小さな政府江戸幕府 55 明治維新で活躍した留学経験者 最終回
大政奉還によって幕を閉じた江戸幕府。新政府は1867年、王政復古の大号令を発令。これにより武家政治を廃止し、朝廷に政治が戻ってきたことを宣言した。翌年、明治天皇が「即位の礼」を挙げ、元号は慶応から明治へと改められた。
岩倉具視ら急進派公家と薩長の討幕派によって徳川家は新政府の運営メンバーから除外され、薩長出身者が新政府推進の主導権を握ることになった。
ここで注目したいのが、明治維新で活躍した人物に幕末から明治初期に欧米に赴き、政治や工業の発展を目の当たりにして帰国した者が多いことだ。
幕府や諸藩は、日本より進んだ欧米の諸制度を吸収しようとして、多くの留学者を派遣していた。幕府の少数の開国派には先見性があったし、薩摩・長州両藩の武士たちは日本を変えるには海外にヒントがあると確信し、自らの意志で海を渡った。幕末は革新と保守が競って新たなシステムづくりを模索した時期といえよう。また動乱のなかで下級の武士たちにも政治の表舞台に立つチャンスが与えられた時代でもあった。
長州藩士の吉田松陰が講義をした私塾「松下村塾」の門下生であった伊藤博文は、長州藩の下級武士出身である。同じく長州藩の井上馨らとともに、1863年に藩主から留学の命を受けた。洋行費は藩主から一人200両が支給され、不足分は借金で補った。実質的には密航であったが、伊藤や井上など長州藩の5名の若者は上海経由でイギリスに渡った。伊藤はのちに初代内閣総理大臣に就任。井上は第二次伊藤内閣で外務大臣を務めたほか、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業に貢献した。また、三井財閥と親しく、「三井の大番頭」として経済界でも活躍した。
1865年には、薩摩藩の森有札と五代友厚がイギリスへ留学した。森はその後、アメリカにも留学し、帰国後、初代文部大臣に任命された。100年以上前に「英語を日本の共通語として採用しよう」と提案した超先見派でもあった。一橋大学の前身である私塾「商法講習所」を開設するなど教育分野で輝かしい業績がある。五代は欧州帰国後、明治政府の参与職外国事務掛となり、役人として大阪に赴任。造幣局を誘致し、初代大阪税関長に就任。大阪を基盤とする多くの企業の創業にかかわり、大阪商工会議所初代会頭を務めた。
教育者、思想家として名高い福沢諭吉は、豊前国中津藩の下級武士の次男として生まれた。彼は江戸時代には活躍できなかった人物の一人だろう。1860年、遣米使節団の随行船・咸臨丸艦長の従者として乗船し、初めて渡米。その帰路に香港、シンガポール、マルセイユ、リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ベルリン、リスボンなどに寄り、見聞を広げている。1867年に再渡米し、アメリカで多くのことを学んだ。帰国後、教育活動に情熱を注いだ。また、明治4年には岩倉具視率いる岩倉視察団が欧米に派遣された。政府の要人と留学生から成る総勢107名の中には、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文のほか、のちに思想家、ジャーナリストとして活躍する中江兆民や、三井財閥の総帥となる団琢磨もいた。
このように動乱の幕末に欧米に留学した者たちが議会や憲法の設立、教育改革、殖産産業に深くかかわっていった。江戸時代の最後に彼らのような人物が生まれたことが日本にとって幸いだったといえよう。400年も続いた江戸幕府は封建制度をベースとし、徳川コンツェルンが巧みな統制を敷いたことで安定した時代が長く続いた。それは藩の自治を認める多様性に富んだ政策であったといえる。しかし、その末期にいち早く海外に学ぶべき文化を見つけたのは、残念ながら徳川家でなく、長州や薩摩といった地方の武士と留学生たちであった。
しかし、幕府には学ぶべき政策や改革は多くあった。それらは現在でも決して古臭くはない。むしろ普遍性に富んだ政策が欧米に先駆け、江戸時代の日本で実施されていたことに大きな意味があるというよう。(了)
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By Master K/益田 慶
小さな政府 54 幕末の財政事情 徳川家と朝廷・公家のスポンサー
物価の高騰、金の海外流出などにより、幕末の日本は大不況に陥った。そして幕府の財政は危機に直面した。約15万人の兵士を送ったとされる長州征伐の資金は、農民や商人に課した「御用金」でまかなわれた。つまり幕府の資金調達は、民間頼りだったのである。
一方、政治の表舞台は京都の朝廷に移っていった。歴史学者は誰も指摘していないが、当時の徳川家と朝廷・公家の自己資本率を比較してみると興味深いことがわかってくる。おそらく経済的に安定していたのは、朝廷・公家のほうであろう。彼らは物価の高騰や金の流出とは無縁の世界で生活していたからだ。
薩長同盟による倒幕の実現性が高まったとき、彼らが政治的支柱として推したのが朝廷だった。朝廷の政務にあたっていたのは、天皇、摂家(せっけ)、清華家(せいがけ)など朝議出席メンバーである。摂家とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)のことだ。彼らは天皇家に奉仕することを職務とする貴族で、幕府の支援も受けていた。清華家とは、五家に次ぐ家格で、九家(久我、三条、西園、徳大寺、花山印、大炊御門、今出川、醍醐、広幡)が該当した。
彼らは幕府からそれぞれ300~1700石の家禄を与えられていた。鎌倉時代の公家は荘園管理権が経済的基盤であったが、江戸時代の公家は幕府から与えられた家禄が収入であった。また、代々伝わる家業、たとえば歌道・書道などがある公家は、家元として全国の弟子に免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた。
たとえば幕末の朝廷権力の復活を背景に明治維新に功績を残した岩倉具視や三条実美は公家である。岩倉は下級公家であったが、朝廷に仕えていた。いわば宮内庁の職員である。急進派の公家である三条にしても幕府から与えられた土地があり、安定した収入があった。
一方の徳川家は直轄統治地域である江戸、京、大坂などから徴収する石高が主な収入であった。しかし、そこから禄高(給料)を支払わねばならなかったため、米価格の乱高下は財政に大きく影響した。また、各藩の財政も苦しかったため、幕府を支援するどころか、自身の借金返済で汲々としていた。
1867年に徳川慶喜が政権を朝廷へ返上する大政奉還を発表。これを受けて明治天皇が新政権の樹立を宣言。政権の形態は雄藩連合だ。この時点でも徳川家は日本一の大大名であったが、慶喜は新政府のメンバーから除外された。この時点で旧幕府は反対勢力となったわけだが、軍隊の数はまだ勝っていた。勝敗を分けたのは軍資金の多さである。資金調達能力と言い換えてもいいだろう。
明治維新の際に官軍は、商人から借金をして武器を調達したが、貸す側からすれば信頼できる朝廷や公家が背後にいるという安心感があったのだろう。また、幕府に対する不信感、失望感の大きさが官軍を支援する動機づけになったともいえる。1868年、官軍は東海道、東山道、北陸道と三方面に分かれて江戸を目指した。薩長を中心とする22藩の藩兵、およそ5万人が行軍したのだから、宿代、食費、武器代など相当な経費がかかったと想像できる。
資金を調達したのは、京、大坂の商人約130人であった。その合計はおよそ300万両だ。三井は単独で25000両も提供したとされている。明治政府の実質的なスポンサーは、三井をはじめとする商人であった。諸大名も官軍に寝返り、江戸攻撃に率先して赴く豹変ぶり。旧幕府の生き残りである徳川家は、こうして江戸城に孤立し、ついに無血開城へとつながっていくのである。
小さな政府江戸幕府 53 幕末の財政事情 インフレ対策と問屋保護
財政危機に陥っていた幕府は、貿易面でも大きな問題に対峙せざるを得なかった。1859年から列強諸国との貿易が始まった。原則として幕府の役人は関与せず、日本人商人と港に居留する外国人商人との間で自由貿易が行なわれ、交易の9割は横浜港だった。横浜港の原型となった神奈川湊には、東海道の宿場・神奈川宿があり、幕府の直轄地だった。その対岸の横浜村に港が開かれたのは、幕府が監視しやすいという理由もあったのだろう。
圧倒的な輸出超過で始まった交易が1866年には輸入超過に転じる。その理由は、輸入品の税率が、20%から5%に引き下げられたからだ。つまり関税が下がったのである。関税は、歴史的には古代都市国家における手数料に始まり、ヨーロッパでは内国関税、国境関税というような変遷を経て、今日では一般に「輸入品に課される税」として定義されている。これは輸入する国が定めた法律に従って運営される。
By Master K/益田 慶
幕府が列強諸国と結んだ条約には関税自主権がなく、諸外国との協議で税率を決めるシステムをとっていた。しかし、幕府は1866年、兵庫の開港期限を延長するかわりに関税率を下げ、自由貿易をさまたげる諸制限を撤廃することを記した改税約書に調印したのである。構造改革ではなく、単なるバーター政策だ。
この関税引き下げによって外国商品がどっと安く国内に流れこんできたのである。そして安い商品が大量に国内に流通したことで急激な物価高が発生する。インフレの背景には、輸出の流通システムの崩壊がある。生糸や茶などの輸入品は人気が高かったため、商人は農家から生糸や茶を買い付け、問屋を通さずにそのまま横浜へ直送した。国内の流通は、商品が問屋に集まった段階で一度商品の流通量は調整される。商品が大量すぎると下落するので、蔵に保管して仲買へ渡す量をコントロールする。
しかし、輸出に関しては歴史が浅いため、そういった慣習はなく、商人は問屋を通さずに横浜へ送った。それがどんどん売れたので、商人は全国の産地に出かけ、輸出用の生糸や茶を買い漁り、またどんどん輸出した。そうすると生糸と茶の巨大消費地である江戸や京都、大坂では品薄状態になり、価格が高騰。それに連動して生活必需品が数倍に値上がりしたのである。
一方、海外から安い綿織物や毛織物が大量に入ってきたことで、相対的に値段の高い国内の綿織物はまったく売れなくなり、綿織物業、紡績業、綿花の栽培農家は大きな打撃を受けた。
物価が上がり、国内の綿織物関連は壊滅状態。これでは庶民の生活は苦しくなるばかり。同時に江戸の問屋も大きな打撃を受けていた。そこで、幕府は1860年に「五品江戸廻送令」を発令する。インフレ対策と江戸の問屋の保護を目的とした貿易統制法令である。(1)雑穀(2)水油(3)蝋(4)呉服(5)生糸の5品目は、いったん江戸の問屋を通さないと輸出できないとするものだ。
雑穀や水油、蝋など海外諸国でも生産できる品目がリストに挙がっているのは、当時、清(中国)で勃発した巨大な反乱「太平天国の乱」にイギリスとフランスが介入したことで需要が急増したからである。国内の生産者からすれば、いわば「特需」だが、これに生産供給が追いつかず、国内の物価を押し上げる大きな圧力となっていた。
五品江戸廻送令は、インフレ抑制策としても江戸問屋の保護としても効果はすぐに表われることはなかった。列強各国の商人は「自由貿易を妨げる」と強く反発し、幕府に撤回するよう要求した。一方、国内の商人は法令を無視し、直接横浜港へ商品を送り続けた。ここから「幕府・江戸問屋」対「外国商人・国内商人」という対立構造が見えてくる。
小さな政府江戸幕府 52 幕末の財政事情 幕末の経済状況
サブプライムローン問題が表面化する前年の2006年1月までFRB議長を18年務めたグリーンスパン氏は、サブプライムローンに端を発する世界金融危機を「100年に1度の信用の津波」と表現した。その言葉を借りるなら、400年も続いた江戸時代の幕末とは、まさに「400年に1度」の大転換期であったといえる。では、幕末の財政はどのような状態にあったのか? 幕府の手に負えない財政危機や金融危機が起こったのだろうか?
鎖国をしていた時代の日本は、規制により貿易額こそ大きくなかったものの、輸入超過状態にあった。しかし国内から金が流失し、江戸幕府の財政を圧迫し続けていた。そもそも幕府が鎖国政策を始めた一因に、国内の金銀銅の流出阻止という目的があったわけだが、幕府の意図に反して、国内の金は国外に流出し、海外への所得移転が起こっていた。これに米価の下落が重なり、幕府は貨幣の改鋳を繰り返した。その貨幣が銀の使用量が少ない悪幣だったため、幕府の信用が低下したとされている。
勝海舟は回想録で「幕末期には幕府の金庫は底をついており、新たな財政政策もないまま、破綻寸前にあった」と記している。財政危機は、実質的な開国にあたる横浜港の開港から得られる収益によっても持ちこたえることはできなかったのである。
開国すると同時に、日本の輸出は爆発的に増加した。特に生糸は、その品質の高さから外国商人が買いあさった。さらに米国で南北戦争が勃発して、綿花の国際価格が急上昇し、日本の綿花も買い占められた。当時、中国が輸出規制をしていたため、中国産の代用品として陶磁器や漆器が盛んに輸出されていった。
当時の日本は国内で完全需給体制下にあり、手工業の生産力では対外的な需要を急にまかなうことはできなかった。製品が輸出用のものばかりになると、国内の流通物資は減少する。そのため諸物価は高騰した。反対に、欧米で大量生産された廉価な綿製品が国内に入ってくるようになると、国内の木綿加工産業は壊滅的打撃を受けた。これは国内生産の野菜より中国生産の野菜のほうが安価であるのと同じ現象だ。
国内の生産農家は、価格競争では中国産に勝てない。それと同じ構造で、開国前に綿製品は絹製品に次ぐ高級品であったが、開国後にはその価値は一気に暴落した。そうすると、当時の農業、製造業、流通業、小売業はすべてが打撃を受けたということになる。反対に金融業は、大名の貸し倒れというリスクはあるものの、業界としては活性化していったと予想できる。
そういう状況にあって、金銀の国際レートとの差が、国内の混乱とインフレに拍車をかけたと読むべきだろう。開国前の日本国内の金銀レートは、約1対5だったのに対して、国際相場は1対13だった。つまり「銀高金安」である。その結果、外国商人は、大量の洋銀(メキシコドル)で日本の金貨を買いあさり、海外で売り払って利ザヤを稼いだ。また、日本の銅価格も国際標準よりはるかに安かったために、日本の製品はいとも簡単に外国商人に買い占められてしまった。開港地付近は開港特需にあやかることができても、それ以外のほとんどの地域はインフレに苦しめられたのである。
物価の高騰、地場産業の低迷、これに米の不作が重なれば、諸藩の大名がやり場のない不満を抱くのは当然のこと。だから下級武士や豪農あるいは商人までもが、倒幕の主体となっていくシナリオがこの頃にすでにできていたということだろう。特に自立できる経済基盤を構築してきた薩摩と長州にとって、幕府の政策は地方経済を圧迫するものに過ぎなかった。薩摩は、密貿易や琉球の植民地化によって、貿易のうま味と経済のグローバル化の流れをすでに察知していた。一方の長州は、瀬戸内海の流通網や港の整備によって藩の財政をまかなってきたが、それも横浜開港によって大きな損害をこうむっていた。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 51 幕末の財政事情 御用金令の乱発
幕末の幕府の財政は、悪化の一途をたどった。金の海外流失、外国人の殺害にともなう賠償、黒船来航に備えた軍備の増強、沿岸防備、度重なる江戸城の火災、二度にわたる長州征伐などがその原因だった。江戸城の火災は、反幕派による放火であった。
慢性的な財源不足と突発的な支出を補填するために幕府が発令したのが、御用金令だ。御用金とは、幕府や諸藩が財政上の不足を補うため、町人・農民らに対し臨時に上納を命じた金銀のことだ。いわば幕府や諸藩の「特別会計」である。発令の名目は、幕府財政融通、米価調節費、江戸城再建費、海防費、長州征伐軍費の調達など様々だ。
年貢とは異なり、本来は利子付きで年賦返済する借上金であった。つまり、民間からの借り入れである。その利子は年利2~3%という超低利で、返済も長期の年賦返済だった。しくみは国債と似ているが、異なるの信用度だ。利子が支払われたのは最初の数年間のみで、幕末になるにつれ、利子はもちろん、元金もほとんど償還されなくなっていった。
実質は、半強制的な献金である。当初は大坂や江戸の豪商に対して課せられたが、やがて大坂の富裕町人や一般町人、さらには農村の富裕層にも命じられるようになった。その浸透ぶりは、貨幣経済の発達により、消費しかしない武家階級が、経済活動のプレイヤーとして資金を動かせる層となった町人たちの支配下に置かれていったことを物語っている。
有力商人が集まる大坂での御用金徴収を総括していたのは、東西両町奉行だった。奉行所は普段から大坂町人の資産・商売の状況を把握しており、そのデータに基づいて個々の町人への御用金額を決定していたという。奉行所が、警察署や裁判所のみならず、税務署や市役所の役割を果たしていたことには驚きである。ひとつの組織がジャンルの異なる複数の業務を並行してこなしていたことがわかる。まさに「小さな政府」だ。
やがて豪商たちは、返済されない金を上納し続けていけば、すぐに破綻してしまうため、御用金徴収に盛んに抵抗するようになり、幕府の権威は失墜していく。幕府に上納するくらいなら、官軍に投資して、官軍が政権を取った暁には新政権御用達の業者に指名してもらおうと考える商人が登場してもおかしくない。一方、戦略家として頭角をあらわしたのが三井家だ。幕府への御用金を減額して分納することに成功し、なおかつ横浜貿易の関税収入の一部を商品担保貸し付けに回す業務を幕府から承認してもらったのである。
ところで、イギリスと手を組んだ薩摩藩・長州藩の財政はどうなっていたのかといえば、江戸から離れていることが幸いし、密貿易によって財政を支えていた。イギリス商人から軍艦や武器を購入する費用は、密貿易で得た利益である。一方、御用金徴収によっても財政の立て直しができない幕府の内部には、フランスからの外債を軍事費にあてようとする動きもあった。しかし、最終的には外債で軍事費を調達しても償還が困難になると判断したのである。
余談だが、江戸城の無血開城の前に、密かに地中に埋蔵されたと伝えられる「徳川埋蔵金」は、幕府が町人から徴収した御用金だったとされている。大政奉還当時、勘定奉行を務めていた小栗上野介が財政責任者であったことから、「小栗が幕府の金を持って逃げ、赤城山に埋めた」と噂されたという。幕僚を引退した小栗は上野国(群馬県)で隠遁生活を送りながら、埋蔵金を掘り起こすチャンスをうかがっていた。その金で幕府を再興する計画を持っていた・・・・・・と、このような徳川埋蔵金伝説にロマンを感じる人は現在も少なくない。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 50 大坂の商業 サブプライム大名を支配した大坂商人
大名の財政は、年貢米を換金してくれる大坂商人に支配されていたといっても過言ではない。歴史の教科書には「鎌倉幕府の成立以降、明治維新まで武士が政治を司る時代が続いた」と記されているが、江戸時代の大名の財政を左右したのは、まぎれもなく大坂商人であった。その大坂の商業資本は、無担保の「大名貸し」で多額の利益を得ていた。
このことは、江戸時代の構造的な特徴を顕著に表わしている。戦国時代の大名は、収入(年貢米や金・銀、特産物など)を拡大させるために、隣国に攻め入り、領土を拡大し、その財産を奪った。もちろん、今日に至るまで「土地=財産」であるから、土地を略奪することが財産を増やすことであり、また収入を増やすための大名の基本的な仕事であった。これは戦国大名のシンプルな成長政策といえよう。
武田信玄も織田信長も豊臣秀吉もすべてこの政策を貫いた。しかし、家康が江戸に幕府を開き、幕藩体制が固まるにつれ、大名は略奪という本来の生産手段と仕事を失い、領土の政治を行なうしか仕事はなかった。大名や幕僚には政治家や役人としての役割があったが、大多数の武士は単なる「消費生活者」に過ぎなかった。
元禄期に入ると経済システムが整い、また人口も爆発的に増え、支出が増加していく一方で、年貢増収は頭打ちとなっていった。正確にいえば、年貢収入は一定だが、支出が増えていったのである。プライマリーバランスを均衡させるには、歳出を税金でまかなうしか方法はない。そこで、幕府や藩は、商人から税金を取ることを考えた。つまり、増税である。
しかし、大名はローカル資本だけでは財政を運営できなくなっていた。当時は予期せぬ飢饉が年々も続き、米が不作になり、年貢米収入が激減したほか、幕府からの天下普請と呼ばれる公共事業への参加、冠婚葬祭や新たな将軍が誕生するたびに支出が生じていた。そこで、大名は主に大坂の商人から借金をして財政を運営することが日常的になっていた。すなわち、諸藩は「財政赤字」だったのである。しかも収入が伸びないまま借金を繰り返せば、それは永遠に完済できない。利息分だけでも支払えばマシな方で、元金の返済には手がまわらない大名も多くいたようだ。
借金踏み倒しで名高いのが、肥後熊本の細川家だ。アメリカ発の金融危機を例に挙げるなら、細川家は確実に「サブプライム」(信用度の低い層)である。信用度ゼロの大名の噂は、大坂商人の間で広まり、誰も貸し付けをしなくなった。ザプライム大名への貸し渋りが始まったのである。なかには大名の債権者である商人がその領土に出向き、農民から年貢を直接取り立てたり、代官に年貢徴収を厳命したりすることもあったという。ザプライム大名は完全に大坂商人に支配されていたといえよう。
大名の信用が下落し、大名貸しのリスクが増えるにつれて、商人は米などの現物がない限り、大名に金を貸さなくなった。武士はさらにひもじくなり、商人の資金は大坂や江戸など大都市の金融市場に集まるようになる。
たとえば三井財閥の始祖・三井高利は松坂で金融業を営み、大名貸しで財産を築き、その資本をもとに江戸に進出した。「現金安売り掛値なし」の呉服屋「三井呉服店」は、町人をターゲットにした小売業として大きな成功を収めた。大名への販売は売掛けであったし、また焦げ付くことが予想された。だからその売掛けの焦げ付きは原価に加算されて販売され、高額になっていたが、町人相手の着物の販売を現金のみにしたことで、店頭価格を引き下げることが可能になった。
こういった論理的かつ戦力的なマーケティング思考は、当時の商人はすこぶる長けていたようだ。そして何も生産せず、ただ消費するだけとなった江戸時代の武士は、商人にとって大きな投資先ではなくなった。商人は自身の新たなビジネスに投資するようになっていった。ご存知のように、幕末に残された最大の投資先は、江戸幕府と官軍のどちらかであった。武力でなく、経済が時代を牽引する時代が到来したのは、当然の成り行きであったといえよう。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 49 大坂の商業 年貢米を担保とした金融「大名貸し」
各藩の蔵屋敷が集まり、堂島米会所が先物取引市場を繰り広げた大坂は、諸藩の資金調達先でもあった。大坂が江戸時代の「金融センター」の役割を担ったのは、大坂に年貢米が集積され、蔵元や掛屋、両替商などが集まっていたからだ。大名に対して行なわれた、年貢米を担保とした貸しつけを「大名貸し」と呼ぶ。現在なら地方自治体が民間金融機関から借金をするようなものである。
大名貸しは、販売予定の年貢米を担保とした融資なので、大名からの実際の返済は大坂に届けられる年貢米あるいは年貢米の売却代金で行なわれた。しかし、借りる側と貸す側両者に大きなリスクがあった。大名にとっては、米価の低下と凶作が最大のリスクだ。凶作の場合、需要と供給のバランスが崩れ、米価は上がるものの、販売できる絶対量が激減するので、返済額に届かなくなる。その不足額は文書で支払い計画を記した「証文貸し」で繰り越しされ、大名は元利金を複数年にわたって分割返済した。ある領内が飢饉に見舞われても、その藩の大坂の蔵屋敷には米が備蓄されていたのは、飢饉に苦しむ農民に配給することなく、返済にあてられたからである。
貸し付ける側のリスクとは、大名の債務破棄、すなわち踏み倒しである。事実いくつかの藩が多重債務に陥り、債務破棄を懇願している。藩の財源を年貢米でまかなっている限り、飢饉が起これば米の収穫量が減り、返済が滞ることになる。大名が備蓄米を農民に配給しなければ、農民が餓死して耕作者のいない田畑が生まれ、さらに財政収入が悪化する。そして返済が滞るという悪循環に陥る。
そういう事態を回避するため、金融業者のなかには藩財政の再建に協力する商人もいた。まるで政策と金融のコンサルタントである。藩の資産運用まで手がけた商人がいたとしても不思議ではない。江戸時代にそういう職業も自然発生的に生まれてきたことは、とても興味深い。
ところで、この大名貸しという金融事業によって大坂最大の両替商となったのが鴻池だ。鴻池は蔵元や掛屋の業務をしながら両替商を営んだ。その利益で大和川流域に鴻池新田を開き、大地主にもなった。現在なら、不動産事業への進出である。当時の鴻池に「資産運用」という概念はなかったと思われるが、実に優れた投資の仕方といえよう。地主になれば、遊んでいても定期収入が得られるからだ。
大名貸しのほかには「浜方先納」と呼ばれる融資が行なわれた。これは堂島米会所に所属する米仲買や両替商が、大名所有の米切手を担保に実施した貸し付けである。商人からからすれば、年貢米を担保とした大名貸しより、さらにリスクの高い融資だ。米切手は米の所有権を示す紙に過ぎず、また米価が暴落すれば回収できなくなるからだ。よって浜方先納は高金利であった。
幕末にかけて財政危機に陥ったいくつかの藩は、債務を抱えたまま、明治維新を迎えた。その際、明治政府は旧藩の借金のうち半額近くを帳消しにするよう商人に認めさせ、しかも返済を長期の公債による分割支払いとした。この政策によって、大坂の多くの両替商が経営不振に陥った。明治政府にとっては廃藩置県によって誕生した地方自治体への救済処置であったが、金融業者には反対の結果となった。これがなければ、金融を基盤とした阪神財閥の数はもっと多く生まれていただろう。また、少数ではあるが、両替商で蓄えた資金とノウハウを銀行業に注ぐ商人も誕生した。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 48 大坂の商業 整備された先物取引所「堂島米会所」
1697年、対岸の中之島から堂島に米市場が移転し、それ以降、幕末まで堂島といえば米市場を意味するようになった。堂島は、天満の青物市場、雑喉場(ざこば)の魚市場と並び大坂三大市場の一つとして、大坂人の台所をまかなっていた。そして1730年には、それまで禁止されていた米会所が堂島に開設された。
