飢饉の際に厳しい年貢の取り立ては農民のモチベーションの低下につながるとして、年貢の取り立てを緩和する一方で、生産高の多かった農地の代表者に褒賞を与えた。その一方で、飢饉に備え、米の備蓄も行なった。また、近隣五軒を五人組として相互に助け合い、村全体が共同体として苦楽をともにする「五什組合」と呼ばれる農民相互の扶助組織を結成させた。さらに農地の復興のため離村した者を呼び戻し、農業以外の収入として、手工業技術の導入にも力を注いだ。
彼は危機管理対策と産業振興を同時に行なったのである。次に財政改革とリストラに着手する。まるで大阪府の橋下知事のような展開だ。江戸藩邸の一年間の経費1500両を200両に切り詰め、人事を刷新した。この際、側近だけで決断したことに異論を唱えた反対派を処罰し、リストラにも成功。そして学問所を藩校・興譲館として再興し、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。これは教育改革、人材育成の方策だ。新田の開発、河川の改修、橋の掛け替えなど公共事業は、武士が先導して行なった。
老人や病人、妊婦などの弱者を重視する福祉政策の充実も実践した。鷹山は藩内各地に官選の医師をおき、彼らに宅地を与えるとともに優遇した。また育児資金をつくり出し、子供を育てられない貧しい農民にこれを与えることにした。さらに働けなくなった老人は、「口減らし」のため、しばしば野山に捨てられたが、鷹山は70歳以上の老人は村で責任をもっていたわり世話するよう年金制度を編み出した。
これらの政策によって、鷹山が晩年の頃には黒字となり、破綻寸前の藩財政は立ち直り、借金も返済したという。上杉鷹山は政治家として一流で、今日まで名君と謳われている。こういった改革に幕府は口を出すことがなかったのは、いわば地方分権が確立していたということだろう。鷹山が国政に参画していれば、幕政改革はもっと大胆に進んでいたかもしれない。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 34 「寛政の改革」の経済政策
田沼意次の失脚後、徳川吉宗の孫で白河藩主の松平定信が老中首座となる。白河藩主として飢餓対策に成功したことが、抜擢された大きな要因だ。この政権交代は、田沼の重商主義を批判し続けた松平ら保守派のクーデターともいえる。
松平定信は老中在任期間中に「寛政の改革」と呼ばれる幕政改革を進めた。祖父・吉宗が推進した「享保の改革」を踏襲したもので、現在に置き換えるなら緊縮財政だ。経済政策と相場はともに「弛緩」と「緊張」を繰り返すというが、田沼の重商主義から対極の重農主義に移ったことは、その定説どおりである。それにしても質素・倹約と農業を重んじる政策は、時代が逆まわりしたかのような様相だ。田沼の斬新な政策のもとで進んだ初期資本主義経済は、ここでしばらく停滞する。松平が実施した諸改革が期待した成果をあげることがなかったのは、すでに商業が大きな力を獲得し、市場原理が機能しはじめていたからだ。
By Master K/益田 慶
松平は株仲間や専売制を廃止し、特権商人を抑制した。一見規制緩和に思えるが、同業種の仲間による共同仕入れや流通整備がやりにくくなり、商人にはむしろ規制となって経済は停滞する。また田沼が蘭学を重んじたのに対し、松平は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学以外認めず、幕府の役人の登用も朱子学を学んだ者に限った。これを「寛政異学の禁」と呼ぶ。さらに出版も厳しく統制し、かの歌麿の浮世絵を世に広めた版元の蔦屋重三郎は罰金を徴収されている。
その一方で農政と御家人救済には一定の効果があった。主な政策に棄捐令、旧里帰農令、囲米と七分積金がある。棄捐令は、財政難に陥った旗本や御家人を救済するため、6年以上前の債務破棄と借金の利子の引き下げを命じるセーフティネット法令だ。江戸居住が義務づけられていた旗本・御家人は、土地や現米、給金をもらっているとはいえ、江戸では何も生産しない消費者。物価が上がれば生活は苦しくなる。寛政の改革で帳消しになった旗本や御家人の借金の額は約120両。
現在の金額に換算すると約1兆円。幕府の年間支出とほぼ同額だったようだ。この制度によって大きな打撃を受けたのが、武士に支給される米の仲介を仕事とした札差だ。彼らは米の仲介による手数料を取り、給米を担保に高利貸しを営んでいた。いわば「米の両替商」であり、「武家専門の街金」だ。札差は、この制度によって利益が激減したので、旗本や御家人に貸し付けを行わなくなる。
旧里帰農令は江戸へ大量に流入した地方出身の農民たちに資金を与えて帰農させるUターン政策。囲米は諸藩の大名に飢饉に備えるため、各地に倉庫を築かせ、穀物の備蓄を命じたもので、自らが体験した飢饉の教訓から得たリスクヘッジである。七分積金は町単位で積み立てる共済のようなしくみだ。町入用の経費を節約した四万両の七割に、幕府が支給する1万両を加えて基金とした。基金は主に水桶やハシゴの費用、橋の掛け替え修繕費などインフラ整備に使われた。これは吉宗が将軍時代に南町奉行・大岡忠相が実施した政策の延長にあるものだ。
一方、棄捐令によって打撃をこうむった札差を救済するため、幕府は浅草・猿屋町に「猿屋町御貸付金会所」を設置した。これは困窮した札差に経営資金を融資する幕府の機関で、会所設立に出資したのは江戸の豪商だった。旗本・御家人を救済する法令の次に、札差を救済する法令が出されたことには矛盾する点があるが、札差が倒産すると武士に金を貸す民間機関がなくなることから苦肉の策といえよう。
しかしこの政策はヒットした。札差が困窮すると武士が困窮し、最大の消費者である武士が貧しくなると、商人も共倒れとなることから、会所は札差に積極的に貸し出しをしたのだ。幕府にとっては、財政を切り崩さず、豪商の資金で札差を救済でき、さらに旗本・御家人も救えるとあって好都合の制度となり、猿屋町御貸付金会所は明治維新まで継続して運営された。松平定信の経済政策の中では、最大のヒット作といえよう。
小さな政府江戸幕府 33 田沼意次の終焉とその遺産
株仲間の奨励、座を中心とする専売制の実施、改鋳、長崎貿易の拡大、輸出特産物の育成、蝦夷地の開発など、田沼意次が行なった幕政改革はほとんど成功している。1770年には、幕府の備蓄金は171万7529両という、5代将軍綱吉以来の最高値を記録。景気は回復し、田沼が手厚く保護したことで蘭学が花開いた。
田沼の幕政改革は、農業中心の社会から商業中心の社会へ橋渡したことに意義がある。特に貨幣の重さでなく、額面の金額こそが貨幣の価値だとする貨幣改革は、欧州で生まれる経済学の基礎と同じ視点にある。海外との貿易を重んじ、海産物などの加工品といった付加価値の高い商品を輸出し、外貨を稼ぐという政策などは今日の日本経済のあり方を先取りしていたかのようだ。日本における初期資本主義の形態がこの頃に生まれたと見るべきだろう。これは大きな遺産である。
田沼が失脚した最大の要因は、岩木山、浅間山の噴火に始まる「天明の大飢饉」(1782~1788年)に対し、有効な対策がとれなかったからだとされている。これをきっかけに、急激な改革を好まない保守派の反発が爆発したというわけだ。「重商主義政策によって疲弊していた農村部が、さらに打撃をこうむったのは、田沼の政治が悪いからだ」という論理である。飢饉は自然災害だが、農村部が疲弊していたのは確かに重商主義政策が要因だ。日本に商業が定着し、貨幣が力を持つようになり、経済構造が大きく変化する時期と重なったのである。
「天明の大飢饉」とは、江戸時代に起こった最大の飢饉。当時、東北地方は天候不良、特に冷害により農作物の収穫が激減していた。これに拍車をかけるように、1783年に岩木山と浅間山が噴火し、各地に火山灰が降り、農作物に壊滅的な被害が生じた。重商主義が裏目に出て、飢饉は全国規模に拡大した。
被害は東北地方を中心に、推定で数万人の餓死者が生まれ、疫病が流行。最終的な死者数は全国で30万人とも50万人とも推定されている。現在の感覚でいえば300万人から500万人の規模だ。農村部から逃げ出した農民は、各都市部へ流入し、治安が悪化。江戸や大坂では米屋の打ち壊し事件が勃発した。
