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小さな政府江戸幕府 45 風俗と統制 江戸の「風営法」岡場所の取り締まり

幕府は吉原でのみ遊女商売を許可し、それ以外での営業を禁止していた。江戸初期の銭湯には性的なサービスを提供する湯女(ゆな)が常駐する「湯女風呂」が非合法で営業し、一時期は元吉原と競合する勢力になっていた。新吉原の完成以降、禁止令が発令された。


一方、人々が多く集まる歓楽街や宿場町で、遊女商売は広く行われていた。そうした場所は「岡場所」と呼ばれた。「岡」は、脇、外を表わす言葉なので、吉原の外、吉原から見て脇の場所といった意味があったようだ。吉原を「公娼」とするなら、岡場所は「私娼」だ。


吉原は、格式も高く、玉代が高いほかに、いろいろなしきたりがあったが、岡場所は、さほど優れた遊女がいないために、代金も安く、気軽に遊べる場所として利用されていた。吉原で遊ぶには、現在の価値でいえば10万円以上必要だったが、岡場所なら1万円で遊ぶことができた。つまり、大衆のニーズに合わせた市場経済が自然に生まれていたのである。そういう意味では、百貨店とスーパー、コンビニ、ディスカウントショップが共存している現在の構造と同じだ。しかし、吉原の経営者たちからすれば、岡場所は営業妨害にあたる。吉原から税金を取って公認の遊郭とした手前、幕府は権威を保つため、岡場所の取り締まりを強化した。


八代将軍・吉宗は、南町奉行の大岡忠相に江戸市中の遊女取り締まりの強化を命じた。幕府は1718年、「江戸日本橋から半径40キロ以内の各街道の宿場では、旅籠屋一軒につき飯盛女の数は2名まで」と定めた。飯盛女とは食事をまかなう女性のことだが、当時の旅籠屋は飯盛女になりすました遊女の職場であった。つまり、岡場所である。幕府は、遊女の数を限定することで、宿場町における遊女取り締まりを強化したのである。現在なら「風営法」の改定だ。


対象となった宿場は、江戸市中では品川宿、内藤新宿、板橋、千住などだ。甲州道中の内藤新宿に至っては、見せしめの目的で廃宿にまで追い込まれた。
大岡忠相は、町触で奉行が巡回し、岡場所を摘発すると警告している。摘発の対象は、遊女、事業者、派遣業者、遊女を住まわせている家主、場所を提供する茶屋などだ。関係者からの密告も奨励し、前出した関係者の密告については本人を免罪とする「裏取引」とでもいうべき特例処置も記している。町奉行が警察署と裁判所を兼ねていたからこそできた特例処置だ。


大岡忠相は、本所松坂町(現・墨田区)や三田同朋町(現・港区)で遊女を摘発し、事業者を処罰。町名主も監督不行届きとして罰金を課せられた。さらに1722年には、遊女商売の業者たちの家屋や家財を没収する旨の町触を出した。


つまり「差し押さえ」である。そして江戸有数の岡場所として知られた護国寺門前の音羽町(現・文京区)を摘発し、遊女商売を営んでいる家屋の撤去を命じた。こちらは要するに「強制撤去」だ。このように幕府は、わずかな人数で「風営法」を改定し、差し押さえ、強制撤去といった手法で非合法ビジネスを摘発していったのである。


余談だが、のちに深川仲町に芸事を披露する芸者が登場し、吉原から客を奪ってゆく。芸者は明治時代に繁盛するが、大正時代に「ダンスホール」や「カフェ」を名乗る店の女給に客を奪われ、女給はやがてバーのホステスによって駆逐される。1946年、GHQによってすべての公娼が禁止される。1957年に売春禁止法が発令されるまで非合法で売春が行われていた地域は「青線」「赤線」と呼ばれた。青線の代表には、新宿ゴールデン街、横浜・黄金町があり、現在もわずかだが、その面影を残している。

By Master K/益田 慶