米会所とは、米の取引所のことだ。幕府は、それまで「米切手」の売買や「延払い」による取引が米価の高騰につながるとして、米会所の開設を承認していなかった。米切手とは、諸藩の蔵屋敷が蔵米の所有者に発券した米の保管証明書で、米の所有権を示す証書である。保管している蔵や扱う商人の名前、米の量などが、偽造を防ぐために特殊な字体で書かれていた。
その用途はこうだ。米仲買人は落札した蔵米を蔵屋敷に保管させ、米切手を受け取る。ここで蔵米の所有権が移転する。当初は発行後30日以内に米の蔵出しを行なうことが義務づけられていた。しかし、次第に流通証券としての性格を持つようになり、為替の代用品として決済に使われるようになり、転売されるようになっていった。一方の延払いとは、売買契約の際、代金をすぐに払わずに、ある期間後に払うことだ。幕府は、この米切手と延払いによる取引を禁止していたのである。しかし、享保の改革が成功し、米価が下落したのを見て、幕府は開設を認めた。要するに規制緩和だ。
米会所の売りや買いの注文は、手指による符丁で行なわれた。この伝統は近年まで証券取引所にも引き継がれていた。米会所で行なわれた取引は、正米(しょうまい)取引、帳合米(ちょうあいまい)取引、石建米(こくたてまい)取引の3種類。正米取引が、米切手を売買する現物取引である。公認の米仲買株を有する者(現在でいう会員)のみ参加が許された。米仲買人は、米問屋の注文や投機目的で米切手を売買した。
1年を春・夏・冬の3期に分け、藩の蔵屋敷が発行する米切手を米仲買の間で取引する。決済は銀による即日(のちに4後)支払いであったため、その資金を融通する入替(いれかえ)両替と呼ばれる金融業者が出入りした。入替両替は、米切手を担保に高金利で米仲買に資金を貸し付けた。借り手は、米価が上がると担保に入れてある米切手を売却し、借財を返却した。また、米価が下落し、米切手を流してしまう借り手に対して、入替両替は質に取った米切手を市場で売却し、それで元利決済した。
帳合米取引は、筑前、広島、中国、加賀米のうち、ひとつを対象にした先物取引である。敷銀という証拠金を積むだけで、期限までに売り方と買い方が最初の売買と反対の売買を行ない、差金決済による取引が帳簿上だけで行なわれた。これが現在の基本的な先物市場のしくみを備えた「世界初の先物取引市場」だといわれている。
たとえば、ある問屋が正米取引で米切手を手にした場合、現米を手にするまでに米価が下落すると損をしてしまう。そこで、米切手を買うと同時に、同量の帳合米を売っておく。万一、米価が下落しても、帳合米を買い戻せば損失が出ないことになる。こうした先物取引のしくみを生み出した堂島米会所は、当時世界最先端の市場メカニズムであったと想像できる。
帳合米取引が大きな単位で取引されたのに対し、石建米取引は小規模な帳合米取引といえる。米会所では、石建米取引はさほど重要な取引ではなく、帳合米が中心となって取引されていたが、幕末に近づくにつれて米の先物取引の中心は帳合米から石建米へと移っていった。
堂島米会所は、幕府の経済政策と同じくらい、いや、ある面ではそれ以上に江戸時代の経済をリードする重要な存在であった。米会所に集まる商人たち、すなわち蔵元、米問屋、米仲買人、入替両替などによって独自の市場メカニズムができあがり、商業のしくみをつくりあげていったのである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 47 大坂の商業 蔵屋敷と蔵元、掛屋
豊臣政権が全国支配を完成させた頃から、大坂には有力商人が在住するようになった。江戸に幕府が成立し、政治の中心は江戸に移転したものの、商業の中心はそのまま大坂に留まった。幕府は大坂に遠国奉行を置き、諸荷物の監察や幕領の年貢徴収を行なった。
大坂は水運の便利さから物資の集散地として栄えた。各藩は蔵屋敷を大坂に設置し、自国産品を現銀化した。銀に替えたのは、金より銀のほうが価値が高く、また関西は銀が主要貨幣だったからだ。蔵屋敷とは、幕府や大名・旗本などが年貢米や特産品を売りさばくために構えた倉庫を兼ねた屋敷のこと。
江戸、長崎、大津など、交通の要所である商業都市に設置されたが、やはり商業の中心地・大坂に集中した。1670年代には80、1840年代には125の藩の蔵屋敷があり、小藩や大名以外のものを含めると600近くはあったとされている。
それらの蔵屋敷で年貢米の売却が行なわれたため、江戸時代を通じて大坂は米の集積地となった。当初、蔵屋敷は有力商人を表向きの名義人としていたが、実質的には各藩の藩士が管理する形態が多かった。蔵屋敷の運営は藩から派遣された蔵役人が担ったが、除々に指定した商人に管理を請け負わせるようになった。つまり、業務委託である。
請け負った商人は、名義人である名代、蔵元、掛屋などに分類される。名代が蔵元を兼ねる場合もあった。蔵元とは、蔵屋敷の品物の管理・売却を行なう実務責任者のことだ。名代のほか、米問屋や両替商など有力な商人が任されることも多かった。掛屋は、売却代金などの管理・出納を行なう役職で、金融・為替を扱う両替商が任命されるケースや、蔵元が兼ねるケースがあった。
蔵元・掛屋は売買の際に手数料を取ることが許された。また、藩に損害を与えず、必要な出納にいつでも応じることを条件に、藩から預かった資金を自由に運営することが許された。それを元手に投機を行なって莫大な利益をあげる商人もいた。この構造は、顧客から預かった資金を自社の裁量で国債を買ったり、投資をしたりするなどして運用する、現在の証券会社や銀行と同じである。
では、蔵元や掛屋の手腕はどこで問われるのか。それを説明するには、先に蔵米の売買の仕方と流通を知っておく必要がある。蔵元は、まず入札の期日と払い下げ量を公示して米仲買を集めて入札させた。落札者は保証金を納め、その後、7~10日以内に掛屋あるいは蔵元に残り代金を払って、受領書にあたる銀切手を引き取り、それを30日以内に蔵屋敷に差し出し、米切手と交換した。持参人が米切手を提示すれば、蔵屋敷は記載された量の米を渡さなければならなかった。
ただし、蔵屋敷側には30日~1年の猶予が与えられていた。米仲買は、米切手を譲渡することも換金することもできた。小切手や商品券と同じである。蔵元はすでに保証金を手にしているので、藩から預かった資金とともに運用して大きくを増やすことができた。また、米価はたえず上下していたので、高い時期に販売し、米価が下がっている時に渡せば、その差額分は蔵元の利益となった。余った米をさら売買することもできたし、換金することもできた。つまり、蔵元や掛屋には為替を読む力と相場師の才覚が必要だったのである。
優れた商人のなかには、複数の藩の蔵元や掛屋を兼務する者もいた。有名な蔵元が「淀屋」だ。淀屋は材木商から生糸貿易商を経て蔵元となった。掛屋を兼ね、財政が悪化している大名に金を貸し付ける大名貸しで財を成した。「大名金融」である。
大名貸は表向きは信用貸しであったが、実質は蔵米が担保となっていた。それは藩の年貢米である。大名貸しは、来年入荷の米と引き換えに、金を貸すこと。藩がつぶれることがなければ返済はされるわけだが、大きなリスクもあった。蔵元や掛屋としての契約を打ち切られる可能性を常に抱えていたのだ。また、一方的な債務の繰り延べも行なわれた。特に薩摩藩のように財政危機に陥っている貧乏藩に大名貸しをすれば、借金を踏み倒されるリスクがつきまとったのである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 46 風俗と統制 髪結い床と銭湯の営業権と株
江戸時代に繁盛した髪結い床(現在の理髪業)と銭湯は、ともに幕府から営業権を与えられたサービス業である。共通しているのには、営業権が株として売買されたことだ。
雑用をこなす召使を抱えていた武士と異なり、庶民は自分で髪を整えることができなかった。庶民が、マゲを結い、ヒゲをそることを専門の職人に依頼するようになったのは、近世に入ってからだ。
江戸に男性の髪結い床が登場したのは、家康の入府からすぐのこと。江戸は男性の比率が高く、また庶民は自分で月代(前額側から頭頂部にかけて半月形にそりおとした成人男性の髪形)を整えることができなかったため、専門の職人が料金をもらって仕事をするようになったのだ。地方では村で抱えられ、「床」と呼ばれる仮店で営業を行なった。
そこから「床屋」という呼び名が生まれた。江戸では、当初は高札場(お触れを掲げたれ、法令の発令を告知したりする施設)の番所に願い出て営業権を得ていた。そして幕府は1659年、髪結い床に鑑札を発行し、一町に一床と定めた。鑑札とは営業権を示す札のことだ。現在も特定の川では、釣りをする際に鑑札が必要とされている。
髪結い床には二種類あり、道具を持って得意先に出張して仕事をする職人は「廻り髪結い」と呼ばれた。彼らは得意先と年季契約し、おもに大店に抱えられていた。つまり、スポンサーがついていたのである。主人の理髪料は1回百文前後、従業員の理髪料はその半分程度の料金を取った。酒一升が二百五十文だったことと比較すれば、悪くない料金である。
一方、市中の仮店舗で商売をする職人のうち、番所や会所で営業する者は「内床」、橋のそばや辻で営業する者は「出床」と呼ばれ、町の見張り番や出火の際の役所への駆け込みなどが役として課せられた。いや、むしろ「見張り役をするのに好都合の場所である橋詰や辻で店を開くなら、営業権を与えよう」という条件であったようだ。ユニークなのは営業権を与えてもらうかわりに、町の公の仕事も担わされたことだ。幕府からすれば、幕府の危機管理部門に協力してくれるボランティアである。役人を使うのでなく、庶民をタダで使うとは、「小さな政府」ならではの発想といえよう。
ところで、髪結い床の収入は利益率が高く、とても安定していたため、営業権が株として高額で売買された。高いものでは七百~八百両する場合もあった。一人で数株を所有する裕福な町人もいたという。享保年間になると、江戸市中に1000以上の髪結い床があったという。おそらく江戸の人口が爆発的に増えたため、営業権も多く発行されたのであろう。
江戸時代の銭湯もまた営業権を得て店を開いた。江戸時代後期には一町に二軒ほどはあったというが、それ以前は銭湯の数はごくごく少なかった。その理由は家事の心配と燃料費の高さがあったからだ。特に江戸は木造住宅の密集地が多く、出火すれば広い範囲に被害が及ぶことから、幕府は限られた者にしか営業権を発行しなかった。しかし、一部の武家屋敷を除けば、ほとんどの家に風呂はなく、宿屋ですら客は銭湯に通ったほどだった。ニーズはあるが、店自体は少ない。そのため銭湯の営業権は「湯屋株」と呼ばれ、江戸の豪商の投資対象としても好まれたという。入浴料は蕎麦の半額程度の料金であったが、客が多かったため、安定した経営が営めたようだ。
興味深いのは、髪結い床も銭湯も営業権が株として高額で取り引きされたことにある。幕府は予想していなかったことかもしれないが、アダム・スミスのいうところの「神の手」に任せておけば、経済は勝手によい方向に展開していくと考えていたようだ。そういった意味では、江戸時代は商業を中心とした資本主義がいち早く動き出した時代といえよう。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 45 風俗と統制 江戸の「風営法」岡場所の取り締まり
幕府は吉原でのみ遊女商売を許可し、それ以外での営業を禁止していた。江戸初期の銭湯には性的なサービスを提供する湯女(ゆな)が常駐する「湯女風呂」が非合法で営業し、一時期は元吉原と競合する勢力になっていた。新吉原の完成以降、禁止令が発令された。
一方、人々が多く集まる歓楽街や宿場町で、遊女商売は広く行われていた。そうした場所は「岡場所」と呼ばれた。「岡」は、脇、外を表わす言葉なので、吉原の外、吉原から見て脇の場所といった意味があったようだ。吉原を「公娼」とするなら、岡場所は「私娼」だ。
吉原は、格式も高く、玉代が高いほかに、いろいろなしきたりがあったが、岡場所は、さほど優れた遊女がいないために、代金も安く、気軽に遊べる場所として利用されていた。吉原で遊ぶには、現在の価値でいえば10万円以上必要だったが、岡場所なら1万円で遊ぶことができた。つまり、大衆のニーズに合わせた市場経済が自然に生まれていたのである。そういう意味では、百貨店とスーパー、コンビニ、ディスカウントショップが共存している現在の構造と同じだ。しかし、吉原の経営者たちからすれば、岡場所は営業妨害にあたる。吉原から税金を取って公認の遊郭とした手前、幕府は権威を保つため、岡場所の取り締まりを強化した。
八代将軍・吉宗は、南町奉行の大岡忠相に江戸市中の遊女取り締まりの強化を命じた。幕府は1718年、「江戸日本橋から半径40キロ以内の各街道の宿場では、旅籠屋一軒につき飯盛女の数は2名まで」と定めた。飯盛女とは食事をまかなう女性のことだが、当時の旅籠屋は飯盛女になりすました遊女の職場であった。つまり、岡場所である。幕府は、遊女の数を限定することで、宿場町における遊女取り締まりを強化したのである。現在なら「風営法」の改定だ。
対象となった宿場は、江戸市中では品川宿、内藤新宿、板橋、千住などだ。甲州道中の内藤新宿に至っては、見せしめの目的で廃宿にまで追い込まれた。
大岡忠相は、町触で奉行が巡回し、岡場所を摘発すると警告している。摘発の対象は、遊女、事業者、派遣業者、遊女を住まわせている家主、場所を提供する茶屋などだ。関係者からの密告も奨励し、前出した関係者の密告については本人を免罪とする「裏取引」とでもいうべき特例処置も記している。町奉行が警察署と裁判所を兼ねていたからこそできた特例処置だ。
大岡忠相は、本所松坂町(現・墨田区)や三田同朋町(現・港区)で遊女を摘発し、事業者を処罰。町名主も監督不行届きとして罰金を課せられた。さらに1722年には、遊女商売の業者たちの家屋や家財を没収する旨の町触を出した。
つまり「差し押さえ」である。そして江戸有数の岡場所として知られた護国寺門前の音羽町(現・文京区)を摘発し、遊女商売を営んでいる家屋の撤去を命じた。こちらは要するに「強制撤去」だ。このように幕府は、わずかな人数で「風営法」を改定し、差し押さえ、強制撤去といった手法で非合法ビジネスを摘発していったのである。
余談だが、のちに深川仲町に芸事を披露する芸者が登場し、吉原から客を奪ってゆく。芸者は明治時代に繁盛するが、大正時代に「ダンスホール」や「カフェ」を名乗る店の女給に客を奪われ、女給はやがてバーのホステスによって駆逐される。1946年、GHQによってすべての公娼が禁止される。1957年に売春禁止法が発令されるまで非合法で売春が行われていた地域は「青線」「赤線」と呼ばれた。青線の代表には、新宿ゴールデン街、横浜・黄金町があり、現在もわずかだが、その面影を残している。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 44 風俗と統制 公娼制度と遊郭
江戸時代の公娼制度の特徴のひとつが、散在する遊女屋を特定地域に集合させたことだ。つまり、遊郭の設置である。これが現代にまで至る「ソープランド街」の起源だ。
公娼制度は、江戸が大都市に変貌する際に避けて通れない事情から生まれた都市政策の一環であった。家康は江戸に幕府を開くにあたり、三河から大勢の家臣団を引き連れてきた。彼らの住む場所を確保し、水道を引いたり、橋を掛けたりするインフラ整備を急ピッチで進めるため、関東一円から人足が集まった。つまり、ゴールドラッシュのように多くの男性が江戸に集まったのである。江戸初期の人口の男女比は、圧倒的に男性が多かったことは容易に想像できる。娯楽のない時代に、彼らが息抜きに求めるのは、当然「飲む」「打つ」「買う」だ。そういったニーズに対応するように、初期の江戸では遊女屋が点在して営業を始めた。
一方、幕府は江戸城の建設と武家屋敷の整備を進めた。そのため、庶民や遊女屋もたびたび移転を強制された。都市開発が国民の生活より優先することは、近代国家の証ともいえよう。しかし、あまりにも頻繁に移転を命じられた遊女屋の経営者たちが幕府に遊郭の設置を陳情。数年かかってようやく受理されたのである。
幕府は1617年、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、「吉原」と命名した。そこは当時の海岸に近い地域で、葦の茂る僻地だった。葦が茂る原っぱの「葦原」が転じて「吉原」となったようだ。
このとき幕府は、いくつかの規制を経営者たちに加えた。具体的には、江戸市中にはいっさい遊女屋を置かないこと、遊女の市中への派遣の禁止、建物や遊女の着物を地味にすること、営業は日中に限ることなどだ。これらの条件を遊女組合が認めたことで、江戸の公娼制度はスタートした。
幕府は、遊郭を公認する見返りとして経営者から冥加金(上納金)を受け取ることができ、まとめて管理することが可能になった。一方、遊女屋の経営者は市場を独占できるメリットがあった。また、大御所家康の終焉の地、駿府城城下にあった遊郭が移転されたという記録も残っている。まるで産業移転である。
やがて江戸の中心地はどんどん郊外に拡大し、かつて僻地にあった「吉原」にまで迫るようになった。そこで、幕府は1657年、浅草日本提下に移転を命じた。この際に「新吉原」が営業できる土地は5割増しとなり、夜の営業も許可された。吉原は、江戸の一大産業になっていたのである。
吉原は「1日に千両落ちる」といわれたことから、現在の価値にして約1億円もの金が動いたことになる。材木ビジネスで巨額の富を築いた紀伊国屋文左衛門や両替商などの豪遊ぶりは江戸の話題を集めるほどで、吉原の市場規模と飲食や着物などを含めた経済効果は相当な額に達したと想像できる。こうして国内最大規模を誇る遊郭が誕生し、江戸市中の最大の歓楽街となった。また、京都、伏見、兵庫、大津などにも公認の遊郭が設置された。吉原が繁盛することで、幕府への上納金も増えたが、市場ニーズがあることから非公認の遊女屋も増え続けた。
特に人々が多く集まる歓楽街や宿場町が大きくなるにつれ、非公認の遊女ビジネスは広がりを見せた。吉原以外の非公認遊女屋が集まる歓楽街を「岡場所」と呼び、幕府にとっては大きな問題となっていった。何が問題かといえは、冥加金(上納金)が取れないことと、風紀が乱れることだ。また、幕府公認の吉原からすれば営業妨害に他ならない。吉原の経営者組合は、町奉行所に頻繁に取り締まりの強化を求めた。
このようにして幕府と非公認ビジネスの追いかけっこが本格的になる。最も厳しくなるのが「享保の改革」期間。町奉行の大岡忠相は将軍吉宗からの命令で、組織的な摘発作戦を開始したのであった。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 43 風俗と統制 往来手形とお蔭参り
江戸時代、一般庶民が旅行する際に、必ず所持しなければならなかったのが「往来手形」だ。現在のパスポートに相当するものである。さらに、これとは別に関所を通る際には「関所手形」が必要で、通過するごとに提出した。
往来手形を発行するのは、一般庶民の場合、自分の菩提寺、自分の住む地区の名主、庄屋、組頭などだ。手形には、所有者の住所・氏名、女性の場合は戸主との続柄、発行した寺の檀家であることや、その地区に在住していること、旅行の目的などが記されていた。また、途中で行き倒れた時は旅宿の世話を、病死の場合は、その土地の習慣での処置を依頼し、ついでの折に連絡してくれるよう記してあった。
また、江戸から出る女性は身分にかかわらず、「往来手形」とは別に「女手形」と呼ばれる関所手形を必要とした。また、江戸の各藩邸の女性が旅に出る際には、この女手形を幕府留守居に発行してもらう必要があった。幕府留守居とは、幕府および諸藩に置かれた職名のひとつ。幕府の留守居は老中の配下で、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時には江戸城の留守を担った。現在なら高級官僚である。
一方、諸藩の留守居は、藩主が江戸藩邸に不在の場合に藩邸の守護にあたったほか、江戸城につめて幕府から示される様々な法令を入手したり、幕府に提出する上書の作成を行なったりした。彼らは幕府公認の留守居組合をつくって情報交換をしていたという。各藩の外交官のような存在といえよう。
女性の旅人は、その幕府留守居が発行した手形に記載された身体の特徴と相違がないか、髪をといてまで調べられたという。女性が厳しくチェックされたのは、決して「九ノ一」(女性忍者)を捕えるためでなく、人質として江戸に居住させた諸大名の妻女らの逃亡を阻止するのが目的だった。江戸時代は、藩主の妻や母、娘が各藩の江戸邸宅に住むよう強制されていた。いわゆる「幕府の人質」だ。藩主は幕府に人質をとられているため、クーデターを起こせなかった。しかし、彼女たちが極秘に江戸を逃れることができれば、藩主が謀反を起こす可能性が高くなる。そこで、江戸の各藩邸の女性が旅に出るには、幕府は厳しいチェックを行なったのだ。
こういった関所は、箱根のような要所に限らず、主要街道に設けられ、全国に53を数えた。また、同じ目的で海路のチェックも行われており、当初は伊豆・下田の番所、江戸中期以降は相模の浦賀番所が「海の関所」の役割を担った。このように規制はあったものの、旅はレジャー化していった。
江戸時代に入ると、五街道をはじめとする交通網が発達し、庶民にとって旅行が大きな娯楽となった。最も有名なのが「お蔭参り」と呼ばれた伊勢神宮への参詣だ。巡礼と観光が一緒になったような旅である。庶民の旅には前述のように厳しい規制があったが、伊勢神宮参詣なら許される風潮だったので、「お蔭参り」が大ブームに発展したのである。当時の庶民にとって伊勢までの旅費は、相当な負担だったので、「お伊勢講」という特殊な積立てが考案された。
講の所属者はお金を出し合い、それを合わせて旅費に当てた。代表として誰が行くかは「くじ引き」で決まったが、講の全員がいつかは当たるよう配慮されていた。農民の場合、「お蔭参り」は農閑期が利用されたので、同じ時期に全国から伊勢神宮に数万人もの旅人が集まったという。
この「お蔭参り」の経済効果は大きく、街道沿いの物価が高騰したほか、京都や松坂など都市の流行りの着物を土産にする旅行者が急増し、商業が一気に活性化した。またガイドブックや旅行記に該当する本が発売され、「お蔭参り」は江戸時代の庶民が「一生に一度は経験したい」一大レジャーへと成長した。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 42 風俗と統制 富興行
江戸時代にブームを迎えたものに富興行がある。富くじ、富札、富突など呼称は異なるが、同じ内容だ。寺を普請するための資金集めの方法として行われた宝くじのことである。寺社が寺社奉行に出願し、許可を受けて開いた。
当初は、江戸、京都、大坂の3カ所に限られ、回数も規制されたが、1820年から1830年頃の最盛期には、江戸市中での興行は15ヶ所20の寺社にまで広がり、興行回数は年間120回も開催されていたという。
富興行のシステムはこうだ。興行主(寺社)が数千枚から数万枚の木製の富札をつくり、それに番号をつける。富札店(札屋)が興行主(寺社)から、番号が記された富札を買い取る。富札店はその仕入れ値に数割の利益を乗せて市中で販売する。寺社奉行に申請する必要があったため、定価はつけられたが、賞金額と需要によって富札は上下した。
一等賞金は、1000両(千両富)、500両(五百両富)、300両(三百両富)、100両(百両富)などさまざまなタイプがあり、札数が膨大な数にのぼるときは、番号に、鶴亀、松竹梅、雪月花、七福神といった組をつけ、それぞれに番号をつけた。たとえば「梅の267番」が当たったときは、松と竹の同番号の札にもいくらかの褒美金がつけられることがあった。
購入者は、市中で購入した富札(木札)を木箱に納め、同じ番号を記した紙札をもらう。当選番号を決める「富突」の日に、僧侶が箱の札をかきまぜ、側面の穴からキリで木札を突き、刺さった木札の番号を読み上げる。当選した紙札を差し出せば、その人が当選者というしくみである。
富札は高額で庶民が気軽に買えるものではなかった。たとえば、千両富(一等賞金が1000両=約1億2000万円のくじ)では、富札の料金が1枚1分(約3万円)だった。このため1枚の札を数人が共同して購入した。これは「割札」と呼ばれるもので、購入者は仮札をもらう。2人で購入した仮札は「半割札」、4人で購入した仮札は「四人割」と呼ばれた。
実際には、寺社奉行が公認した千両富は少なく、百両富が主流だったようだ。しかし、公認の富札以外に非合法の富興行が盛んに行われ、そこでは千両富が発売されたという。幕府が取締を強化したのは言うまでもない。
当選者が手にする金は、たとえば千両富が当たったとすれば、100両を普請代として興行主(寺社)に進呈し、100両を富札店にお礼として差し出した。そのほか諸経費と称して、40~50両を興行主(寺社)や富札店に渡した。だから実際に当選者のもとに入るのは700両ほどだ。おそらく最ももうかったのは興行主だろう。
当時は火災が多かったので、焼失した寺社が再建の費用を捻出するため、富興行を開くケースが多かったという。東京の目黒不動や湯島天神は、特に有名であった。その一方で、富札を購入するために借金を重ねる庶民が増え、それを防止するため、最初に千両富のみ禁止された。そして「天保の改革」期の1842年、水野忠邦によって全面禁止令が出された。
富札の禁止は「博打の禁止」と紙一重だが、水野はほかにも芝居小屋(中村座、市村座、守田座)を江戸郊外(浅草)へ移転したり、寄席を閉鎖したりするなど、庶民の娯楽にも制限を加えた。特に歌舞伎への弾圧は厳しかった。
幕府は、問題がなければ庶民の好きなようにさせたが、こと風紀が乱れるような傾向が見えると、直接介入し、規制したようだ。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 41 外交政策 朝鮮通信使と朝鮮外交・貿易
朝鮮王国が江戸幕府に派遣した公式の外交使節団を「朝鮮通信使」という。秀吉の朝鮮出兵によって断絶していた国交を回復し、捕虜を返還したのが家康だった。家康は外交に積極的で、中国(明)や朝鮮との貿易は必要不可欠と判断していたようだ。また、貿易面で朝鮮への依存度の高い対馬藩にとっては、国交回復は悲願だった。対馬藩が仲介し、家康は朝鮮の使者と面談。朝鮮通信使を受け入れることを決定した。1607年以降、1811年まで幕府は計12回、朝鮮通信使を受け入れている。
朝鮮通信使は将軍の交代や世継ぎ誕生の際、将軍家を祝賀するためにやってきた。ルートは釜山-対馬-瀬戸内海-大坂-淀と航行し、淀から陸路を行列。京都から東海道をわたって行列したことから、行列自体が庶民の娯楽となり、ひいては将軍の権威を誇示するために利用された。鎖国政策を敷いてからは、直接中国大陸文化にふれることりできる貴重な機会となった。
