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小さな政府江戸幕府 39 名君・名家老の藩財政改革 土佐藩

土佐藩は、「関が原の戦い」の際に東軍についた山内一豊が徳川氏から与えられた領地だ。藩政が確立したのは、二代目藩主・山内忠義の時代。奉行の野中兼山に命じて「寛永の藩政改革」を推進し、それが成功したことで藩の財政システムができあがったのだ。


兼山の評価は、二つに分かれる。ひとつは比類のない政治家で、土佐藩の経済的基盤を形成した名家老とするもの、もうひとつは藩政を支配して領民の反発を招いた極悪人というものだ。


外様大名である土佐藩山内家は、徳川氏から大規模な公共事業「手伝普請」に駆り出されていた。また、地理的な条件から参勤交代にかかる費用が莫大であったため、増収策に熱心であった。熊本藩や薩摩藩のように借金の多い「貧乏藩」ではなかったが、支出が多かったのだ。


兼山の藩政改革で効果があったのは、まず新田開発だ。土佐藩は水田が少なく、山間部は畑で占められていたので、米が不足していた。兼山は「関が原の戦い」以前の旧領主・長宗我部氏時代の在郷武士で農民扱いになっている集団を新田開発に取り立て、年貢の徴収に当たらせた。民間からの役人登用だ。それは新しい領主となった山内家を嫌う彼らの不満を解消することと、農民支配、新田開発による増収を一度に実現できる策だった。


次に効果的だったのが、港湾の改修、堤防の建設、用水路建設など治水事業と木材の育成・販売だ。築港によって藩内の特産物を船で諸藩に運ぶことが可能になり、また藩外から商品を受け入れることが容易になった。特に長崎から取り寄せた砂糖は、土佐藩には貴重品だった。


森林経営から得た利益は、藩の財源にあてた。兼山が優れていたのは、木材を港に集めるために先に河川を改修したことと、むやみな伐採による山の荒廃を防ぐため材木業者にルールを定めたことだ。トラックのない江戸時代、伐採された木材は上流から下流に流された。川が輸送ルートだったので、河川改修が先に行われたのである。兼山は同時に植林を推奨した。台風の多い土佐における植林は防風林となり、海岸の土砂崩れ防止のためにも必要であった。高知県産の材木、特にヒノキと紙が現在ブランドになっているのは、兼山が導入した「森林の管理」という考え方が浸透したからである。


また、捕鯨、陶器、養蜂、鰹節などの技術の移入を積極的に進め、専売制を強化した。土佐の捕鯨は江戸時代から有名だが、実は紀州の太地で生まれた組織的な捕鯨法が手本だ。鯨はビジネスになると見込んだ兼山が、捕鯨法を"技術輸入"したのが始まりである。養蜂は、ミカン、レンゲ、ビワなど蜜源が豊富な地域に適しており、土佐の暖かい気候は養蜂に最適だった。現在、高知県の養蜂は特産物となっている。ほかに茶、漆、油菜などを専売制にして藩で買い上げ、転売して利益をあげた。これらの政策によって藩財政は好転し、明治維新にいたるまで土佐藩の経済的基盤となった。


その一方で、兼山には多くの反発が集まった。過酷な税の徴収、米価の統制、米の売り惜しみの禁止、贅沢の禁止などの政策が領民に不満を植えつけたのだ。また、茶や鰹節、油や野菜の専売制の強行によって、漁民・商人・職人のいずれもが苦境に立たされることになった。
二代目藩主・山内忠義が隠居後、兼山は彼に不満を持つ家老によって弾劾される。藩政改革は成功したが、個人的な恨みを買ったということだ。いつの時代も本質的な部分は変わりないようだ。


By Master K/益田 慶