小さな政府江戸幕府 27 江戸幕府の経済政策 『国富論』より早い金融政策「元文改鋳」

「享保の改革」の大きな命題のひとつは、米価を下げ、物価を安定させ、武士の生活を豊かにすることであった。しかし米や物資の流通量をコントロールしても物価上昇の抑制効果がなく、また南町奉行・大岡忠相が両替商に肯定レート「金1両=銀貨60匁」に戻すよう依頼しても拒まれた背景があり、幕府内に「元禄改鋳」を手本とした貨幣改鋳案が浮上した。


貨幣改鋳による銀相場の強制的な引き下げによって江戸の物価を安定させようと試みたのである。1736年に行われた「元文改鋳」は「享保の改革」の後期に行われた重要な経済政策であり、近代経済学の基礎にあるマネーサプライを学ぶ最良のサンプルといえよう。


大岡忠相は次のように考えた。質を落として貨幣の流通量を増やし、金貨よりも銀貨の価値の下がり具合を大きくすることで、銀中心圏の上方から金中心の江戸に価格の安価な商品が入ってくるようになり、物価が安定する。また換金のために市場に放出される米の流通量も減り、米価下落の大きな要因を取り除くことができる、と。こうした流れを見ていくと、大岡が吉宗に提案し、ようやく実行することが決まった1736年の「元文改鋳」は、幕府の収入アップのための方策でなく、あくまでも物価対策であったことが見えてくる。


江戸時代中期にすでに世の中(市中)に出回るお金の量(通貨供給量)を調節して、物価の安定をはかり、経済の動きを調整する金融政策の理論が練られていたことはとても興味深い。経済学史では、経済学がひとつの学問分野として確立されるようになったのはアダム・スミスの『国富論』(1776年刊行)に始まるとされている。それよりも先に日本ではインフレやデフレ対策が行われていたということだ。


1736年、大岡は改鋳を告げる町触を発した。慶長金銀の質を100とすると、改鋳金貨の品位は60、銀貨は58に引き下げられた。金よりも銀の品位を引き下げることで相対的に金を強くしようとしたのである。こうして大量の新貨幣が発行された。しかし改鋳後、銀のレートは49匁に上昇した。質が下げられた新銀貨が発行されたことで、良質な旧硬貨が退蔵、すなわちタンス預金になってしまったのである。


旧貨が金融資産として保有されると新銀貨との引き換えは進まず、市場に出回らなくなる。その結果、流通する銀貨が少なくなり、銀貨の価値が上がったということだ。相場は乱高下し、経済はしばらく混乱した。大岡は両替商が銀相場高騰を操作したと見て、数名の両替商を投獄した。権力の行使といえばそれまでだが、強引な手法を選ばざるを得ないところまで大岡はいらだっていたということだろう。


実は「元文改鋳」が実施された1736年、大岡は突然、寺社奉行に"栄転"している。寺社奉行という職位は三奉行の筆頭格なので昇級といえるのだが、両替商に対する弾圧が他の幕臣の目に余り、改鋳によって打撃を受けた両替商や上方の商人たちが幕臣に大岡を町奉行から外すよう圧力をかけたのではないか、と歴史家は分析している。大岡は吉宗が抜擢した優れた行政マンで実績も多く、簡単にクビにもできない。つまり、"栄転"という形をとった左遷であったのかもしれない。


さて、「元文改鋳」の効果があらわれるのは1741年頃だ。おそらく新貨幣が流通するのにそれなりの時間が必要だったのであろう。幕府の強い姿勢もあって銀相場は次第に下落し、よくやく「金1両=銀貨60匁」という公定レートに落ち着き、米価や物価も安定した。この時代には1737年に勘定奉行に就任した神尾春央が同時進行で推進した年貢増税政策が功を奏し、幕府の財政にもゆとりが生まれていた。元文金銀はその後1818年まで82年間改鋳されることなく流通した。結果として元文改鋳は江戸期の改鋳で最も成功した例に挙げられている。

By Master K/益田 慶