小さな政府江戸幕府 38 名君・名家老の藩財政改革 薩摩藩
外様大名の中で加賀藩(102万石)に次ぐ石高90万石を築いたのが薩摩藩だ。薩摩藩藩主は、鎌倉時代に当地の守護に任じられた島津氏だ。島津氏は江戸幕府が開かれて以降に琉球王国を服属させ、いち早く中国との貿易を開始したことから、もともと貿易のセンスがあったようだ。奄美産の砂糖で利益をあげていたという。
しかし、藩内の土壌が農作に向かない火山灰層であったため、実際の石高は半分程度だったといわれている。薩摩藩ほどの大きな藩の財政が苦しかった理由は、台風や火山の噴火など災害を受けやすい立地であったばかりでなく、幕府の大規模な公共事業「手伝普請」に駆り出され、大きな出費が生まれていたからだ。徳川コンツェルンの命令で、徳川氏の領土の土木工事をさせられたのである。もちろん、これは外様大名が資金や武力を蓄えられないようにするための戦略である。
石高は大きいが、実態は「貧乏藩」だった薩摩藩の藩制改革に着手したのは、10代藩主島津斉興(なりおき)と、11代藩主島津斉彬(なりあきら)だ。斉興が藩主となった当時、500万両にも及ぶ莫大な借金を抱え、破綻寸前だった。現在の金額に換算すると約4000億円。
完全に「財政再建団体」である。斉興の部下である家老の調所広郷は、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いとした一方で、琉球を通じて清と密貿易を行ない、利益をあげた。大島や徳之島で収穫できる砂糖を専売制にして財政改革を進め、250万両の蓄えができるまで財政は回復する。調所広郷は、財政の救世主でありながら、データィーな側面も併せ持っていたようだ。
その斉興と調所を失脚させたのが、斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれ、育った島津斉彬だ。11代藩主となった彼が打ち出した政策は、砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大に加え、当時としては画期的な事業、工場群の建設だった。調所が蓄えた資金を洋式の藩営工場の設立に投資し、鹿児島城下の磯地区に工場群を築いたのだ。のちに「集成館事業」と呼ばれた政策だ。
建設された工場は、造船・製鉄・銃砲・電力・紡績・ガラス・食品・出版・医療など多伎にわたる。これらの工場は地場産業の育成という側面と、「富国強兵」政策を同時に具現化したものともいえる。驚くべきは、造船や溶鉱炉、ガラス製造やガス灯製造など当時の科学技術の最先端が集まっていることだ。少し古いたとえだが、鹿児島城下の磯地区は「シリコンバレー」のような様相だったのだろう。
斉彬は軍備にも力を入れ、オランダから軍艦「咸臨丸」を購入し、海防の強化を図った。また、独自に西洋帆船「伊呂波丸」、西洋式軍艦「昇平丸」を建造し、徳川幕府に献上した。これだけの政策をひとつの藩が実行したのだから、江戸時代は政策面では藩の自治が守られ、藩自体が「小さな政府」であったことがうかがい知れる。
下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用したのも斉彬だ。ちなみに、「日の丸」を日本船章にしようと幕府に提案したのが斉彬である。さらに斉彬は現在でいうところの「知事ネットワーク」をつくり、福井藩、宇和島藩、土佐藩、水戸藩、尾張藩らと常に情報交換し、幕政にも積極的に口を挟んだ。このトレンドがのちに倒幕の動きへつながっていくのである。
斉彬は鎖国政策の廃止とともに国防の意識も高かったようだ。それにしても、藩主が工場建設に投資するとは、時代を見通す眼力に優れていた人物である。幕末に薩摩藩が新型の蒸気船や鉄砲、大砲を大量に保有できたのは、斉彬が「集成館事業」によって製品を販売し、財力を蓄えたからである。
By Master K/益田 慶