このとき田沼がとった政策は、全国の米が余っている地域に向け、「東北地方に米を売り惜しみするな」というものだった。皮肉なことに米価は高騰し、買い占めや高値での売買がはびこった。これは米が少なくなったから価格が上がり、相場を見計らって大儲けしようとする者が出たという、ごくシンプルな市場原理だ。諸藩は財政維持のため、米を大坂の市場に送った。商業と物流の中心地・大坂が相場を決める場所で、高値で買い取ってくれたからだ。田沼のライバル、松平定信はこの機に大坂で米の買い占めを行なった。彼は吉宗の孫だが、養子に出され、1783年、つまり「天明の大飢饉」の最中に陸奥・白河藩藩主となった。
飢饉に直面し、食料救済措置を迅速に行ない、白河藩で餓死者は出なかったとされている。歴史の教科書には書かれていないが、松平定信は会津藩の松平家からも1万石を取り寄せ、大坂で買い占めた米とあわせて、東北地方には米を送ることなく、白河藩内だけで消費した。領内から一人の餓死者も出さなかった松平は名君と謳われ、危機管理能力が高く評価され、これが幕閣入りの布石となる。
田沼意次と松平定信は正反対の資質を持っている。田沼は開明派で、身分にとらわれない実力主義に基づく登用を試み、杉田玄白や前野良沢など蘭学者や平賀源内などの才能を重んじた。庶民には倹約でなく、消費を推奨した。金の匂いに敏感な「俗っぽさ」にあふれた経済通である。一方、松平は身分制度や朱子学を重視し、質素倹約を推奨した。重農主義に軸足を置く保守派で、海外との貿易など意識しない人物である。江戸時代の合理主義という文脈からすれば、田沼はまさにそれを実践した人物。賄賂政治家というレッテルは消えないが、彼の政策は先見性にあふれている。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 32 田沼意次の重商業主義経済政策 蝦夷地の開拓
田沼意次は蝦夷地の開発に着手しようとし、幕府の資金で調査隊を送り込むなど莫大な投資をしている。蝦夷地と本州はそれまでまったく交流がなかったわけではない。寒冷地であることから米の収穫ができなかった松前藩が藩財政を維持するため、蝦夷地をいくつかに分割し、「場所」と名づけ、主だった家臣を知行(管理者)に任命し、アイヌとの交易を認めていた。「場所」の線引きは松前藩が行ない、実際のビジネスは商人の手に委ねられた。松前藩は商人から税金を徴収するというしくみだ。これを「場所請負制」という。もともとは家康が松前藩に交易の独占権を与えたことにある。こうしてみると、場所請負制は松前藩による"植民地制度"ともいえる。
当時の幕府はアイヌの人々が直接ロシア人と貿易を開始するのではないかと懸念し、蝦夷地をこのまま松前藩に任せておくことはできないと考えていたようだが、田沼が蝦夷地に着目した理由はそれとは異なる。大きく分けると、ロシアの南下政策への対応と土地の有効活用だ。当時の日本は鎖国中であったが、ポルトガルと中国船だけは長崎に出入りできた。ロシアが植民地を求めて南下政策を取ろうとしていることは、長崎にやってくる欧州商人を通じて幕臣の耳に入っていた。
事実、当時ロシア船は頻繁に日本海までやってきていた。だから真っ先にロシアが制圧してくるはずの蝦夷地を国防のために開拓しておこうという意図があったのだろう。1771年にアイヌがウルップ島のロシア人を攻撃して追い払ったという記録が残っていることから、ロシア人は現在の北方領土に上陸していたことがわかる。彼らはロシア政府の人間ではなく、動物を捕獲して毛皮を得ようとするハンターだったが、寒冷地で農作物が育たないロシアが国策として資源のある土地を求めて南下してくるのは時間の問題であった。
田沼は蝦夷地を調べるために10名から成る探検チームを結成し、送り込んだ。この調査隊に参加したのが探検家の最上徳内である。彼は地理やアイヌの風俗を調査し、千島や樺太まで探検している。択捉やウルップ島へも渡り、ロシア人とも接触し、交友を築いている。間宮林蔵が蝦夷地の測量に挑んだのは、この20年後である。
さて、田沼の蝦夷地開拓だが、重商主義政策はここにも色濃く反映しており、彼は防衛だけでなく、輸出向けの海産物を蝦夷地で量産させようと考えていたといわれている。ロシアと国交を結び、貿易で利益をあげ、結果としてロシアの脅威から日本を守ろうと考えていたようだ。しかしもうひとつ、田沼は松前藩と手を組んで蝦夷地を開拓し、北方貿易の利権を確保し、私腹を肥やそうとしたに過ぎないという見方もある。知恵の働く田沼のことだから、それくらいは考えていただろう。
どちらにしても海外との貿易を縮小していた時代に、反対にロシアと貿易をしようと考えた田沼の「逆転の発想」は、保守派からはまったく理解できなかったはず。仮に日米修好通商条約前に日露修好通商条約が田沼のもとで結ばれていたとしたら、その後の日本史は大きく変わっていただろう。
田沼失脚後、松平定信は蝦夷地開発を中止したが、蝦夷地近海に頻繁にロシア艦船が現われたことから、蝦夷地の警備に本腰を入れざるを得なくなる。1799年、幕府は東蝦夷地を松前藩から召し上げ、幕府の直轄地とし、ついで1807年には西蝦夷地(北海道の日本海・オホーツク海側)も直轄地として、松前奉行を置き、蝦夷地の管理を始める。結果論だが、田沼が着目したことをあとからなぞったような展開であった。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 31 田沼意次の重商業主義経済政策 統一通貨への布石
田沼意次は貨幣改革にも挑んでいる。彼は吉宗が進めた「質素倹約」政策は消費を冷え込ませることを知っていた。だから貨幣経済を普及させ、米相場の乱高下を解決し、同時に市中に流れる貨幣の流通速度を統制して、経済を活性化しようとしたのだろう。さらに東西で異なる貨幣体系の統一を試みようとしていたようだ。商業の発展を重んじ、内需拡大を図った田沼が試みた貨幣改革は、次のとおりだ。
江戸時代の貨幣を見ると、金貨は大判や小判のようにちゃんと貨幣の形をしているが、一方の銀貨は塊を刻んだだけのものであることがわかる。それは大坂で流通していた丁銀や豆板銀が、形に関係のない重さを量って使う貨幣(秤量貨幣)だったからだ。「江戸の金、大坂の銀」と呼ばれるように、それぞれ主に使われる地域も異なっていた。しかも商業の中心地である大坂で使われる銀が金より強いことで、金をメインに使っている江戸の物価は高くなりがちだった。大岡忠相は変動相場制の為替レートを無視して両替商に公定レートを守らせ、金と銀の為替相場を安定させようとした。これは異なる貨幣体系があることを前提とした政策である。
これに対し田沼は金貨を中心とする貨幣制度を考えていた。ひょっとしたら統一貨幣の発行までもくろんでいたのかもしれない。1765年、試みとして重さを5匁(約18.75グラム)に固定した「五匁銀」を発行した。「五匁銀12枚=金1両(小判1枚)」と固定することで、銀相場にふりまわされないようになると見込んだようだ。また銭の代用にもなる。これが金貨と銀貨の為替レートの固定を狙った最初の銀貨だ。しかし当時の実勢レートは、小判1両に対し銀貨63匁(約236.25グラム)前後だったので、銀をメインに扱う者に有利となり、両替商たちの反対によって広く流通することはなかった。両替商が反対した理由は、額面が固定されると、銀貨の秤量手数料が取れなくなるからだ。こういった事情から、五匁銀はほとんど流通しないまま、1768年に使用が停止された。
1768年には、鉄銭の不人気を打開する目的で真鍮製の大形銭「寛永通宝四文銭」を発行した。そして1772年、江戸幕府始まって以来の画期的な貨幣が発行された。「発明」といってもいいだろう。銀座に命じてつくらせた「南鐐二朱銀」は、銀でできた金貨であり、金貨の二朱に相当する銀貨でもある。銀が含まれているが名目貨幣である。南鐐とは良質の銀という意味。2.7匁の重さしかないが、「重要なのは貨幣の価値である」というメッセージだったのだろう。
また、五匁銀が普及しなかった反省もあり、銀の純度を上げる一方で、貨幣に「8枚で小判1両に交換できる」と表記した。それは重さではなく、交換価値そのものを表現したもので、両替商も取り扱いやすい。こうすれば金貨と銀貨の為替レートは固定される。つまり、まるでEUにおけるユーロの統一のように貨幣体系は統一される。これが実現すれば、江戸の物価高は解消でき、東西の流通はもっと活性化する……。こうした田沼のビジョンから、彼が政治家としても経済学者としても卓越したセンスを持っていたことがわかる。
