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小さな政府江戸幕府 44 風俗と統制 公娼制度と遊郭

江戸時代の公娼制度の特徴のひとつが、散在する遊女屋を特定地域に集合させたことだ。つまり、遊郭の設置である。これが現代にまで至る「ソープランド街」の起源だ。


公娼制度は、江戸が大都市に変貌する際に避けて通れない事情から生まれた都市政策の一環であった。家康は江戸に幕府を開くにあたり、三河から大勢の家臣団を引き連れてきた。彼らの住む場所を確保し、水道を引いたり、橋を掛けたりするインフラ整備を急ピッチで進めるため、関東一円から人足が集まった。つまり、ゴールドラッシュのように多くの男性が江戸に集まったのである。江戸初期の人口の男女比は、圧倒的に男性が多かったことは容易に想像できる。娯楽のない時代に、彼らが息抜きに求めるのは、当然「飲む」「打つ」「買う」だ。そういったニーズに対応するように、初期の江戸では遊女屋が点在して営業を始めた。


一方、幕府は江戸城の建設と武家屋敷の整備を進めた。そのため、庶民や遊女屋もたびたび移転を強制された。都市開発が国民の生活より優先することは、近代国家の証ともいえよう。しかし、あまりにも頻繁に移転を命じられた遊女屋の経営者たちが幕府に遊郭の設置を陳情。数年かかってようやく受理されたのである。


幕府は1617年、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、「吉原」と命名した。そこは当時の海岸に近い地域で、葦の茂る僻地だった。葦が茂る原っぱの「葦原」が転じて「吉原」となったようだ。


このとき幕府は、いくつかの規制を経営者たちに加えた。具体的には、江戸市中にはいっさい遊女屋を置かないこと、遊女の市中への派遣の禁止、建物や遊女の着物を地味にすること、営業は日中に限ることなどだ。これらの条件を遊女組合が認めたことで、江戸の公娼制度はスタートした。


幕府は、遊郭を公認する見返りとして経営者から冥加金(上納金)を受け取ることができ、まとめて管理することが可能になった。一方、遊女屋の経営者は市場を独占できるメリットがあった。また、大御所家康の終焉の地、駿府城城下にあった遊郭が移転されたという記録も残っている。まるで産業移転である。


やがて江戸の中心地はどんどん郊外に拡大し、かつて僻地にあった「吉原」にまで迫るようになった。そこで、幕府は1657年、浅草日本提下に移転を命じた。この際に「新吉原」が営業できる土地は5割増しとなり、夜の営業も許可された。吉原は、江戸の一大産業になっていたのである。


吉原は「1日に千両落ちる」といわれたことから、現在の価値にして約1億円もの金が動いたことになる。材木ビジネスで巨額の富を築いた紀伊国屋文左衛門や両替商などの豪遊ぶりは江戸の話題を集めるほどで、吉原の市場規模と飲食や着物などを含めた経済効果は相当な額に達したと想像できる。こうして国内最大規模を誇る遊郭が誕生し、江戸市中の最大の歓楽街となった。また、京都、伏見、兵庫、大津などにも公認の遊郭が設置された。吉原が繁盛することで、幕府への上納金も増えたが、市場ニーズがあることから非公認の遊女屋も増え続けた。


特に人々が多く集まる歓楽街や宿場町が大きくなるにつれ、非公認の遊女ビジネスは広がりを見せた。吉原以外の非公認遊女屋が集まる歓楽街を「岡場所」と呼び、幕府にとっては大きな問題となっていった。何が問題かといえは、冥加金(上納金)が取れないことと、風紀が乱れることだ。また、幕府公認の吉原からすれば営業妨害に他ならない。吉原の経営者組合は、町奉行所に頻繁に取り締まりの強化を求めた。


このようにして幕府と非公認ビジネスの追いかけっこが本格的になる。最も厳しくなるのが「享保の改革」期間。町奉行の大岡忠相は将軍吉宗からの命令で、組織的な摘発作戦を開始したのであった。


By Master K/益田 慶