小さな政府江戸幕府 28 「享保の改革」の都市政策 目安箱の設置と小石川養生所の設立
「享保の改革」は財政と物価の安定政策、米価の上昇や金銀交換レートの是正など金融政策が主眼であったが、ほかにもいくつかの画期的な政策が実施されているので、まとめて記しておこう。
将軍・徳川吉宗が1721年、庶民の要求や不満などを書いた投書を募るため江戸城の評定所の門前に設置した「目安箱」は、「直訴箱」「訴状箱」とも呼ばれ、都市政策や福祉政策に大いに役だった。もともと吉宗が紀州藩主時代に実施し、大きな手ごたえをつかんだ政策のひとつだ。
幕臣の投書は当初許可されていたが、間もなく禁止され、町人や農民だけが投書した。幕政に対する意見を集め、社会事情を収集する制度を設けた将軍は吉宗以外にはおらず、彼がいかに庶民の生活感覚に敏感であったか、言い換えればマーケティング感覚に長けていたのかがわかる。
しかもこのシステムを運営するのにコストも組織も必要ない。吉宗自身が目を通し、即刻対応すれば「小さな政府」なら十分機能する。ところで、投書の内容は、ほとんどが役人の不正を訴えるものであったらしい。今も昔も役人は贈賄や使い込みをしていたということの証明であろう。
さて、この目安箱を通じて誕生したのが無料の医療施設「小石川養生所」である。町医者の小川笙船が江戸の貧困者や身寄りのない者のために施療所の建設を求める意見書を投書し、それを読んだ吉宗が南町奉行・大岡忠相に施設の検討を命じ、大岡が小川と面談して、薬草園であった小石川御薬園内での設立を決定した。その場所は現在、東京大学理学部の付属施設「小石川植物園」となっている。
養生所の収容人数は40名。建設費の金210両+銀12匁と毎月の運営費は幕府の財政から捻出され、医師は小川ら7名の医師が担当し、与力、同心らがスタッフとして参加した。開設当初は薬草の実験台にされるのではないかという不安があり、庶民は養生所をあまり利用しなかったが、大岡が江戸町内の名主を呼んで施設を見学させ、風評を払拭したことで入院患者は急増した。
「見学会」を実施したところが彼の優れた点である。小石川養生所は下層民対策として機能し、幕末まで約140年あまり江戸の貧民救済施設として利用された。「格差社会」も政府による「社会福祉行政」や「セーフティネット」という概念も江戸時代から存在していたということである。
ところで、小石川御薬園内の約150坪の土地と、小石川養生所内の約180坪の土地を無償で借りてサツマイモの試作に励んだのが、かの青木昆陽である。八丁堀の与力屋敷を借りて儒学を講義していた青木を大岡が抜擢し、幕府の肝いりでサツマイモの試作を命じたのである。大岡は享保の大飢饉によって米が収穫できなかった教訓から、凶作の時や痩せた土地でも収穫できる作物の開発に目を向けていた。
昆陽はサツマイモの効用を大岡に伝え、その必要性を感じた大岡が幕府の土地を提供したのである。そこで得られた苗は、栽培法とともに江戸周辺の農村に広く配られ、各地に根付き、凶作時に多くの人々の命を救うことになる。「小石川養生所」とサツマイモは命を救うという点において共通している。どちらも「享保の改革」の中で埋もれがちな話題だが、都市政策と深くつながる政策といえよう。
ともあれ、町奉行が地場産業、特に農業育成に協力し、幕府が支援したことは富に興味深い。これも消費人口が100万人を超える世界最大の都市であった江戸ならではの取り組みといえよう。ちなみに青木昆陽はサイマイモの栽培による飢饉の回避が認められ、幕臣となり、のちに寺社奉行に昇進した大岡の配下とした活躍した。この青木昆陽の弟子が『解体新書』で知られる前野良沢である。
By Master K/益田 慶