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小さな政府江戸幕府 35 名君・名家老の藩財政改革 米沢藩

江戸時代の幕藩体制は、徳川幕府と親藩・譜代・外様の諸藩で構成されている。幕府の改革は大名の改革であり、徳川家の直轄地である江戸の改革でもあった。諸藩藩主の位置づけは、全員が徳川氏の傘下であるが、江戸城勤務が命じられた幕臣以外は、いわば自治体の長として各藩の経営に専念した。幕府が300年も続いた理由のひとつに、諸藩が年貢と参勤交代という義務を遂行していれば、それ以外は藩主に藩政を委ねたことにある。直轄地は奉行や代官が高級官僚として派遣されたが、それ以外は「地元の政治は大名に一任する」という自治権を重んじたのだ。これが「小さな政府」が成立した条件のひとつである。一部の藩には名君や名家老がおり、他の藩の手本となった。


では、名君・名家老の藩財政改革をしばらくのあいだ、ひもといてみよう。まず、米沢藩から始めよう。1767年、上杉鷹山(ようざん) が17歳で藩主となったとき、藩の財政は破産寸前であった。家臣が多く、彼らの人件費が大きな負担となっていた。また前藩主・上杉重定が名家の誇りから贅沢な生活を続けたことも拍車をかけた。鷹山は上杉重定の養子である。藩主となった鷹山が手掛けたのが、産業・財政に強い部下の重用(いわば改革ブレーンの抜擢)、倹約、帰農の奨励、特産物の育成など民政事業だ。


当時は「天明の大飢饉」の最中で、東北地方には多くの餓死者がいた。鷹山は、非常食としてタラノキ、コシアブラ、ハリギリ、チョウセンニンジン、トチバニンジン、ウドなどが食べられることを藩内にアナウンス。自らも土地を耕した。今日、米沢の名産となっている山菜だ。さらに米沢藩の特産物であったコウゾ、漆、ロウを10年間で5倍以上の生産量にする計画を立てた。コウゾは和紙の材料、漆は漆塗に欠かせない原料だ。また洪水や雨に強い桑の栽培を推奨し、桑をエサにして育つ養蚕を盛んにし、織物の普及に励んだ。

同時に飢饉の際に厳しい年貢の取り立ては農民のモチベーションの低下につながるとして、年貢の取り立てを緩和する一方で、生産高の多かった農地の代表者に褒賞を与えた。その一方で、飢饉に備え、米の備蓄も行なった。また、近隣五軒を五人組として相互に助け合い、村全体が共同体として苦楽をともにする「五什組合」と呼ばれる農民相互の扶助組織を結成させた。さらに農地の復興のため離村した者を呼び戻し、農業以外の収入として、手工業技術の導入にも力を注いだ。


彼は危機管理対策と産業振興を同時に行なったのである。次に財政改革とリストラに着手する。まるで大阪府の橋下知事のような展開だ。江戸藩邸の一年間の経費1500両を200両に切り詰め、人事を刷新した。この際、側近だけで決断したことに異論を唱えた反対派を処罰し、リストラにも成功。そして学問所を藩校・興譲館として再興し、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。これは教育改革、人材育成の方策だ。新田の開発、河川の改修、橋の掛け替えなど公共事業は、武士が先導して行なった。


老人や病人、妊婦などの弱者を重視する福祉政策の充実も実践した。鷹山は藩内各地に官選の医師をおき、彼らに宅地を与えるとともに優遇した。また育児資金をつくり出し、子供を育てられない貧しい農民にこれを与えることにした。さらに働けなくなった老人は、「口減らし」のため、しばしば野山に捨てられたが、鷹山は70歳以上の老人は村で責任をもっていたわり世話するよう年金制度を編み出した。


これらの政策によって、鷹山が晩年の頃には黒字となり、破綻寸前の藩財政は立ち直り、借金も返済したという。上杉鷹山は政治家として一流で、今日まで名君と謳われている。こういった改革に幕府は口を出すことがなかったのは、いわば地方分権が確立していたということだろう。鷹山が国政に参画していれば、幕政改革はもっと大胆に進んでいたかもしれない。

By Master K/益田 慶