小さな政府江戸幕府 53 幕末の財政事情 インフレ対策と問屋保護
財政危機に陥っていた幕府は、貿易面でも大きな問題に対峙せざるを得なかった。1859年から列強諸国との貿易が始まった。原則として幕府の役人は関与せず、日本人商人と港に居留する外国人商人との間で自由貿易が行なわれ、交易の9割は横浜港だった。横浜港の原型となった神奈川湊には、東海道の宿場・神奈川宿があり、幕府の直轄地だった。その対岸の横浜村に港が開かれたのは、幕府が監視しやすいという理由もあったのだろう。
圧倒的な輸出超過で始まった交易が1866年には輸入超過に転じる。その理由は、輸入品の税率が、20%から5%に引き下げられたからだ。つまり関税が下がったのである。関税は、歴史的には古代都市国家における手数料に始まり、ヨーロッパでは内国関税、国境関税というような変遷を経て、今日では一般に「輸入品に課される税」として定義されている。これは輸入する国が定めた法律に従って運営される。
By Master K/益田 慶
幕府が列強諸国と結んだ条約には関税自主権がなく、諸外国との協議で税率を決めるシステムをとっていた。しかし、幕府は1866年、兵庫の開港期限を延長するかわりに関税率を下げ、自由貿易をさまたげる諸制限を撤廃することを記した改税約書に調印したのである。構造改革ではなく、単なるバーター政策だ。
この関税引き下げによって外国商品がどっと安く国内に流れこんできたのである。そして安い商品が大量に国内に流通したことで急激な物価高が発生する。インフレの背景には、輸出の流通システムの崩壊がある。生糸や茶などの輸入品は人気が高かったため、商人は農家から生糸や茶を買い付け、問屋を通さずにそのまま横浜へ直送した。国内の流通は、商品が問屋に集まった段階で一度商品の流通量は調整される。商品が大量すぎると下落するので、蔵に保管して仲買へ渡す量をコントロールする。
しかし、輸出に関しては歴史が浅いため、そういった慣習はなく、商人は問屋を通さずに横浜へ送った。それがどんどん売れたので、商人は全国の産地に出かけ、輸出用の生糸や茶を買い漁り、またどんどん輸出した。そうすると生糸と茶の巨大消費地である江戸や京都、大坂では品薄状態になり、価格が高騰。それに連動して生活必需品が数倍に値上がりしたのである。
一方、海外から安い綿織物や毛織物が大量に入ってきたことで、相対的に値段の高い国内の綿織物はまったく売れなくなり、綿織物業、紡績業、綿花の栽培農家は大きな打撃を受けた。
物価が上がり、国内の綿織物関連は壊滅状態。これでは庶民の生活は苦しくなるばかり。同時に江戸の問屋も大きな打撃を受けていた。そこで、幕府は1860年に「五品江戸廻送令」を発令する。インフレ対策と江戸の問屋の保護を目的とした貿易統制法令である。(1)雑穀(2)水油(3)蝋(4)呉服(5)生糸の5品目は、いったん江戸の問屋を通さないと輸出できないとするものだ。
雑穀や水油、蝋など海外諸国でも生産できる品目がリストに挙がっているのは、当時、清(中国)で勃発した巨大な反乱「太平天国の乱」にイギリスとフランスが介入したことで需要が急増したからである。国内の生産者からすれば、いわば「特需」だが、これに生産供給が追いつかず、国内の物価を押し上げる大きな圧力となっていた。
五品江戸廻送令は、インフレ抑制策としても江戸問屋の保護としても効果はすぐに表われることはなかった。列強各国の商人は「自由貿易を妨げる」と強く反発し、幕府に撤回するよう要求した。一方、国内の商人は法令を無視し、直接横浜港へ商品を送り続けた。ここから「幕府・江戸問屋」対「外国商人・国内商人」という対立構造が見えてくる。