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小さな政府江戸幕府 29 田沼意次の重商業主義経済政策 株仲間の奨励による法人税獲得

江戸時代の三大改革「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」は、米を中心とする〈重農主義〉的政策だが、江戸時代中期に老中として幕政を主導した田沼意次は、過去に例を見ない〈重商業主義〉的経済政策を実施した。「享保の改革」と「寛政の改革」の間をつなぐ田沼時代(1767~1786年)と呼ばれる20年間は、まるで16世紀の欧州のように自由主義経済の発展を促すもので、日本の経済史の流れの中では異質に見える。その後に「寛政の改革」を主導する松平定信に政策、人格とも否定され、日本史では「田沼=悪人」「賄賂政治家」というイメージがつきまとうものの、実は田沼は現在の自由主義や拝金主義につながる多くの新しい経済政策を行っていのだ。


田沼意次は名門出身ではないが、異例の出世を果たした稀有な人物だ。父は紀州藩の足軽だったが、8代将軍・徳川吉宗が将軍就任に際して登用され、江戸の幕臣に加えられた「紀州組」の一人だ。田沼はのちに9代将軍となる家重(吉宗の長男)の御側御用取次(現在なら教育・雑用担当兼秘書)に抜擢され、家重の将軍就任後に1万石の所領を与えられる。家重は父・吉宗とは反対に病弱だったため、大御所となった吉宗は、孫の家治に期待をかけた。1751年に吉宗が亡くなると、凡庸な家重は老中に政治を任せたが、将軍就任期間は短く、1760年、家重が隠居し、長男の家治が家督を継いだ。


10代将軍・家治が重用したのが田沼意次だ。家重の死後も、家治は田沼を信頼し、田沼は破竹の勢いで昇進。1767年には遠江相良藩(現在の静岡県牧之原市)の初代藩主となる。家治は田沼の新しい政治感覚を高く評価したようだ。田沼は1769年に老中格になり、幕府の閣僚として幕政改革を手がけるようになる。その彼が採用したのは重商業主義経済政策だ。


具体的には、株仲間の積極的な公認、銀座の専売制の実施、貨幣制度の見直し、鉱山の開発、外国貿易の拡大、ロシアの脅威と貿易を意図にした蝦夷地の開発計画、下総国印旛沼の干拓の着手などだ。この結果、幕府の財政は改善し、景気は上昇した。この大雑把なラインナップからでも、彼が「農業」でなく「商業」に軸足を置いていることがよくわかる。失敗に終わった政策もあるが、まるで初期資本主義経済の基盤づくりをするかのようなものばかりだ。


では、田沼の政策をひとつずつ見ていこう。株仲間の結成は、「享保の改革」において物価上昇を抑制する目的で大岡忠相が推進したものだ。これに対し田沼が同業者組合の設立を奨励したのは、幕府の現金収入増と商業者の競争力を高めるためであったようだ。株仲間でも幕府の庇護を受ける株仲間ではなく、商人が自主的に結成する「願株」を奨励し、塩や醤油、銀座など特定の産業には、専売制などの特権を与えるという「アメ」を見せて競争心をあおった。その見返りとして「ムチ」もあった。運上金、冥加金(上納金)を税として徴収したのだ。「商人の市場への自由競争を歓迎しよう。努力すれば市場は独占できる。


しかし、税金はきっちり払ってくれ」という、とても現実的な政策だ。吉宗の時代に新田開発はほとんど終了し、年貢を増やそうとしても限界があった。農民からの租税、つまり年貢収入だけでなく、大きな勢力になってきた商人から法人税を取れば、幕政はもっと潤うはず。だからもっと商業を重んじ、商人が増えるような政策を実施する。これは理にかなった道筋だ。また、商人からすれば、質素倹約、我慢を強いられる社会より、努力をすれば大きな財を築くこともできる社会のほうが魅力的に映ったはず。


このように商業を重んじたことで、町人や役人の拝金主義が進む。そこから賄賂が横行するようになったことから、田沼には「賄賂政治家」というイメージがつきまとう。また、都市部において商業が活性化したことで農民が都市部に流れ込み、農村の荒廃が進むという「負」の面もある。賄賂にまみれた老中であったことが反対勢力のデマだったのか、事実だったのかは定かではないが、田沼が先見性に富んだ経済通であったことだけは確かだ。しばらく彼の政策を検証していこう。

By Master K/益田 慶