当時の日本人は「再び朝鮮半島を攻撃されると困るので、朝鮮通信使が貢物を持って将軍の機嫌をとりに来る」と考えていたようだが、韓国では朝鮮通信使を「日本は韓国の先進学問を学ぶために懸命だったので、使節団は外交使節としてのみならず、先進文化を日本に伝播する役割を果たした」と位置づけている。事実、茶道、儒教、書道、水墨画、易、暦、建築、漢方、陶芸など、朝鮮半島から伝わってきたものばかりだ。
実は朝鮮出兵の際に日本に連れ去られた儒教家や陶工は、日本では手厚い待遇を受けていた。茶器や陶器をつくりだす陶工は大名によって保護され、各地に焼き物の窯が開かれた。朝鮮通信使が来日し、捕虜の返還を求めた際、拉致されている陶工の多くが、日本に留まることを望んだという。朝鮮では儒教思想による身分制度によって陶工が最下位に位置づけられ、奴隷のような労働を強いられていたからだ。
一方、対馬藩は釜山に建設した「倭館」と呼ばれる日本人居留地で外交と通商を行なった。幕府から許された特権を最大限に活用したのだ。外交官と商人が混在していたことが倭館の特徴だ。倭館に居住を許された日本人は、対馬藩から派遣された館主、代官、書記官、通訳、彼らの使用人、仕立屋、酒屋、医学留学生などだ。館主、代官、書記官は、対馬藩の貿易担当役人だが、それ以外は民間人である。常時400~500人滞在していたと推定される。この倭館が外交と交易の場となった。
江戸時代前期、朝鮮は、朝鮮人参(高麗人参)、トラ皮に加え、中国産の生糸、絹織物などを日本に輸出していた。中国のシルクは高級品として日本の貴族、大名に好まれていたが、日本船は中国(明)への入港を拒否されていたため、朝鮮から購入せざるを得なかった。対馬藩は倭館で中国-朝鮮-日本というルートの中継貿易を営み、巨額の利益を得た。
しかし、18世紀に入ると日本国内で絹生産の技術が向上し、中国産の絹の輸入は減少した。また、朝鮮側が門外不出としていた朝鮮人参の種が密かに日本に持ち出され、国内で朝鮮人参の栽培が始まったため、朝鮮人参は日本に輸出されなくなったという。対馬藩にとってそれは大きな痛手だった。さらに通信使接待の莫大な負担もあって、対馬藩の財政は窮乏した。
さて、幕府が対馬藩の交易にどれだけ関与していたのかといえば、実は深くタッチしていなかった。対馬藩や倭館は幕府の直轄領ではないので、いわば「経済は自由にしろ」という状態。対馬藩は、幕府にメリットとなる朝鮮通信使の窓口という国の仕事と、藩の財政を安定させるための交易を同時に実現していたのである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 40 外交政策 鎖国と貿易 古伊万里
江戸幕府の外交政策といえば、三代将軍家光がポルトガル船の来航を禁止した鎖国政策が有名だ。政府が民間の自由貿易を規制することは「小さな政府」の方向に反するが、世界貿易機関(WTO) やFTA(自由貿易協定)のない時代、欧州列強による貿易目的の侵略が横行していたことを考えると、鎖国の意味は変わってくる。ポルトガルやイギリス、オランダ、スペインなど当時の列強の植民地にならなかったのは鎖国政策があったからだとする意見もある。
また、鎖国するまでの日本は輸入大国で、金銀が大量に海外に流出していたので、貿易量を規制して流出を阻止するしか術はなかったという見方もある。当時の日本は世界屈指の金銀の産出国であったため、金銀の純度の高い貨幣を鋳造していた。貿易を行えば、金銀が流出するのは当然のこと。
さらに、将軍はもとより幕臣に外交能力がなければ、余計な外交をして経済が混乱するより、外交をしない政策が国内市場への介入を少なくする方策であったともいえる。江戸時代に国家の存亡にかかわるような事件がなく、平和が長く続いたので、産業と金融が発展し、近代化の基盤となったのは事実である。
貿易を規制したとはいえ、実際には以下の4つのチャンネルで貿易は行われていた。1.長崎・出島-オランダ船、中国船の窓口。幕府の直轄地で幕府の管理で貿易が行われた。2.対馬-朝鮮との窓口。対馬藩の宗氏が対朝鮮外交・貿易の仲介者となった。3.薩摩-薩摩藩・島津氏が琉球を支配したことで、琉球を通じた貿易が行われた。4.蝦夷-松前藩による蝦夷地での北方貿易が盛んであった。
なかでも長崎・出島ルートは、日本の特産物を諸外国に届ける貴重なルートだった。たとえば江戸前期に肥前国(現佐賀県)で焼かれた古伊万里の皿の破片が、メキシコで見つかっている。古伊万里の研究家が調査した結果、その文様から1660年~1680年頃に有田で生産された磁器であることが判明。では、古伊万里は、どうして国交のなかったメキシコまでやって来たのだろうか? じつはこの謎には、中国と台湾とフィリピンが深くかかわり、謎を解くカギはスペイン人が握っていた。
その美しさからヨーロッパで絶大な人気を誇った磁器の生産国である中国は、明から清への移行期間、民間貿易を禁じる海禁令(1656年~1684年)を発令した。そこで肥前国の磁器の産地では、中国製品の代用品として輸出向け製品がつくられた。当時の日本は鎖国状態だったが、オランダ船と公認の中国船のみ長崎への来航が許されていた。1647年には、中国商人によってカンボジアへの伊万里の輸出が始まり、台湾経由でフィリピンにも運ばれた。1659年にはオランダ東インド会社がハノイ(ベトナム)に納めた。これが人気を呼び、1659年から中東やヨーロッパへ大量の日本製磁器が輸出された。
当時日本とスペインは直接の交易はなかったが、フィリピンとメキシコはともにスペインの植民地だった。公認の中国船が長崎から台湾まで古伊万里を運び、次にジャンク船が台湾からマニラへ製品を届ける。それを購入したスペイン人がマニラからメキシコまで伊万里を運んだのだ。
スペインの貿易船は当時、マニラで香辛料や絹を積み、太平洋ルートでメキシコに運んでいた。その船に古伊万里も載せられていたのだろう。そしてメキシコのスペイン人が、中国製品の代用品として古伊万里を使用。その破片が埋められた。メキシコで見つかった古伊万里の破片は、こういった貿易ルートを物語っている。
鎖国状態であったとはいえ、世界の貿易は活況を呈し、日本の製品も海外に輸出されていたということだ。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 39 名君・名家老の藩財政改革 土佐藩
土佐藩は、「関が原の戦い」の際に東軍についた山内一豊が徳川氏から与えられた領地だ。藩政が確立したのは、二代目藩主・山内忠義の時代。奉行の野中兼山に命じて「寛永の藩政改革」を推進し、それが成功したことで藩の財政システムができあがったのだ。
兼山の評価は、二つに分かれる。ひとつは比類のない政治家で、土佐藩の経済的基盤を形成した名家老とするもの、もうひとつは藩政を支配して領民の反発を招いた極悪人というものだ。
外様大名である土佐藩山内家は、徳川氏から大規模な公共事業「手伝普請」に駆り出されていた。また、地理的な条件から参勤交代にかかる費用が莫大であったため、増収策に熱心であった。熊本藩や薩摩藩のように借金の多い「貧乏藩」ではなかったが、支出が多かったのだ。
兼山の藩政改革で効果があったのは、まず新田開発だ。土佐藩は水田が少なく、山間部は畑で占められていたので、米が不足していた。兼山は「関が原の戦い」以前の旧領主・長宗我部氏時代の在郷武士で農民扱いになっている集団を新田開発に取り立て、年貢の徴収に当たらせた。民間からの役人登用だ。それは新しい領主となった山内家を嫌う彼らの不満を解消することと、農民支配、新田開発による増収を一度に実現できる策だった。
次に効果的だったのが、港湾の改修、堤防の建設、用水路建設など治水事業と木材の育成・販売だ。築港によって藩内の特産物を船で諸藩に運ぶことが可能になり、また藩外から商品を受け入れることが容易になった。特に長崎から取り寄せた砂糖は、土佐藩には貴重品だった。
森林経営から得た利益は、藩の財源にあてた。兼山が優れていたのは、木材を港に集めるために先に河川を改修したことと、むやみな伐採による山の荒廃を防ぐため材木業者にルールを定めたことだ。トラックのない江戸時代、伐採された木材は上流から下流に流された。川が輸送ルートだったので、河川改修が先に行われたのである。兼山は同時に植林を推奨した。台風の多い土佐における植林は防風林となり、海岸の土砂崩れ防止のためにも必要であった。高知県産の材木、特にヒノキと紙が現在ブランドになっているのは、兼山が導入した「森林の管理」という考え方が浸透したからである。
また、捕鯨、陶器、養蜂、鰹節などの技術の移入を積極的に進め、専売制を強化した。土佐の捕鯨は江戸時代から有名だが、実は紀州の太地で生まれた組織的な捕鯨法が手本だ。鯨はビジネスになると見込んだ兼山が、捕鯨法を"技術輸入"したのが始まりである。養蜂は、ミカン、レンゲ、ビワなど蜜源が豊富な地域に適しており、土佐の暖かい気候は養蜂に最適だった。現在、高知県の養蜂は特産物となっている。ほかに茶、漆、油菜などを専売制にして藩で買い上げ、転売して利益をあげた。これらの政策によって藩財政は好転し、明治維新にいたるまで土佐藩の経済的基盤となった。
その一方で、兼山には多くの反発が集まった。過酷な税の徴収、米価の統制、米の売り惜しみの禁止、贅沢の禁止などの政策が領民に不満を植えつけたのだ。また、茶や鰹節、油や野菜の専売制の強行によって、漁民・商人・職人のいずれもが苦境に立たされることになった。
二代目藩主・山内忠義が隠居後、兼山は彼に不満を持つ家老によって弾劾される。藩政改革は成功したが、個人的な恨みを買ったということだ。いつの時代も本質的な部分は変わりないようだ。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 38 名君・名家老の藩財政改革 薩摩藩
外様大名の中で加賀藩(102万石)に次ぐ石高90万石を築いたのが薩摩藩だ。薩摩藩藩主は、鎌倉時代に当地の守護に任じられた島津氏だ。島津氏は江戸幕府が開かれて以降に琉球王国を服属させ、いち早く中国との貿易を開始したことから、もともと貿易のセンスがあったようだ。奄美産の砂糖で利益をあげていたという。
しかし、藩内の土壌が農作に向かない火山灰層であったため、実際の石高は半分程度だったといわれている。薩摩藩ほどの大きな藩の財政が苦しかった理由は、台風や火山の噴火など災害を受けやすい立地であったばかりでなく、幕府の大規模な公共事業「手伝普請」に駆り出され、大きな出費が生まれていたからだ。徳川コンツェルンの命令で、徳川氏の領土の土木工事をさせられたのである。もちろん、これは外様大名が資金や武力を蓄えられないようにするための戦略である。
石高は大きいが、実態は「貧乏藩」だった薩摩藩の藩制改革に着手したのは、10代藩主島津斉興(なりおき)と、11代藩主島津斉彬(なりあきら)だ。斉興が藩主となった当時、500万両にも及ぶ莫大な借金を抱え、破綻寸前だった。現在の金額に換算すると約4000億円。
完全に「財政再建団体」である。斉興の部下である家老の調所広郷は、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いとした一方で、琉球を通じて清と密貿易を行ない、利益をあげた。大島や徳之島で収穫できる砂糖を専売制にして財政改革を進め、250万両の蓄えができるまで財政は回復する。調所広郷は、財政の救世主でありながら、データィーな側面も併せ持っていたようだ。
その斉興と調所を失脚させたのが、斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれ、育った島津斉彬だ。11代藩主となった彼が打ち出した政策は、砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大に加え、当時としては画期的な事業、工場群の建設だった。調所が蓄えた資金を洋式の藩営工場の設立に投資し、鹿児島城下の磯地区に工場群を築いたのだ。のちに「集成館事業」と呼ばれた政策だ。
建設された工場は、造船・製鉄・銃砲・電力・紡績・ガラス・食品・出版・医療など多伎にわたる。これらの工場は地場産業の育成という側面と、「富国強兵」政策を同時に具現化したものともいえる。驚くべきは、造船や溶鉱炉、ガラス製造やガス灯製造など当時の科学技術の最先端が集まっていることだ。少し古いたとえだが、鹿児島城下の磯地区は「シリコンバレー」のような様相だったのだろう。
斉彬は軍備にも力を入れ、オランダから軍艦「咸臨丸」を購入し、海防の強化を図った。また、独自に西洋帆船「伊呂波丸」、西洋式軍艦「昇平丸」を建造し、徳川幕府に献上した。これだけの政策をひとつの藩が実行したのだから、江戸時代は政策面では藩の自治が守られ、藩自体が「小さな政府」であったことがうかがい知れる。
下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用したのも斉彬だ。ちなみに、「日の丸」を日本船章にしようと幕府に提案したのが斉彬である。さらに斉彬は現在でいうところの「知事ネットワーク」をつくり、福井藩、宇和島藩、土佐藩、水戸藩、尾張藩らと常に情報交換し、幕政にも積極的に口を挟んだ。このトレンドがのちに倒幕の動きへつながっていくのである。
斉彬は鎖国政策の廃止とともに国防の意識も高かったようだ。それにしても、藩主が工場建設に投資するとは、時代を見通す眼力に優れていた人物である。幕末に薩摩藩が新型の蒸気船や鉄砲、大砲を大量に保有できたのは、斉彬が「集成館事業」によって製品を販売し、財力を蓄えたからである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 37 名君・名家老の藩財政改革 熊本藩
熊本藩は、「関ヶ原の戦い」で戦功をあげた加藤清正が52万石を得て築いた藩。名城の誉高い熊本城を築城したのが清正だ。その後、加藤家の断絶により小倉藩から細川忠利が入封し、廃藩置県まで細川家が藩主を務めた。
熊本藩の財政は常に危機的状況にあった。ひらたくいえば「貧乏藩」だ。特に4代将軍細川宣紀の時代に、飢饉、イナゴの大発生、洪水、疫病、台風がたて続きに起こり、40万両近い借財を抱えた。現在の金額に換算すると約320億円。今なら夕張市のように「財政再建団体」に指定されるだろう。
そのような緊迫した状態の中で、実兄で5代目藩主の宗孝が急死したことで6代藩主となった細川重賢は、「宝暦の改革」と呼ばれる藩政改革を遂行する。後に名君と謳われる重賢は、米沢藩藩主上杉鷹山の手本になった政治家である。
徳川吉宗が大岡忠相を抜擢したように、重賢はまず堀勝名を筆頭奉行に抜擢する。堀は反対派を抑えて6人の奉行に権限を集中させた。組織改革を行ない、部門別マネジメント制を敷き、命令系統の再構築を試みたのである。
奉行に任命された堀は、大坂に向かい、当時の国内最大の豪商・鴻池家に借入を申し出る。しかし鴻池は要請を拒否。熊本藩に返済能力はないと見たからだ。堀はすぐさま米問屋と両替商を兼業する加島屋に交渉する。江戸時代の「大名貸し」は、表向き信用貸しであったが、実際には蔵米が担保になった。堀は熊本藩の年貢を加島屋に渡すことを条件に資金を得る。堀は財政再建の手腕が認められ、のちに家老まで出世する。
重賢は質素倹約を推奨し、江戸藩邸の費用に限度額を設定。米だけに依存することに限界を覚えていた重賢は、殖産興業を命じる。生糸、ロウソクの原料になる櫨(はぜ)、和紙の原料になるコウゾなどを専売制に切り替え、藩が強制的に買い上げた。それらの原料を仕入れた藩は、加島屋から借りた金を資金にして建設した藩営工場で和紙やロウソクなどに加工し、大坂の加島屋を通じて藩外に輸送し、大きな収入を得た。重賢は、製造業の振興と流通整備をやってのけたのである。藩がメーカーとなり、加島屋がブローカーとなって、商品を流通させる方法は画期的だ。この改革によって財政は好転していく。
重賢は財政改革のみならず、教育や法制改革も実施した。熊本城内に藩校「時習館」を開き、許可さえ得れば身分に関係なく入校できるようにした。さらに現在でいう「奨学金制度」を導入し、人材育成に力を注いだ。また、医学校「再春館」も設立した。のちに熊本医学校を経て熊本大学医学部となる。ちなみに熊本県の薬品メーカー「再春館製薬所」は「再春館」にちなんで命名されている。また、1883年に熊本県で生まれた、「日本細菌学の父」北里柴三郎は熊本藩校「時習館」、熊本医学校を経て、現在の東大医学部に進んでいるので、重賢は「日本細菌学の父」の父ということになる。
さらに重賢は行政と司法を分離し、刑法を改定した。それまでの刑罰は、死刑か追放刑しかなかったが、懲役を設けて厳刑制度をつくり、罪人の社会復帰を容易にした。この「刑法叢書」は明治憲法下の刑法の手本とされ、熊本県から多くの人材が法曹界に採用された。
このように幅広い分野で改革を実施し、貧乏藩を再興した細川重賢の政治家としての手腕は現在も高く評価されている。細川家は明治に入り、侯爵の位につき華族となる。ちなみに、第79代内閣総理大臣の細川護熙氏は、細川家第18代当主。熊本県知事から「日本新党」代表として衆院選に立候補して当選。閣僚を経ずに首相になった。政界引退後は、陶芸家として活躍している。その育ちの良さから「殿様」と呼ばれたが、廃藩置県がなく、細川家が藩主のままであったなら、間違いなく本当に殿様になっていた人物である。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 36 名君・名家老の藩財政改革 岡山藩
「関ヶ原の戦い」で西軍から東軍に寝返り、東軍勝利のきっかけとなった小早川秀秋が立藩した岡山藩。秀秋は子供に恵まれなかったため、東軍の武将として大きな功績をあげた池田輝政を本流とする池田氏が岡山藩主となる。名君と謳われた池田光政は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主を務めた大物外様大名で政治家だ。
しかし大名の宿命として、幕府から与えられた藩に「国替え」を命じられれば、従わざるを得ない。大名は徳川家から藩主に任命され、各藩に派遣される形だ。しかし三つの藩で藩主を務めた政治家は珍しい。現在なら兵庫県、鳥取県、岡山県の知事に続けて就任したようなものである。
池田光政は岡山藩主を務めた10年間で藩の改革を成功させ、明治まで続く池田氏支配体制を確立した。光政の政治の基本は、質素倹約、教育の充実、新田開拓、産業振興、有能な人材の登用だ。最も有名なのが、1641年に全国初の藩校「花畠教場」を開校、同時に庶民のための「手習所」を藩内数百カ所につくり、のちに統一して1670年に日本最古の庶民の学校「閑谷学校」を開校したことだ。
閑谷学校は藩立の学校としてスタートしたが、藩主が代わった場合でも学校が存続するよう特別に「学校領」を設け、藩財政より独立させた。学校所有の田畑や林から得た収入で学校の運営をまかなえるようにしたのである。施設の建築費と人材募集は藩が行ない、いわば「県立学校」としてスタートさせ、軌道に乗れば第三セクターの機関が「私立学校」として独立採算で運営していくという方式だ。これは世界的にも画期的なシステムである。
光政は学問好きの大名だったので、学問の大切さを理解していたのだろう、庶民の子供らに勉学をすすめ、役人や富豪の子供には月15日は学校に通うことを義務づけた。藩主の命令となれば、半ば義務教育である。江戸時代初期にこれほど教育に力を注いだ大名はいない。江戸幕府が藩主の個性や自治権を尊重していたということだろう。
現在、岡山県が「教育県」と呼ばれるのは、寺子屋、私塾、高等女学校の数が他県より多く、大学・短大の設置数(人口10万人当たり)が全国第6位と高い水準にあるからだが、実はその基盤を築いたのが光政なのだ。彼は家柄は無視し、有能な人物を抜擢した。陽明学者・熊沢蕃山を番頭に招き、零細農民の救済や治水事業分野と藩校「花畠教場」の運営を任せたのも光政の手腕だ。
光政の政治によって岡山藩の藩政は安定し、発展したが、大藩ともなれば支出も大きく、光政の長男で第2代岡山藩主となる池田綱政が光政から家督を継いだ頃には、財政難に見舞われていた。綱政が手がけたのは、農村再建だ。当時、岡山藩は洪水が多発し、米の収穫量が激減していた。そこで綱政は、児島湾を干拓し、百間川や倉安川の治水工事など公共事業を手がけた。これらの公共事業が藩内で雇用を生み出し、洪水の被害を回避できる新田を得た農民が米生産増量に努め、農政政策は成功した。積極的な公共投資などで経済を支えるケインズ理論と重農政策がミックスしたものだ。
綱政は造営事業にも熱心で、1700年、のちに日本三大名園と呼ばれる「後楽園」を造園している。光政・綱政親子の補佐役として重用された津田永忠が土木事業で才能を発揮し、百間川の開削や閑谷学校の建設、新田開発も津田が責任者として実施した事業。津田はこれらの成功が認められ、郡代(十万石以上の代官)に出世し、前出した後楽園の造園に着手した。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 35 名君・名家老の藩財政改革 米沢藩
江戸時代の幕藩体制は、徳川幕府と親藩・譜代・外様の諸藩で構成されている。幕府の改革は大名の改革であり、徳川家の直轄地である江戸の改革でもあった。諸藩藩主の位置づけは、全員が徳川氏の傘下であるが、江戸城勤務が命じられた幕臣以外は、いわば自治体の長として各藩の経営に専念した。幕府が300年も続いた理由のひとつに、諸藩が年貢と参勤交代という義務を遂行していれば、それ以外は藩主に藩政を委ねたことにある。直轄地は奉行や代官が高級官僚として派遣されたが、それ以外は「地元の政治は大名に一任する」という自治権を重んじたのだ。これが「小さな政府」が成立した条件のひとつである。一部の藩には名君や名家老がおり、他の藩の手本となった。
では、名君・名家老の藩財政改革をしばらくのあいだ、ひもといてみよう。まず、米沢藩から始めよう。1767年、上杉鷹山(ようざん) が17歳で藩主となったとき、藩の財政は破産寸前であった。家臣が多く、彼らの人件費が大きな負担となっていた。また前藩主・上杉重定が名家の誇りから贅沢な生活を続けたことも拍車をかけた。鷹山は上杉重定の養子である。藩主となった鷹山が手掛けたのが、産業・財政に強い部下の重用(いわば改革ブレーンの抜擢)、倹約、帰農の奨励、特産物の育成など民政事業だ。
当時は「天明の大飢饉」の最中で、東北地方には多くの餓死者がいた。鷹山は、非常食としてタラノキ、コシアブラ、ハリギリ、チョウセンニンジン、トチバニンジン、ウドなどが食べられることを藩内にアナウンス。自らも土地を耕した。今日、米沢の名産となっている山菜だ。さらに米沢藩の特産物であったコウゾ、漆、ロウを10年間で5倍以上の生産量にする計画を立てた。コウゾは和紙の材料、漆は漆塗に欠かせない原料だ。また洪水や雨に強い桑の栽培を推奨し、桑をエサにして育つ養蚕を盛んにし、織物の普及に励んだ。
同時に飢饉の際に厳しい年貢の取り立ては農民のモチベーションの低下につながるとして、年貢の取り立てを緩和する一方で、生産高の多かった農地の代表者に褒賞を与えた。その一方で、飢饉に備え、米の備蓄も行なった。また、近隣五軒を五人組として相互に助け合い、村全体が共同体として苦楽をともにする「五什組合」と呼ばれる農民相互の扶助組織を結成させた。さらに農地の復興のため離村した者を呼び戻し、農業以外の収入として、手工業技術の導入にも力を注いだ。
彼は危機管理対策と産業振興を同時に行なったのである。次に財政改革とリストラに着手する。まるで大阪府の橋下知事のような展開だ。江戸藩邸の一年間の経費1500両を200両に切り詰め、人事を刷新した。この際、側近だけで決断したことに異論を唱えた反対派を処罰し、リストラにも成功。そして学問所を藩校・興譲館として再興し、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。これは教育改革、人材育成の方策だ。新田の開発、河川の改修、橋の掛け替えなど公共事業は、武士が先導して行なった。
老人や病人、妊婦などの弱者を重視する福祉政策の充実も実践した。鷹山は藩内各地に官選の医師をおき、彼らに宅地を与えるとともに優遇した。また育児資金をつくり出し、子供を育てられない貧しい農民にこれを与えることにした。さらに働けなくなった老人は、「口減らし」のため、しばしば野山に捨てられたが、鷹山は70歳以上の老人は村で責任をもっていたわり世話するよう年金制度を編み出した。
これらの政策によって、鷹山が晩年の頃には黒字となり、破綻寸前の藩財政は立ち直り、借金も返済したという。上杉鷹山は政治家として一流で、今日まで名君と謳われている。こういった改革に幕府は口を出すことがなかったのは、いわば地方分権が確立していたということだろう。鷹山が国政に参画していれば、幕政改革はもっと大胆に進んでいたかもしれない。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 34 「寛政の改革」の経済政策
田沼意次の失脚後、徳川吉宗の孫で白河藩主の松平定信が老中首座となる。白河藩主として飢餓対策に成功したことが、抜擢された大きな要因だ。この政権交代は、田沼の重商主義を批判し続けた松平ら保守派のクーデターともいえる。
松平定信は老中在任期間中に「寛政の改革」と呼ばれる幕政改革を進めた。祖父・吉宗が推進した「享保の改革」を踏襲したもので、現在に置き換えるなら緊縮財政だ。経済政策と相場はともに「弛緩」と「緊張」を繰り返すというが、田沼の重商主義から対極の重農主義に移ったことは、その定説どおりである。それにしても質素・倹約と農業を重んじる政策は、時代が逆まわりしたかのような様相だ。田沼の斬新な政策のもとで進んだ初期資本主義経済は、ここでしばらく停滞する。松平が実施した諸改革が期待した成果をあげることがなかったのは、すでに商業が大きな力を獲得し、市場原理が機能しはじめていたからだ。
By Master K/益田 慶
松平は株仲間や専売制を廃止し、特権商人を抑制した。一見規制緩和に思えるが、同業種の仲間による共同仕入れや流通整備がやりにくくなり、商人にはむしろ規制となって経済は停滞する。また田沼が蘭学を重んじたのに対し、松平は儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学以外認めず、幕府の役人の登用も朱子学を学んだ者に限った。これを「寛政異学の禁」と呼ぶ。さらに出版も厳しく統制し、かの歌麿の浮世絵を世に広めた版元の蔦屋重三郎は罰金を徴収されている。
