小さな政府江戸幕府 36 名君・名家老の藩財政改革 岡山藩
「関ヶ原の戦い」で西軍から東軍に寝返り、東軍勝利のきっかけとなった小早川秀秋が立藩した岡山藩。秀秋は子供に恵まれなかったため、東軍の武将として大きな功績をあげた池田輝政を本流とする池田氏が岡山藩主となる。名君と謳われた池田光政は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主を務めた大物外様大名で政治家だ。
しかし大名の宿命として、幕府から与えられた藩に「国替え」を命じられれば、従わざるを得ない。大名は徳川家から藩主に任命され、各藩に派遣される形だ。しかし三つの藩で藩主を務めた政治家は珍しい。現在なら兵庫県、鳥取県、岡山県の知事に続けて就任したようなものである。
池田光政は岡山藩主を務めた10年間で藩の改革を成功させ、明治まで続く池田氏支配体制を確立した。光政の政治の基本は、質素倹約、教育の充実、新田開拓、産業振興、有能な人材の登用だ。最も有名なのが、1641年に全国初の藩校「花畠教場」を開校、同時に庶民のための「手習所」を藩内数百カ所につくり、のちに統一して1670年に日本最古の庶民の学校「閑谷学校」を開校したことだ。
閑谷学校は藩立の学校としてスタートしたが、藩主が代わった場合でも学校が存続するよう特別に「学校領」を設け、藩財政より独立させた。学校所有の田畑や林から得た収入で学校の運営をまかなえるようにしたのである。施設の建築費と人材募集は藩が行ない、いわば「県立学校」としてスタートさせ、軌道に乗れば第三セクターの機関が「私立学校」として独立採算で運営していくという方式だ。これは世界的にも画期的なシステムである。
光政は学問好きの大名だったので、学問の大切さを理解していたのだろう、庶民の子供らに勉学をすすめ、役人や富豪の子供には月15日は学校に通うことを義務づけた。藩主の命令となれば、半ば義務教育である。江戸時代初期にこれほど教育に力を注いだ大名はいない。江戸幕府が藩主の個性や自治権を尊重していたということだろう。
現在、岡山県が「教育県」と呼ばれるのは、寺子屋、私塾、高等女学校の数が他県より多く、大学・短大の設置数(人口10万人当たり)が全国第6位と高い水準にあるからだが、実はその基盤を築いたのが光政なのだ。彼は家柄は無視し、有能な人物を抜擢した。陽明学者・熊沢蕃山を番頭に招き、零細農民の救済や治水事業分野と藩校「花畠教場」の運営を任せたのも光政の手腕だ。
光政の政治によって岡山藩の藩政は安定し、発展したが、大藩ともなれば支出も大きく、光政の長男で第2代岡山藩主となる池田綱政が光政から家督を継いだ頃には、財政難に見舞われていた。綱政が手がけたのは、農村再建だ。当時、岡山藩は洪水が多発し、米の収穫量が激減していた。そこで綱政は、児島湾を干拓し、百間川や倉安川の治水工事など公共事業を手がけた。これらの公共事業が藩内で雇用を生み出し、洪水の被害を回避できる新田を得た農民が米生産増量に努め、農政政策は成功した。積極的な公共投資などで経済を支えるケインズ理論と重農政策がミックスしたものだ。
綱政は造営事業にも熱心で、1700年、のちに日本三大名園と呼ばれる「後楽園」を造園している。光政・綱政親子の補佐役として重用された津田永忠が土木事業で才能を発揮し、百間川の開削や閑谷学校の建設、新田開発も津田が責任者として実施した事業。津田はこれらの成功が認められ、郡代(十万石以上の代官)に出世し、前出した後楽園の造園に着手した。
By Master K/益田 慶