小さな政府江戸幕府 43 風俗と統制 往来手形とお蔭参り
江戸時代、一般庶民が旅行する際に、必ず所持しなければならなかったのが「往来手形」だ。現在のパスポートに相当するものである。さらに、これとは別に関所を通る際には「関所手形」が必要で、通過するごとに提出した。
往来手形を発行するのは、一般庶民の場合、自分の菩提寺、自分の住む地区の名主、庄屋、組頭などだ。手形には、所有者の住所・氏名、女性の場合は戸主との続柄、発行した寺の檀家であることや、その地区に在住していること、旅行の目的などが記されていた。また、途中で行き倒れた時は旅宿の世話を、病死の場合は、その土地の習慣での処置を依頼し、ついでの折に連絡してくれるよう記してあった。
また、江戸から出る女性は身分にかかわらず、「往来手形」とは別に「女手形」と呼ばれる関所手形を必要とした。また、江戸の各藩邸の女性が旅に出る際には、この女手形を幕府留守居に発行してもらう必要があった。幕府留守居とは、幕府および諸藩に置かれた職名のひとつ。幕府の留守居は老中の配下で、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時には江戸城の留守を担った。現在なら高級官僚である。
一方、諸藩の留守居は、藩主が江戸藩邸に不在の場合に藩邸の守護にあたったほか、江戸城につめて幕府から示される様々な法令を入手したり、幕府に提出する上書の作成を行なったりした。彼らは幕府公認の留守居組合をつくって情報交換をしていたという。各藩の外交官のような存在といえよう。
女性の旅人は、その幕府留守居が発行した手形に記載された身体の特徴と相違がないか、髪をといてまで調べられたという。女性が厳しくチェックされたのは、決して「九ノ一」(女性忍者)を捕えるためでなく、人質として江戸に居住させた諸大名の妻女らの逃亡を阻止するのが目的だった。江戸時代は、藩主の妻や母、娘が各藩の江戸邸宅に住むよう強制されていた。いわゆる「幕府の人質」だ。藩主は幕府に人質をとられているため、クーデターを起こせなかった。しかし、彼女たちが極秘に江戸を逃れることができれば、藩主が謀反を起こす可能性が高くなる。そこで、江戸の各藩邸の女性が旅に出るには、幕府は厳しいチェックを行なったのだ。
こういった関所は、箱根のような要所に限らず、主要街道に設けられ、全国に53を数えた。また、同じ目的で海路のチェックも行われており、当初は伊豆・下田の番所、江戸中期以降は相模の浦賀番所が「海の関所」の役割を担った。このように規制はあったものの、旅はレジャー化していった。
江戸時代に入ると、五街道をはじめとする交通網が発達し、庶民にとって旅行が大きな娯楽となった。最も有名なのが「お蔭参り」と呼ばれた伊勢神宮への参詣だ。巡礼と観光が一緒になったような旅である。庶民の旅には前述のように厳しい規制があったが、伊勢神宮参詣なら許される風潮だったので、「お蔭参り」が大ブームに発展したのである。当時の庶民にとって伊勢までの旅費は、相当な負担だったので、「お伊勢講」という特殊な積立てが考案された。
講の所属者はお金を出し合い、それを合わせて旅費に当てた。代表として誰が行くかは「くじ引き」で決まったが、講の全員がいつかは当たるよう配慮されていた。農民の場合、「お蔭参り」は農閑期が利用されたので、同じ時期に全国から伊勢神宮に数万人もの旅人が集まったという。
この「お蔭参り」の経済効果は大きく、街道沿いの物価が高騰したほか、京都や松坂など都市の流行りの着物を土産にする旅行者が急増し、商業が一気に活性化した。またガイドブックや旅行記に該当する本が発売され、「お蔭参り」は江戸時代の庶民が「一生に一度は経験したい」一大レジャーへと成長した。
By Master K/益田 慶