その一方で農政と御家人救済には一定の効果があった。主な政策に棄捐令、旧里帰農令、囲米と七分積金がある。棄捐令は、財政難に陥った旗本や御家人を救済するため、6年以上前の債務破棄と借金の利子の引き下げを命じるセーフティネット法令だ。江戸居住が義務づけられていた旗本・御家人は、土地や現米、給金をもらっているとはいえ、江戸では何も生産しない消費者。物価が上がれば生活は苦しくなる。寛政の改革で帳消しになった旗本や御家人の借金の額は約120両。
現在の金額に換算すると約1兆円。幕府の年間支出とほぼ同額だったようだ。この制度によって大きな打撃を受けたのが、武士に支給される米の仲介を仕事とした札差だ。彼らは米の仲介による手数料を取り、給米を担保に高利貸しを営んでいた。いわば「米の両替商」であり、「武家専門の街金」だ。札差は、この制度によって利益が激減したので、旗本や御家人に貸し付けを行わなくなる。
旧里帰農令は江戸へ大量に流入した地方出身の農民たちに資金を与えて帰農させるUターン政策。囲米は諸藩の大名に飢饉に備えるため、各地に倉庫を築かせ、穀物の備蓄を命じたもので、自らが体験した飢饉の教訓から得たリスクヘッジである。七分積金は町単位で積み立てる共済のようなしくみだ。町入用の経費を節約した四万両の七割に、幕府が支給する1万両を加えて基金とした。基金は主に水桶やハシゴの費用、橋の掛け替え修繕費などインフラ整備に使われた。これは吉宗が将軍時代に南町奉行・大岡忠相が実施した政策の延長にあるものだ。
一方、棄捐令によって打撃をこうむった札差を救済するため、幕府は浅草・猿屋町に「猿屋町御貸付金会所」を設置した。これは困窮した札差に経営資金を融資する幕府の機関で、会所設立に出資したのは江戸の豪商だった。旗本・御家人を救済する法令の次に、札差を救済する法令が出されたことには矛盾する点があるが、札差が倒産すると武士に金を貸す民間機関がなくなることから苦肉の策といえよう。
しかしこの政策はヒットした。札差が困窮すると武士が困窮し、最大の消費者である武士が貧しくなると、商人も共倒れとなることから、会所は札差に積極的に貸し出しをしたのだ。幕府にとっては、財政を切り崩さず、豪商の資金で札差を救済でき、さらに旗本・御家人も救えるとあって好都合の制度となり、猿屋町御貸付金会所は明治維新まで継続して運営された。松平定信の経済政策の中では、最大のヒット作といえよう。
小さな政府江戸幕府 33 田沼意次の終焉とその遺産
株仲間の奨励、座を中心とする専売制の実施、改鋳、長崎貿易の拡大、輸出特産物の育成、蝦夷地の開発など、田沼意次が行なった幕政改革はほとんど成功している。1770年には、幕府の備蓄金は171万7529両という、5代将軍綱吉以来の最高値を記録。景気は回復し、田沼が手厚く保護したことで蘭学が花開いた。
田沼の幕政改革は、農業中心の社会から商業中心の社会へ橋渡したことに意義がある。特に貨幣の重さでなく、額面の金額こそが貨幣の価値だとする貨幣改革は、欧州で生まれる経済学の基礎と同じ視点にある。海外との貿易を重んじ、海産物などの加工品といった付加価値の高い商品を輸出し、外貨を稼ぐという政策などは今日の日本経済のあり方を先取りしていたかのようだ。日本における初期資本主義の形態がこの頃に生まれたと見るべきだろう。これは大きな遺産である。
田沼が失脚した最大の要因は、岩木山、浅間山の噴火に始まる「天明の大飢饉」(1782~1788年)に対し、有効な対策がとれなかったからだとされている。これをきっかけに、急激な改革を好まない保守派の反発が爆発したというわけだ。「重商主義政策によって疲弊していた農村部が、さらに打撃をこうむったのは、田沼の政治が悪いからだ」という論理である。飢饉は自然災害だが、農村部が疲弊していたのは確かに重商主義政策が要因だ。日本に商業が定着し、貨幣が力を持つようになり、経済構造が大きく変化する時期と重なったのである。
「天明の大飢饉」とは、江戸時代に起こった最大の飢饉。当時、東北地方は天候不良、特に冷害により農作物の収穫が激減していた。これに拍車をかけるように、1783年に岩木山と浅間山が噴火し、各地に火山灰が降り、農作物に壊滅的な被害が生じた。重商主義が裏目に出て、飢饉は全国規模に拡大した。
被害は東北地方を中心に、推定で数万人の餓死者が生まれ、疫病が流行。最終的な死者数は全国で30万人とも50万人とも推定されている。現在の感覚でいえば300万人から500万人の規模だ。農村部から逃げ出した農民は、各都市部へ流入し、治安が悪化。江戸や大坂では米屋の打ち壊し事件が勃発した。
このとき田沼がとった政策は、全国の米が余っている地域に向け、「東北地方に米を売り惜しみするな」というものだった。皮肉なことに米価は高騰し、買い占めや高値での売買がはびこった。これは米が少なくなったから価格が上がり、相場を見計らって大儲けしようとする者が出たという、ごくシンプルな市場原理だ。諸藩は財政維持のため、米を大坂の市場に送った。商業と物流の中心地・大坂が相場を決める場所で、高値で買い取ってくれたからだ。田沼のライバル、松平定信はこの機に大坂で米の買い占めを行なった。彼は吉宗の孫だが、養子に出され、1783年、つまり「天明の大飢饉」の最中に陸奥・白河藩藩主となった。
飢饉に直面し、食料救済措置を迅速に行ない、白河藩で餓死者は出なかったとされている。歴史の教科書には書かれていないが、松平定信は会津藩の松平家からも1万石を取り寄せ、大坂で買い占めた米とあわせて、東北地方には米を送ることなく、白河藩内だけで消費した。領内から一人の餓死者も出さなかった松平は名君と謳われ、危機管理能力が高く評価され、これが幕閣入りの布石となる。
田沼意次と松平定信は正反対の資質を持っている。田沼は開明派で、身分にとらわれない実力主義に基づく登用を試み、杉田玄白や前野良沢など蘭学者や平賀源内などの才能を重んじた。庶民には倹約でなく、消費を推奨した。金の匂いに敏感な「俗っぽさ」にあふれた経済通である。一方、松平は身分制度や朱子学を重視し、質素倹約を推奨した。重農主義に軸足を置く保守派で、海外との貿易など意識しない人物である。江戸時代の合理主義という文脈からすれば、田沼はまさにそれを実践した人物。賄賂政治家というレッテルは消えないが、彼の政策は先見性にあふれている。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 32 田沼意次の重商業主義経済政策 蝦夷地の開拓
田沼意次は蝦夷地の開発に着手しようとし、幕府の資金で調査隊を送り込むなど莫大な投資をしている。蝦夷地と本州はそれまでまったく交流がなかったわけではない。寒冷地であることから米の収穫ができなかった松前藩が藩財政を維持するため、蝦夷地をいくつかに分割し、「場所」と名づけ、主だった家臣を知行(管理者)に任命し、アイヌとの交易を認めていた。「場所」の線引きは松前藩が行ない、実際のビジネスは商人の手に委ねられた。松前藩は商人から税金を徴収するというしくみだ。これを「場所請負制」という。もともとは家康が松前藩に交易の独占権を与えたことにある。こうしてみると、場所請負制は松前藩による"植民地制度"ともいえる。
当時の幕府はアイヌの人々が直接ロシア人と貿易を開始するのではないかと懸念し、蝦夷地をこのまま松前藩に任せておくことはできないと考えていたようだが、田沼が蝦夷地に着目した理由はそれとは異なる。大きく分けると、ロシアの南下政策への対応と土地の有効活用だ。当時の日本は鎖国中であったが、ポルトガルと中国船だけは長崎に出入りできた。ロシアが植民地を求めて南下政策を取ろうとしていることは、長崎にやってくる欧州商人を通じて幕臣の耳に入っていた。
事実、当時ロシア船は頻繁に日本海までやってきていた。だから真っ先にロシアが制圧してくるはずの蝦夷地を国防のために開拓しておこうという意図があったのだろう。1771年にアイヌがウルップ島のロシア人を攻撃して追い払ったという記録が残っていることから、ロシア人は現在の北方領土に上陸していたことがわかる。彼らはロシア政府の人間ではなく、動物を捕獲して毛皮を得ようとするハンターだったが、寒冷地で農作物が育たないロシアが国策として資源のある土地を求めて南下してくるのは時間の問題であった。
田沼は蝦夷地を調べるために10名から成る探検チームを結成し、送り込んだ。この調査隊に参加したのが探検家の最上徳内である。彼は地理やアイヌの風俗を調査し、千島や樺太まで探検している。択捉やウルップ島へも渡り、ロシア人とも接触し、交友を築いている。間宮林蔵が蝦夷地の測量に挑んだのは、この20年後である。
さて、田沼の蝦夷地開拓だが、重商主義政策はここにも色濃く反映しており、彼は防衛だけでなく、輸出向けの海産物を蝦夷地で量産させようと考えていたといわれている。ロシアと国交を結び、貿易で利益をあげ、結果としてロシアの脅威から日本を守ろうと考えていたようだ。しかしもうひとつ、田沼は松前藩と手を組んで蝦夷地を開拓し、北方貿易の利権を確保し、私腹を肥やそうとしたに過ぎないという見方もある。知恵の働く田沼のことだから、それくらいは考えていただろう。
どちらにしても海外との貿易を縮小していた時代に、反対にロシアと貿易をしようと考えた田沼の「逆転の発想」は、保守派からはまったく理解できなかったはず。仮に日米修好通商条約前に日露修好通商条約が田沼のもとで結ばれていたとしたら、その後の日本史は大きく変わっていただろう。
田沼失脚後、松平定信は蝦夷地開発を中止したが、蝦夷地近海に頻繁にロシア艦船が現われたことから、蝦夷地の警備に本腰を入れざるを得なくなる。1799年、幕府は東蝦夷地を松前藩から召し上げ、幕府の直轄地とし、ついで1807年には西蝦夷地(北海道の日本海・オホーツク海側)も直轄地として、松前奉行を置き、蝦夷地の管理を始める。結果論だが、田沼が着目したことをあとからなぞったような展開であった。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 31 田沼意次の重商業主義経済政策 統一通貨への布石
田沼意次は貨幣改革にも挑んでいる。彼は吉宗が進めた「質素倹約」政策は消費を冷え込ませることを知っていた。だから貨幣経済を普及させ、米相場の乱高下を解決し、同時に市中に流れる貨幣の流通速度を統制して、経済を活性化しようとしたのだろう。さらに東西で異なる貨幣体系の統一を試みようとしていたようだ。商業の発展を重んじ、内需拡大を図った田沼が試みた貨幣改革は、次のとおりだ。
江戸時代の貨幣を見ると、金貨は大判や小判のようにちゃんと貨幣の形をしているが、一方の銀貨は塊を刻んだだけのものであることがわかる。それは大坂で流通していた丁銀や豆板銀が、形に関係のない重さを量って使う貨幣(秤量貨幣)だったからだ。「江戸の金、大坂の銀」と呼ばれるように、それぞれ主に使われる地域も異なっていた。しかも商業の中心地である大坂で使われる銀が金より強いことで、金をメインに使っている江戸の物価は高くなりがちだった。大岡忠相は変動相場制の為替レートを無視して両替商に公定レートを守らせ、金と銀の為替相場を安定させようとした。これは異なる貨幣体系があることを前提とした政策である。
これに対し田沼は金貨を中心とする貨幣制度を考えていた。ひょっとしたら統一貨幣の発行までもくろんでいたのかもしれない。1765年、試みとして重さを5匁(約18.75グラム)に固定した「五匁銀」を発行した。「五匁銀12枚=金1両(小判1枚)」と固定することで、銀相場にふりまわされないようになると見込んだようだ。また銭の代用にもなる。これが金貨と銀貨の為替レートの固定を狙った最初の銀貨だ。しかし当時の実勢レートは、小判1両に対し銀貨63匁(約236.25グラム)前後だったので、銀をメインに扱う者に有利となり、両替商たちの反対によって広く流通することはなかった。両替商が反対した理由は、額面が固定されると、銀貨の秤量手数料が取れなくなるからだ。こういった事情から、五匁銀はほとんど流通しないまま、1768年に使用が停止された。
1768年には、鉄銭の不人気を打開する目的で真鍮製の大形銭「寛永通宝四文銭」を発行した。そして1772年、江戸幕府始まって以来の画期的な貨幣が発行された。「発明」といってもいいだろう。銀座に命じてつくらせた「南鐐二朱銀」は、銀でできた金貨であり、金貨の二朱に相当する銀貨でもある。銀が含まれているが名目貨幣である。南鐐とは良質の銀という意味。2.7匁の重さしかないが、「重要なのは貨幣の価値である」というメッセージだったのだろう。
また、五匁銀が普及しなかった反省もあり、銀の純度を上げる一方で、貨幣に「8枚で小判1両に交換できる」と表記した。それは重さではなく、交換価値そのものを表現したもので、両替商も取り扱いやすい。こうすれば金貨と銀貨の為替レートは固定される。つまり、まるでEUにおけるユーロの統一のように貨幣体系は統一される。これが実現すれば、江戸の物価高は解消でき、東西の流通はもっと活性化する……。こうした田沼のビジョンから、彼が政治家としても経済学者としても卓越したセンスを持っていたことがわかる。
南鐐二朱銀は秤量貨幣になじんでいた関西にも徐々に浸透し、丁銀や豆板銀といった秤量貨幣を少しずつ駆逐していった。田沼は「金貨本位制」を採用したのだ。これを契機として銀貨の金貨に対する補助貨幣化が本格化し、その後幕末までに7種類の「計数銀貨」が発行された。このまま進めば明治になるまでに統一貨幣ができたはずなのだが、田沼を追い落とした松平定信は、南鐐二朱銀を丁銀に改鋳したことで、田沼の貨幣改革は空中分解してしまう。幸いなことに南鐐二朱銀はのちに発行が再開されたが、悪名高き田沼の貨幣改革を引き継ぐ者は登場せず、統一通貨「円」の登場は半世紀後となった。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 30 田沼意次の重商業主義経済政策 専売体制の整備と長崎貿易の拡大
田沼意次が実施した株仲間の推奨は、直接税中心の税制に、間接税や流通税を導入したという点において画期的であった。そして株仲間公認政策は都市の商工業者のみならず、農村の商人に対しても在方株(農村部の株仲間)の公認という形で進められた。江戸中期には農民の中から商業活動を展開する者が登場し、彼らは在郷商人と呼ばれるようになっていた。いわば兼業農家だが、彼らも株仲間をつくり始めたのだ。都市と農村に同一の租税方法を適用した点も田沼の目新しさだ。
さらに田沼は、御用商人に銅、鉄、真鍮、朝鮮人参、ショウノウ、朱などアイテム別に幕府直営の座を結成させた。金座や銀座と同じように、幕府主導で銅座や鉄座をつくらせたのである。株仲間との決定的な違いは、株仲間が税金徴収の対象となる組合で、基本は自由競争、運営は株仲間に任せていたのに対し、座は幕府による製造・販売を独占する制度であることだ。つまり座は幕府直営のビジネスで、利益は幕府の財政に直結したというわけだ。かつてのたばこ専売公社、日本国有鉄道、日本電信電話公社だと考えればわかりやすい。
田沼は1780年、真鍮座を、次いで大坂に鉄座を新設している。ともに江戸や大坂にある銀座と同じ扱いとし、専売制であった。こうしてみると、専売制は産業育成というよりも幕府の収入アップの意味合いが強いことがよくわかる。
たとえば1782年、幕府は朱座(大坂)以外での朱(赤色の顔料)の売買が絶えないため、輸入品は長崎から、琉球産は薩摩から朱座へ送るよう命令し、朱座での専売を厳命している。「これは幕府直営のビジネスだから、決められた座で販売するのが正規ルートで、それ以外は認めないぞ」という警告である。
それぞれの座は製造・販売を独占したが、幕府直営の販売所拠点には、「会所」と呼ばれる事務所兼販売所もあった。たとえば石灰の産地である八王子や上野国(群馬県)に「石灰会所」をつくり、石灰の独占販売をした。昔からある食品添加物で、漬物やアク抜きなどの用途で使われ、漬け物や草木染めなどに用いられた明礬(みょうばん)は、江戸、大坂、京都、堺の4カ所に設立された「明礬会所」が独占販売した。ただし幕府は会所からも税金を徴収したという。
各藩もこれらのしくみをまねて、藩の直営ビジネスを開始した。たとえば仙台藩は、仙台、気仙沼、石巻に「国産会所」を設置し、仙台藩の特産品の独占販売を行っている。富山藩は売薬の専売を開始、長州藩は火縄の他国売買を禁止して扱い商人を指定し、専売制を始めている。
ところで、幕府のビジネスとしてユニークなものに、こんな記録が残っている。1765年、幕府が中国向け輸出品のフカヒレ増産のため、新たにサメ漁を始める者には当分の間、税金を免除するというものだ。当時は鎖国中ではあったが、中国の公認船とポルトガルの貿易船は長崎に出入りできた。それにしても、フカヒレといえば中国が本家だと思い込んでいたから、江戸時代に幕府が中国にフカヒレを輸出していたとは驚きだ。
そんな直営ビジネスのひとつの窓口となっていた場所が長崎だ。田沼は長崎港を拡張し、港に出入りする船から工事費をきっちり徴収している。そして長崎貿易の拡大にも力を注いだ。幕府の貿易政策は鎖国体制の確立以来、国産の金銀の減少に対応する形で、規模を縮小してきた。しかし、田沼はこの方針を大きく転換し、貿易による金銀の輸入、つまり外貨獲得を図ったのである。
そのために輸出品となる銅や海産物を扱う銅座や俵物会所(海産物取り扱い事務所)を設け、銅山の開発や海産物の増産を奨励したのだ。記録では富山藩に中国への輸出用食用クラゲをつくらせ、長崎まで届けさせている。だから前述したようにフカヒレ増産のために税金免除まで考案したのである。後世で「賄賂政治家」「悪名老中」と呼ばれる田沼意次だが、これほどの経済通を幕臣から探すのは難しいだろう。江戸時代に外貨獲得を図り、特産物の増産を推奨したとは驚きである。なぜなら、それは16世紀から18世紀にかけて重商主義を唱えた西欧の著名な経済学者の理論そのものだったからだ。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 29 田沼意次の重商業主義経済政策 株仲間の奨励による法人税獲得
江戸時代の三大改革「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」は、米を中心とする〈重農主義〉的政策だが、江戸時代中期に老中として幕政を主導した田沼意次は、過去に例を見ない〈重商業主義〉的経済政策を実施した。「享保の改革」と「寛政の改革」の間をつなぐ田沼時代(1767~1786年)と呼ばれる20年間は、まるで16世紀の欧州のように自由主義経済の発展を促すもので、日本の経済史の流れの中では異質に見える。その後に「寛政の改革」を主導する松平定信に政策、人格とも否定され、日本史では「田沼=悪人」「賄賂政治家」というイメージがつきまとうものの、実は田沼は現在の自由主義や拝金主義につながる多くの新しい経済政策を行っていのだ。
田沼意次は名門出身ではないが、異例の出世を果たした稀有な人物だ。父は紀州藩の足軽だったが、8代将軍・徳川吉宗が将軍就任に際して登用され、江戸の幕臣に加えられた「紀州組」の一人だ。田沼はのちに9代将軍となる家重(吉宗の長男)の御側御用取次(現在なら教育・雑用担当兼秘書)に抜擢され、家重の将軍就任後に1万石の所領を与えられる。家重は父・吉宗とは反対に病弱だったため、大御所となった吉宗は、孫の家治に期待をかけた。1751年に吉宗が亡くなると、凡庸な家重は老中に政治を任せたが、将軍就任期間は短く、1760年、家重が隠居し、長男の家治が家督を継いだ。
10代将軍・家治が重用したのが田沼意次だ。家重の死後も、家治は田沼を信頼し、田沼は破竹の勢いで昇進。1767年には遠江相良藩(現在の静岡県牧之原市)の初代藩主となる。家治は田沼の新しい政治感覚を高く評価したようだ。田沼は1769年に老中格になり、幕府の閣僚として幕政改革を手がけるようになる。その彼が採用したのは重商業主義経済政策だ。
具体的には、株仲間の積極的な公認、銀座の専売制の実施、貨幣制度の見直し、鉱山の開発、外国貿易の拡大、ロシアの脅威と貿易を意図にした蝦夷地の開発計画、下総国印旛沼の干拓の着手などだ。この結果、幕府の財政は改善し、景気は上昇した。この大雑把なラインナップからでも、彼が「農業」でなく「商業」に軸足を置いていることがよくわかる。失敗に終わった政策もあるが、まるで初期資本主義経済の基盤づくりをするかのようなものばかりだ。
では、田沼の政策をひとつずつ見ていこう。株仲間の結成は、「享保の改革」において物価上昇を抑制する目的で大岡忠相が推進したものだ。これに対し田沼が同業者組合の設立を奨励したのは、幕府の現金収入増と商業者の競争力を高めるためであったようだ。株仲間でも幕府の庇護を受ける株仲間ではなく、商人が自主的に結成する「願株」を奨励し、塩や醤油、銀座など特定の産業には、専売制などの特権を与えるという「アメ」を見せて競争心をあおった。その見返りとして「ムチ」もあった。運上金、冥加金(上納金)を税として徴収したのだ。「商人の市場への自由競争を歓迎しよう。努力すれば市場は独占できる。
しかし、税金はきっちり払ってくれ」という、とても現実的な政策だ。吉宗の時代に新田開発はほとんど終了し、年貢を増やそうとしても限界があった。農民からの租税、つまり年貢収入だけでなく、大きな勢力になってきた商人から法人税を取れば、幕政はもっと潤うはず。だからもっと商業を重んじ、商人が増えるような政策を実施する。これは理にかなった道筋だ。また、商人からすれば、質素倹約、我慢を強いられる社会より、努力をすれば大きな財を築くこともできる社会のほうが魅力的に映ったはず。
このように商業を重んじたことで、町人や役人の拝金主義が進む。そこから賄賂が横行するようになったことから、田沼には「賄賂政治家」というイメージがつきまとう。また、都市部において商業が活性化したことで農民が都市部に流れ込み、農村の荒廃が進むという「負」の面もある。賄賂にまみれた老中であったことが反対勢力のデマだったのか、事実だったのかは定かではないが、田沼が先見性に富んだ経済通であったことだけは確かだ。しばらく彼の政策を検証していこう。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 28 「享保の改革」の都市政策 目安箱の設置と小石川養生所の設立
「享保の改革」は財政と物価の安定政策、米価の上昇や金銀交換レートの是正など金融政策が主眼であったが、ほかにもいくつかの画期的な政策が実施されているので、まとめて記しておこう。
将軍・徳川吉宗が1721年、庶民の要求や不満などを書いた投書を募るため江戸城の評定所の門前に設置した「目安箱」は、「直訴箱」「訴状箱」とも呼ばれ、都市政策や福祉政策に大いに役だった。もともと吉宗が紀州藩主時代に実施し、大きな手ごたえをつかんだ政策のひとつだ。
幕臣の投書は当初許可されていたが、間もなく禁止され、町人や農民だけが投書した。幕政に対する意見を集め、社会事情を収集する制度を設けた将軍は吉宗以外にはおらず、彼がいかに庶民の生活感覚に敏感であったか、言い換えればマーケティング感覚に長けていたのかがわかる。
しかもこのシステムを運営するのにコストも組織も必要ない。吉宗自身が目を通し、即刻対応すれば「小さな政府」なら十分機能する。ところで、投書の内容は、ほとんどが役人の不正を訴えるものであったらしい。今も昔も役人は贈賄や使い込みをしていたということの証明であろう。
さて、この目安箱を通じて誕生したのが無料の医療施設「小石川養生所」である。町医者の小川笙船が江戸の貧困者や身寄りのない者のために施療所の建設を求める意見書を投書し、それを読んだ吉宗が南町奉行・大岡忠相に施設の検討を命じ、大岡が小川と面談して、薬草園であった小石川御薬園内での設立を決定した。その場所は現在、東京大学理学部の付属施設「小石川植物園」となっている。
養生所の収容人数は40名。建設費の金210両+銀12匁と毎月の運営費は幕府の財政から捻出され、医師は小川ら7名の医師が担当し、与力、同心らがスタッフとして参加した。開設当初は薬草の実験台にされるのではないかという不安があり、庶民は養生所をあまり利用しなかったが、大岡が江戸町内の名主を呼んで施設を見学させ、風評を払拭したことで入院患者は急増した。
「見学会」を実施したところが彼の優れた点である。小石川養生所は下層民対策として機能し、幕末まで約140年あまり江戸の貧民救済施設として利用された。「格差社会」も政府による「社会福祉行政」や「セーフティネット」という概念も江戸時代から存在していたということである。
ところで、小石川御薬園内の約150坪の土地と、小石川養生所内の約180坪の土地を無償で借りてサツマイモの試作に励んだのが、かの青木昆陽である。八丁堀の与力屋敷を借りて儒学を講義していた青木を大岡が抜擢し、幕府の肝いりでサツマイモの試作を命じたのである。大岡は享保の大飢饉によって米が収穫できなかった教訓から、凶作の時や痩せた土地でも収穫できる作物の開発に目を向けていた。
昆陽はサツマイモの効用を大岡に伝え、その必要性を感じた大岡が幕府の土地を提供したのである。そこで得られた苗は、栽培法とともに江戸周辺の農村に広く配られ、各地に根付き、凶作時に多くの人々の命を救うことになる。「小石川養生所」とサツマイモは命を救うという点において共通している。どちらも「享保の改革」の中で埋もれがちな話題だが、都市政策と深くつながる政策といえよう。
ともあれ、町奉行が地場産業、特に農業育成に協力し、幕府が支援したことは富に興味深い。これも消費人口が100万人を超える世界最大の都市であった江戸ならではの取り組みといえよう。ちなみに青木昆陽はサイマイモの栽培による飢饉の回避が認められ、幕臣となり、のちに寺社奉行に昇進した大岡の配下とした活躍した。この青木昆陽の弟子が『解体新書』で知られる前野良沢である。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 27 江戸幕府の経済政策 『国富論』より早い金融政策「元文改鋳」
「享保の改革」の大きな命題のひとつは、米価を下げ、物価を安定させ、武士の生活を豊かにすることであった。しかし米や物資の流通量をコントロールしても物価上昇の抑制効果がなく、また南町奉行・大岡忠相が両替商に肯定レート「金1両=銀貨60匁」に戻すよう依頼しても拒まれた背景があり、幕府内に「元禄改鋳」を手本とした貨幣改鋳案が浮上した。
貨幣改鋳による銀相場の強制的な引き下げによって江戸の物価を安定させようと試みたのである。1736年に行われた「元文改鋳」は「享保の改革」の後期に行われた重要な経済政策であり、近代経済学の基礎にあるマネーサプライを学ぶ最良のサンプルといえよう。
大岡忠相は次のように考えた。質を落として貨幣の流通量を増やし、金貨よりも銀貨の価値の下がり具合を大きくすることで、銀中心圏の上方から金中心の江戸に価格の安価な商品が入ってくるようになり、物価が安定する。また換金のために市場に放出される米の流通量も減り、米価下落の大きな要因を取り除くことができる、と。こうした流れを見ていくと、大岡が吉宗に提案し、ようやく実行することが決まった1736年の「元文改鋳」は、幕府の収入アップのための方策でなく、あくまでも物価対策であったことが見えてくる。