南鐐二朱銀は秤量貨幣になじんでいた関西にも徐々に浸透し、丁銀や豆板銀といった秤量貨幣を少しずつ駆逐していった。田沼は「金貨本位制」を採用したのだ。これを契機として銀貨の金貨に対する補助貨幣化が本格化し、その後幕末までに7種類の「計数銀貨」が発行された。このまま進めば明治になるまでに統一貨幣ができたはずなのだが、田沼を追い落とした松平定信は、南鐐二朱銀を丁銀に改鋳したことで、田沼の貨幣改革は空中分解してしまう。幸いなことに南鐐二朱銀はのちに発行が再開されたが、悪名高き田沼の貨幣改革を引き継ぐ者は登場せず、統一通貨「円」の登場は半世紀後となった。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 30 田沼意次の重商業主義経済政策 専売体制の整備と長崎貿易の拡大
田沼意次が実施した株仲間の推奨は、直接税中心の税制に、間接税や流通税を導入したという点において画期的であった。そして株仲間公認政策は都市の商工業者のみならず、農村の商人に対しても在方株(農村部の株仲間)の公認という形で進められた。江戸中期には農民の中から商業活動を展開する者が登場し、彼らは在郷商人と呼ばれるようになっていた。いわば兼業農家だが、彼らも株仲間をつくり始めたのだ。都市と農村に同一の租税方法を適用した点も田沼の目新しさだ。
さらに田沼は、御用商人に銅、鉄、真鍮、朝鮮人参、ショウノウ、朱などアイテム別に幕府直営の座を結成させた。金座や銀座と同じように、幕府主導で銅座や鉄座をつくらせたのである。株仲間との決定的な違いは、株仲間が税金徴収の対象となる組合で、基本は自由競争、運営は株仲間に任せていたのに対し、座は幕府による製造・販売を独占する制度であることだ。つまり座は幕府直営のビジネスで、利益は幕府の財政に直結したというわけだ。かつてのたばこ専売公社、日本国有鉄道、日本電信電話公社だと考えればわかりやすい。
田沼は1780年、真鍮座を、次いで大坂に鉄座を新設している。ともに江戸や大坂にある銀座と同じ扱いとし、専売制であった。こうしてみると、専売制は産業育成というよりも幕府の収入アップの意味合いが強いことがよくわかる。
たとえば1782年、幕府は朱座(大坂)以外での朱(赤色の顔料)の売買が絶えないため、輸入品は長崎から、琉球産は薩摩から朱座へ送るよう命令し、朱座での専売を厳命している。「これは幕府直営のビジネスだから、決められた座で販売するのが正規ルートで、それ以外は認めないぞ」という警告である。
それぞれの座は製造・販売を独占したが、幕府直営の販売所拠点には、「会所」と呼ばれる事務所兼販売所もあった。たとえば石灰の産地である八王子や上野国(群馬県)に「石灰会所」をつくり、石灰の独占販売をした。昔からある食品添加物で、漬物やアク抜きなどの用途で使われ、漬け物や草木染めなどに用いられた明礬(みょうばん)は、江戸、大坂、京都、堺の4カ所に設立された「明礬会所」が独占販売した。ただし幕府は会所からも税金を徴収したという。
各藩もこれらのしくみをまねて、藩の直営ビジネスを開始した。たとえば仙台藩は、仙台、気仙沼、石巻に「国産会所」を設置し、仙台藩の特産品の独占販売を行っている。富山藩は売薬の専売を開始、長州藩は火縄の他国売買を禁止して扱い商人を指定し、専売制を始めている。
ところで、幕府のビジネスとしてユニークなものに、こんな記録が残っている。1765年、幕府が中国向け輸出品のフカヒレ増産のため、新たにサメ漁を始める者には当分の間、税金を免除するというものだ。当時は鎖国中ではあったが、中国の公認船とポルトガルの貿易船は長崎に出入りできた。それにしても、フカヒレといえば中国が本家だと思い込んでいたから、江戸時代に幕府が中国にフカヒレを輸出していたとは驚きだ。
そんな直営ビジネスのひとつの窓口となっていた場所が長崎だ。田沼は長崎港を拡張し、港に出入りする船から工事費をきっちり徴収している。そして長崎貿易の拡大にも力を注いだ。幕府の貿易政策は鎖国体制の確立以来、国産の金銀の減少に対応する形で、規模を縮小してきた。しかし、田沼はこの方針を大きく転換し、貿易による金銀の輸入、つまり外貨獲得を図ったのである。
そのために輸出品となる銅や海産物を扱う銅座や俵物会所(海産物取り扱い事務所)を設け、銅山の開発や海産物の増産を奨励したのだ。記録では富山藩に中国への輸出用食用クラゲをつくらせ、長崎まで届けさせている。だから前述したようにフカヒレ増産のために税金免除まで考案したのである。後世で「賄賂政治家」「悪名老中」と呼ばれる田沼意次だが、これほどの経済通を幕臣から探すのは難しいだろう。江戸時代に外貨獲得を図り、特産物の増産を推奨したとは驚きである。なぜなら、それは16世紀から18世紀にかけて重商主義を唱えた西欧の著名な経済学者の理論そのものだったからだ。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 29 田沼意次の重商業主義経済政策 株仲間の奨励による法人税獲得
江戸時代の三大改革「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」は、米を中心とする〈重農主義〉的政策だが、江戸時代中期に老中として幕政を主導した田沼意次は、過去に例を見ない〈重商業主義〉的経済政策を実施した。「享保の改革」と「寛政の改革」の間をつなぐ田沼時代(1767~1786年)と呼ばれる20年間は、まるで16世紀の欧州のように自由主義経済の発展を促すもので、日本の経済史の流れの中では異質に見える。その後に「寛政の改革」を主導する松平定信に政策、人格とも否定され、日本史では「田沼=悪人」「賄賂政治家」というイメージがつきまとうものの、実は田沼は現在の自由主義や拝金主義につながる多くの新しい経済政策を行っていのだ。
田沼意次は名門出身ではないが、異例の出世を果たした稀有な人物だ。父は紀州藩の足軽だったが、8代将軍・徳川吉宗が将軍就任に際して登用され、江戸の幕臣に加えられた「紀州組」の一人だ。田沼はのちに9代将軍となる家重(吉宗の長男)の御側御用取次(現在なら教育・雑用担当兼秘書)に抜擢され、家重の将軍就任後に1万石の所領を与えられる。家重は父・吉宗とは反対に病弱だったため、大御所となった吉宗は、孫の家治に期待をかけた。1751年に吉宗が亡くなると、凡庸な家重は老中に政治を任せたが、将軍就任期間は短く、1760年、家重が隠居し、長男の家治が家督を継いだ。
10代将軍・家治が重用したのが田沼意次だ。家重の死後も、家治は田沼を信頼し、田沼は破竹の勢いで昇進。1767年には遠江相良藩(現在の静岡県牧之原市)の初代藩主となる。家治は田沼の新しい政治感覚を高く評価したようだ。田沼は1769年に老中格になり、幕府の閣僚として幕政改革を手がけるようになる。その彼が採用したのは重商業主義経済政策だ。
具体的には、株仲間の積極的な公認、銀座の専売制の実施、貨幣制度の見直し、鉱山の開発、外国貿易の拡大、ロシアの脅威と貿易を意図にした蝦夷地の開発計画、下総国印旛沼の干拓の着手などだ。この結果、幕府の財政は改善し、景気は上昇した。この大雑把なラインナップからでも、彼が「農業」でなく「商業」に軸足を置いていることがよくわかる。失敗に終わった政策もあるが、まるで初期資本主義経済の基盤づくりをするかのようなものばかりだ。
では、田沼の政策をひとつずつ見ていこう。株仲間の結成は、「享保の改革」において物価上昇を抑制する目的で大岡忠相が推進したものだ。これに対し田沼が同業者組合の設立を奨励したのは、幕府の現金収入増と商業者の競争力を高めるためであったようだ。株仲間でも幕府の庇護を受ける株仲間ではなく、商人が自主的に結成する「願株」を奨励し、塩や醤油、銀座など特定の産業には、専売制などの特権を与えるという「アメ」を見せて競争心をあおった。その見返りとして「ムチ」もあった。運上金、冥加金(上納金)を税として徴収したのだ。「商人の市場への自由競争を歓迎しよう。努力すれば市場は独占できる。
しかし、税金はきっちり払ってくれ」という、とても現実的な政策だ。吉宗の時代に新田開発はほとんど終了し、年貢を増やそうとしても限界があった。農民からの租税、つまり年貢収入だけでなく、大きな勢力になってきた商人から法人税を取れば、幕政はもっと潤うはず。だからもっと商業を重んじ、商人が増えるような政策を実施する。これは理にかなった道筋だ。また、商人からすれば、質素倹約、我慢を強いられる社会より、努力をすれば大きな財を築くこともできる社会のほうが魅力的に映ったはず。
