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小さな政府江戸幕府 41 外交政策 朝鮮通信使と朝鮮外交・貿易

朝鮮王国が江戸幕府に派遣した公式の外交使節団を「朝鮮通信使」という。秀吉の朝鮮出兵によって断絶していた国交を回復し、捕虜を返還したのが家康だった。家康は外交に積極的で、中国(明)や朝鮮との貿易は必要不可欠と判断していたようだ。また、貿易面で朝鮮への依存度の高い対馬藩にとっては、国交回復は悲願だった。対馬藩が仲介し、家康は朝鮮の使者と面談。朝鮮通信使を受け入れることを決定した。1607年以降、1811年まで幕府は計12回、朝鮮通信使を受け入れている。


朝鮮通信使は将軍の交代や世継ぎ誕生の際、将軍家を祝賀するためにやってきた。ルートは釜山-対馬-瀬戸内海-大坂-淀と航行し、淀から陸路を行列。京都から東海道をわたって行列したことから、行列自体が庶民の娯楽となり、ひいては将軍の権威を誇示するために利用された。鎖国政策を敷いてからは、直接中国大陸文化にふれることりできる貴重な機会となった。


当時の日本人は「再び朝鮮半島を攻撃されると困るので、朝鮮通信使が貢物を持って将軍の機嫌をとりに来る」と考えていたようだが、韓国では朝鮮通信使を「日本は韓国の先進学問を学ぶために懸命だったので、使節団は外交使節としてのみならず、先進文化を日本に伝播する役割を果たした」と位置づけている。事実、茶道、儒教、書道、水墨画、易、暦、建築、漢方、陶芸など、朝鮮半島から伝わってきたものばかりだ。


実は朝鮮出兵の際に日本に連れ去られた儒教家や陶工は、日本では手厚い待遇を受けていた。茶器や陶器をつくりだす陶工は大名によって保護され、各地に焼き物の窯が開かれた。朝鮮通信使が来日し、捕虜の返還を求めた際、拉致されている陶工の多くが、日本に留まることを望んだという。朝鮮では儒教思想による身分制度によって陶工が最下位に位置づけられ、奴隷のような労働を強いられていたからだ。


一方、対馬藩は釜山に建設した「倭館」と呼ばれる日本人居留地で外交と通商を行なった。幕府から許された特権を最大限に活用したのだ。外交官と商人が混在していたことが倭館の特徴だ。倭館に居住を許された日本人は、対馬藩から派遣された館主、代官、書記官、通訳、彼らの使用人、仕立屋、酒屋、医学留学生などだ。館主、代官、書記官は、対馬藩の貿易担当役人だが、それ以外は民間人である。常時400~500人滞在していたと推定される。この倭館が外交と交易の場となった。


江戸時代前期、朝鮮は、朝鮮人参(高麗人参)、トラ皮に加え、中国産の生糸、絹織物などを日本に輸出していた。中国のシルクは高級品として日本の貴族、大名に好まれていたが、日本船は中国(明)への入港を拒否されていたため、朝鮮から購入せざるを得なかった。対馬藩は倭館で中国-朝鮮-日本というルートの中継貿易を営み、巨額の利益を得た。


しかし、18世紀に入ると日本国内で絹生産の技術が向上し、中国産の絹の輸入は減少した。また、朝鮮側が門外不出としていた朝鮮人参の種が密かに日本に持ち出され、国内で朝鮮人参の栽培が始まったため、朝鮮人参は日本に輸出されなくなったという。対馬藩にとってそれは大きな痛手だった。さらに通信使接待の莫大な負担もあって、対馬藩の財政は窮乏した。


さて、幕府が対馬藩の交易にどれだけ関与していたのかといえば、実は深くタッチしていなかった。対馬藩や倭館は幕府の直轄領ではないので、いわば「経済は自由にしろ」という状態。対馬藩は、幕府にメリットとなる朝鮮通信使の窓口という国の仕事と、藩の財政を安定させるための交易を同時に実現していたのである。


By Master K/益田 慶