江戸時代中期にすでに世の中(市中)に出回るお金の量(通貨供給量)を調節して、物価の安定をはかり、経済の動きを調整する金融政策の理論が練られていたことはとても興味深い。経済学史では、経済学がひとつの学問分野として確立されるようになったのはアダム・スミスの『国富論』(1776年刊行)に始まるとされている。それよりも先に日本ではインフレやデフレ対策が行われていたということだ。
1736年、大岡は改鋳を告げる町触を発した。慶長金銀の質を100とすると、改鋳金貨の品位は60、銀貨は58に引き下げられた。金よりも銀の品位を引き下げることで相対的に金を強くしようとしたのである。こうして大量の新貨幣が発行された。しかし改鋳後、銀のレートは49匁に上昇した。質が下げられた新銀貨が発行されたことで、良質な旧硬貨が退蔵、すなわちタンス預金になってしまったのである。
旧貨が金融資産として保有されると新銀貨との引き換えは進まず、市場に出回らなくなる。その結果、流通する銀貨が少なくなり、銀貨の価値が上がったということだ。相場は乱高下し、経済はしばらく混乱した。大岡は両替商が銀相場高騰を操作したと見て、数名の両替商を投獄した。権力の行使といえばそれまでだが、強引な手法を選ばざるを得ないところまで大岡はいらだっていたということだろう。
実は「元文改鋳」が実施された1736年、大岡は突然、寺社奉行に"栄転"している。寺社奉行という職位は三奉行の筆頭格なので昇級といえるのだが、両替商に対する弾圧が他の幕臣の目に余り、改鋳によって打撃を受けた両替商や上方の商人たちが幕臣に大岡を町奉行から外すよう圧力をかけたのではないか、と歴史家は分析している。大岡は吉宗が抜擢した優れた行政マンで実績も多く、簡単にクビにもできない。つまり、"栄転"という形をとった左遷であったのかもしれない。
さて、「元文改鋳」の効果があらわれるのは1741年頃だ。おそらく新貨幣が流通するのにそれなりの時間が必要だったのであろう。幕府の強い姿勢もあって銀相場は次第に下落し、よくやく「金1両=銀貨60匁」という公定レートに落ち着き、米価や物価も安定した。この時代には1737年に勘定奉行に就任した神尾春央が同時進行で推進した年貢増税政策が功を奏し、幕府の財政にもゆとりが生まれていた。元文金銀はその後1818年まで82年間改鋳されることなく流通した。結果として元文改鋳は江戸期の改鋳で最も成功した例に挙げられている。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 26 江戸幕府の経済政策 大岡忠相のレート是正
南町奉行・大岡忠相が株仲間を推奨し、問屋商人に台帳を提出させ、米や物資の流通量をコントロールしても物価上昇に大きな影響はなかった。この要因には関東と関西で本位貨幣が異なっていたことが挙げられる。
江戸を中心とする関東経済圏は金貨を重んじるのに対し、大坂・京都を中心とする関西経済圏は銀貨を重んじる経済であった。当時の経済の中心地は大坂だったので、金貨より銀貨が強く、銀貨の金貨に対する交換レートが高かった。その結果、交換差額の分だけ江戸の物価は高くなったのである。
金貨は両、銀貨は匁(もんめ)、銅貨(銭貨)は文(もん)を基本単位としており、1700年に幕府が定めた公定相場は「金1両=銀貨60匁」であった。しかし資料に目を通してみると、大岡が南町奉行を務めていた時代(1717年~1736年)には、「金貨1両=銀貨43~50匁」で流通していたことがわかった。銀貨は公定レートの2割以上も高く、大坂の商人が江戸に商品を運べば、商品の粗利以外に交換差額という利益を手にしていたことになる。
だから両替商が富を蓄えたわけだが、反対に江戸の商人は大坂商人から商品を買うと利益が少なくなったということだ。江戸の商人が適正な利益を得ようとすれば、公定レートの2割から3割アップ分を販売価格に乗せざるを得なくなる。つまり、江戸の物価は上昇する。反対に金貨が強くなれば、江戸で販売する商品は安くなり、江戸の物価は安定する。金の銀に対する価格レートの切り上げは、江戸に多くの安価な物資が入ってきて、物価が安定することを想定した大岡の悲願であった。
少し遡って元禄時代に当時の勘定奉行・荻原重秀によって遂行された「元禄改鋳」を思い出してもらいたい。金貨・銀貨の質を落として、その分発行量を増やし、差額分が幕府の懐に入るという画期的な手法である。当時は幕府の支出が増大し、年貢収入が頭打ちになっていた時代。
また貨幣の原料となる金銀の生産量が伸び悩んでいたので、貨幣の金銀の含有量を減らすことは得策であった。また、あまり知られていないが、経済通の荻原重秀は金よりも銀の価値の下がり具合の方を大きくすることで、金の銀に対するレートを切り上げようとしたようである。
「元禄改鋳」によって幕府の利益は増えた。これが最大の目標であったので成果はあったといえるのだが、質を落としたことで当然のことながら貨幣の価値は下がり、商業界は混乱した。荻原の金融政策を激しく批判し、荻原を幕府から追い出した新井白石は、金融引締め政策を断行。
1714年、幕府は新井の提案を受け入れ、「元禄改鋳」を回収し、貨幣の質を慶長金銀のレベルにまで戻した「正徳金銀」を発行した。良質になった分、市場の流通量は不足気味になった。そうするともともと強かった銀が再び勢いを増し、江戸の物価は上昇した。
江戸の物価が上昇することに耐えられない大岡忠相は1718年、江戸の両替商に対して、公定相金(1両=銀貨60匁)にするよう指示した。しかし両替商は市場価格を無視して公定レートにすれば2割以上も損することがわかっているので激しく反発し、一斉に店を閉めたといわれている。
そこで大岡は「1両=銀貨55匁」というレートを提示して妥協点を見出そうとしたが、両替商は納得しなかった。大岡は仕方なく相場の動向に任せることにした。まるでアダム・スミスの言うところの「神の見えざる手」に任せるという判断を一度はしたようだ。この頃から経済人が完全に市場経済をリードする時代に突入したといえよう。
そもそも新興都市であった江戸の両替商には上方を本店とする者が多く、銀相場が下がれば本店だけでなく上方の問屋、流通業者すべてが利益を損なうことになる。両替商は上方商人全体の既得権益と自由経済を守るために抵抗したのであろう。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 25 江戸幕府の経済政策 大岡忠相の物価統制策
南町奉行・大岡忠相が提案し、吉宗が承諾した、株仲間を活用した物価統制は、京都、大坂、奈良、堺などの都市でも同時に実行された。江戸の物価を統制するには、京都や大坂から入る物資の流れを把握しなければいけない。そこで大岡は浦賀奉行に江戸に入る積み荷の量を毎月報告させた。海路で江戸に運ばれる物資を、その通過ルートである浦賀でチェックさせたのである。また、大坂奉行には諸国と江戸へ送った全物資リストをつくって報告するよう依頼した。
しかし大坂奉行が「煩雑すぎてできない」と返答したので、大岡は主要11品目の江戸への出荷量に限定し、リスト送付を求めた。大岡が実務に優れているのは、積み荷の起点(大坂)と通貨点(浦賀)と終点(江戸)の数字を把握しようとしたことだ。江戸の船問屋に到着した積み荷をチェックすれば、買い占めや売り惜しみ、ひいては物価高騰を水際で防げると考えたのである。
大岡の斬新な提案は大筋認められ、老中から大坂町奉行と浦賀町奉行に「毎月の出荷数字を報告せよ」という命令が下った。大岡は1725年、関東から江戸に入ってくる生活必需品の調査にも着手する。しかし流通の各段階でのデータを把握しただけでは、物価高騰の対策にはならない。どうしても商人の取り締まりが必要だった。
この課題を解決するために大岡が目をつけたのが、江戸の問屋商人が元禄時代に結集して結成した通称「江戸十組問屋」。実質的には「二十二組問屋」で、その内訳は取扱いアイテムごとに区別されていた。たとえば綿買次問屋、油問屋、江戸組毛綿仕入積問屋などで、仲間の総人数は347名に及んだ。二十四組問屋には取締方、惣行事、大行事、通路人などの役員があり、仲間定法を定めて全体を管理していた。
これに呼応して大坂でも「二十四組問屋」が活動していた。この十組問屋と二十四組問屋の関係は、注文主と買次人の間柄で、その商品を運搬するのが廻船問屋という構図が成立していたのである。これにより上方と江戸を結ぶ貨物船の菱垣廻船は、十組問屋・二十四組問屋の定雇船という位置づけになっていった。大岡は彼らを管理・統制できれば大きな成果があがると考え、問屋に台帳を提出させ、物価を監視した。蛇足だが、この大坂と江戸を結ぶ定期船の運営を担った商人が財を築き、明治時代に阪神財閥へと成長していった。特に灘の酒を江戸に運ぶ仕事は「ドル箱」であった。
大岡の取り締まりにはこんなエピソードが残っている。1724年に油の値段が高騰した。大岡は油問屋を奉行所に呼び出し、価格高騰の要因を問い詰めた。その結果、油問屋が価格操作をして過分な利益を得ていたことが判明したので、その分を没収した。処分を受けたのは41名。幕府は搾油業者が西国に集中し、流通過程で独占性が高まり、それが価格操作を容易にしているとみて、関東近郊での菜種の作付けを奨励し、売り先も確保した。
大岡は米問屋仲間を再編成して、米価調整にも挑んでいる。消費者からすれば米価は低いほうがありがたいが、江戸の消費経済は一年ごとの参勤交代で江戸にやってきて滞在する武家の膨大な需要に支えられていた。米価が上昇すれば米を換金して生活費に充てている武家の消費力がアップし、ひいては町人側の利益にもなるという考え方だ。
1730年には、上方からの米を8人の米問屋に独占的に荷受させるというお触れを出す。大岡は再編成された米問屋組織を活用して、米価を引き上げようと計画したのである。このような努力によって物価対策は悪質業者の摘発という効果はあがったものの、米価の引き上げは期待したほどの成果があがらず、市場の流通量を調整するだけでは限界があった。米価の引き上げには金融政策の転換が必要だったのである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 24 江戸幕府の経済政策 物価安定のための株仲間の公認と設立推進
米価下落と物価高に対処するために徳川吉宗が実行したのが株仲間公認と株仲間設立の推進である。1721年、幕府は江戸市中のあらゆる商人・職人に同業者仲間を積極的に結成することを促す法令を発した。当時、談合による価格操作が物価上昇のひとつの原因になっていたからだ。
政策の中身を紹介する前に株仲間について少し説明しておこう。もともとは同業の問屋によるごく私的なグループであった。さかのぼれば、信長や秀吉が推進した「楽市楽座」が起源となる。各地の戦国大名が広げた城下町には、新興商業者を育成し、経済の活性化を図る目的で、税の減免など規制が緩和された「楽」な市場が生まれた。いわば戦国大名が築いた「経済特区」である。信長が築いた近江国の安土と金森の楽市楽座は、のちに「近江商人」を生み出す土壌となった。
江戸幕府も楽市楽座路線を継承したものの、問屋業者が増えたことで、同業者組合が自然発生し、やがて彼らがカルテルを形成し、価格操作を行うようになっていた。株を所有することでメンバーとして認められたことから株仲間と呼ばれた。株は金銭によって売買された。余談だが、力士が引退後も日本相撲協会に残って「年寄」と呼ばれる身分となり、大相撲の発展のために働く際に必要となる証書を「年寄株」と呼ぶ。売買価格が1億円とも2億円ともされているが、このシステムも現代まで継承されている株仲間のひとつといえよう。
さて、江戸時代の商業に目を移してみれば、問屋がイニシアチブを握っており、主に輸送・保管を担っていた。主流は、荷主から委託された荷物を販売して口銭(販売手数料)と倉敷料(保管料)を得る荷受問屋である。
これに対して自己勘定で売買する仕入問屋も発展し、材木、米、薪、炭、油、竹など取扱商品別に分化していった。大坂では、商品の産地ごとに専門化した荷受問屋である国問屋が生まれ、これを中心に商品別に専門化した仕入問屋中心の流通組織へと転換していった。これらの問屋が同業者組合をつくり、メンバーの推薦を受け、株を買うことで仲間に参加したのである。
株仲間は金銭債務の保証の機能も持つようになる。問屋の取引の多くが信用取引、つまり商品を引き渡した後、「節季払い」や「二季払い」など一定期間を経てから代金は決済された。株仲間の問屋が荷主と値段を決めて購入した荷物が届けられなかった場合、株仲間全員がその荷主との取引を停止した。このように問屋を中心として商業は、急速に高度なシステムをつくりだしていったのである。
株仲間の発展により、彼らが流通機構を支配していったので、幕府は脅威になることを恐れ、規制の対象としていたが、享保の改革では、株仲間を統制すれば物価も統制できるという方向に動き、株仲間を公認したのである。
1723年、吉宗の求めに応じて江戸南町奉行大岡忠相は、北町奉行諏訪頼篤と連名で七条からなる「物価引き下げに関する意見書」を提出した。江戸の経済政策を担う大岡は、物価上昇の原因のひとつである、株仲間の談合による価格操作を監視し、さらにコントロールできる株仲間を結成させ、経済統制をしようと考えたのである。
幕府は信用取引の安定を図るために自主的に結成された株仲間を「願株」、流通統制のために幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。よって株仲間の公認とは「願株」の公認を指し、株仲間の推進とは「御免株」を増やすことである。公認された株仲間は、上納金を納めるかわりに販売権の独占といった特権を認められた。
大岡は、塩や醤油など生活必需品を扱う商人に問屋・仲買・小売ごとの御免株を結成させ、相場書(商品価格表)を提出させた。価格が高騰した際にはその理由を報告させた。江戸の御免株では理由がわからない時は、京都や大坂に調査員を派遣し、調べさせるとしたまである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 23 江戸幕府の経済政策 「享保の改革」上米の制と定免法
吉宗が初めて実施した増税プラン「定免(じょうめん)法」は、幕府の収入を安定させるための年貢徴収法である。従来は年毎に収穫量を見てからその年貢量を決めていたが、定免法は過去数年の収穫率の平均から年貢率を決めるシステムなので、豊作・凶作にかかわらず一定の年貢を納めることになった。凶作の年は年貢の大幅減が認められることもあったという。過去数年の平均より豊作であれば農民は年貢量が減るのでメリットがあるが、実際には「享保の飢饉」が続き、豊作は叶わなかった。飢饉は皮肉なことに幕府にとっては安定した収入をもたらす結果となった。
この政策には二つの側面がある。ひとつは農民への搾取が激しくなったこと。この時期に一揆が増えていることから農民の不満が増したと想像できる。これは歴史の教科書が記す見方である。もうひとつは収穫高を増やす努力が実れば、農民の利益は増えるというメリットである。仮に収穫の半分を年貢として納めたとしても生産できる米の絶対量が増えていけば余剰が増えるということになる。不安材料は、日照り・干ばつ・洪水・台風だ。農業はリスクに満ちた職業といえるだろう。
このほか吉宗が試みた制度に「上米(あげまい)の制」がある。これは米を納める見返りに大名の参勤交代の江戸在住の期間を半減させる制度だ。幕府は大名に一万石に対して百石の米を納めさせた。各地の大名から集めた米は幕府の増収に貢献したが、実施されたのは1722~1730年と8年間に過ぎず、定着するには至らなかった。大名にとっては上納米を差し出せば江戸滞在費が半減となるので、江戸での滞在費も半減したはず。その収支を計算してみれば、多くの家来を連れて江戸まで行った地方の大名にとっては滞在費が半減されるほうがありがたいことだったのかもしれない。
享保の改革の仕上げ時期には、年貢増徴を推進した勘定奉行の神尾春央が辣腕をふるった。「胡麻の油と農民は絞れば絞るほど出るものなり」と言ったことで名高い人物だ。1744年には自ら中国地方に赴任して年貢率の強化、登記されず年貢設定がされていない隠田の摘発などを行った。神尾が発案した「有毛検見取(ありげけみどり)法」を採用する藩もあった。これは毎年の作柄、出来高を調べて農民の余禄を見逃さない所得税型の課税法だ。さらに課税の対象ではなかった河川敷や山林も「新田」と見なして年貢を課したという記録が残っている。
倹約令とこういった過酷な課税が合わさり、幕府の年貢収入は167万石に増えた。さらに飢饉対策費として諸大名に貸し付けた金を督促して1742年には完納させた。こうした増収、回収によって、享保の改革の末期には、幕府の収入は180万石にまで上がった。この石高は江戸時代を通して最高記録である。幕府の財政を再建するという目標は達成され、吉宗は名将軍と謳われたわけだ。
しかし、もうひとつの大きな課題である米価の安定、つまり物価の調整・安定はどのようになっていたのであろうか。米価は五代将軍・綱吉の時代から下落し続け、米価がそのまま収入に反映する武士は大いに困窮していた。
1730年に発効された「買米(かわせまい)令」は、幕府が市場の米を買い上げて貯蔵し、米価の引き上げを促す法令だ。諸藩や有力商人も強制的に従わされた。これは市場に流通する米の量を減らして米価を引き上げ、武士階級を救済すること、彼らの購買力を高めて景気回復を図ることを目的としている。また、飢饉に備え米を備蓄しておく囲米を奨励し、市場に米が出まわらないよう促し、諸藩に対する江戸・大坂への廻米・蔵屋敷の米売却の制限・禁止などの措置が取られた。米の流通量が減れば米価は上がる。よって武士階級の収入は上がる。米の流通量をコントロールしようとした幕府の狙いは、この一点に集中していた。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 22 江戸幕府の経済政策 「享保の改革」倹約と増税
八代将軍・徳川吉宗は在任期間(1716~1745年)に多くの政策を打ち出し、江戸幕府始まって以来最も大きな幕政改革を遂行した。年号から「享保の改革」と呼ばれている。詳しく調べてみると、「享保の改革」は前半(1716~1730年)と後半(1730~1745年)とでは内容が異なる。前半に遂行した改革あるいは手をつけなかった分野を後半で修正し、転換を試みたのである。その中から財政危機に直面していた幕府を救うために実行された財政政策を中心に見ていこう。それらは綱吉が浪費や米価の下落で生じた「元禄バブル崩壊の後始末」という側面を併せ持っている。
吉宗の財政政策を語る前に人材登用について説明しておこう。これも改革のひとつで、諸改革を実行するにあたり吉宗は前政権下で影響力のあった新井白石を解任し、新たな人材を登用した。見方を変えれば将軍の側近が政治を司る時代が続き、将軍が無能な名誉職となっていたのを是正したということだ。現在に置き換えるなら、総理大臣ではなく、各省の役人が陰で総理大臣を操っていたようなものである。吉宗は将軍就任の翌年、財政をあずかる勝手掛老中に京都所司代の水野忠之を任命。水野は「享保の改革」の前期を支える財政大臣である。同年、大岡忠相(大岡越前)を町奉行に抜擢し、首都江戸の改革と都市政策に着手した。大岡はさしあたり東京都知事兼最高裁判所判事兼法務大臣といったポジションか。
吉宗の人材登用制度は「足高(たしだか)の制」と呼ばれる法令に顕著にあらわれている。従来の各役職は基準の石高を満たしていないと就任できなかったが、基準の禄高(給与)以下の者が役職に就任する際に在職中のみ不足している役料(石高)を補い、その職を辞すれば元に戻すという画期的な制度である。能力はあるが家柄が低いために要職に就けないという人材のミスマッチを解消することと、役職を退任すれば石高は旧来の額に戻るため幕府の財政負担が軽減できることがメリットである。現在なら「能力主義」の採用と人件費アップの抑制を同時に実行するようなものである。
こういった吉宗の考え方によって要職に登用された人物として名高いのが大岡忠相と、吉宗時代後期に勘定奉行として辣腕をふるう神尾春央(はるひで)だ。また、吉宗時代に紀州藩の足軽から旗本に登用された田沼意次は、十代将軍・家治の時代に老中まで出世する。民間人では、治水や用水の改修工事で才能を発揮した田中丘隅がいる。田中は河川管理の責任者「川除御普請御用(かわよけごふしんごよう)」として幕府の治水事業に携わった。民間登用の「治水大臣」である。
では、吉宗が実行した財政政策を見ていこう。まず手をつけたのが「倹約令」を発令して消費を抑えることと増税だ。財政危機を克服するために「支出を少なくし、収入を多くする」とは、ごく当たり前のことだが、これを制度化したのは吉宗の手腕だ。しかし質素倹約は両刃の剣で、倹約を意識することで幕府の丼勘定は是正できるが、内需拡大にはつながらないというマイナス要素もある。消費意欲を減退させる政策は、吉宗が試みた改革のあらゆる面にあらわれている。
吉宗は年貢収入の増大を図るために河川敷や山林までを含む強引な新田開発を開始した一方で、年貢率を「四公六民」「三公七民」から「五公五民」(収穫の半分を年貢として納め、残りの半分を農民のものとする)に引き上げた。増税プランとして一定期間年貢を固定しつつ徐々に切り換えて増額する「定免(じょうめん)法」を実行。後期には出来高のうち翌年の再生産部分を残してすべて年貢として徴収する「有毛検見取(ありげけみどり)法」などの新税制を採用し、幕府財入を大幅に増大させる。
吉宗が実行した「痛みを伴う構造改革」はまず農民が犠牲を強いられたようだ。しかし新田開発によって米が増えれば米価がさらに下がり、武士は生活が苦しくなるという矛盾が生じる。吉宗が米価対策に着手するのは将軍就任期間の後期のこと。米価対策は改めて説明するが、吉宗が増税に力を注いだことから、改革の優先順位は財政増収にあったことがよくわかる。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 21 江戸幕府の経済政策 新井白石の経済政策と紀伊藩主・徳川吉宗の実績
江戸時代中期、五代将軍・綱吉から七代将軍・家綱に至る時代は、幕府が財政赤字と物価上昇に苦しめられた時期だ。幕府最初の改鋳(元禄金銀と宝永金銀あわせて2500万両)によって一時的に差益を幕府にもたらした勘定奉行・荻原重秀は六代将軍家宣側近の新井白石とソリが合わず、新井は「物価が上昇したのは荻原の無策」「商人から賄賂をもらっている」といった内容の上申書を六代将軍・家宣に提出したという。荻原は寺社造営や土木普請など公共事業の発注にあたり、紀伊国屋文左衛門(紀文)から賄賂をもらっていたという記録があるので、新井の指摘はあながち間違いでもなかったようだ。荻原を追い落とした新井白石は、貨幣の含有量を元に戻すよう主張し、綱吉の時代に発行された金銀(元禄金銀)を回収し、正徳金銀を発行する。市場の貨幣量を減らすために貨幣の純度を元に戻すという政策だ。しかし、改鋳量は21万両と少なく、市場への影響力はなかった。
新井白石が実行した政策に「海舶互市新例」がある。これは国際貿易を制限するために制定した法令だ。新井は国内通貨量のうち金貨25%、銀貨75%が海外に流出したと計算し、長崎貿易における輸出規制を実施した。この政策の意図は金銀の流出に対する防衛策であるとともに、国産品の推進つまり産業の活性化にあった。輸入品のメインは、綿布、生糸、砂糖、絹織物などだった。それを国産品でまかなうように転換しようという政策である。また綱吉時代の放漫な財政感覚を引き締める目的もあったのだろう。それでも、物価上昇を鎮静化する決定的な経済政策とはなり得なかった。将軍の権力は衰退し、幕臣における譜代派と新参派の対立もあり、財政改革は進まなかった。
やがてまだ幼い七代将軍・家継が病死。後見人であった吉宗が八代将軍となり、新井白石を左遷し、「享保の改革」を実行するわけだが、その前に紀伊徳川家から初の将軍を迎えるにあたり、吉宗の何が高く評価されたのか、その手腕を見ておこう。紀伊藩は、徳川御三家のひとつ紀州徳川家が藩主として治める親藩だ。家康の10男・頼宣が初代藩主で、彼の孫にあたる吉宗は紀伊藩五代藩主である。のちに八代将軍となり、「幕府中興の祖」と仰がれるが、吉宗は紀伊藩主時代から政治手腕を発揮していた。見方を変えれば、紀州藩で成功した手法を幕政でも使ったということがいえる。
兄である三代・四代藩主が相次いで亡くなったことから、吉宗は22歳で紀伊藩主となった。当時の紀伊藩は、江戸の大火で焼失した江戸屋敷の再建、将軍の訪問を迎えるための新御殿の建設、相次いで他界した先代藩主の葬儀費用などが重なり、財政難に直面していた。初代藩主頼宣が幕府から借り入れた金10万両も未払いのまま残っていた。追い打ちをかけるように1707年には、地震と津波が紀州南岸を襲い、大きな被害が生まれていた。
吉宗が紀伊藩主として実行した財政の立て直し策は、藩政機構の簡素化と質素倹約の徹底であった。家柄にとらわれず有能な人材を登用しつつ、給料の一部を藩に差し出す「差上金」と呼ばれるスタイルによって家臣の給料を事実上カットし、リストラ(約80人の家臣を解雇)によって人件費を節約した。こういった賃金カットやリストラを実行すると、家臣の不満が爆発するのが世の常なので、吉宗は和歌山城の門外に「訴訟箱」を設け、不満を吸収し、同時に改革の提案を募った。これがのちの「目安箱」制度の起源である。
その一方で、吉宗は水利事業や新田開発によって米の増収を図り、特産品(みかん、材木、醤油)の販路の拡大を試みた。こうして幕府から借用していた10万両を返済。現在に置き換えるなら、新知事が府政や県政にメスを入れ、職員のリストラを決行し、財政の収益アップに成功したということだ。こういった藩主としての実績をもって吉宗は将軍になり、「享保の改革」を実行するのである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 20 江戸幕府の経済政策 江戸中期の課税制度と物価上昇
五代将軍綱吉の時代に米価が低落しはじめた要因は米の生産量にあった。幕府や諸藩は、米=「石高」を維持、あるいはアップすべく新田開発に励み、また農業技術が向上したことで米の生産量が増えていった。江戸時代初期に人口が増加したとはいえ、総需要を供給が上回れば米は余る。
米が余れば米価は下がる。幕府の財政のうち主だった収入は、米を売って金に換えることだったので、米価が下がれば当然財政は苦しくなる。さらに米以外の商品が値上がりすれば、インフレによる収入増加は見込めない。