このように商業を重んじたことで、町人や役人の拝金主義が進む。そこから賄賂が横行するようになったことから、田沼には「賄賂政治家」というイメージがつきまとう。また、都市部において商業が活性化したことで農民が都市部に流れ込み、農村の荒廃が進むという「負」の面もある。賄賂にまみれた老中であったことが反対勢力のデマだったのか、事実だったのかは定かではないが、田沼が先見性に富んだ経済通であったことだけは確かだ。しばらく彼の政策を検証していこう。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 28 「享保の改革」の都市政策 目安箱の設置と小石川養生所の設立
「享保の改革」は財政と物価の安定政策、米価の上昇や金銀交換レートの是正など金融政策が主眼であったが、ほかにもいくつかの画期的な政策が実施されているので、まとめて記しておこう。
将軍・徳川吉宗が1721年、庶民の要求や不満などを書いた投書を募るため江戸城の評定所の門前に設置した「目安箱」は、「直訴箱」「訴状箱」とも呼ばれ、都市政策や福祉政策に大いに役だった。もともと吉宗が紀州藩主時代に実施し、大きな手ごたえをつかんだ政策のひとつだ。
幕臣の投書は当初許可されていたが、間もなく禁止され、町人や農民だけが投書した。幕政に対する意見を集め、社会事情を収集する制度を設けた将軍は吉宗以外にはおらず、彼がいかに庶民の生活感覚に敏感であったか、言い換えればマーケティング感覚に長けていたのかがわかる。
しかもこのシステムを運営するのにコストも組織も必要ない。吉宗自身が目を通し、即刻対応すれば「小さな政府」なら十分機能する。ところで、投書の内容は、ほとんどが役人の不正を訴えるものであったらしい。今も昔も役人は贈賄や使い込みをしていたということの証明であろう。
さて、この目安箱を通じて誕生したのが無料の医療施設「小石川養生所」である。町医者の小川笙船が江戸の貧困者や身寄りのない者のために施療所の建設を求める意見書を投書し、それを読んだ吉宗が南町奉行・大岡忠相に施設の検討を命じ、大岡が小川と面談して、薬草園であった小石川御薬園内での設立を決定した。その場所は現在、東京大学理学部の付属施設「小石川植物園」となっている。
養生所の収容人数は40名。建設費の金210両+銀12匁と毎月の運営費は幕府の財政から捻出され、医師は小川ら7名の医師が担当し、与力、同心らがスタッフとして参加した。開設当初は薬草の実験台にされるのではないかという不安があり、庶民は養生所をあまり利用しなかったが、大岡が江戸町内の名主を呼んで施設を見学させ、風評を払拭したことで入院患者は急増した。
「見学会」を実施したところが彼の優れた点である。小石川養生所は下層民対策として機能し、幕末まで約140年あまり江戸の貧民救済施設として利用された。「格差社会」も政府による「社会福祉行政」や「セーフティネット」という概念も江戸時代から存在していたということである。
ところで、小石川御薬園内の約150坪の土地と、小石川養生所内の約180坪の土地を無償で借りてサツマイモの試作に励んだのが、かの青木昆陽である。八丁堀の与力屋敷を借りて儒学を講義していた青木を大岡が抜擢し、幕府の肝いりでサツマイモの試作を命じたのである。大岡は享保の大飢饉によって米が収穫できなかった教訓から、凶作の時や痩せた土地でも収穫できる作物の開発に目を向けていた。
昆陽はサツマイモの効用を大岡に伝え、その必要性を感じた大岡が幕府の土地を提供したのである。そこで得られた苗は、栽培法とともに江戸周辺の農村に広く配られ、各地に根付き、凶作時に多くの人々の命を救うことになる。「小石川養生所」とサツマイモは命を救うという点において共通している。どちらも「享保の改革」の中で埋もれがちな話題だが、都市政策と深くつながる政策といえよう。
ともあれ、町奉行が地場産業、特に農業育成に協力し、幕府が支援したことは富に興味深い。これも消費人口が100万人を超える世界最大の都市であった江戸ならではの取り組みといえよう。ちなみに青木昆陽はサイマイモの栽培による飢饉の回避が認められ、幕臣となり、のちに寺社奉行に昇進した大岡の配下とした活躍した。この青木昆陽の弟子が『解体新書』で知られる前野良沢である。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 27 江戸幕府の経済政策 『国富論』より早い金融政策「元文改鋳」
「享保の改革」の大きな命題のひとつは、米価を下げ、物価を安定させ、武士の生活を豊かにすることであった。しかし米や物資の流通量をコントロールしても物価上昇の抑制効果がなく、また南町奉行・大岡忠相が両替商に肯定レート「金1両=銀貨60匁」に戻すよう依頼しても拒まれた背景があり、幕府内に「元禄改鋳」を手本とした貨幣改鋳案が浮上した。
貨幣改鋳による銀相場の強制的な引き下げによって江戸の物価を安定させようと試みたのである。1736年に行われた「元文改鋳」は「享保の改革」の後期に行われた重要な経済政策であり、近代経済学の基礎にあるマネーサプライを学ぶ最良のサンプルといえよう。
大岡忠相は次のように考えた。質を落として貨幣の流通量を増やし、金貨よりも銀貨の価値の下がり具合を大きくすることで、銀中心圏の上方から金中心の江戸に価格の安価な商品が入ってくるようになり、物価が安定する。また換金のために市場に放出される米の流通量も減り、米価下落の大きな要因を取り除くことができる、と。こうした流れを見ていくと、大岡が吉宗に提案し、ようやく実行することが決まった1736年の「元文改鋳」は、幕府の収入アップのための方策でなく、あくまでも物価対策であったことが見えてくる。
江戸時代中期にすでに世の中(市中)に出回るお金の量(通貨供給量)を調節して、物価の安定をはかり、経済の動きを調整する金融政策の理論が練られていたことはとても興味深い。経済学史では、経済学がひとつの学問分野として確立されるようになったのはアダム・スミスの『国富論』(1776年刊行)に始まるとされている。それよりも先に日本ではインフレやデフレ対策が行われていたということだ。
1736年、大岡は改鋳を告げる町触を発した。慶長金銀の質を100とすると、改鋳金貨の品位は60、銀貨は58に引き下げられた。金よりも銀の品位を引き下げることで相対的に金を強くしようとしたのである。こうして大量の新貨幣が発行された。しかし改鋳後、銀のレートは49匁に上昇した。質が下げられた新銀貨が発行されたことで、良質な旧硬貨が退蔵、すなわちタンス預金になってしまったのである。
旧貨が金融資産として保有されると新銀貨との引き換えは進まず、市場に出回らなくなる。その結果、流通する銀貨が少なくなり、銀貨の価値が上がったということだ。相場は乱高下し、経済はしばらく混乱した。大岡は両替商が銀相場高騰を操作したと見て、数名の両替商を投獄した。権力の行使といえばそれまでだが、強引な手法を選ばざるを得ないところまで大岡はいらだっていたということだろう。
実は「元文改鋳」が実施された1736年、大岡は突然、寺社奉行に"栄転"している。寺社奉行という職位は三奉行の筆頭格なので昇級といえるのだが、両替商に対する弾圧が他の幕臣の目に余り、改鋳によって打撃を受けた両替商や上方の商人たちが幕臣に大岡を町奉行から外すよう圧力をかけたのではないか、と歴史家は分析している。大岡は吉宗が抜擢した優れた行政マンで実績も多く、簡単にクビにもできない。つまり、"栄転"という形をとった左遷であったのかもしれない。
さて、「元文改鋳」の効果があらわれるのは1741年頃だ。おそらく新貨幣が流通するのにそれなりの時間が必要だったのであろう。幕府の強い姿勢もあって銀相場は次第に下落し、よくやく「金1両=銀貨60匁」という公定レートに落ち着き、米価や物価も安定した。この時代には1737年に勘定奉行に就任した神尾春央が同時進行で推進した年貢増税政策が功を奏し、幕府の財政にもゆとりが生まれていた。元文金銀はその後1818年まで82年間改鋳されることなく流通した。結果として元文改鋳は江戸期の改鋳で最も成功した例に挙げられている。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 26 江戸幕府の経済政策 大岡忠相のレート是正
