小さな政府江戸幕府 31 田沼意次の重商業主義経済政策 統一通貨への布石
田沼意次は貨幣改革にも挑んでいる。彼は吉宗が進めた「質素倹約」政策は消費を冷え込ませることを知っていた。だから貨幣経済を普及させ、米相場の乱高下を解決し、同時に市中に流れる貨幣の流通速度を統制して、経済を活性化しようとしたのだろう。さらに東西で異なる貨幣体系の統一を試みようとしていたようだ。商業の発展を重んじ、内需拡大を図った田沼が試みた貨幣改革は、次のとおりだ。
江戸時代の貨幣を見ると、金貨は大判や小判のようにちゃんと貨幣の形をしているが、一方の銀貨は塊を刻んだだけのものであることがわかる。それは大坂で流通していた丁銀や豆板銀が、形に関係のない重さを量って使う貨幣(秤量貨幣)だったからだ。「江戸の金、大坂の銀」と呼ばれるように、それぞれ主に使われる地域も異なっていた。しかも商業の中心地である大坂で使われる銀が金より強いことで、金をメインに使っている江戸の物価は高くなりがちだった。大岡忠相は変動相場制の為替レートを無視して両替商に公定レートを守らせ、金と銀の為替相場を安定させようとした。これは異なる貨幣体系があることを前提とした政策である。
これに対し田沼は金貨を中心とする貨幣制度を考えていた。ひょっとしたら統一貨幣の発行までもくろんでいたのかもしれない。1765年、試みとして重さを5匁(約18.75グラム)に固定した「五匁銀」を発行した。「五匁銀12枚=金1両(小判1枚)」と固定することで、銀相場にふりまわされないようになると見込んだようだ。また銭の代用にもなる。これが金貨と銀貨の為替レートの固定を狙った最初の銀貨だ。しかし当時の実勢レートは、小判1両に対し銀貨63匁(約236.25グラム)前後だったので、銀をメインに扱う者に有利となり、両替商たちの反対によって広く流通することはなかった。両替商が反対した理由は、額面が固定されると、銀貨の秤量手数料が取れなくなるからだ。こういった事情から、五匁銀はほとんど流通しないまま、1768年に使用が停止された。
1768年には、鉄銭の不人気を打開する目的で真鍮製の大形銭「寛永通宝四文銭」を発行した。そして1772年、江戸幕府始まって以来の画期的な貨幣が発行された。「発明」といってもいいだろう。銀座に命じてつくらせた「南鐐二朱銀」は、銀でできた金貨であり、金貨の二朱に相当する銀貨でもある。銀が含まれているが名目貨幣である。南鐐とは良質の銀という意味。2.7匁の重さしかないが、「重要なのは貨幣の価値である」というメッセージだったのだろう。
また、五匁銀が普及しなかった反省もあり、銀の純度を上げる一方で、貨幣に「8枚で小判1両に交換できる」と表記した。それは重さではなく、交換価値そのものを表現したもので、両替商も取り扱いやすい。こうすれば金貨と銀貨の為替レートは固定される。つまり、まるでEUにおけるユーロの統一のように貨幣体系は統一される。これが実現すれば、江戸の物価高は解消でき、東西の流通はもっと活性化する……。こうした田沼のビジョンから、彼が政治家としても経済学者としても卓越したセンスを持っていたことがわかる。
南鐐二朱銀は秤量貨幣になじんでいた関西にも徐々に浸透し、丁銀や豆板銀といった秤量貨幣を少しずつ駆逐していった。田沼は「金貨本位制」を採用したのだ。これを契機として銀貨の金貨に対する補助貨幣化が本格化し、その後幕末までに7種類の「計数銀貨」が発行された。このまま進めば明治になるまでに統一貨幣ができたはずなのだが、田沼を追い落とした松平定信は、南鐐二朱銀を丁銀に改鋳したことで、田沼の貨幣改革は空中分解してしまう。幸いなことに南鐐二朱銀はのちに発行が再開されたが、悪名高き田沼の貨幣改革を引き継ぐ者は登場せず、統一通貨「円」の登場は半世紀後となった。
By Master K/益田 慶