これに追い打ちをかけるように、江戸で大火、関東で元禄地震、東南海で宝永地震、利根川の洪水など大災害が続き、幕府の赤字財政は減らなかった。綱吉時代の勘定奉行・荻原重秀は、幕府天領の佐渡金山のテコ入れ策や全国の酒蔵に50%の運上銀をかけるなどして収入の増加に努めたという。
運上銀とは農業以外の商売にかかる税金、営業税のことだ。職種によって額は決められていた。たとえば生産物の運送を担う船を買って運送業を始める場合、その船賃でなく、運送業という職種自体に決められた営業税が必要だったということである。これは商売を営むための鑑札料と考えるとわかりやすい。もともと商店は店の間口に応じた棟別銭を徴収されていたが、商人や製造業者はこれに加え、商札(商業鑑札)を買い取るというスタイルで運上銀を納めた。
記録として残っているものだけで、大店商札、中店商札、小店商札、魚問屋札、魚商札、醤油手造商札、醤油荷売札、紺屋札、塩売札、薬商札、鍛冶札、油店札、傘札、水車屋札、竹木商札、竹細工商札、桶屋札、瓦焼札、産物仲買札、材木問屋札、酢手造札、茶手商札、諸商人宿札などがある。塩や竹、油など漢字から業種・業態を察することができるだろう。
運用銀は諸藩でも採用され、特産物の生産にかかわる者も課税されたという記録が残っている。たとえば江戸時代に肥料として重用された干鰯(ほしか)だ。鰯から油をぬいたカスで、佐伯藩(現在の大分県)の浜で生産された干鰯は特産品だった。綿の栽培に効果があると評判を呼び、干鰯が全国市場で販売されるようになると、佐伯藩はそこに目をつけ、生産と流通の両面から利益を得ようとした。干鰯を生産する干浜に運上銀をかけ、原料の鰯を獲る網、漁船にも税金を課せ、さらに漁獲量に応じて課税したという。佐伯藩では船に対しても「船役」という税を課している。
各藩の運上銀の徴収の仕方はこうだ。藩の指定する判屋に税金を納め、そこで支払い済みであることを記した紙片をもらう。納税したことを証明するために「判」を押したことから判屋と呼ばれたようだが、その判は収入印紙のような存在であったと想像できる。判屋は現在なら税務署派出所といった位置づけだろう。
さて、江戸中期の物価だが、元禄時代から物価は上昇を続けている。元禄文化が花開き、芝居や浮世絵、行楽や花火などのエンタテイメントが盛んになったことを考えると、庶民の生活水準が向上したことがわかる。商業が活性化し、多くの庶民が経済活動に関与するようになると、貨幣は活発に流通する。そこで生活関連商品の需要が供給を上回るようになる。
しかし当時はまだ機械や技術は導入されていないので、生産量は急には増えない。品不足が生じる。それに乗じて不正な利益を得ようとして価格の値上げを図る動きが始まったことは容易に想像できる。これは商人がモラルをなくしたとも解釈できるが、商人が頭を使って営業活動を開始したとも分析できる。そもそも商売とは利潤をあげることを目的にしているので、生活必需品が不足すればそれらの商品を高く販売しようと考えるのは当然の流れ。だから物価は上がる。
物価上昇を抑えるための新たな政策が登場したのは綱吉の死後、約10年後のことだ。「元禄バブル」が弾け、幕府はもはや丼勘定で財政を運営できない危機に面していた。ここに登場したのが紀伊藩主から将軍となった吉宗である。吉宗が実行した「享保の改革」は幕政改革であると同時に重要な経済政策が含まれていた。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 19 江戸幕府の経済政策 勘定奉行荻原重秀の貨幣改鋳
江戸時代の経済政策といえば、まず改鋳と年貢率のアップが思い浮かぶだろう。前者は貨幣制度、後者は税制の分野となるが、両者は物価の変動、好不況と連動している。江戸時代の物価は、常に米価と連動した。年貢米収入に依存する幕政としては米価が最大の関心事であったといっても過言ではないだろう。米価が高すぎると庶民は困窮するが、米を換金して生活費にあてる武士は潤う。米価が下がると庶民の生活は楽になるが、換金率が低下するので武士の生活は苦しくなる。米価が下がり、物価が上がると、武士にとって「収入は減るが、支出は増える」という最悪の事態になる。つまり、米価は武士と庶民の為替レートだったのである。
米価が低落しはじめたのは、「生類憐みの令」で名高い五代将軍綱吉の頃だ。四代将軍家綱の時代に、江戸城天守閣と市街のほとんどを焼失し、死者が10万人にも及んだ「明暦の大火」が起きた。このため江戸の復興事業に莫大な資金が投じられた。また、三代将軍家光まで続いた、各地の金山・銀山における「ゴールドラッシュ」が落ちついた時期でもあった。さらに家綱の葬式、綱吉の将軍即位で出費がかさみ、加えて綱吉の母・桂昌院と綱吉が寺社の新改築などで浪費したことで幕府の財政は赤字に転落していた。
そこで財政建て直しのために貨幣改鋳政策が行われたのだ。当時の勘定奉行は荻原重秀。長い間実行されていなかった検地を四代将軍家綱の代に行い、世襲代官制の弊害を提言した人物だ。将軍の座についたばかりの綱吉は荻原の提言を受け入れ、世襲代官を一掃し、これを機に代官の官僚化が始まる。出世街道をのぼりはじめた荻原は、次に佐渡奉行に任ぜられ、生産量が落ち込んでいた佐渡金山を排水溝の掘削によって再生させる。また佐渡の大規模検地にも着手し、年貢収入を8割アップさせる。こうした手腕が認められ、荻原は勘定奉行に出世し、綱吉から経済政策を一任された。
荻原は大幅な財政赤字から脱出するために、市中に流通する貨幣量の増大を目指して、1695年、慶長金銀を改鋳し、金含有量を減らした元禄金銀をつくった。当時からすれば天才的な発想である。家康のつくった金貨、銀貨を回収して、金や銀の含有量を減らして貨幣を増やせば、増やした分は幕府の収入になる。その時の差益は金貨450万両、銀貨456万両。合計約1000万両(2兆円)とも500万両(1兆円)ともいわれている。慶長小判が発行されてから約100年後のことだから、経済規模は大きくなり、商取引に使われる通貨の需要は高まっていたと想像できる。それを見越して流通する通貨の量を増やすのは、経済をより発展させるためのひとつの方策である。もちろんインフレという副作用が伴うことは、経済に精通した荻原なら見通していたことだろう。
この経済政策の評価は二つに分かれる。ひとつは改鋳により経済が混乱し、物価が高騰したので「改鋳は失策」という見方。もうひとつは、インフレ率はさほどアップせず、庶民の生活への影響は少なかったものの、商業資本と富裕層がストックしていた大量の慶長金銀の実質購買力が低下し、幕府は改鋳差益金によって財政赤字を縮小できたという評価だ。
歴史書には、元禄時代は戦国時代以来の経済発展をもとに庶民生活が著しい向上を遂げ、様々な文化(元禄文化)が花開いた時代と記してある。その一方で、経済成長の軸から見れば、高度経済成長がひと段落し、低成長へと移行した転換期ともいえる。元禄の改鋳は、物価対策というより幕府の財政赤字を補うために用いられた経済政策だった。
同じ時期、幕府は経済活性化対策として寺社造営や土木普請など、様々な公共事業を展開している。ケインズ理論を先取りするような経済政策だ。この波に乗ったのが、かの有名な紀伊国屋文左衛門(紀文)と材木商・奈良屋茂左衛門(奈良茂)だ。特に紀伊国屋は同時の老中・柳沢吉保や勘定奉行荻原重秀に賄賂を贈って接近し、頻発した江戸の火事による再建工事を受注したとされている。彼らは幕府の公共事業を請け負うことで巨額の利益を得たのである。これは現在にも通じる、経済政策の負の側面である。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 18 江戸の行政 都市政策(「時の鐘」の運営)
落語や怪談噺に出てくる「草木も眠る丑三つ時」。丑三つ時は、江戸時代の時間の表記だ。干支と干支の間の2時間をさらにさらに細かく4つに分け、丑一つ(2:00~2:30)、丑二つ(2:30~3:00)、丑三つ(3:00~3:30)、丑四つ(3:30~4:00)と数えた。丑三つ時は午前3時から3時半ということになる。
時刻を報じる鐘「時の鐘」が都市政策の一環として設置されたのが江戸時代である。当然のことながら暦は時計という概念が浸透する前から存在した。日本では中国から伝わった暦法を長い間用いてきたが、江戸時代に日本独自のものになった。当時の時刻の取り方は「不定時法」と呼び、日の出と日の入りを基準に昼と夜のそれぞれを六つに割って一刻(いっとき)と定めた。
したがって一刻は季節によって長短が生まれた。
1626年、江戸城から近い本石町(現在の日本橋)に鐘楼が建てられ、鐘役が鐘を鳴らして時刻を知らせたのが「時の鐘」の起源である。石垣の上に四本足の楼が建てられ、大型の梵鐘を吊るし、一定の時刻になるとその時刻の数の鐘(たとえば現在の午後6時に該当する暮れ六つなら6回)を叩いたのだ。
よく混同しがちなのが火の見やぐら。こちらは消防や自衛のために町ごとに置かれた詰所(番屋)に常駐する番人が町全体を見渡せるよう、番屋に櫓を組んで一段高い場所に置いた見張台で、火事や洪水が発生したときに半鐘を鳴らす場所でもある。鐘楼は消防には使われず、あくまでも「時の鐘」を叩く目的のためだけに設置された建造物だ。浅草寺や目白不動にも設置されたので、お寺の梵鐘にも見えるが、寺院が管理したわけでも町人の自主管理でもなかった。これは後述する。
本石町に鐘楼が建てられる以前は江戸城で太鼓を鳴らして時刻を知らせたが、さすがに江戸市中には届かなかったようだ。その後、浅草、上野、芝など9ヵ所に鐘楼が建てられ、順次鐘の音をリレーして時を知らせたという。江戸の街区拡大とともに、「時の鐘」の数も増え、最終的に15ヵ所となった。音で時刻を知らせる時計が大江戸に15個設置されたというわけだ。
「時の鐘」は江戸以外の城下町や京都、長崎などの都市にも設置された。
鐘楼の運営は意外なことに町人ではなく、幕府の管理下に置かれていた。鐘楼の設置場所、「鐘役銭」の徴収額、徴収範囲、鐘楼の建設・修理、鐘を鳴らす鐘役の交代など、すべて管轄の奉行所の許可が必要であった。鐘役銭とは「時の鐘」の運営費のことで、時の鐘が聞こえる範囲にある町の住民から1所帯月額銭4文を徴収した。言うなれば「時報税」といったところか。鐘役は名跡相続による世襲制で、幕府が命じた者がその仕事に就いたという。世襲制の公務員のような職種である。
こうして幕府は「時の鐘」という都市生活に欠かせないシステムをつくり、管理したという。江戸の人々はその政策のもと、統一した時刻報知によって生活を営んでいたのである。これは武家や町人に統一された時間の認識が必要になったことを物語っている。これを専門に書いた書物はないが、国の近代化に必要なOSのようなものである。徳川コンツェルンやその支社長のもとで働くサラリーマンである武家は、江戸城へ登城する時間が決められていただけに正確な時間を知ることは不可欠であった。また町人にとっても納品の時間や仕事の終わりの時間を知らせてくれる「時の鐘」は重要であったと想像できる。
江戸では木戸を閉める時間も幕府によって決められていた。これは強盗や火つけに対する防犯上の政策だ。町境に木戸番と呼ばれる施設が設けられ、木戸の見張りをした。不審者を町に入れないための工夫である。木戸は夜の四つ時(午後10時)を知らせる「時の鐘」を聞いて閉鎖され、以降は左右の潜戸から通行させた。その際には必ず拍子木を打って、次の木戸に通行人が向かうことを知らせたという。これも「時の鐘」システムが機能していなければできない仕事である。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 17 江戸の行政 都市政策(消防制度)
「火事と喧嘩は江戸の華」とは、時代劇や時代小説でよく聞く言葉だが、約100万人が暮らす大都市・江戸にとって、火事は都市機能をマヒさせ、多くの人命を奪いかねない重大事だった。武家にとっても大名屋敷が焼けると、復旧に莫大な費用がかかるので大きな脅威だった。1657年の大火では江戸の町の約60%が焼失し、江戸城の本丸・二の丸・三の丸と天守も焼け、天守はその後、再建されることはなかった。死者は10万人に及んだとされている。
3代将軍家光は、6万石以上の大名16家を4組に編成(1万石について30人の人足)する「大名火消」に消防活動を行わせていた。これは若年寄の配下に属する組織で、江戸城や大名屋敷を家事から守る、いわば徳川家私設の消防隊だ。4代将軍家綱は、1657年の大火の反省から最初の公設消防「定(じょう)火消」を設置した。4人の旗本に「江戸定中火之番」を命じ、飯田橋、市ヶ谷、お茶の水、麹町に火消役の屋敷をつくり、与力や同心を付属させ、火消人足を常駐させて火事が起きたらすぐ出動できるように準備したのだ。これが現在の消防署の元である。
それでも大名屋敷中心の消防組織であったため、町屋を家事から守るまでには至らなかった。そこで、1718年に8代将軍徳川吉宗の命を受けた江戸南町奉行大岡越前守忠相が町人のための本格的な消防組織として創設したのが「町火消」である。これが時代劇に登場する、お揃いの半纏を身につけた「いろは48組」だ。
町奉行が消防団の設立を命令し、町奉行支配下の警察組織「火消人足改」(のちに火付盗賊改と統合。「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が長官)の与力・同心の管理下にあったとはいえ、町火消は幕府から「足留め金」と称する、わずかな金額が支給されるだけで、実態は町人が費用を自己負担する自衛的な消防団であった。「足留め金」とは、火事はいつ起きるかわからないので、火消人足は所属する組の近くにいるよう遠出が禁止されていたことから命名されたとされている。
町火消の費用を町人が負担したと前述したが、町内会が一戸一戸をまわって集金したお金でなく、どうやら大店の主人がスポンサーとなり、保険のつもりで町火消の頭にお金を渡し、日常的に彼らの生活の面倒をみていたようだ。商人や地主にとって自分の店や貸している長屋が家事で焼失することは大きな痛手だ。火事になったときに助けてくれる町火消と日ごろから親しくしておくことがリスクヘッジにつながったのだろう。現在なら警備会社に支払う必要経費のようなものである。
こうして見てみると、江戸の消防面での都市政策は、大きな枠組みは官僚がつくり、運営は民間に委ねるというやり方であったようだ。また町人からすれば「自分の身は自分で守る」という意識が強くあったのだろう。都市生活には行政によるインフラ整備のあとで、必ずそのシステムを維持するランニング資金・メンテナンス資金がつきまとう。幕府が命令しなくても需要と供給が生まれ、取引が発生したということだ。
ところで、消火活動だが、当時のそれは風下にあたる家を鳶口や刺股といった道具で壊し、延焼を防ぐなどの破壊消防が主であった。屋根の上に上ることも多かったので、火消人足には鳶や大工といった専門職が就いた。江戸中期にオランダから「龍吐水(りょうどすい)」と呼ばれる小さなポンプが伝来したが、水圧が低く放水量が少なかったため消火に貢献することは少なかったようだ。
これらはいわば消防のソフト面からのアプローチだが、ハード面でも工夫はあった。1657年の大火をきっかけに幕府は、瓦屋根や土蔵造りといった防火構造を奨励し、井戸の開発や水溜桶の設置を命じ、防火目的の空き地である火除(ひよけ)地を設定した。1723年には、「火の見やぐら」の設置が義務づけられ、2人ずつ番人を置くこととなった。
瓦屋根や土蔵造りを奨励するために幕府は武家・町人の身分に応じて無利息の10年月賦で金を貸したほか、町屋に対しては5年間租税を免じた。現在なら省エネ物件や地震対策物件、屋上緑化建造物に有利な融資を行う住宅制度のようなものである。これなどは近代国家に不可欠な制度で、江戸時代の画期的な政策といえよう。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 16 江戸の行政 都市政策(弱者のセーフティネット)
100万人都市・江戸は巨大な消費都市であったことから、江戸に行けば「仕事があるかもしれない」「生活が今より豊かになるかもしれない」と考え、多くの人々が流入し、その一部が無宿者や浮浪者となるケースも見られたという。彼らを潜在的犯罪者と見なして警戒する幕府は、たびたび「旧里帰農令」を発するとともに、1790年には石川島(現在の中央区)に町奉行管理下の「人足寄場」を設置した。
旧里帰農令とは、松平定信が老中在任期間に主導して進めた「寛政の改革」で実施された政策で、地方出身の農民たちに資金を与えて帰農させ、江戸から農村への人口移動を狙ったものだ。江戸を起点に見れば「働かない者は田舎へ帰れ」といった強烈な政策だが、地方を起点に見るならば過疎対策、人材確保対策でもある。現在、Uターン希望者や転入希望者に奨励金や住まい(借家)を与える制度を設けている地方自治体があることを鑑みれば、今にしてみれば旧里帰農令は画期的な政策であったといえよう。
一方の人足寄場とは、無宿人、浮浪人を石川島に設置した宿場に集め、更生させる自立支援施設のことだ。「鬼平犯科帳」で知られる火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が老中・松平定信に提言して実現したもので、これも「寛政の改革」で実施された政策である。初代の管理者には平蔵が就いたが、以降は町奉行が担った。300~400人の軽罪人を約3年間収容し、彼らが新たな犯罪に走る前に身柄を拘束し、劣悪な生活環境での重労働を強いることで、無宿人でいることの不利を自覚させ、無宿人を減少させる目的もあった。
自立支援のプログラムは、大工、建具製作の訓練、単純軽作業や土木作業の指導や講義などだ。現在の刑務所で行われている、工芸品や家具などの刑務作業とよく似たシステムで、労働に対する手当を支給し、手当額の一部を強制貯金し、3年の収容期間を終えて出所する際にはこの貯金を交付して更生資金に充てさせた。また、収容期間満了後、江戸での商売を希望する者には土地や店舗を、農民には田畑、大工になる者には道具を支給したという。この制度は現在でいうところの「弱者のセーフティネット」であり、これもまた画期的な政策といえよう。
余談だが、人足寄場は幕府からの運営資金が不足したため、長谷川平蔵は幕府から資金を借りて銭相場に投資したり、大名屋敷跡地を有力商人に資材置き場として賃貸したりするなどして稼いだ利益を人足寄場の運営資金に投入したという。施設の運営資金を生み出す手法は「鬼平犯科帳」では描かれていないが、平蔵には捕物だけでなく経営者や投資家の手腕もあったようだ。
「寛政の改革」では、相互扶助の制度も生まれている。名主役料や上下水道の維持経費、鐘役(鐘を叩いて時刻を知らせる仕事)、木戸番(町境に設けられた木戸の番人)、ゴミ回収、祭礼などに使われていた町費を節約し、その7割に幕府からの援助金1万両を加えた基金「七分積金」を設け、災害時の救済やハシゴ、手桶などの購入費用、道路や橋の修繕などに使われたのだ。
町入用節減額の10分の7を積金したことから「七分積金制度」と呼ぶ。しくみだけを見れば、町々の積金と幕府・富裕町人(主に地主)の出資金を資本とし、非常の時の救済に充てると同時に、町からの申請により名主、地主、拝領地主(武家)へ低利で貸付ける公庫制度ともいえる。この貸付制度はその利子収入によって救済資金の増資をはかるものであったが、同時に拝領町屋敷の地主(下級武士)を含む小地主層を保護するためのものであった。
幕府からすれば「公庫制度」だが、町人側からすれば目的は別にして現在の「互助会」のシステムに似ている。これらの事務が執行されていた「町会所」では、孤児、未亡人、負傷者らに米銭も支給していたという。町会所は救済目的の公民館といったところか。この町会所の設立によって江戸の市民は不時の災害から救われたという記録が残っている。
また幕府による救済が制度化したものとしては、火災や水害、地震などの被害者に米を支給したり、「お救い小屋」を建て、住まいを提供したりしたことが挙げられる。これなどは地震にあった地域に地方行政や国が仮設住宅を建てる、現在の復興制度の起源といえよう。江戸時代に生まれた優れた政策のひとつである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 15 江戸の行政 都市政策(住宅とゴミ問題)
江戸時代中期以降の江戸の人口構成は、武家人口50万、町人人口50万とされている。江戸の面積の約70%が武家地と呼ばれる武家の居住地であった。50万人の町人が残り30%の土地で暮らしていたということは、必然的に町人の家は小さくならざるを得なかったのである。江戸(東京)の一般市民は400年前から「うさぎ小屋」に住んでいたということだ。
人口の多さだけでなく、江戸の地価は高額であったこともあり、家賃の滞納や共同施設の必要性などさまざまな問題が生じたようだ。人口密度の高い江戸の中心部と、農村地である周辺地域の店賃の格差は4~5倍にのぼっており、中心部では空き店舗が多く、また店賃の滞納も少なくなかったようだ。このような問題が発生したことで、民事制度や都市政策が進んだと推測できる。
町人たちが住まう典型的な住宅として時代劇や落語に登場するのが軒を連ねた長屋だ。狭い土地ながらこの長屋には都市生活を営むための多くの工夫がほどこされており、驚かされることが多い。地主は表通りに面した部分の土地を商店に貸し、その裏には裏長屋を建て、持ち家のない人々に貸し付ける町屋経営を行っていた。
ひとつの土地を用途に分けて貸し出すという、現在では当たり前となっている不動産業の発想は、この頃に生まれたのだろう。また長屋には共同の厠(トイレ)や井戸、長屋の住人が使う水道などが設けられていたというから、集合住宅の基礎となるインフラ整備が行われていたことがわかる。
武士と町人が暮らす江戸は「生産地」ではなく、巨大な「消費地」である。各地から運ばれてくる食料、道具類、着物などどれをとっても消費目的の品ばかりだ。さらに多発する火事や地震によって大量の建築廃材が排出されていたと想像できる。100万もの人口が暮らすなら大量のゴミも生じていたであろう。では、ゴミ問題はどのようになっていたのであろうか。江戸時代の庶民の暮らしを記した資料を漁ってみると、江戸ではゴミを処理する埋立地が設けられていたことが記されている。
幕府が市中に出したお触れ(幕府の公告)に「ゴミを下水に捨てることを禁じる」というものがある。ゴミ捨て禁止の場所には、下水・会所・川などが挙げられている。1648年に発令されたお触れが最も古い資料だが、それ以前の記録が発見されていないだけかもしれない。ともあれ、幕府もゴミ問題の解決に取り組んでいたことの証明である。1655年のお触れには、「ゴミは船に乗せて永代嶋へ捨てること」「ゴミを運ぶ船の運賃は町々で少しずつ負担すること」や「地域ごとにゴミ回収船がまわる日を決めよ」といったことが記してある。
船賃を町が負担することは別にして、町々のゴミを船(現代は回収車)が集めてゴミ捨て場に運ぶ・・・これは自治体が実施している現代のゴミ回収と同じシステムである。幕府がゴミ問題と正面から取り組み、練り上げた都市政策を実施していたことが見えてくる。武士が50万人も住んでいたことから自分たちのためにもこういった政策が必要だったのだろう。
ところで「ゴミは船に乗せて永代嶋へ捨てる」のお触れにある「永代嶋」とは現在の東京都江東区に該当する地域のことで、当時は隅田川に沿って多くの洲があり、それが島のような地形をしていたため永代嶋(島)と呼ばれていたという。地元の町人が幕府に請願し、永代浦干潟にゴミ捨て場を設置し、埋め立てを始めたのが始まりだ。
当時から問題解決策をひねりだす市井のアイディアマンはどこにでもいたということか。しかし、わずか3年で6万坪のゴミ埋立地となり、ゴミ捨て場は深川越中島(江東区)後方に移されている。蛇足だが、永代浦干潟の埋立地にはのちに深川佐賀町にあった材木問屋の多くが移り、「木場」と呼ばれるようになる。
大江戸ウォーターフロントでは、このように猛スピードでゴミ捨て場が生まれ、埋立地となっていったのである。幕府にとってはゴミの処理と同時に新たな領地が人工的に誕生したことになるが、都市にとってゴミ問題は政治レベルでの大問題であることは江戸も東京も本質的には同じであるようだ。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 14 江戸の行政 複数の職務を兼ねた町奉行と民間への委託
幕府で行政を担ったのは、老中や大老、大目付や三奉行(町奉行、寺社奉行、勘定奉行)などの職に就いた少数の武士だが、これら幕府官僚で最も激務だったのが江戸町奉行である。奉行所所在地から北町奉行・南町奉行町奉行と呼ばれた二人の江戸町奉行は、現在でいうなら東京都知事、警視総監、消防総監、東京都地方裁判所所長を兼任したような役職であった。奉行所は御番所、御役所とも呼ばれた。市役所や役場というより地方裁判所に近い場所である。
江戸町奉行はサラリーマンのように毎日登城し、老中の指示を受けたり、他の官僚と折衝したりしたほか、江戸における殺人や放火など刑事事件の訴訟事務を行い、さらに1ヶ月交替で江戸町人からの訴訟を受けつけた。こちらは民事訴訟の受理である。
幕政の重要事項の決定や裁判を行った、評定所と呼ばれた場所がある。老中、大目付、目付、三奉行などが毎月6回出席し、その都度案件を処理した場所だが、ここで中心となったのは三奉行である。江戸町奉行は評定所のメンバーとして国政にも関与したので、訴訟事務と行政事務をこなし、裁判官も務め、さらに法務大臣も兼ねた官僚ということになる。江戸町奉行として名高いのは、南町奉行の大岡越前守忠相、北・南両奉行を務めた遠山左衛門尉景元(遠山金四郎景元=「遠山の金さん」のモデル)、幕末の優れた幕僚・小栗忠順(上野介)などがいる。彼らがいかにスーパーマン的な仕事をこなしたのかは想像に難くない。
元禄時代に江戸が人口100万人都市であったことを見ると、様々な問題が発生していたと想像できる。町奉行にはそれぞれ与力、同心が部下として配置された。与力は都市行政の各部門の中間管理職。同心は与力より格下の役人で、現在なら一般の警察官といったところか。
江戸の都市行政を担う奉行所のスタッフは与力・同心を合わせても300人に満たなかったとされている。さらに行政の一部門である治安、具体的には市中の取り締まりにあたったのは20名ほどに過ぎなかったようだ。これでは100万人都市の治安を守れるはずもなく、実際には同心の下に岡引き、その子分の下引きが江戸の治安維持に大きく貢献していた。
そして驚くべきことに、奉行所は各町に置かれた名主(町役人)に各町の行政事務の処理を委託していたのである。江戸町奉行を東京都知事に置き変えるなら、知事は一部の行政事務を民間に委託し、都市行政を遂行したということになる。
