小さな政府江戸幕府 46 風俗と統制 髪結い床と銭湯の営業権と株
江戸時代に繁盛した髪結い床(現在の理髪業)と銭湯は、ともに幕府から営業権を与えられたサービス業である。共通しているのには、営業権が株として売買されたことだ。
雑用をこなす召使を抱えていた武士と異なり、庶民は自分で髪を整えることができなかった。庶民が、マゲを結い、ヒゲをそることを専門の職人に依頼するようになったのは、近世に入ってからだ。
江戸に男性の髪結い床が登場したのは、家康の入府からすぐのこと。江戸は男性の比率が高く、また庶民は自分で月代(前額側から頭頂部にかけて半月形にそりおとした成人男性の髪形)を整えることができなかったため、専門の職人が料金をもらって仕事をするようになったのだ。地方では村で抱えられ、「床」と呼ばれる仮店で営業を行なった。
そこから「床屋」という呼び名が生まれた。江戸では、当初は高札場(お触れを掲げたれ、法令の発令を告知したりする施設)の番所に願い出て営業権を得ていた。そして幕府は1659年、髪結い床に鑑札を発行し、一町に一床と定めた。鑑札とは営業権を示す札のことだ。現在も特定の川では、釣りをする際に鑑札が必要とされている。
髪結い床には二種類あり、道具を持って得意先に出張して仕事をする職人は「廻り髪結い」と呼ばれた。彼らは得意先と年季契約し、おもに大店に抱えられていた。つまり、スポンサーがついていたのである。主人の理髪料は1回百文前後、従業員の理髪料はその半分程度の料金を取った。酒一升が二百五十文だったことと比較すれば、悪くない料金である。
一方、市中の仮店舗で商売をする職人のうち、番所や会所で営業する者は「内床」、橋のそばや辻で営業する者は「出床」と呼ばれ、町の見張り番や出火の際の役所への駆け込みなどが役として課せられた。いや、むしろ「見張り役をするのに好都合の場所である橋詰や辻で店を開くなら、営業権を与えよう」という条件であったようだ。ユニークなのは営業権を与えてもらうかわりに、町の公の仕事も担わされたことだ。幕府からすれば、幕府の危機管理部門に協力してくれるボランティアである。役人を使うのでなく、庶民をタダで使うとは、「小さな政府」ならではの発想といえよう。
ところで、髪結い床の収入は利益率が高く、とても安定していたため、営業権が株として高額で売買された。高いものでは七百~八百両する場合もあった。一人で数株を所有する裕福な町人もいたという。享保年間になると、江戸市中に1000以上の髪結い床があったという。おそらく江戸の人口が爆発的に増えたため、営業権も多く発行されたのであろう。
江戸時代の銭湯もまた営業権を得て店を開いた。江戸時代後期には一町に二軒ほどはあったというが、それ以前は銭湯の数はごくごく少なかった。その理由は家事の心配と燃料費の高さがあったからだ。特に江戸は木造住宅の密集地が多く、出火すれば広い範囲に被害が及ぶことから、幕府は限られた者にしか営業権を発行しなかった。しかし、一部の武家屋敷を除けば、ほとんどの家に風呂はなく、宿屋ですら客は銭湯に通ったほどだった。ニーズはあるが、店自体は少ない。そのため銭湯の営業権は「湯屋株」と呼ばれ、江戸の豪商の投資対象としても好まれたという。入浴料は蕎麦の半額程度の料金であったが、客が多かったため、安定した経営が営めたようだ。
興味深いのは、髪結い床も銭湯も営業権が株として高額で取り引きされたことにある。幕府は予想していなかったことかもしれないが、アダム・スミスのいうところの「神の手」に任せておけば、経済は勝手によい方向に展開していくと考えていたようだ。そういった意味では、江戸時代は商業を中心とした資本主義がいち早く動き出した時代といえよう。
By Master K/益田 慶