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小さな政府江戸幕府 37 名君・名家老の藩財政改革 熊本藩

熊本藩は、「関ヶ原の戦い」で戦功をあげた加藤清正が52万石を得て築いた藩。名城の誉高い熊本城を築城したのが清正だ。その後、加藤家の断絶により小倉藩から細川忠利が入封し、廃藩置県まで細川家が藩主を務めた。


熊本藩の財政は常に危機的状況にあった。ひらたくいえば「貧乏藩」だ。特に4代将軍細川宣紀の時代に、飢饉、イナゴの大発生、洪水、疫病、台風がたて続きに起こり、40万両近い借財を抱えた。現在の金額に換算すると約320億円。今なら夕張市のように「財政再建団体」に指定されるだろう。


そのような緊迫した状態の中で、実兄で5代目藩主の宗孝が急死したことで6代藩主となった細川重賢は、「宝暦の改革」と呼ばれる藩政改革を遂行する。後に名君と謳われる重賢は、米沢藩藩主上杉鷹山の手本になった政治家である。


徳川吉宗が大岡忠相を抜擢したように、重賢はまず堀勝名を筆頭奉行に抜擢する。堀は反対派を抑えて6人の奉行に権限を集中させた。組織改革を行ない、部門別マネジメント制を敷き、命令系統の再構築を試みたのである。


奉行に任命された堀は、大坂に向かい、当時の国内最大の豪商・鴻池家に借入を申し出る。しかし鴻池は要請を拒否。熊本藩に返済能力はないと見たからだ。堀はすぐさま米問屋と両替商を兼業する加島屋に交渉する。江戸時代の「大名貸し」は、表向き信用貸しであったが、実際には蔵米が担保になった。堀は熊本藩の年貢を加島屋に渡すことを条件に資金を得る。堀は財政再建の手腕が認められ、のちに家老まで出世する。

重賢は質素倹約を推奨し、江戸藩邸の費用に限度額を設定。米だけに依存することに限界を覚えていた重賢は、殖産興業を命じる。生糸、ロウソクの原料になる櫨(はぜ)、和紙の原料になるコウゾなどを専売制に切り替え、藩が強制的に買い上げた。それらの原料を仕入れた藩は、加島屋から借りた金を資金にして建設した藩営工場で和紙やロウソクなどに加工し、大坂の加島屋を通じて藩外に輸送し、大きな収入を得た。重賢は、製造業の振興と流通整備をやってのけたのである。藩がメーカーとなり、加島屋がブローカーとなって、商品を流通させる方法は画期的だ。この改革によって財政は好転していく。


重賢は財政改革のみならず、教育や法制改革も実施した。熊本城内に藩校「時習館」を開き、許可さえ得れば身分に関係なく入校できるようにした。さらに現在でいう「奨学金制度」を導入し、人材育成に力を注いだ。また、医学校「再春館」も設立した。のちに熊本医学校を経て熊本大学医学部となる。ちなみに熊本県の薬品メーカー「再春館製薬所」は「再春館」にちなんで命名されている。また、1883年に熊本県で生まれた、「日本細菌学の父」北里柴三郎は熊本藩校「時習館」、熊本医学校を経て、現在の東大医学部に進んでいるので、重賢は「日本細菌学の父」の父ということになる。


さらに重賢は行政と司法を分離し、刑法を改定した。それまでの刑罰は、死刑か追放刑しかなかったが、懲役を設けて厳刑制度をつくり、罪人の社会復帰を容易にした。この「刑法叢書」は明治憲法下の刑法の手本とされ、熊本県から多くの人材が法曹界に採用された。


このように幅広い分野で改革を実施し、貧乏藩を再興した細川重賢の政治家としての手腕は現在も高く評価されている。細川家は明治に入り、侯爵の位につき華族となる。ちなみに、第79代内閣総理大臣の細川護熙氏は、細川家第18代当主。熊本県知事から「日本新党」代表として衆院選に立候補して当選。閣僚を経ずに首相になった。政界引退後は、陶芸家として活躍している。その育ちの良さから「殿様」と呼ばれたが、廃藩置県がなく、細川家が藩主のままであったなら、間違いなく本当に殿様になっていた人物である。


By Master K/益田 慶