名主は一人あたり、平均7~8町、約2000人以上の町人を担当していたようだ。彼らは役料をもらい、奉行所からの伝達、火事場での火消人足の手配、奉行所に提出される訴状や届書のチェック、町内のもめごとの調停など多岐にわたる仕事をした。いわば区長や町長のような存在だ。名主の上に3人の町年寄がおり、奉行所とのパイプ役を果たしていた。名主は各主組合に入り、組合内の名主を監視し、伝達事項を伝えた。不正を未然に防ぐためにお互いの町の行政事務をチェックさせたのである。江戸の行政はこのように民間人を使っていたので官僚組織がコンパクトになっていたともいえよう。
また町入用と呼ばれる行政にかかる費用は幕府でなく、民が負担していた。このシステムは税金に近いもので、地主が所持する家屋敷(不動産)の規模に応じて徴収された金が町入用に使われたのである。名主の役料も町入用によって賄われた。土地を持っている市民が行政にかかる費用を負担してくれれば幕府の持ち出しはない。幕府にとってベストな選択である。
このような都市行政のあり方を鑑みると、江戸の町人がいかに行政に参加していたということがわかる。そして幕府が巧みに町人をコントロールしていたという構造も見えてくる。現在でも当番制で夜回りを行っている町内会があるが、これは江戸時代から続く市民の自衛手段であると同時に、行政の仕事を市民が自主的に担っている例ともいえる。ともあれ、江戸の行政は町奉行が奮闘して成り立っていたということである。
小さな政府江戸幕府 13 江戸幕府の先鋭的な政策 公募による貨幣鋳造機関の開設
江戸時代に機能した金座・銀座は貨幣の鋳造を担う民間機関であると同時に発行機関の役割、改鋳による通貨調整役も兼ねていた。現在でいうなら造幣局と日本銀行の一部分の機能をこれらが担っていたのである。実にコンパクトに仕上がった組織といえよう。
金座は小判師の鋳造した原判金の鑑定と検印を行う金貨製造・管理センター、銀座は銀貨製造・管理センターである。銀座は当初、伏見、駿河、大坂に設置されたが、伏見の銀座は1608年に京に移され、駿河の銀座はのちに閉鎖される。大坂の銀座は生野や石見などの銀山から鋳造用の銀を買い集め、京に送る役割を担っていたようだ。やがて銀座は江戸と京都の二ヶ所のみとなり、のちに江戸のみに集中するようになる。金座・銀座とも勘定奉行が厳しく管理したものの、民間の請け負い事業である。
一方、銅を鋳造した銭貨の寛永通宝を全国に広めるために1637年、幕府が全国に設置した貨幣鋳造機関が銭座だった。金座・銀座と異なり、銭貨を必要とする場合に限り一時的に開設されたもので、当初は幕府から銭貨鋳造に関する独占的な特権を与えられた商人で組織された。金座・銀座同様、勘定奉行の支配を受けたが、開設期間が短く、請け負い人が著しく交替したので、取り締まりは穏やかであったようだ。通貨調整のための短期集中の請け負い事業なので、金座・銀座ほど重要視されていなかったということだろう。
銭座は江戸では寛永通宝の鋳造を浅草と芝で行い、その後は本所(現在の墨田区の一部)や深川にも設立された。糸割符制度によってポルトガル船の輸入生糸を独占的に一括購入した京の商人たちが銭座の設立を申請し、1700年に寛永通宝の鋳造を行ったという記録が残っているように、銭座の経営は公募によるものだった。幕府が業者を探して打診したのでなく、公募であったことに着目したい。
幕府は請け負い業者を闇雲に探すリスクを回避できるし、町人にとっては銭座経営の機会が均等に与えられたことになる。封建時代にあって画期的で民主的な方法だ。とはいうものの、請け負ったのは、銅山経営者、貿易商など全国の有力商人がほとんどで、その背後で操っていたのは各地の大名であったようだ。銭座の利益の一部は幕府に上納されたが、銭座経営の利益は大名の資金源にもなっていたのだ。
しかし、やがて国産銅の減退が顕著になり、貿易用銅の確保のために銅生産がコントロールされるようになる。統制が強化された明和期(1764~1771年)以降は、幕府の命により金座・銀座が銭貨の鋳造を兼ねるようになる。1772年には、金座・銀座以外の銭貨鋳造は原則として禁止された。これも幕府による通貨統制政策である。
こうして通貨調整が行われ、金貨・銀貨・銅貨による三貨幣制度が定着していったわけだが、同時に大きな矛盾となる制度も生まれた。幕府は上方で流通していた雑多な銀を、銀貨の一定した丁銀・小玉銀に統一したのである。丁銀・小玉銀とは銀の秤量による貨幣で、重さを量って使う貨幣である。一方の金貨はその枚数によって交換価値を計る表記貨幣。この秤量貨幣(銀貨)と計数貨幣(金貨)の併用が江戸時代の貨幣制度のユニークさであり、また問題点でもあった。
金・銀・銭(銅)貨という、単位も性格もまったく異なる貨幣が併存したことで、銀貨を重用していた上方と金貨を重用していた江戸との取引に混乱が発生したことから両替商が発展し、やがて三井や住友といった財閥が生まれる要因にもなったのである。
金本位・銀本位の視点から見れば、幕府は素材価値の高い金を貨幣制度の中心に据えようとしたようだが、国際決済手段として広く認められていたのは銀であった。金本位制と銀本位制はまったく異なるパラダイムである。幕末に大量の金貨が海外に流出したのは、国内外の貨幣に対する価値のギャップによって生じたという見方もできるだろう。
ちなみに現在、江戸金座の跡地に建っているのが日本銀行である。そして日銀もまた金座・銀座同様、政府から独立した法人で、公的資本と民間資本によって成り立つ組織である。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 12 江戸幕府の先鋭的な政策 貨幣鋳造機関の設立
徳川幕府が確立した貨幣制度の基本は、金貨・銀貨・銭貨の3種類の貨幣を定める三貨制度である。貿易によってもたらされた様々な中国銭の国内流通に加え、江戸時代より前は貨幣が私鋳されていたので、質の悪い貨幣など様々な種類の貨幣が出回り、それらが流通することで取引に問題が生じていた。
また金山・銀山で採掘された金銀も産地ごとに質的な差があり、これも取引に支障をきたす要因であった。こういった状況から家康は天下統一の具現策のひとつとして、全国どこでも通用する均一の質の貨幣に統一する必要があったのだ。見方を変えれば幕府による「貨幣の発行権」の独占である。
幕府は金座、銀座、銭座と呼ばれる貨幣鋳造機関を設立し、それぞれの貨幣を鋳造させた。これらは明治に誕生した国営の造幣局とは概念が異なる。金座、銀座、銭座は、幕府から特権を与えられた町人(特権商人)によって構成される請け負い事業だったからだ。現在でいうところのアウトソーシングである。
これらを幕府の役人である勘定奉行が厳しく監督し、鋳造された貨幣は原則として幕府勘定所へ上納された。マネジメントは幕府の役人が担い、実際の作業は民間が請け負うという仕事のしくみは、幕府直轄領の金山・銀山の運営システムとよく似ている。これぞ「民間にできることは民間に」を実践する小さな政府の政策である。
家康は1601年、全国流通を目的とした慶長金銀を制定した。金貨鋳造の中心となった人物が彫金工芸師・後藤庄三郎光次である。後藤は「大坂冬の陣」で徳川軍の尖兵として活躍した人物だ。金貨鋳造と鑑定・検印を行った金座は、家康が1595年、江戸に後藤を呼び、小判を鋳造させた時に始まる。幕府設立後は勘定奉行の支配下に置かれ、江戸本石町に役宅(現在でいう公邸)が設置された。
当初は駿河、京都、佐渡にも金座は置かれたが、幕末まで続いたのは京都と江戸のみである。家康に抜擢された後藤庄三郎は御金改役(ごきんあらためやく)として金貨の鑑定と検印を行い、実際の鋳造は小判師と呼ばれる職人が担当した。幕府から金貨製造の許可を得た小判師たちは後藤家が居住する金座役宅の周辺に自宅を構え、品質や納期などすべて後藤家がマネジメントし、自宅で作業した。小判師たちが鋳造したのは原判金だ。これが後藤の役宅で検定され、後藤家の極印(五三桐の打刻)がなされたものだけが貨幣として認められたのである。
後藤庄三郎光次は単なる金商ではなく、幕府の経済政策担当者のような存在であった。そもそも小判の鋳造を提案したのは後藤であった。以前より太閤秀吉が使う大判は金額が大きすぎ、商売で使うには不便であり、大判の1/10の価値にした小判を使えば流通が栄えると提案したのである。幕府は庄三郎のプランをすぐに理解し、後藤家による新貨幣の製造がスタートした。朱印状の発行も後藤が家康に取り次いだとされていることから、貿易にも明るい才人であったのだろう。
興味深いのは、原判金の鋳造に必要な材料は小判師たちが自身で調達したことである。フリーランスの小判師たちは自己責任で金・銀商人から金を買い入れるか、幕府直轄の金山から入札して入手したという。やがて管理の徹底と小判師の分散化を防ぐために、1698年には後藤家の敷地内に鋳造施設が設置され、以降江戸での金貨製造はこの金座のみで実施されるようになった。
貨幣鋳造機関の中で金座は特に厳しい管理、統制を受けていた。複数の作業員による相互監視体制、職人採用時の誓約書の提出、家柄の限定などである。
一方、銀貨の鋳造が行われた銀座は、家康が1601年に京都・伏見に設立したのが起源である。銀貨は堺の両替商・湯浅作兵衛が世襲で鋳造した。湯浅は徳川家から大黒常是という姓名を与えられ、銀貨には大黒家の極印が記された。
もとはといえば「物価が混乱しているのは銀貨が不安定だから。良質の銀貨を発行して欲しい」と銀貨発行を提案したのは、摂津国平野の豪商で大津代官の末吉勘兵衛である。伏見の銀座は大黒家が仕切り、前出した後藤庄三郎光と末吉勘兵衛一族がリーダーとなって管理した。銀座も勘定奉行の支配下にあったが、金座同様、商人による請け負い事業であった。
By Master K/益田 慶
11 江戸幕府の先鋭的な政策 新田開発という名の農業制度
江戸時代に年貢の増収を図る目的で幕府や各藩は新田開発を奨励した。行政サイドからすれば開発奨励・農業振興策、平たくいえば「農地開拓」だが、耕地とともに集落が形成され、水路や街道の整備もセットになっているので「地域開発」と表現してもよいだろう。新田は巨額の利益(石高)を生み出すとともに、人口増大をまかなうために主食の米が必要になったという見方もできるだろう。新田開発は、国と自治体が同時に行った食糧増産計画という文脈からも語れそうだ。
新田開発は、江戸時代初期、享保の改革が行われた1720年頃、幕末直前にあたる1840年頃の3つのピークがある。江戸時代初期には役人や農民の主導で湖や潟、浅瀬などの埋め立てや干拓が実施され、陸地が増えて耕地となった。そもそも江戸の町の多くが埋立地であったことを鑑みれば、各藩は江戸にならったともいえよう。また丘陵地帯や台地など内陸地でも開発は進められた。こうした新田開発によって江戸時代初期に全国で1800万石だった石高(つまり国民総生産)は、江戸時代中期には2500万石、後期には3000万石と倍増に近い成果をおさめた。特に関東、東北、中国、九州などでは湖沼や潟が開発され、農地が増えた。
このような大規模な新田開発は、開発申請者に勘定奉行が許可し、工事が始められた。新田が完成して数年間は年貢が免除されるという特権もあったという。
興味深いのは、官営の新田と民営の新田が共存したことだ。幕府の直轄領や藩の所有地の開拓は当然公共事業だが、農民たちが独自で開発するのは民間事業である。「首長は民のために土地を耕す。農業をしたい者は自力で開発しろ」という江戸時代の土地開発は、とてもわかりやすい政策だ。幕府や藩がすべての地域開発を計画的に進めれば、それは無味乾燥した社会主義に陥る。モチベーションの高い農民はやる気をなくすだろう。
官営の新田は、幕府天領の代官が許可して行われる「代官見立新田」と、藩が主導で行う「藩営新田」があった。前者は天領なので幕府がオーナーである。農民は雇われる立場にあり、代官は年貢の10分の1の収入を得た。「藩営新田」は藩が農民に農地開発に必要な資材を提供して新田を開発させるかわりに数年間の年貢の免除を保障した。官営の新田で著名なのが、干拓と治水を含む利根川水系開発だ。資料によれば65年の歳月を費やしたという。
民営の新田には、下位の武士である土豪たちが資金を出し、周辺の農民を雇って開発した「土豪開発新田」、農民たちが村全体で資金と労力を提供して開発する「村請新田」、資金力のある大都市の商人が開発し、小作農を雇って耕させる「町人請負新田」があった。
幕府の財政危機から脱却するために徳川吉宗が実施した「享保の改革」では、幕府は次のような新田開発を促した。天領の内で大名領と入り組む場所であっても新田になりそうな土地があれば五畿内(摂津、河内、和泉、大和、山城国)の場合は京都町奉行に、西国・中国の場合は大坂奉行所に、北国・関八州は江戸町奉行所に願い出るように――。
この政策は、幕府が資金を負担することなく、民間資金を導入することで年貢地の拡大を目論むものである。そのかわりに開発地の一部を出資者が所有することを許可し、開発者は地主として小作料を徴収できる。つまり農地のオーナーになれるということだ。このしくみは「税金を低く設定するから、この地に支社を出してくれ」「土地を格安で提供するから、この地に工場を建ててくれ」といった国が設ける「経済特区」とそっくりである。
この時代に開発されたのが、関東ローム層地帯にあり、水に乏しかったことから農業にはきわめて不適切であった武蔵野の台地である。幕府が有能な農業技術者を派遣し、武蔵野の土豪が開発した。こうして関東平野が拓かれていったのである。
しかしながら弊害も少なくなかった。新田開発ブームに便乗した無計画な開発による水害である。水脈を加工したことで洪水が起こり、新田が崩壊するケースも各地で見られたという。江戸時代の事業も大きなリスクが伴ったという教訓のひとつである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 10 江戸幕府の先鋭的な政策 糸割符制度と朱印船制度
家康が実施した外交・貿易政策のひとつに「糸割符 (いとわっぷ) 制度」と「朱印船制度」がある。家康が東南アジア諸国との親善外交を進めるに至るには、いくつかの布石があった。1600年、オランダ東インド会社のリーフデ号が現在の大分県に漂着した。船長はイギリス人ウィリアム・アダムス。当時五大老の首座だった家康が大阪城で接見したものの、アダムスの帰国願いを聞き入れず、彼を家来にするために江戸へ連れて行った。
アダムスは家康に外国の貿易のしくみや列強の状況を教えたことから外国使節の面談や通訳として重宝され、西洋式の帆船の建造も担うようになる。家康はアダムスに出会い、貿易に強い関心を抱いたのだろう。のちにアダムスは相模三浦郡の知行地を与えられ、旗本・三浦按針(あんじん)として数奇な人生を歩んだ。このリーフデ号の漂着をきっかけに、オランダ、イギリスが日本貿易に加わることになる。
家康は1601年以降、安南(現在のベトナム)、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム(現在のタイ)、パタニ(マレー半島に存在したマレー人王朝)などの東南アジア諸国に使者を派遣し、外交を始めた。そして1604年にスタートしたのが朱印船制度である。これは日本を出港する商人の船に海外渡航を許可する朱印状を与え、貿易を促すものだ。朱印状は、たとえるなら「貿易ビジネスマンに与えるパスポート」である。現在なら外務省の業務といえよう。
当時、日本の貿易相手国といえば主にポルトガルとスペイン。特にポルトガルはマカオに拠点を築いて以降、中国産生糸を一括購入して日本に輸出し、利益を独占していた。生糸は当時の日本において最も重要な輸入品であったが、ポルドガル人が価格決定権を持っていたのだ。そこで家康が考案したのが、京都の豪商・茶屋四郎次郎をリーダーに任命し、京都、堺、長崎の裕福な商人に「糸割符仲間」を組織させ、値段交渉と生糸の一括購入を許する「糸割符制度」である。仲間で一括購入した生糸は商人に分配させ、それが京都・大坂・江戸に渡った。民間に価格交渉をさせ、その恩恵として商人に利益を与えるという特待制度だ。「関ヶ原の合戦」によって国内の経済が混乱し、販売不振に陥っていた力のある商人に向けて、家康は強力なビジネスのネタを提供したのである。これは経済活性化政策ともいえる。
家康が特定の商人に独占的輸入権と独占的卸売権を与えた理由はそれだけではない。財力のある豪商が豊臣派の残党に軍資金を提供すれば謀反が起こる。豪商を支配下に置くにはまず彼らに利益を与えなければならない。こういう意図もあったのだろう。
そして同年、朱印船制度をスタートさせる。朱印船は長崎から出航し、長崎に帰港した。朱印船貿易は幕府と深いつながりのある商人に限られていたが、大名や武士にも朱印状は与えられていたようだ。輸入品は、生糸、絹織物、砂糖、武具に使われる鮫皮や鹿皮など。日本からの輸出品は、銀、銅、鉄、硫黄、刀などであった。特に石見銀山で採掘された銀は、当時銀が不足していた中国マーケットに歓迎された。東南アジアでは決済手段として銀が使われたからである。
朱印船貿易家として名高いのが、前出した「糸割符仲間」を集めたリーダーの茶屋四郎次郎である。当主は代々この名を名乗り、初代が徳川家の御用商人の一人となり、二代目が幕府御用達商人に出世し、三代目が朱印船貿易での特権を活かして莫大な資産を得た。三代目は長崎代官補佐役も務めた、いわば家康の貿易エージェントである。
そして商人と幕府の間に立って朱印状の発行を取り次いだのが、金貨・銀貨発行の総責任者の後藤庄三郎である。伏見に設立された「銀座」の運営管理を任されていた後藤は、貿易面でも重要な地位にいた。朱印船貿易で銀の輸出を家康に進言したのはおそらく後藤であろう。彼はさしずめ幕府の財務長官といったところか。
By Master K/益田 慶
江戸幕府の先鋭的な政策 9 江戸幕府の先鋭的な政策 水路・治水工事など公共事業
江戸は日本の城下町としては特殊な立地であった。家康が江戸に入ってきたときには、城の目の前まで入江が入り込んでいた。つまり、農業にも城下町を築くにも適さないウォーターフロントだったのである。
この土地に大名の屋敷を設けるには土地が小規模すぎたので湿地や海を埋立て、その土地に首都機能をもたせることになる。家康は、最初は城の近くに大名、旗本たちの武家屋敷を誘致し、日本橋から海へ向けての一帯を町屋にした。武家地は主に台地に、商人や職人の住む町人地は低地に向かって広がっていった。台地を通称「山の手」、低地を「下町」と呼んだ。余談だが、日比谷入江を埋め立てできあがった日本橋や京橋、銀座も「下町」ということになる。
では、埋め立て工事が必要な土地にわざわざ城を構えたのはなぜだろうか? それは水運を利用できるというメリットがあったからだ。江戸の川や堀は水路の役割を果たし、経済面・治水面で大きく役立ったのだ。
家康は、江戸に着いた月に江戸城本丸先と江戸湊を結ぶ船入り堀「道三堀」の建設に着手したという。江戸城建設のための資材を搬入するための水路である。トラックのない当時、城の建築に必要な巨大な石や木材は陸路では運べなかった。また、陸路より水上交通のほうが輸送量が大きく、コストは低いというメリットもあった。伊豆で切り出された石材や、駿河(現静岡県)、遠江(現静岡県)、三河(現愛知県)で伐採された木材は、外様大名が造った船に載せられ、そのまま城へ持ち込まれたのである。さらに小名木川を開削して、行徳の塩や船橋の野菜、米などの食料を確保するための水路を築いた。これは江戸城建設と城を核にしたインフラ整備といえよう。
当時の江戸は、低地ゆえに水害に弱く、雨期にでもなると、常に洪水になやまされていた。家康は、下町を水害から守るために、昔からの平川と小石川を日比谷入江には注がせずに、ひとつにまとめて東方に流れている隅田川に落とす工事に着手した。本流を切り放すことで洪水を防ぐ策である。治水工事は政治力がなければ到底できないものだ。家康の実行力はたいしたものである。
一方、下町では自然の河川をもとに堀をめぐらせ、物資の輸送に用いられた。魚河岸が日本橋に生まれたのは、日本橋が架橋された直後だ。徳川家に魚を提供するために摂津の国(現大阪府・兵庫県)から来た漁師たちは、家康から隅田川の河口の浅い場所を埋立て造成することを許された。彼らは魚群を追いこんで一網打尽にすれば漁法によって、徳川家に提供してもまだ余るほどの漁獲量を誇った。余った魚を人通りの多い日本橋通りで販売する許可を幕府からもらい、これが魚河岸の始まりとなる。当初は、それらの魚すべてが日本橋川を船で運ばれて河岸に荷揚げされ、売られたという。日本橋川とその支流の堀、各々の河岸は江戸湊の内港の役割を果たし、江戸の物流の中心となって江戸の経済を支え、発展していった。
しかし埋立地には問題もあった。井戸を掘ると海水が湧き出るため飲料水を得るのが難しかったのだ。そこで家康は生活用水の不足を心配し、家臣の大久保藤五郎に上水道の建設を命じた。まず、小石川付近の流水を江戸城方面に引いて小石川を造らせた。これを発展させ、神田川の上に「水道」を渡らせたのが「神田上水」である。当時の水道は木製の水道管に真水を通したものだが、これが日本最初の水道事業である。井の頭池(現在の武蔵野市)を水源にし、小石川の関口で分水し、その後、湯島や神田の台地に沿って流れていたという。
その後、江戸の人口が急増したので新たな上水が必要となり、多摩川の水を取り入れ、現在の新宿まで堀として流し、そこから暗渠となって江戸城虎ノ門に達する「玉川上水」が完成する。玉川上水は江戸だけでなく、途中の村でも飲料水や農業用水に用いられた。
築城と治水と物流のために水路を開き、一方では飲用や農業用水の確保のために上水道を造った家康。江戸は彼の手腕によって住みやすい都市へと変わっていったのである。水路・治水工事、上水道工事など公共事業の実施は、政治家として見事な政策である。現代なら家康は「都市開発プロデューサー」といったところだろうか。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 8 江戸幕府の先鋭的な政策 陸路の整備と伝馬制度
今週から数回にわたって江戸幕府の先鋭的な政策を紹介していこう。幕府の政策といえば、参勤交代の実施や武家諸法度・公家諸法度の発令、鎖国、大判・小判の改鋳などが思い浮かぶが、まずその前に江戸と地方都市を結ぶインフラ整備が必要である。江戸は幕府が開かれるまで辺境であったので、江戸市街の建設と交通網の編成は徳川家の重要な事業であった。と同時に交通網の整備は、経済の発展を促す先鋭的な政策でもあった。
江戸への交通・輸送路は陸上交通が先に進み、のちに上方-江戸を結ぶ廻船など海上交通が生まれる。1603年、家康は諸大名を動員して神田山を崩し、現在の日本橋から新橋に至る地域の湿地を埋め立てて市街地を造った。その際、従来は西方台地を通過していた東海道をこの市街の中央に通したのである。これが現在の銀座通り、国道一号である。
新たに架橋した日本橋を起点に、そこから36町を「一里」とし、一里ごとに五間四方の一里塚を造らせた。木を植えて旅人の休憩所、憩いの場としたのである。旅人は一里塚を目印にどれだけ歩いたのかを確認したのであろう。諸藩も江戸にならい全国に一里塚が設けられた。
東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道のうち、最初に完成したのは、江戸と上方を結ぶ東海道・中山道だ。家康は一里塚に加え、各終点までの道程に約2~3里(8~12km)間隔で宿場町(宿駅)を設けた。当時の輸送の主力は馬であり、公用の物資を運ぶために設けたのが伝馬(てんま)である。伝馬とは、兵の移動や物資の輸送に備えて、宿場に乗り継ぎ用の馬や人足を置くこと、あるいはその乗り継ぎ用の馬のことを指す。公用の旅行者や荷物を宿駅から宿駅へと送るこの伝馬制度は、実に合理的な方法である。
物流に詳しい人なら、現在の佐川急便やヤマト運輸が行っているシステムと同じであることに気づくだろう。たとえば全国から東京都内に向けて送られた荷物は、一度品川の巨大な倉庫に集まる。物資は届け先によって渋谷区、世田谷区などに分類され、そのエリアの担当者が品川の倉庫までトラックで駆け、トラックに荷物を載せ、自分の地区へ戻る。これは家康が考案した伝馬制度を踏襲した物流システムである。
各宿場には、一定の馬と人足を常備する問屋(とんや)が置かれた。東海道では当初、問屋の数は36であったが、だんだん公用の輸送・交通量が増え、1616年には75、1638年には100となったが、それでも足りずに宿場の近所の農村から人や馬が借り出された。このように宿駅周辺の村々に課役を負わせたのが助郷(すけごう)制度である。助郷役には報酬として賃銭が支払われたが通常賃銭の半分くらいにしかならず、遠い村から往復に1、2日かかってもその分は無償であった。また、幕府公用の旅行者は農繁期に多く、村では助郷役に差し出す農民が間に合わずに代わりに金銭を差し出すこともあり、村の財政は圧迫されたという。
興味深いのは、公用の荷物は無料であったことだ。おそらく地方の大名が徳川家に送った手紙や物資のことであろう。公用であることを証明するために幕府は朱印状(伝馬朱印)を発行した。これを携帯していない者に対して、各問屋は公用の伝馬を出すことを禁じられたのである。商業が発達するまでは、幹線道路では公用の荷物の輸送が主であったようだ。
では、こういった荷物の全工程の管理と権限を誰が持っていたのかと思って調べてみると、江戸の町年寄が担っていたことがわかった。さらに輸送を管理していた伝馬役は、現在の皇居前に当たる村の有力者であったようだ。つまり、民間に任せたのである。彼らは江戸城が完成した際に埋立地に立ち退きした村人だ。だからであろうか、伝馬役を手配する代償として新たな土地を与えられ、その名主になっていった。伝馬役が移り住んだ町は、大伝馬町、南伝馬町、小伝馬町と呼ばれた。そうしてその周辺に伊勢商人などが進出して店を開き、問屋町が形成されていく。これが中央区日本橋に残っている「大伝馬町」「小伝馬町」の町名の由来である。
By Master K/益田 慶
7 江戸幕府の支配統制 年貢という租税制度
大名の支配統制と鉱山など直轄地のオペレーションの次に説明しておかなければいけないのが、農民統制である。農民が生産した米を大名が年貢として徴収し、大名は幕府に石高を申請し、上納金を納める。年貢収入が幕府の財政の基盤であったことを鑑みるなら、この制度こそが江戸幕府の支配統制の屋台骨といえよう。
そのベースになる「検地」は、戦国大名が自分の支配地域で課税を行うための資料として土地の調査を行ったのが起源だ。織田信長も領国内で検地を実施していたが、初めて全国規模で検地を行ったのは豊臣秀吉である。いわゆる「太閤検地」の多くは、大名の自己申告であった。これによって全国的に石高制が認知されるようになる。
