小さな政府江戸幕府 47 大坂の商業 蔵屋敷と蔵元、掛屋
豊臣政権が全国支配を完成させた頃から、大坂には有力商人が在住するようになった。江戸に幕府が成立し、政治の中心は江戸に移転したものの、商業の中心はそのまま大坂に留まった。幕府は大坂に遠国奉行を置き、諸荷物の監察や幕領の年貢徴収を行なった。
大坂は水運の便利さから物資の集散地として栄えた。各藩は蔵屋敷を大坂に設置し、自国産品を現銀化した。銀に替えたのは、金より銀のほうが価値が高く、また関西は銀が主要貨幣だったからだ。蔵屋敷とは、幕府や大名・旗本などが年貢米や特産品を売りさばくために構えた倉庫を兼ねた屋敷のこと。
江戸、長崎、大津など、交通の要所である商業都市に設置されたが、やはり商業の中心地・大坂に集中した。1670年代には80、1840年代には125の藩の蔵屋敷があり、小藩や大名以外のものを含めると600近くはあったとされている。
それらの蔵屋敷で年貢米の売却が行なわれたため、江戸時代を通じて大坂は米の集積地となった。当初、蔵屋敷は有力商人を表向きの名義人としていたが、実質的には各藩の藩士が管理する形態が多かった。蔵屋敷の運営は藩から派遣された蔵役人が担ったが、除々に指定した商人に管理を請け負わせるようになった。つまり、業務委託である。
請け負った商人は、名義人である名代、蔵元、掛屋などに分類される。名代が蔵元を兼ねる場合もあった。蔵元とは、蔵屋敷の品物の管理・売却を行なう実務責任者のことだ。名代のほか、米問屋や両替商など有力な商人が任されることも多かった。掛屋は、売却代金などの管理・出納を行なう役職で、金融・為替を扱う両替商が任命されるケースや、蔵元が兼ねるケースがあった。
蔵元・掛屋は売買の際に手数料を取ることが許された。また、藩に損害を与えず、必要な出納にいつでも応じることを条件に、藩から預かった資金を自由に運営することが許された。それを元手に投機を行なって莫大な利益をあげる商人もいた。この構造は、顧客から預かった資金を自社の裁量で国債を買ったり、投資をしたりするなどして運用する、現在の証券会社や銀行と同じである。
では、蔵元や掛屋の手腕はどこで問われるのか。それを説明するには、先に蔵米の売買の仕方と流通を知っておく必要がある。蔵元は、まず入札の期日と払い下げ量を公示して米仲買を集めて入札させた。落札者は保証金を納め、その後、7~10日以内に掛屋あるいは蔵元に残り代金を払って、受領書にあたる銀切手を引き取り、それを30日以内に蔵屋敷に差し出し、米切手と交換した。持参人が米切手を提示すれば、蔵屋敷は記載された量の米を渡さなければならなかった。
ただし、蔵屋敷側には30日~1年の猶予が与えられていた。米仲買は、米切手を譲渡することも換金することもできた。小切手や商品券と同じである。蔵元はすでに保証金を手にしているので、藩から預かった資金とともに運用して大きくを増やすことができた。また、米価はたえず上下していたので、高い時期に販売し、米価が下がっている時に渡せば、その差額分は蔵元の利益となった。余った米をさら売買することもできたし、換金することもできた。つまり、蔵元や掛屋には為替を読む力と相場師の才覚が必要だったのである。
優れた商人のなかには、複数の藩の蔵元や掛屋を兼務する者もいた。有名な蔵元が「淀屋」だ。淀屋は材木商から生糸貿易商を経て蔵元となった。掛屋を兼ね、財政が悪化している大名に金を貸し付ける大名貸しで財を成した。「大名金融」である。
大名貸は表向きは信用貸しであったが、実質は蔵米が担保となっていた。それは藩の年貢米である。大名貸しは、来年入荷の米と引き換えに、金を貸すこと。藩がつぶれることがなければ返済はされるわけだが、大きなリスクもあった。蔵元や掛屋としての契約を打ち切られる可能性を常に抱えていたのだ。また、一方的な債務の繰り延べも行なわれた。特に薩摩藩のように財政危機に陥っている貧乏藩に大名貸しをすれば、借金を踏み倒されるリスクがつきまとったのである。
By Master K/益田 慶