南町奉行・大岡忠相が株仲間を推奨し、問屋商人に台帳を提出させ、米や物資の流通量をコントロールしても物価上昇に大きな影響はなかった。この要因には関東と関西で本位貨幣が異なっていたことが挙げられる。
江戸を中心とする関東経済圏は金貨を重んじるのに対し、大坂・京都を中心とする関西経済圏は銀貨を重んじる経済であった。当時の経済の中心地は大坂だったので、金貨より銀貨が強く、銀貨の金貨に対する交換レートが高かった。その結果、交換差額の分だけ江戸の物価は高くなったのである。
金貨は両、銀貨は匁(もんめ)、銅貨(銭貨)は文(もん)を基本単位としており、1700年に幕府が定めた公定相場は「金1両=銀貨60匁」であった。しかし資料に目を通してみると、大岡が南町奉行を務めていた時代(1717年~1736年)には、「金貨1両=銀貨43~50匁」で流通していたことがわかった。銀貨は公定レートの2割以上も高く、大坂の商人が江戸に商品を運べば、商品の粗利以外に交換差額という利益を手にしていたことになる。
だから両替商が富を蓄えたわけだが、反対に江戸の商人は大坂商人から商品を買うと利益が少なくなったということだ。江戸の商人が適正な利益を得ようとすれば、公定レートの2割から3割アップ分を販売価格に乗せざるを得なくなる。つまり、江戸の物価は上昇する。反対に金貨が強くなれば、江戸で販売する商品は安くなり、江戸の物価は安定する。金の銀に対する価格レートの切り上げは、江戸に多くの安価な物資が入ってきて、物価が安定することを想定した大岡の悲願であった。
少し遡って元禄時代に当時の勘定奉行・荻原重秀によって遂行された「元禄改鋳」を思い出してもらいたい。金貨・銀貨の質を落として、その分発行量を増やし、差額分が幕府の懐に入るという画期的な手法である。当時は幕府の支出が増大し、年貢収入が頭打ちになっていた時代。
また貨幣の原料となる金銀の生産量が伸び悩んでいたので、貨幣の金銀の含有量を減らすことは得策であった。また、あまり知られていないが、経済通の荻原重秀は金よりも銀の価値の下がり具合の方を大きくすることで、金の銀に対するレートを切り上げようとしたようである。
「元禄改鋳」によって幕府の利益は増えた。これが最大の目標であったので成果はあったといえるのだが、質を落としたことで当然のことながら貨幣の価値は下がり、商業界は混乱した。荻原の金融政策を激しく批判し、荻原を幕府から追い出した新井白石は、金融引締め政策を断行。
1714年、幕府は新井の提案を受け入れ、「元禄改鋳」を回収し、貨幣の質を慶長金銀のレベルにまで戻した「正徳金銀」を発行した。良質になった分、市場の流通量は不足気味になった。そうするともともと強かった銀が再び勢いを増し、江戸の物価は上昇した。
江戸の物価が上昇することに耐えられない大岡忠相は1718年、江戸の両替商に対して、公定相金(1両=銀貨60匁)にするよう指示した。しかし両替商は市場価格を無視して公定レートにすれば2割以上も損することがわかっているので激しく反発し、一斉に店を閉めたといわれている。
そこで大岡は「1両=銀貨55匁」というレートを提示して妥協点を見出そうとしたが、両替商は納得しなかった。大岡は仕方なく相場の動向に任せることにした。まるでアダム・スミスの言うところの「神の見えざる手」に任せるという判断を一度はしたようだ。この頃から経済人が完全に市場経済をリードする時代に突入したといえよう。
そもそも新興都市であった江戸の両替商には上方を本店とする者が多く、銀相場が下がれば本店だけでなく上方の問屋、流通業者すべてが利益を損なうことになる。両替商は上方商人全体の既得権益と自由経済を守るために抵抗したのであろう。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 25 江戸幕府の経済政策 大岡忠相の物価統制策
南町奉行・大岡忠相が提案し、吉宗が承諾した、株仲間を活用した物価統制は、京都、大坂、奈良、堺などの都市でも同時に実行された。江戸の物価を統制するには、京都や大坂から入る物資の流れを把握しなければいけない。そこで大岡は浦賀奉行に江戸に入る積み荷の量を毎月報告させた。海路で江戸に運ばれる物資を、その通過ルートである浦賀でチェックさせたのである。また、大坂奉行には諸国と江戸へ送った全物資リストをつくって報告するよう依頼した。
しかし大坂奉行が「煩雑すぎてできない」と返答したので、大岡は主要11品目の江戸への出荷量に限定し、リスト送付を求めた。大岡が実務に優れているのは、積み荷の起点(大坂)と通貨点(浦賀)と終点(江戸)の数字を把握しようとしたことだ。江戸の船問屋に到着した積み荷をチェックすれば、買い占めや売り惜しみ、ひいては物価高騰を水際で防げると考えたのである。
大岡の斬新な提案は大筋認められ、老中から大坂町奉行と浦賀町奉行に「毎月の出荷数字を報告せよ」という命令が下った。大岡は1725年、関東から江戸に入ってくる生活必需品の調査にも着手する。しかし流通の各段階でのデータを把握しただけでは、物価高騰の対策にはならない。どうしても商人の取り締まりが必要だった。
この課題を解決するために大岡が目をつけたのが、江戸の問屋商人が元禄時代に結集して結成した通称「江戸十組問屋」。実質的には「二十二組問屋」で、その内訳は取扱いアイテムごとに区別されていた。たとえば綿買次問屋、油問屋、江戸組毛綿仕入積問屋などで、仲間の総人数は347名に及んだ。二十四組問屋には取締方、惣行事、大行事、通路人などの役員があり、仲間定法を定めて全体を管理していた。
これに呼応して大坂でも「二十四組問屋」が活動していた。この十組問屋と二十四組問屋の関係は、注文主と買次人の間柄で、その商品を運搬するのが廻船問屋という構図が成立していたのである。これにより上方と江戸を結ぶ貨物船の菱垣廻船は、十組問屋・二十四組問屋の定雇船という位置づけになっていった。大岡は彼らを管理・統制できれば大きな成果があがると考え、問屋に台帳を提出させ、物価を監視した。蛇足だが、この大坂と江戸を結ぶ定期船の運営を担った商人が財を築き、明治時代に阪神財閥へと成長していった。特に灘の酒を江戸に運ぶ仕事は「ドル箱」であった。
大岡の取り締まりにはこんなエピソードが残っている。1724年に油の値段が高騰した。大岡は油問屋を奉行所に呼び出し、価格高騰の要因を問い詰めた。その結果、油問屋が価格操作をして過分な利益を得ていたことが判明したので、その分を没収した。処分を受けたのは41名。幕府は搾油業者が西国に集中し、流通過程で独占性が高まり、それが価格操作を容易にしているとみて、関東近郊での菜種の作付けを奨励し、売り先も確保した。
大岡は米問屋仲間を再編成して、米価調整にも挑んでいる。消費者からすれば米価は低いほうがありがたいが、江戸の消費経済は一年ごとの参勤交代で江戸にやってきて滞在する武家の膨大な需要に支えられていた。米価が上昇すれば米を換金して生活費に充てている武家の消費力がアップし、ひいては町人側の利益にもなるという考え方だ。
1730年には、上方からの米を8人の米問屋に独占的に荷受させるというお触れを出す。大岡は再編成された米問屋組織を活用して、米価を引き上げようと計画したのである。このような努力によって物価対策は悪質業者の摘発という効果はあがったものの、米価の引き上げは期待したほどの成果があがらず、市場の流通量を調整するだけでは限界があった。米価の引き上げには金融政策の転換が必要だったのである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 24 江戸幕府の経済政策 物価安定のための株仲間の公認と設立推進
米価下落と物価高に対処するために徳川吉宗が実行したのが株仲間公認と株仲間設立の推進である。1721年、幕府は江戸市中のあらゆる商人・職人に同業者仲間を積極的に結成することを促す法令を発した。当時、談合による価格操作が物価上昇のひとつの原因になっていたからだ。
政策の中身を紹介する前に株仲間について少し説明しておこう。もともとは同業の問屋によるごく私的なグループであった。さかのぼれば、信長や秀吉が推進した「楽市楽座」が起源となる。各地の戦国大名が広げた城下町には、新興商業者を育成し、経済の活性化を図る目的で、税の減免など規制が緩和された「楽」な市場が生まれた。いわば戦国大名が築いた「経済特区」である。信長が築いた近江国の安土と金森の楽市楽座は、のちに「近江商人」を生み出す土壌となった。