太閤検地が画期的であったのは、土地の所有者でなく、耕作者(農民)を調査し、農民に課税したことである。これによって中間で搾取する武士が一掃された。流通業でいえば問屋をなくしたようなものだ。農民出身の秀吉らしい政策であった。この太閤検地を下敷きにしたものが、江戸幕府の初期の貢租(年貢)である。これは言い換えれば、幕府の租税制度である。
幕府はすべての土地の価値を米の生産力におきかえる「石高制」を採用し、全国的な流通による諸年貢の換金、領主経済の維持を保証し、領主は検地によって石高を計算したのである。検地にはさらにもうひとつの大きな目的があった。その土地の広さを調査するばかりでなく、農民は検地帳に記名され、職業「百姓」として租税の負担者とされた。検地帳という名の「課税台帳」がつくられたのである。
江戸時代初期の年貢徴収は、田を観察し、その年の収穫量を見込んで毎年年貢率を決定する方法が採用されていた。年間の石高から計算する方式なので、現在の税金の種類でいえば「総合課税」といえよう。このシステムを全国で機能するように推進したのは、大名と全国に派遣された奉行、代官である。幕府はごく少人数で各地に税務署にあたる組織をつくったのである。こういったしくみが徳川三百年を支えたのである。
年貢のシステムはこうだ。領地の石高を村々に振り分け、村全体の石高として換算し、年貢納入は村落が一括納入の義務を負う。そして幕府から派遣された代官や奉行、領地の大名の税務担当者がその村落の代表者から徴収し、幕府や大名に納めるのである。
物事をあきらめるたとえとして「ここが年貢の納め時」と言うが、その裏には当時の農民の「なんとか年貢納入を回避したい」という赤裸々な心情が見え隠れしている。また、村単位で協同して米をつくらなければいけという姿から農耕民族の「村社会」の構図がくっきりと浮かびあがってくる。農作業をさぼると村全体に迷惑がかかることになるのである。
徴収される年貢高に大きく影響を与えるのが、その領地が幕府直轄領か否かである。大名領では五公五民、つまり50%の収納率。これに対して幕府直轄領の場合、公定年貢率は四公六民、すなわち幕府の徴収は40%であった。
しかし実際には、マネジメントを担う代官の数がかなり少ないため、徴税活動の浸透率が低く、40%の徴収率に達することは難しかったとされている。幕府の直轄地を「天領」と呼ぶのは、天(幕府)が収める領という意味だけでなく、年貢が少なくてすむから農民にとって有利だというニュアンスが込められているようだ。
検地による年貢徴収制度にはメリットとデメリットがある。メリットは農民の管理がしやすいこと、課税制度が築けること、少数の管理者ですむことなどがある。「小さな政府」が稼動するには、やはりこういった課税システム、支配制度が必要であったということだ。デメリットは洪水や干ばつ、台風などでその年の実際の石高が大きく左右することだ。大名も農民も年によって収入が大きく変わるリスクを背負っていたのである。このことから江戸中期には、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による定免(じょうめん)法が採用されるようになる。
By Master K/益田 慶
6 江戸幕府の支配統制 直轄地の運営
幕府の収入源のひとつに直轄地の金山や銀山の経営が挙げられる。しかも「民間でできることは民間に」のスローガンを先取りするかのように、鉱山に必要な山師の手配と上納金の集金だけは奉行が行い、採鉱の仕事は民間に委託していたという。中でも有名なのが佐渡・石見・伊豆などの鉱山(金山・銀山)の経営である。幕府の支配統制は直轄地の運営と適材適所の人材の採用によって実現できたことがわかる。
佐渡金山は1601年に山師3人に発見され、すぐさま徳川幕府直轄の天領となり、その豊富な産金量は300年にわたる幕府の財政を支えた。家康は同年、毛利氏の旧領であった石見銀山も直轄領としている。石見銀山から産出された銀は、豊臣氏の朝鮮出兵の軍資金になったほどで、長い間日本最大の銀山であった。その石見銀山の奉行を務め、のちに佐渡奉行を経て勘定奉行に任じられ、年寄、老中に昇格し、伊豆奉行も務めたのが大久保長安である。かつて武田氏の家臣であった長安が家康から全国の金銀山の統括を命じられた理由は、彼とその配下の山師たちが湧き水の排水をコントロールする技術を持っていたからである。長安は武田領(甲斐)における黒川金山の鉱山開発や税務に携わっていたのである。
石見銀山の採掘に携わり大量の銀を産出した長安のマネジメントは冴えていた。佐渡金山には二人の家臣を派遣し、一人には農民統制を、もう一人には銀山の管理をさせた。佐渡には幕府直営の直山(じきやま)と、山師が自分の資金で採掘して売上金の何割かを上納する自分山(じぶんやま)とがあった。長安は石見銀山や伊豆金山から優秀な山師を集め、彼らに米や炭、ローソクなどを支給したという。一方、自分山の山師には、坑道の差によって良質のところには産出の5割、それ以下の坑道には産出の3分の1、4分の1という率の上納を課した。フリーランスの山師にとって5割のマージンといえば大きな額だが、彼らは町人に義務づけられていた「人足役」や「伝馬役」といった町役を免除されていたので優遇政策といえなくもない。
また、鉱山の産出が盛んになれば全国から多くの抗夫が町に集まるので、長安は町の入口に役所を設け、食料品や日常品などの物資を専売にし、売上げの1割の上納金を課した。こうして佐渡金山も上杉氏が支配していた時代と比較して、産出量が飛躍的に増えたとされている。
石見銀山や佐渡金山から産出された銀や金は加工されて通貨となり、ポルトガル貿易商や東インド会社らとの活発な貿易を促進し、また家康が推進した朱印船貿易の資金にもなった。この頃に日本にも朱印船貿易家が登場し、鎖国政策が始まるまでアジアを中心に貿易が活性化したのである。
直営方式が採用されたのは地下資源が豊富な土地だけではない。関東を主とする直轄地からの年貢高は富に大きかった。天領の石高は、 関ヶ原の戦い 以前は100万石ぐらいであったが、関ヶ原の戦いの後、西軍に属した諸将の領地を没収した中から直轄地に編入したものも多く、家康の晩年には200万石ぐらいに増加した。そして約1世紀後の元禄時代には400万石に達するのである。最初から多くの直轄地を抱えるのでなく、少しずつ増やしていったのは、システムが機能していったことと管理者の習熟があったからだろう。
さらに幕府は江戸以外に京都・大坂・長崎・堺などの重要都市を直轄にして、商工業や貿易を統制し、貨幣の鋳造権もにぎった。経済統制を進めることで利益を独占しようという政策である。江戸幕府が誕生しても商業の中心が京都や大坂であったことは容易に想像できる。よって京都・大坂・堺を統制する必要があったのである。
このように江戸以外の土地を直轄にし、優秀な奉行を派遣して支配させ、そこから確実に利益を上げていくのは「小さな政府」らしい合理的な方法である。さらに幕府は農村政策にも着手する。1648年に施行された「検地」の条令である。内容は次週のコラムで。
By Master K/益田 慶
5 江戸幕府の支配統制 江戸幕府の職制の特徴
江戸幕府は外交権、行政権、徴税権を握ったばかりでなく、司法・立法権も掌握した。天下統一を果たした徳川氏にはもはや合戦の必要はなくなり、次に目指すのは安定した政治である。それを実施するには組織がいる。徳川幕府は、家康から家光に至る三代の間にコンパクトで合理的な組織をつくりあげていった。以下に紹介する職務の要職には主に譜代・旗本がついた。多くが複数月番制・合議制であった。
最高司令官の「将軍」は、もちろん徳川家の男子が就任。会社でいえば「社長」だが、大御所となった家康などはさしずめ取締役会長か。非常時に置かれた最高職である「大老」は、堀田、酒井、土井、井伊各家から選ばれた。彼らはすべて10万石以上の譜代大名である。こちらは代表権を持つ副社長に該当するだろう。一般政務を統括する「老中」には譜代大名4~6名がつき、当初は年寄と呼ばれた。常置される最高職で、大番頭・大目付・町奉行・勘定奉行・遠国奉行などを支配した。
幕府の官僚機構を見ると、大名を監察するのが「老中」、それ以下の旗本・御家人を監察するのが「若年寄」、大名を監察する「大目付」、旗本・御家人を監察する「目付」、朝廷・西国を監察するために「京都所司代」という役職があてがわれていることから監察機構がしっかりしていることがわかる。
老中が支配した職務のうち「大番頭」は江戸城警備隊長。旗本から任命される軍事部門のトップで、江戸城と江戸市中の警備を担った。「大目付」は大名を監察する役目。さらに老中の下には行政・司法の担当者が並ぶ。「勘定奉行」は天領の財政・行政、関八州の公私領・関八州以外の幕領の司法を担当。天領の経理・財務担当者であり、徴税と司法を担当する「郡代」と「代官」を管理した。
「江戸町奉行」(町奉行)は、江戸の行政・司法・警察を担当。南町奉行と北町奉行が1ヶ月交替の月番制で、旗本より任命された。
地方にある幕府の直轄都市(京都、大坂、駿府、長崎など8つ)には京都町奉行、長崎奉行などの「遠国奉行」が置かれ、それ以外の幕府の領地には勘定奉行配下の郡代や代官が派遣された。ちなみに奉行の出世コースを時代劇「大岡越前」で有名な大岡忠相を例に挙げてみよう。
注目したいのは、ひとつの役職が多くの職務を兼ねていたことだ。江戸町奉行は三千石が支給されるほどの高級官僚で、幕府官僚機構でも上位の役人である。彼らが管理した北町・南町奉行所は、現在の東京都庁と警視庁と裁判所の役目も持っていたと予想される。百万都市・江戸の治安を守っていたのは、現代の警察業務に当たる町奉行所の同心だが、それほど大きくない組織が警察権と裁判権と行政権のほかに消防や防疫など立法権まで兼ね備えていたことは、このコラムのテーマである「小さな政府」ぶりを物語っている。
老中を補佐した「若年寄」も譜代大名から任命され、旗本や御家人を監察した。若年寄の下に置かれた「小姓組番頭」は将軍の雑用係、「書院番頭」は将軍護衛隊の隊長である。
老中や若年寄が管理した多くの職務のほかに、将軍直属の職務もある。寺社・寺社領の監察を務めた寺社奉行は、宗教行政機関である。一万石以上の大名が就任したことから、三奉行の中では旗本から任命される町奉行・勘定奉行より格式は上である。京都所司代・大坂城代も将軍直属で、前者は二条城にあって老中に次ぐ要職。「将軍の代理」というニュアンスであろう。朝廷や西国大名の監視を務めた。後者は大坂城にあって大坂在勤幕府諸役人を統制し、緊急時には将軍に代わって軍事決定権を発揮できた。出世コースとして、大坂城代から京都所司代を経て老中に昇進するのが通例である。
ちなみに奉行の出世コースを時代劇「大岡越前」で有名な大岡忠相を例に挙げてみよう。書院番→仮奉行→遠国奉行(伊勢奉行)→江戸町奉行→普請奉行→寺社奉行→大名。ただし町奉行から大名になったのは、江戸時代を通じて大岡忠相のみである。
By Master K/益田 慶
4 江戸幕府の支配統制 江戸幕府の官僚統制
家康を征夷大将軍に据えた江戸幕府の官僚統制も、藩主をトップに置く各藩の支配統制も、封建的主従関係をベースにしている点では同じ構造である。
1590年、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国の領主から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封された。150万石から250万石への加増であったが、家康にとって縁の深い三河の土地を失い、まだ拓けていなかった関東に移されたことは辛酸をなめる思いであったことだろう。
関東に入った際、徳川氏の直轄領は江戸の周辺だけだった。しかし、その頃から家康は有力な家臣(上級家臣)を江戸から遠方の重要な支城に配置した。たとえば榊原康政(10万石)を上州館林に、井伊直政(12万石)を上州箕輪に、結城秀康(10万石)を下総結城に、本多忠勝(10万石)を上総大多喜に、大久保忠世(4万石)を相州小田原に配置した。彼らは謀反を企てないであろう支店長クラスであり、それぞれが軍隊を率いるリーダーであった。
一方、およそ100万の直轄地には、伊奈忠次や大久保長安などの有能な家臣を「代官」などに据え、統治していった。その代官クラスは、主に武田・今川・北条の旧臣を登用した。つまり、かつてはライバルグループにいた途中入社の優秀な人材を抜擢したのである。これに意気に感じた途中入社組は徳川コンツェルンに忠誠心を誓ったことだろう。
この統治の仕方は、家康独自の人材登用法の結晶である。家康は井伊や本多など、いわゆる「生え抜き」の武将によって強力な軍団を形成し、途中入社組のうち有能な行政官・財務官を側近に抱え、領国統治と財政を固めたのである。豊臣政権下で最大の領地をもつ徳川グループは最も強力な軍隊と豊かな行政・財政を築いていったのである。家康がやがて覇権を握った基礎は、こういった関東領地経営の成功があったからであろう。
さて、江戸幕府を開いた家康は1605年、将軍の職を三男・秀忠に譲り、その後は大御所と称せられるようになる。政治の実権は大御所が握り、中央政権の法的な主権者は将軍ということになる。家康は「政権の主権者は代々徳川の本家が世襲するのだ」という伝統を早くにつくりあげてしまったのである。個人の資質でなく、将軍という役職が権威を示し、また徳川家が絶対的な権力を握っていることを諸大名に知らしめるこの手法は、統治の仕方として卓越している。これは徳川家の側近も諸大名も将軍の代が替わっても自動的に徳川家に臣従するというシステムだ。借家なら定期的に契約更新手続きがあり、プロ野球選手なら定期的に球団との契約更新が行われるが、徳川家と家臣、諸大名の関係は半永久的に継続されるのである。これも「小さな政府」を築くうえで重要なファクターのひとつである。
江戸幕府設立初期に軍事・政治両面でキーマンとなったのは、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政といった「四天王」である。これら側近にとって、徳川家は代々の主君。よって四天王の子供たちも徳川家に仕えることになる。たとえば本多忠勝の息子、忠政は伊勢桑名藩の第二代藩主となり、のちに播磨姫路藩の初代藩主、かの姫路城主となる。つまり、家臣たちも徳川家から与えられた領地の領主の地位を引き継いでいったのである。これは家の継続・繁栄のためにつくられた徳川家のシステムと相似している。
一方では、本多正信のように家康の側近として幕政を実際に主導する立場の者も登場する。家康から家光に至る徳川三代を描いた時代劇では、本多正信に代表される「吏僚派」と本多忠勝に代表される「武功派」の権力抗争がよく描かれるが、それはむしろ幕府に有能な人材が揃っていたことを物語っているといえよう。これは前述した家康の統治制が人材育成に大いに貢献したことを証明しているといえよう。家光によって大老に格上げされた土井利勝、酒井忠勝などが幕府の支配体制を確立していく。
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3 江戸幕府の支配統制 幕藩体制
江戸幕府の支配体制は「幕藩体制」と呼ばれ、中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配になっていた。地方は将軍が任命・承認した大名が藩を形成し、支配していた。なお、将軍の直轄地(天領)では大名の代わりに代官を置いた。この幕府(将軍)が藩(大名)をコントロールする幕藩体制は、見事に「小さな政府」を築いている。
各大名は「武家諸法度」の遵守はあるものの、それぞれの領地においてある程度独立した統治機構を形成している。支配体制の基本となっているのは、米などを現物で納めさせて年貢とする石高制だ。江戸時代前期の年貢徴収は、田を視察して、その年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する方法であった。
田畑や屋敷に至るまで、面積に石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算し、石単位で表示するこの制度は、わかりやすい「課税制度」といえる。そして石高は、そのまま大名や旗本の収入を表す点においては、徳川グループ各支社(藩)や家臣と呼ばれる徳川コンツェルン幹部の「売上高」「年商」「年収」とも読める。本部機能を持つ幕府は、徳川グループ各支社、幹部の「売上高」「年商」「年収」をチェックできるという合理的なしくみである。
また、一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。つまり石高は大名の「財力」だけではなく「兵力」をも意味していたのだ。
江戸に築かれた旗本の屋敷が質素であったのに対して、江戸初期に建てられた御三家(尾張、紀伊、水戸)および大名屋敷はいずれも豪華であった。これも石高があったからこそ。屋敷の豪華さで石高を誇ったのであろう。
さて、徳川幕府の象徴といえば江戸城だ。築城工事は、家康の将軍任命の翌年、1860年に着手された。手始めは、城の基礎となる石材を運ぶ船の建造である。その船の建造を負担したのは、島津忠恒(初代薩摩藩主)、浅野幸長(初代紀伊和歌山藩主)、黒田長政(初代筑前国福岡藩主)など有力な外様大名28名であったという記録が残っている。この船が伊豆から巨大な石を一度に数個ずつ積んで、月に二回、江戸との間を往復したという。いずれも諸大名に課せられたミッションであった。
また、その前段階の埋め立て工事も諸大名が担ったという。たとえば駿河台の神田山を崩した土で、日比谷の入江は埋められた。これらは徳川家に対する忠誠心を試すにも、家臣の労働力を使わずに城の基礎を築ける点でも、合理的な手法である。いわば「報酬を出さないアウトソーシング」である。
蛇足だが、江戸の町を拓くために埋立てられた土地には、新たな地名がつけられた。その部分の工事を担当した大名の国名をとって尾張町、加賀町、出雲町など名づけられたところもある。ちなみに、漆喰で塗り固められた城の壁の原料となった石灰は、江戸西部にある村に命じて石炭岩を焼かせて、馬で運ばせたものだが、この道が現在の青海街道である。
諸大名は自分の領地から農民を江戸に連れ出し、資金不足は家臣にも担ってもらい、また豪商から借金をしてでも整えなければいけなかった。それは軍役ともいえるだろう。領地を支給してもらっている、つまり石高をもらっている徳川家に対する奉公なのである。
江戸城の建設と並行して、1604年には近江の彦根城を、その近隣7カ国の大名に命じて築かせ、1612年には駿河城を、1615年には名古屋城の建設を命じるなど、大名への課役はすこぶる大きかったようだ。江戸幕府の支配統制の本質は、巧みに大名を操ることにあったようだ。それは幕藩体制が築いた縦社会そのものである。
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2 江戸幕府の支配統制 長期支配体制の確立
「関ヶ原の合戦」に勝利して天下の覇者となった徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり、長期支配体制の確立をめざした。徳川家康は中央政権を握ると、朝廷や公家への圧力、大名統制、身分制度の徹底、多様な人材の登用、江戸の整備など次々に大きな改革を手がけていった。家康・秀忠・家光三代のほぼ50年間に、徳川家が全国支配の体制を固めあげ、いわゆる徳川三百年の太平の基盤を築いていったのである。
徳川幕府は、大名・徳川家を対象とした武家諸法度、天皇家や公家の行動を制約する禁中並公家諸法度、仏教教団や僧侶を統制する諸宗寺院法度と、相次いで基本的法度を発布し、政策を実施した。これらの原案はすべて徳川家康が考えたもので、家康は合戦における知将としてのみならず、政治家としても卓越した頭脳を発揮したのである。諸大名、朝廷と公家、寺院と僧侶を江戸幕府の支配下に置いて思うままにコントロールする。これは徳川家康が登場するまで、どの戦国大名も成し得なかった偉業である。
注目すべき点は、徳川幕府が軍事力でそれを達成したのではないことだ。幕府の直轄軍は3万以下だったとされている。関ヶ原の戦いで家康が率いる東軍に参加したのは約10万。東軍に参加した諸大名が率いる軍隊のほうが徳川直轄軍よりも多かったということだ。幕府が成立した後も、幕府の軍事力はとてもコンパクトであったようだ。
江戸時代の大名には、譜代大名と外様大名の分類があった。譜代大名は、豊臣政権のもとで家康が関東地方に移封された際に主要な武将に領地を与え、大名格を与えて徳川家を支えさせたことに由来する。関ヶ原の合戦以前から徳川氏に従い、取り立てられた大名である。外様大名は、関ヶ原の合戦直前、あるいは以降に支配体制に組み込まれた大名である。統制しなければならないのは、もちろん外様大名である。
関ヶ原の合戦を終えた家康は、西軍の諸大名の所領の処分を徹底的に行った。宇喜多秀家の所領、備前岡山57万石が没収されたように、西軍に属した大名は、家をつぶされたり、領地を没収されたりした。家康は没収した土地を再分配した。まず、自己の直轄領を増し、戦功のあった大名に加増し、領地を大幅に移動した。井伊氏や本多氏ら徳川譜代の家臣は、これを機に独立の大名として扱われるようになった。
コンパクトな軍隊しか持たない徳川幕府が、全国支配体制を確立するためには、加賀藩の前田家、薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家、土佐藩の山内家、米沢藩の上杉家、肥後藩の細川家、仙台藩の伊達家など、石高の大きな外様大名をいかに支配するかが重要である。そこで大名統制のために「武家諸法度」を発令したのである。大名を縛る法律である。
2代将軍・徳川秀忠の名で出された最初の武家諸法度には、1.大名は領地と江戸に交互に勤めること 2.新しい城づくりは禁止 3.謀反を企てることの禁止 4.大名は幕府の許可なく勝手に結婚してはいけない 5.勝手に関所を設けてはいけない 6.500石積み以上の船を所有してはいけない-などが記されていた。参勤交代を発布したのは、3代将軍・家光である。
徳川幕府は、大名に領地を与え、各領地での独立採算の権利と領地の管理職を与えた一方で、巧みな法律によって支配したのである。大きな軍隊を持たない江戸幕府が「小さな政府」として機能したひとつの理由は、外様大名を上手にコントロールする制度をつくったからである。大名は藩の知事であり、社長でもあるが、すべてが徳川グループに所属するということである。外様大名は、かつては独立した企業のオーナーであったが、「関ヶ原の合戦」を契機に徳川グループに吸収され、そのグループ規定に従わざるを得なくなったということである。そしてその徳川グループは、当初は家康という突出した創業オーナーのマンパワーによるところが大きかったが、やがて個人から組織へと変貌を遂げるのである。
By Master K/益田 慶
小さな政府江戸幕府 1 はじめに
合議体制の成立や中央銀行の設立、機械化・工業化の推進など、一般的に日本の近代化が始まったのは明治維新以降、つまり明治時代とされている。確かに明治維新は欧米列強に抑圧されてきたアジア諸国にとって近代革命の模範となった。また、その後、第二次世界大戦で敗戦国となった日本が高度経済成長を成し遂げ、世界の列強の仲間入りしたことは「アジアの奇跡」とも呼ばれてきた。その起点は明治維新にあるという文脈である。
しかし、明治維新成功の背景に、その前段階である江戸時代に目を向けてみれば、労働生産性や教育水準の高さがあり、市場原理主義の浸透があり、マニファクチャーやギルド(組合)の成立があり、官(幕府)民(商人や職人)の仕事を明確に分けた公共事業の推進と民営化があるなど、すでに近代の合理的な考え方を受け入れる素地が備わっていたことは見逃せない。つまり、「近代化への助走」は、すでに江戸時代に始まっていたのである。
今週からスタートするこのコラムでは、江戸時代に生まれた近代化の萌芽を政治・経済の両面から具体的に紹介していくものである。着目点は、近代的な発想、科学的・合理的な思考の基盤を江戸時代から拾い上げることにある。
18世紀初頭、すでに人口が約100万人であったとされる江戸は当時世界最大規模の都市だった。ロンドンやパリが50万人前後であったことを見ると、必然的に政策面でも産業面でも都市生活の基盤が築かれていたと想像できる。おそらく都市生活を送るための最低限のインフラ整備はできていたであろうし、しっかりとした税制が敷かれていたであろうし、公共事業や民間事業も進められていたと思われる。また、各種の制度が敷かれ、それを推進したり、実施したりする担当者もいたであろう。もちろん、それらの決定機関、組織があったはずである。
また、商人や職人が安全な都市生活を送ることができる警察機関は不可欠であるし、安全な生活を脅かす者や不正な行いをした者に対して刑罰を下す機関も不可欠である。
たとえば都市生活のインフラ整備の一例として、水道整備がある。神田上水、玉川上水、青山上水、三田上水、亀有上水、千川上水の6上水による「江戸水道」は規模だけにスポットを当てれば、世界一であったと想像できる。江戸時代に誕生した神田上水と玉川上水は、17世紀中頃には地下式上水道としては、延長150キロという世界最大の上水道にまで発展した。これは誰かが都市生活者に役立つために行った事業、すなわち公共事業である。それほどの公共事業を推進するには、幕府の政策として事業を決定する機関が動いたであろうし、莫大な資金と組織的な労働力が必要であったことは容易に想像できる。
また、徳川家康が日本の銀需要を支える石見銀山を幕府直轄領としたことも興味深い。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村に直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置されたのである。幕府は銀山のマネジメントを担う銀山奉行を派遣。その銀山奉行は山師(鉱山経営者)らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め、朱印船貿易の元手にもなった。石見銀山の開発は幕府の資金源の確保だけでなく、民間労働者の雇用促進の面からも近代的で合理的な政策であり、重要な事業だったのである。
このように江戸時代にはすでに近代的合理主義が生まれ、マネジメントのしくみが機能し、幕府がつくった制度が稼動してことがわかる。多方面から江戸時代には学ぶべきことがある。それらは決して役に立たない雑学ではなく、経済や政治が向かう普遍的な側面を教えてくれるであろう。温故知新は、意外なことに新しい発想やブレイクスルーにもつながることがある。このコラムがそういった発想の突破口になれば幸いである。
By Master K/益田 慶