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小さな政府江戸幕府 33 田沼意次の終焉とその遺産

株仲間の奨励、座を中心とする専売制の実施、改鋳、長崎貿易の拡大、輸出特産物の育成、蝦夷地の開発など、田沼意次が行なった幕政改革はほとんど成功している。1770年には、幕府の備蓄金は171万7529両という、5代将軍綱吉以来の最高値を記録。景気は回復し、田沼が手厚く保護したことで蘭学が花開いた。


田沼の幕政改革は、農業中心の社会から商業中心の社会へ橋渡したことに意義がある。特に貨幣の重さでなく、額面の金額こそが貨幣の価値だとする貨幣改革は、欧州で生まれる経済学の基礎と同じ視点にある。海外との貿易を重んじ、海産物などの加工品といった付加価値の高い商品を輸出し、外貨を稼ぐという政策などは今日の日本経済のあり方を先取りしていたかのようだ。日本における初期資本主義の形態がこの頃に生まれたと見るべきだろう。これは大きな遺産である。


田沼が失脚した最大の要因は、岩木山、浅間山の噴火に始まる「天明の大飢饉」(1782~1788年)に対し、有効な対策がとれなかったからだとされている。これをきっかけに、急激な改革を好まない保守派の反発が爆発したというわけだ。「重商主義政策によって疲弊していた農村部が、さらに打撃をこうむったのは、田沼の政治が悪いからだ」という論理である。飢饉は自然災害だが、農村部が疲弊していたのは確かに重商主義政策が要因だ。日本に商業が定着し、貨幣が力を持つようになり、経済構造が大きく変化する時期と重なったのである。


「天明の大飢饉」とは、江戸時代に起こった最大の飢饉。当時、東北地方は天候不良、特に冷害により農作物の収穫が激減していた。これに拍車をかけるように、1783年に岩木山と浅間山が噴火し、各地に火山灰が降り、農作物に壊滅的な被害が生じた。重商主義が裏目に出て、飢饉は全国規模に拡大した。


被害は東北地方を中心に、推定で数万人の餓死者が生まれ、疫病が流行。最終的な死者数は全国で30万人とも50万人とも推定されている。現在の感覚でいえば300万人から500万人の規模だ。農村部から逃げ出した農民は、各都市部へ流入し、治安が悪化。江戸や大坂では米屋の打ち壊し事件が勃発した。


このとき田沼がとった政策は、全国の米が余っている地域に向け、「東北地方に米を売り惜しみするな」というものだった。皮肉なことに米価は高騰し、買い占めや高値での売買がはびこった。これは米が少なくなったから価格が上がり、相場を見計らって大儲けしようとする者が出たという、ごくシンプルな市場原理だ。諸藩は財政維持のため、米を大坂の市場に送った。商業と物流の中心地・大坂が相場を決める場所で、高値で買い取ってくれたからだ。田沼のライバル、松平定信はこの機に大坂で米の買い占めを行なった。彼は吉宗の孫だが、養子に出され、1783年、つまり「天明の大飢饉」の最中に陸奥・白河藩藩主となった。


飢饉に直面し、食料救済措置を迅速に行ない、白河藩で餓死者は出なかったとされている。歴史の教科書には書かれていないが、松平定信は会津藩の松平家からも1万石を取り寄せ、大坂で買い占めた米とあわせて、東北地方には米を送ることなく、白河藩内だけで消費した。領内から一人の餓死者も出さなかった松平は名君と謳われ、危機管理能力が高く評価され、これが幕閣入りの布石となる。


田沼意次と松平定信は正反対の資質を持っている。田沼は開明派で、身分にとらわれない実力主義に基づく登用を試み、杉田玄白や前野良沢など蘭学者や平賀源内などの才能を重んじた。庶民には倹約でなく、消費を推奨した。金の匂いに敏感な「俗っぽさ」にあふれた経済通である。一方、松平は身分制度や朱子学を重視し、質素倹約を推奨した。重農主義に軸足を置く保守派で、海外との貿易など意識しない人物である。江戸時代の合理主義という文脈からすれば、田沼はまさにそれを実践した人物。賄賂政治家というレッテルは消えないが、彼の政策は先見性にあふれている。


By Master K/益田 慶