小さな政府江戸幕府 52 幕末の財政事情 幕末の経済状況
サブプライムローン問題が表面化する前年の2006年1月までFRB議長を18年務めたグリーンスパン氏は、サブプライムローンに端を発する世界金融危機を「100年に1度の信用の津波」と表現した。その言葉を借りるなら、400年も続いた江戸時代の幕末とは、まさに「400年に1度」の大転換期であったといえる。では、幕末の財政はどのような状態にあったのか? 幕府の手に負えない財政危機や金融危機が起こったのだろうか?
鎖国をしていた時代の日本は、規制により貿易額こそ大きくなかったものの、輸入超過状態にあった。しかし国内から金が流失し、江戸幕府の財政を圧迫し続けていた。そもそも幕府が鎖国政策を始めた一因に、国内の金銀銅の流出阻止という目的があったわけだが、幕府の意図に反して、国内の金は国外に流出し、海外への所得移転が起こっていた。これに米価の下落が重なり、幕府は貨幣の改鋳を繰り返した。その貨幣が銀の使用量が少ない悪幣だったため、幕府の信用が低下したとされている。
勝海舟は回想録で「幕末期には幕府の金庫は底をついており、新たな財政政策もないまま、破綻寸前にあった」と記している。財政危機は、実質的な開国にあたる横浜港の開港から得られる収益によっても持ちこたえることはできなかったのである。
開国すると同時に、日本の輸出は爆発的に増加した。特に生糸は、その品質の高さから外国商人が買いあさった。さらに米国で南北戦争が勃発して、綿花の国際価格が急上昇し、日本の綿花も買い占められた。当時、中国が輸出規制をしていたため、中国産の代用品として陶磁器や漆器が盛んに輸出されていった。
当時の日本は国内で完全需給体制下にあり、手工業の生産力では対外的な需要を急にまかなうことはできなかった。製品が輸出用のものばかりになると、国内の流通物資は減少する。そのため諸物価は高騰した。反対に、欧米で大量生産された廉価な綿製品が国内に入ってくるようになると、国内の木綿加工産業は壊滅的打撃を受けた。これは国内生産の野菜より中国生産の野菜のほうが安価であるのと同じ現象だ。
国内の生産農家は、価格競争では中国産に勝てない。それと同じ構造で、開国前に綿製品は絹製品に次ぐ高級品であったが、開国後にはその価値は一気に暴落した。そうすると、当時の農業、製造業、流通業、小売業はすべてが打撃を受けたということになる。反対に金融業は、大名の貸し倒れというリスクはあるものの、業界としては活性化していったと予想できる。
そういう状況にあって、金銀の国際レートとの差が、国内の混乱とインフレに拍車をかけたと読むべきだろう。開国前の日本国内の金銀レートは、約1対5だったのに対して、国際相場は1対13だった。つまり「銀高金安」である。その結果、外国商人は、大量の洋銀(メキシコドル)で日本の金貨を買いあさり、海外で売り払って利ザヤを稼いだ。また、日本の銅価格も国際標準よりはるかに安かったために、日本の製品はいとも簡単に外国商人に買い占められてしまった。開港地付近は開港特需にあやかることができても、それ以外のほとんどの地域はインフレに苦しめられたのである。
物価の高騰、地場産業の低迷、これに米の不作が重なれば、諸藩の大名がやり場のない不満を抱くのは当然のこと。だから下級武士や豪農あるいは商人までもが、倒幕の主体となっていくシナリオがこの頃にすでにできていたということだろう。特に自立できる経済基盤を構築してきた薩摩と長州にとって、幕府の政策は地方経済を圧迫するものに過ぎなかった。薩摩は、密貿易や琉球の植民地化によって、貿易のうま味と経済のグローバル化の流れをすでに察知していた。一方の長州は、瀬戸内海の流通網や港の整備によって藩の財政をまかなってきたが、それも横浜開港によって大きな損害をこうむっていた。
By Master K/益田 慶