江戸幕府も楽市楽座路線を継承したものの、問屋業者が増えたことで、同業者組合が自然発生し、やがて彼らがカルテルを形成し、価格操作を行うようになっていた。株を所有することでメンバーとして認められたことから株仲間と呼ばれた。株は金銭によって売買された。余談だが、力士が引退後も日本相撲協会に残って「年寄」と呼ばれる身分となり、大相撲の発展のために働く際に必要となる証書を「年寄株」と呼ぶ。売買価格が1億円とも2億円ともされているが、このシステムも現代まで継承されている株仲間のひとつといえよう。
さて、江戸時代の商業に目を移してみれば、問屋がイニシアチブを握っており、主に輸送・保管を担っていた。主流は、荷主から委託された荷物を販売して口銭(販売手数料)と倉敷料(保管料)を得る荷受問屋である。
これに対して自己勘定で売買する仕入問屋も発展し、材木、米、薪、炭、油、竹など取扱商品別に分化していった。大坂では、商品の産地ごとに専門化した荷受問屋である国問屋が生まれ、これを中心に商品別に専門化した仕入問屋中心の流通組織へと転換していった。これらの問屋が同業者組合をつくり、メンバーの推薦を受け、株を買うことで仲間に参加したのである。
株仲間は金銭債務の保証の機能も持つようになる。問屋の取引の多くが信用取引、つまり商品を引き渡した後、「節季払い」や「二季払い」など一定期間を経てから代金は決済された。株仲間の問屋が荷主と値段を決めて購入した荷物が届けられなかった場合、株仲間全員がその荷主との取引を停止した。このように問屋を中心として商業は、急速に高度なシステムをつくりだしていったのである。
株仲間の発展により、彼らが流通機構を支配していったので、幕府は脅威になることを恐れ、規制の対象としていたが、享保の改革では、株仲間を統制すれば物価も統制できるという方向に動き、株仲間を公認したのである。
1723年、吉宗の求めに応じて江戸南町奉行大岡忠相は、北町奉行諏訪頼篤と連名で七条からなる「物価引き下げに関する意見書」を提出した。江戸の経済政策を担う大岡は、物価上昇の原因のひとつである、株仲間の談合による価格操作を監視し、さらにコントロールできる株仲間を結成させ、経済統制をしようと考えたのである。
幕府は信用取引の安定を図るために自主的に結成された株仲間を「願株」、流通統制のために幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。よって株仲間の公認とは「願株」の公認を指し、株仲間の推進とは「御免株」を増やすことである。公認された株仲間は、上納金を納めるかわりに販売権の独占といった特権を認められた。
大岡は、塩や醤油など生活必需品を扱う商人に問屋・仲買・小売ごとの御免株を結成させ、相場書(商品価格表)を提出させた。価格が高騰した際にはその理由を報告させた。江戸の御免株では理由がわからない時は、京都や大坂に調査員を派遣し、調べさせるとしたまである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 23 江戸幕府の経済政策 「享保の改革」上米の制と定免法
吉宗が初めて実施した増税プラン「定免(じょうめん)法」は、幕府の収入を安定させるための年貢徴収法である。従来は年毎に収穫量を見てからその年貢量を決めていたが、定免法は過去数年の収穫率の平均から年貢率を決めるシステムなので、豊作・凶作にかかわらず一定の年貢を納めることになった。凶作の年は年貢の大幅減が認められることもあったという。過去数年の平均より豊作であれば農民は年貢量が減るのでメリットがあるが、実際には「享保の飢饉」が続き、豊作は叶わなかった。飢饉は皮肉なことに幕府にとっては安定した収入をもたらす結果となった。
この政策には二つの側面がある。ひとつは農民への搾取が激しくなったこと。この時期に一揆が増えていることから農民の不満が増したと想像できる。これは歴史の教科書が記す見方である。もうひとつは収穫高を増やす努力が実れば、農民の利益は増えるというメリットである。仮に収穫の半分を年貢として納めたとしても生産できる米の絶対量が増えていけば余剰が増えるということになる。不安材料は、日照り・干ばつ・洪水・台風だ。農業はリスクに満ちた職業といえるだろう。
このほか吉宗が試みた制度に「上米(あげまい)の制」がある。これは米を納める見返りに大名の参勤交代の江戸在住の期間を半減させる制度だ。幕府は大名に一万石に対して百石の米を納めさせた。各地の大名から集めた米は幕府の増収に貢献したが、実施されたのは1722~1730年と8年間に過ぎず、定着するには至らなかった。大名にとっては上納米を差し出せば江戸滞在費が半減となるので、江戸での滞在費も半減したはず。その収支を計算してみれば、多くの家来を連れて江戸まで行った地方の大名にとっては滞在費が半減されるほうがありがたいことだったのかもしれない。
享保の改革の仕上げ時期には、年貢増徴を推進した勘定奉行の神尾春央が辣腕をふるった。「胡麻の油と農民は絞れば絞るほど出るものなり」と言ったことで名高い人物だ。1744年には自ら中国地方に赴任して年貢率の強化、登記されず年貢設定がされていない隠田の摘発などを行った。神尾が発案した「有毛検見取(ありげけみどり)法」を採用する藩もあった。これは毎年の作柄、出来高を調べて農民の余禄を見逃さない所得税型の課税法だ。さらに課税の対象ではなかった河川敷や山林も「新田」と見なして年貢を課したという記録が残っている。
倹約令とこういった過酷な課税が合わさり、幕府の年貢収入は167万石に増えた。さらに飢饉対策費として諸大名に貸し付けた金を督促して1742年には完納させた。こうした増収、回収によって、享保の改革の末期には、幕府の収入は180万石にまで上がった。この石高は江戸時代を通して最高記録である。幕府の財政を再建するという目標は達成され、吉宗は名将軍と謳われたわけだ。
しかし、もうひとつの大きな課題である米価の安定、つまり物価の調整・安定はどのようになっていたのであろうか。米価は五代将軍・綱吉の時代から下落し続け、米価がそのまま収入に反映する武士は大いに困窮していた。
1730年に発効された「買米(かわせまい)令」は、幕府が市場の米を買い上げて貯蔵し、米価の引き上げを促す法令だ。諸藩や有力商人も強制的に従わされた。これは市場に流通する米の量を減らして米価を引き上げ、武士階級を救済すること、彼らの購買力を高めて景気回復を図ることを目的としている。また、飢饉に備え米を備蓄しておく囲米を奨励し、市場に米が出まわらないよう促し、諸藩に対する江戸・大坂への廻米・蔵屋敷の米売却の制限・禁止などの措置が取られた。米の流通量が減れば米価は上がる。よって武士階級の収入は上がる。米の流通量をコントロールしようとした幕府の狙いは、この一点に集中していた。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 22 江戸幕府の経済政策 「享保の改革」倹約と増税
八代将軍・徳川吉宗は在任期間(1716~1745年)に多くの政策を打ち出し、江戸幕府始まって以来最も大きな幕政改革を遂行した。年号から「享保の改革」と呼ばれている。詳しく調べてみると、「享保の改革」は前半(1716~1730年)と後半(1730~1745年)とでは内容が異なる。前半に遂行した改革あるいは手をつけなかった分野を後半で修正し、転換を試みたのである。その中から財政危機に直面していた幕府を救うために実行された財政政策を中心に見ていこう。それらは綱吉が浪費や米価の下落で生じた「元禄バブル崩壊の後始末」という側面を併せ持っている。
吉宗の財政政策を語る前に人材登用について説明しておこう。これも改革のひとつで、諸改革を実行するにあたり吉宗は前政権下で影響力のあった新井白石を解任し、新たな人材を登用した。見方を変えれば将軍の側近が政治を司る時代が続き、将軍が無能な名誉職となっていたのを是正したということだ。現在に置き換えるなら、総理大臣ではなく、各省の役人が陰で総理大臣を操っていたようなものである。吉宗は将軍就任の翌年、財政をあずかる勝手掛老中に京都所司代の水野忠之を任命。水野は「享保の改革」の前期を支える財政大臣である。同年、大岡忠相(大岡越前)を町奉行に抜擢し、首都江戸の改革と都市政策に着手した。大岡はさしあたり東京都知事兼最高裁判所判事兼法務大臣といったポジションか。
