小さな政府江戸幕府 55 明治維新で活躍した留学経験者 最終回
大政奉還によって幕を閉じた江戸幕府。新政府は1867年、王政復古の大号令を発令。これにより武家政治を廃止し、朝廷に政治が戻ってきたことを宣言した。翌年、明治天皇が「即位の礼」を挙げ、元号は慶応から明治へと改められた。
岩倉具視ら急進派公家と薩長の討幕派によって徳川家は新政府の運営メンバーから除外され、薩長出身者が新政府推進の主導権を握ることになった。
ここで注目したいのが、明治維新で活躍した人物に幕末から明治初期に欧米に赴き、政治や工業の発展を目の当たりにして帰国した者が多いことだ。
幕府や諸藩は、日本より進んだ欧米の諸制度を吸収しようとして、多くの留学者を派遣していた。幕府の少数の開国派には先見性があったし、薩摩・長州両藩の武士たちは日本を変えるには海外にヒントがあると確信し、自らの意志で海を渡った。幕末は革新と保守が競って新たなシステムづくりを模索した時期といえよう。また動乱のなかで下級の武士たちにも政治の表舞台に立つチャンスが与えられた時代でもあった。
長州藩士の吉田松陰が講義をした私塾「松下村塾」の門下生であった伊藤博文は、長州藩の下級武士出身である。同じく長州藩の井上馨らとともに、1863年に藩主から留学の命を受けた。洋行費は藩主から一人200両が支給され、不足分は借金で補った。実質的には密航であったが、伊藤や井上など長州藩の5名の若者は上海経由でイギリスに渡った。伊藤はのちに初代内閣総理大臣に就任。井上は第二次伊藤内閣で外務大臣を務めたほか、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業に貢献した。また、三井財閥と親しく、「三井の大番頭」として経済界でも活躍した。
1865年には、薩摩藩の森有札と五代友厚がイギリスへ留学した。森はその後、アメリカにも留学し、帰国後、初代文部大臣に任命された。100年以上前に「英語を日本の共通語として採用しよう」と提案した超先見派でもあった。一橋大学の前身である私塾「商法講習所」を開設するなど教育分野で輝かしい業績がある。五代は欧州帰国後、明治政府の参与職外国事務掛となり、役人として大阪に赴任。造幣局を誘致し、初代大阪税関長に就任。大阪を基盤とする多くの企業の創業にかかわり、大阪商工会議所初代会頭を務めた。
教育者、思想家として名高い福沢諭吉は、豊前国中津藩の下級武士の次男として生まれた。彼は江戸時代には活躍できなかった人物の一人だろう。1860年、遣米使節団の随行船・咸臨丸艦長の従者として乗船し、初めて渡米。その帰路に香港、シンガポール、マルセイユ、リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ベルリン、リスボンなどに寄り、見聞を広げている。1867年に再渡米し、アメリカで多くのことを学んだ。帰国後、教育活動に情熱を注いだ。また、明治4年には岩倉具視率いる岩倉視察団が欧米に派遣された。政府の要人と留学生から成る総勢107名の中には、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文のほか、のちに思想家、ジャーナリストとして活躍する中江兆民や、三井財閥の総帥となる団琢磨もいた。
このように動乱の幕末に欧米に留学した者たちが議会や憲法の設立、教育改革、殖産産業に深くかかわっていった。江戸時代の最後に彼らのような人物が生まれたことが日本にとって幸いだったといえよう。400年も続いた江戸幕府は封建制度をベースとし、徳川コンツェルンが巧みな統制を敷いたことで安定した時代が長く続いた。それは藩の自治を認める多様性に富んだ政策であったといえる。しかし、その末期にいち早く海外に学ぶべき文化を見つけたのは、残念ながら徳川家でなく、長州や薩摩といった地方の武士と留学生たちであった。
しかし、幕府には学ぶべき政策や改革は多くあった。それらは現在でも決して古臭くはない。むしろ普遍性に富んだ政策が欧米に先駆け、江戸時代の日本で実施されていたことに大きな意味があるというよう。(了)
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By Master K/益田 慶