小さな政府江戸幕府 40 外交政策 鎖国と貿易 古伊万里
江戸幕府の外交政策といえば、三代将軍家光がポルトガル船の来航を禁止した鎖国政策が有名だ。政府が民間の自由貿易を規制することは「小さな政府」の方向に反するが、世界貿易機関(WTO) やFTA(自由貿易協定)のない時代、欧州列強による貿易目的の侵略が横行していたことを考えると、鎖国の意味は変わってくる。ポルトガルやイギリス、オランダ、スペインなど当時の列強の植民地にならなかったのは鎖国政策があったからだとする意見もある。
また、鎖国するまでの日本は輸入大国で、金銀が大量に海外に流出していたので、貿易量を規制して流出を阻止するしか術はなかったという見方もある。当時の日本は世界屈指の金銀の産出国であったため、金銀の純度の高い貨幣を鋳造していた。貿易を行えば、金銀が流出するのは当然のこと。
さらに、将軍はもとより幕臣に外交能力がなければ、余計な外交をして経済が混乱するより、外交をしない政策が国内市場への介入を少なくする方策であったともいえる。江戸時代に国家の存亡にかかわるような事件がなく、平和が長く続いたので、産業と金融が発展し、近代化の基盤となったのは事実である。
貿易を規制したとはいえ、実際には以下の4つのチャンネルで貿易は行われていた。1.長崎・出島-オランダ船、中国船の窓口。幕府の直轄地で幕府の管理で貿易が行われた。2.対馬-朝鮮との窓口。対馬藩の宗氏が対朝鮮外交・貿易の仲介者となった。3.薩摩-薩摩藩・島津氏が琉球を支配したことで、琉球を通じた貿易が行われた。4.蝦夷-松前藩による蝦夷地での北方貿易が盛んであった。
なかでも長崎・出島ルートは、日本の特産物を諸外国に届ける貴重なルートだった。たとえば江戸前期に肥前国(現佐賀県)で焼かれた古伊万里の皿の破片が、メキシコで見つかっている。古伊万里の研究家が調査した結果、その文様から1660年~1680年頃に有田で生産された磁器であることが判明。では、古伊万里は、どうして国交のなかったメキシコまでやって来たのだろうか? じつはこの謎には、中国と台湾とフィリピンが深くかかわり、謎を解くカギはスペイン人が握っていた。
その美しさからヨーロッパで絶大な人気を誇った磁器の生産国である中国は、明から清への移行期間、民間貿易を禁じる海禁令(1656年~1684年)を発令した。そこで肥前国の磁器の産地では、中国製品の代用品として輸出向け製品がつくられた。当時の日本は鎖国状態だったが、オランダ船と公認の中国船のみ長崎への来航が許されていた。1647年には、中国商人によってカンボジアへの伊万里の輸出が始まり、台湾経由でフィリピンにも運ばれた。1659年にはオランダ東インド会社がハノイ(ベトナム)に納めた。これが人気を呼び、1659年から中東やヨーロッパへ大量の日本製磁器が輸出された。
当時日本とスペインは直接の交易はなかったが、フィリピンとメキシコはともにスペインの植民地だった。公認の中国船が長崎から台湾まで古伊万里を運び、次にジャンク船が台湾からマニラへ製品を届ける。それを購入したスペイン人がマニラからメキシコまで伊万里を運んだのだ。
スペインの貿易船は当時、マニラで香辛料や絹を積み、太平洋ルートでメキシコに運んでいた。その船に古伊万里も載せられていたのだろう。そしてメキシコのスペイン人が、中国製品の代用品として古伊万里を使用。その破片が埋められた。メキシコで見つかった古伊万里の破片は、こういった貿易ルートを物語っている。
鎖国状態であったとはいえ、世界の貿易は活況を呈し、日本の製品も海外に輸出されていたということだ。
By Master K/益田 慶