吉宗の人材登用制度は「足高(たしだか)の制」と呼ばれる法令に顕著にあらわれている。従来の各役職は基準の石高を満たしていないと就任できなかったが、基準の禄高(給与)以下の者が役職に就任する際に在職中のみ不足している役料(石高)を補い、その職を辞すれば元に戻すという画期的な制度である。能力はあるが家柄が低いために要職に就けないという人材のミスマッチを解消することと、役職を退任すれば石高は旧来の額に戻るため幕府の財政負担が軽減できることがメリットである。現在なら「能力主義」の採用と人件費アップの抑制を同時に実行するようなものである。
こういった吉宗の考え方によって要職に登用された人物として名高いのが大岡忠相と、吉宗時代後期に勘定奉行として辣腕をふるう神尾春央(はるひで)だ。また、吉宗時代に紀州藩の足軽から旗本に登用された田沼意次は、十代将軍・家治の時代に老中まで出世する。民間人では、治水や用水の改修工事で才能を発揮した田中丘隅がいる。田中は河川管理の責任者「川除御普請御用(かわよけごふしんごよう)」として幕府の治水事業に携わった。民間登用の「治水大臣」である。
では、吉宗が実行した財政政策を見ていこう。まず手をつけたのが「倹約令」を発令して消費を抑えることと増税だ。財政危機を克服するために「支出を少なくし、収入を多くする」とは、ごく当たり前のことだが、これを制度化したのは吉宗の手腕だ。しかし質素倹約は両刃の剣で、倹約を意識することで幕府の丼勘定は是正できるが、内需拡大にはつながらないというマイナス要素もある。消費意欲を減退させる政策は、吉宗が試みた改革のあらゆる面にあらわれている。
吉宗は年貢収入の増大を図るために河川敷や山林までを含む強引な新田開発を開始した一方で、年貢率を「四公六民」「三公七民」から「五公五民」(収穫の半分を年貢として納め、残りの半分を農民のものとする)に引き上げた。増税プランとして一定期間年貢を固定しつつ徐々に切り換えて増額する「定免(じょうめん)法」を実行。後期には出来高のうち翌年の再生産部分を残してすべて年貢として徴収する「有毛検見取(ありげけみどり)法」などの新税制を採用し、幕府財入を大幅に増大させる。
吉宗が実行した「痛みを伴う構造改革」はまず農民が犠牲を強いられたようだ。しかし新田開発によって米が増えれば米価がさらに下がり、武士は生活が苦しくなるという矛盾が生じる。吉宗が米価対策に着手するのは将軍就任期間の後期のこと。米価対策は改めて説明するが、吉宗が増税に力を注いだことから、改革の優先順位は財政増収にあったことがよくわかる。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 21 江戸幕府の経済政策 新井白石の経済政策と紀伊藩主・徳川吉宗の実績
江戸時代中期、五代将軍・綱吉から七代将軍・家綱に至る時代は、幕府が財政赤字と物価上昇に苦しめられた時期だ。幕府最初の改鋳(元禄金銀と宝永金銀あわせて2500万両)によって一時的に差益を幕府にもたらした勘定奉行・荻原重秀は六代将軍家宣側近の新井白石とソリが合わず、新井は「物価が上昇したのは荻原の無策」「商人から賄賂をもらっている」といった内容の上申書を六代将軍・家宣に提出したという。荻原は寺社造営や土木普請など公共事業の発注にあたり、紀伊国屋文左衛門(紀文)から賄賂をもらっていたという記録があるので、新井の指摘はあながち間違いでもなかったようだ。荻原を追い落とした新井白石は、貨幣の含有量を元に戻すよう主張し、綱吉の時代に発行された金銀(元禄金銀)を回収し、正徳金銀を発行する。市場の貨幣量を減らすために貨幣の純度を元に戻すという政策だ。しかし、改鋳量は21万両と少なく、市場への影響力はなかった。
新井白石が実行した政策に「海舶互市新例」がある。これは国際貿易を制限するために制定した法令だ。新井は国内通貨量のうち金貨25%、銀貨75%が海外に流出したと計算し、長崎貿易における輸出規制を実施した。この政策の意図は金銀の流出に対する防衛策であるとともに、国産品の推進つまり産業の活性化にあった。輸入品のメインは、綿布、生糸、砂糖、絹織物などだった。それを国産品でまかなうように転換しようという政策である。また綱吉時代の放漫な財政感覚を引き締める目的もあったのだろう。それでも、物価上昇を鎮静化する決定的な経済政策とはなり得なかった。将軍の権力は衰退し、幕臣における譜代派と新参派の対立もあり、財政改革は進まなかった。
やがてまだ幼い七代将軍・家継が病死。後見人であった吉宗が八代将軍となり、新井白石を左遷し、「享保の改革」を実行するわけだが、その前に紀伊徳川家から初の将軍を迎えるにあたり、吉宗の何が高く評価されたのか、その手腕を見ておこう。紀伊藩は、徳川御三家のひとつ紀州徳川家が藩主として治める親藩だ。家康の10男・頼宣が初代藩主で、彼の孫にあたる吉宗は紀伊藩五代藩主である。のちに八代将軍となり、「幕府中興の祖」と仰がれるが、吉宗は紀伊藩主時代から政治手腕を発揮していた。見方を変えれば、紀州藩で成功した手法を幕政でも使ったということがいえる。
兄である三代・四代藩主が相次いで亡くなったことから、吉宗は22歳で紀伊藩主となった。当時の紀伊藩は、江戸の大火で焼失した江戸屋敷の再建、将軍の訪問を迎えるための新御殿の建設、相次いで他界した先代藩主の葬儀費用などが重なり、財政難に直面していた。初代藩主頼宣が幕府から借り入れた金10万両も未払いのまま残っていた。追い打ちをかけるように1707年には、地震と津波が紀州南岸を襲い、大きな被害が生まれていた。
吉宗が紀伊藩主として実行した財政の立て直し策は、藩政機構の簡素化と質素倹約の徹底であった。家柄にとらわれず有能な人材を登用しつつ、給料の一部を藩に差し出す「差上金」と呼ばれるスタイルによって家臣の給料を事実上カットし、リストラ(約80人の家臣を解雇)によって人件費を節約した。こういった賃金カットやリストラを実行すると、家臣の不満が爆発するのが世の常なので、吉宗は和歌山城の門外に「訴訟箱」を設け、不満を吸収し、同時に改革の提案を募った。これがのちの「目安箱」制度の起源である。
その一方で、吉宗は水利事業や新田開発によって米の増収を図り、特産品(みかん、材木、醤油)の販路の拡大を試みた。こうして幕府から借用していた10万両を返済。現在に置き換えるなら、新知事が府政や県政にメスを入れ、職員のリストラを決行し、財政の収益アップに成功したということだ。こういった藩主としての実績をもって吉宗は将軍になり、「享保の改革」を実行するのである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 20 江戸幕府の経済政策 江戸中期の課税制度と物価上昇
五代将軍綱吉の時代に米価が低落しはじめた要因は米の生産量にあった。幕府や諸藩は、米=「石高」を維持、あるいはアップすべく新田開発に励み、また農業技術が向上したことで米の生産量が増えていった。江戸時代初期に人口が増加したとはいえ、総需要を供給が上回れば米は余る。
米が余れば米価は下がる。幕府の財政のうち主だった収入は、米を売って金に換えることだったので、米価が下がれば当然財政は苦しくなる。さらに米以外の商品が値上がりすれば、インフレによる収入増加は見込めない。
これに追い打ちをかけるように、江戸で大火、関東で元禄地震、東南海で宝永地震、利根川の洪水など大災害が続き、幕府の赤字財政は減らなかった。綱吉時代の勘定奉行・荻原重秀は、幕府天領の佐渡金山のテコ入れ策や全国の酒蔵に50%の運上銀をかけるなどして収入の増加に努めたという。
運上銀とは農業以外の商売にかかる税金、営業税のことだ。職種によって額は決められていた。たとえば生産物の運送を担う船を買って運送業を始める場合、その船賃でなく、運送業という職種自体に決められた営業税が必要だったということである。これは商売を営むための鑑札料と考えるとわかりやすい。もともと商店は店の間口に応じた棟別銭を徴収されていたが、商人や製造業者はこれに加え、商札(商業鑑札)を買い取るというスタイルで運上銀を納めた。
記録として残っているものだけで、大店商札、中店商札、小店商札、魚問屋札、魚商札、醤油手造商札、醤油荷売札、紺屋札、塩売札、薬商札、鍛冶札、油店札、傘札、水車屋札、竹木商札、竹細工商札、桶屋札、瓦焼札、産物仲買札、材木問屋札、酢手造札、茶手商札、諸商人宿札などがある。塩や竹、油など漢字から業種・業態を察することができるだろう。
運用銀は諸藩でも採用され、特産物の生産にかかわる者も課税されたという記録が残っている。たとえば江戸時代に肥料として重用された干鰯(ほしか)だ。鰯から油をぬいたカスで、佐伯藩(現在の大分県)の浜で生産された干鰯は特産品だった。綿の栽培に効果があると評判を呼び、干鰯が全国市場で販売されるようになると、佐伯藩はそこに目をつけ、生産と流通の両面から利益を得ようとした。干鰯を生産する干浜に運上銀をかけ、原料の鰯を獲る網、漁船にも税金を課せ、さらに漁獲量に応じて課税したという。佐伯藩では船に対しても「船役」という税を課している。
各藩の運上銀の徴収の仕方はこうだ。藩の指定する判屋に税金を納め、そこで支払い済みであることを記した紙片をもらう。納税したことを証明するために「判」を押したことから判屋と呼ばれたようだが、その判は収入印紙のような存在であったと想像できる。判屋は現在なら税務署派出所といった位置づけだろう。
さて、江戸中期の物価だが、元禄時代から物価は上昇を続けている。元禄文化が花開き、芝居や浮世絵、行楽や花火などのエンタテイメントが盛んになったことを考えると、庶民の生活水準が向上したことがわかる。商業が活性化し、多くの庶民が経済活動に関与するようになると、貨幣は活発に流通する。そこで生活関連商品の需要が供給を上回るようになる。
しかし当時はまだ機械や技術は導入されていないので、生産量は急には増えない。品不足が生じる。それに乗じて不正な利益を得ようとして価格の値上げを図る動きが始まったことは容易に想像できる。これは商人がモラルをなくしたとも解釈できるが、商人が頭を使って営業活動を開始したとも分析できる。そもそも商売とは利潤をあげることを目的にしているので、生活必需品が不足すればそれらの商品を高く販売しようと考えるのは当然の流れ。だから物価は上がる。
物価上昇を抑えるための新たな政策が登場したのは綱吉の死後、約10年後のことだ。「元禄バブル」が弾け、幕府はもはや丼勘定で財政を運営できない危機に面していた。ここに登場したのが紀伊藩主から将軍となった吉宗である。吉宗が実行した「享保の改革」は幕政改革であると同時に重要な経済政策が含まれていた。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 19 江戸幕府の経済政策 勘定奉行荻原重秀の貨幣改鋳
江戸時代の経済政策といえば、まず改鋳と年貢率のアップが思い浮かぶだろう。前者は貨幣制度、後者は税制の分野となるが、両者は物価の変動、好不況と連動している。江戸時代の物価は、常に米価と連動した。年貢米収入に依存する幕政としては米価が最大の関心事であったといっても過言ではないだろう。米価が高すぎると庶民は困窮するが、米を換金して生活費にあてる武士は潤う。米価が下がると庶民の生活は楽になるが、換金率が低下するので武士の生活は苦しくなる。米価が下がり、物価が上がると、武士にとって「収入は減るが、支出は増える」という最悪の事態になる。つまり、米価は武士と庶民の為替レートだったのである。
米価が低落しはじめたのは、「生類憐みの令」で名高い五代将軍綱吉の頃だ。四代将軍家綱の時代に、江戸城天守閣と市街のほとんどを焼失し、死者が10万人にも及んだ「明暦の大火」が起きた。このため江戸の復興事業に莫大な資金が投じられた。また、三代将軍家光まで続いた、各地の金山・銀山における「ゴールドラッシュ」が落ちついた時期でもあった。さらに家綱の葬式、綱吉の将軍即位で出費がかさみ、加えて綱吉の母・桂昌院と綱吉が寺社の新改築などで浪費したことで幕府の財政は赤字に転落していた。
そこで財政建て直しのために貨幣改鋳政策が行われたのだ。当時の勘定奉行は荻原重秀。長い間実行されていなかった検地を四代将軍家綱の代に行い、世襲代官制の弊害を提言した人物だ。将軍の座についたばかりの綱吉は荻原の提言を受け入れ、世襲代官を一掃し、これを機に代官の官僚化が始まる。出世街道をのぼりはじめた荻原は、次に佐渡奉行に任ぜられ、生産量が落ち込んでいた佐渡金山を排水溝の掘削によって再生させる。また佐渡の大規模検地にも着手し、年貢収入を8割アップさせる。こうした手腕が認められ、荻原は勘定奉行に出世し、綱吉から経済政策を一任された。
荻原は大幅な財政赤字から脱出するために、市中に流通する貨幣量の増大を目指して、1695年、慶長金銀を改鋳し、金含有量を減らした元禄金銀をつくった。当時からすれば天才的な発想である。家康のつくった金貨、銀貨を回収して、金や銀の含有量を減らして貨幣を増やせば、増やした分は幕府の収入になる。その時の差益は金貨450万両、銀貨456万両。合計約1000万両(2兆円)とも500万両(1兆円)ともいわれている。慶長小判が発行されてから約100年後のことだから、経済規模は大きくなり、商取引に使われる通貨の需要は高まっていたと想像できる。それを見越して流通する通貨の量を増やすのは、経済をより発展させるためのひとつの方策である。もちろんインフレという副作用が伴うことは、経済に精通した荻原なら見通していたことだろう。
この経済政策の評価は二つに分かれる。ひとつは改鋳により経済が混乱し、物価が高騰したので「改鋳は失策」という見方。もうひとつは、インフレ率はさほどアップせず、庶民の生活への影響は少なかったものの、商業資本と富裕層がストックしていた大量の慶長金銀の実質購買力が低下し、幕府は改鋳差益金によって財政赤字を縮小できたという評価だ。
歴史書には、元禄時代は戦国時代以来の経済発展をもとに庶民生活が著しい向上を遂げ、様々な文化(元禄文化)が花開いた時代と記してある。その一方で、経済成長の軸から見れば、高度経済成長がひと段落し、低成長へと移行した転換期ともいえる。元禄の改鋳は、物価対策というより幕府の財政赤字を補うために用いられた経済政策だった。
同じ時期、幕府は経済活性化対策として寺社造営や土木普請など、様々な公共事業を展開している。ケインズ理論を先取りするような経済政策だ。この波に乗ったのが、かの有名な紀伊国屋文左衛門(紀文)と材木商・奈良屋茂左衛門(奈良茂)だ。特に紀伊国屋は同時の老中・柳沢吉保や勘定奉行荻原重秀に賄賂を贈って接近し、頻発した江戸の火事による再建工事を受注したとされている。彼らは幕府の公共事業を請け負うことで巨額の利益を得たのである。これは現在にも通じる、経済政策の負の側面である。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 18 江戸の行政 都市政策(「時の鐘」の運営)
落語や怪談噺に出てくる「草木も眠る丑三つ時」。丑三つ時は、江戸時代の時間の表記だ。干支と干支の間の2時間をさらにさらに細かく4つに分け、丑一つ(2:00~2:30)、丑二つ(2:30~3:00)、丑三つ(3:00~3:30)、丑四つ(3:30~4:00)と数えた。丑三つ時は午前3時から3時半ということになる。
時刻を報じる鐘「時の鐘」が都市政策の一環として設置されたのが江戸時代である。当然のことながら暦は時計という概念が浸透する前から存在した。日本では中国から伝わった暦法を長い間用いてきたが、江戸時代に日本独自のものになった。当時の時刻の取り方は「不定時法」と呼び、日の出と日の入りを基準に昼と夜のそれぞれを六つに割って一刻(いっとき)と定めた。
したがって一刻は季節によって長短が生まれた。
1626年、江戸城から近い本石町(現在の日本橋)に鐘楼が建てられ、鐘役が鐘を鳴らして時刻を知らせたのが「時の鐘」の起源である。石垣の上に四本足の楼が建てられ、大型の梵鐘を吊るし、一定の時刻になるとその時刻の数の鐘(たとえば現在の午後6時に該当する暮れ六つなら6回)を叩いたのだ。
よく混同しがちなのが火の見やぐら。こちらは消防や自衛のために町ごとに置かれた詰所(番屋)に常駐する番人が町全体を見渡せるよう、番屋に櫓を組んで一段高い場所に置いた見張台で、火事や洪水が発生したときに半鐘を鳴らす場所でもある。鐘楼は消防には使われず、あくまでも「時の鐘」を叩く目的のためだけに設置された建造物だ。浅草寺や目白不動にも設置されたので、お寺の梵鐘にも見えるが、寺院が管理したわけでも町人の自主管理でもなかった。これは後述する。
本石町に鐘楼が建てられる以前は江戸城で太鼓を鳴らして時刻を知らせたが、さすがに江戸市中には届かなかったようだ。その後、浅草、上野、芝など9ヵ所に鐘楼が建てられ、順次鐘の音をリレーして時を知らせたという