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小さな政府江戸幕府 26 江戸幕府の経済政策 大岡忠相のレート是正

南町奉行・大岡忠相が株仲間を推奨し、問屋商人に台帳を提出させ、米や物資の流通量をコントロールしても物価上昇に大きな影響はなかった。この要因には関東と関西で本位貨幣が異なっていたことが挙げられる。


江戸を中心とする関東経済圏は金貨を重んじるのに対し、大坂・京都を中心とする関西経済圏は銀貨を重んじる経済であった。当時の経済の中心地は大坂だったので、金貨より銀貨が強く、銀貨の金貨に対する交換レートが高かった。その結果、交換差額の分だけ江戸の物価は高くなったのである。


金貨は両、銀貨は匁(もんめ)、銅貨(銭貨)は文(もん)を基本単位としており、1700年に幕府が定めた公定相場は「金1両=銀貨60匁」であった。しかし資料に目を通してみると、大岡が南町奉行を務めていた時代(1717年~1736年)には、「金貨1両=銀貨43~50匁」で流通していたことがわかった。銀貨は公定レートの2割以上も高く、大坂の商人が江戸に商品を運べば、商品の粗利以外に交換差額という利益を手にしていたことになる。


だから両替商が富を蓄えたわけだが、反対に江戸の商人は大坂商人から商品を買うと利益が少なくなったということだ。江戸の商人が適正な利益を得ようとすれば、公定レートの2割から3割アップ分を販売価格に乗せざるを得なくなる。つまり、江戸の物価は上昇する。反対に金貨が強くなれば、江戸で販売する商品は安くなり、江戸の物価は安定する。金の銀に対する価格レートの切り上げは、江戸に多くの安価な物資が入ってきて、物価が安定することを想定した大岡の悲願であった。

少し遡って元禄時代に当時の勘定奉行・荻原重秀によって遂行された「元禄改鋳」を思い出してもらいたい。金貨・銀貨の質を落として、その分発行量を増やし、差額分が幕府の懐に入るという画期的な手法である。当時は幕府の支出が増大し、年貢収入が頭打ちになっていた時代。


また貨幣の原料となる金銀の生産量が伸び悩んでいたので、貨幣の金銀の含有量を減らすことは得策であった。また、あまり知られていないが、経済通の荻原重秀は金よりも銀の価値の下がり具合の方を大きくすることで、金の銀に対するレートを切り上げようとしたようである。


「元禄改鋳」によって幕府の利益は増えた。これが最大の目標であったので成果はあったといえるのだが、質を落としたことで当然のことながら貨幣の価値は下がり、商業界は混乱した。荻原の金融政策を激しく批判し、荻原を幕府から追い出した新井白石は、金融引締め政策を断行。


1714年、幕府は新井の提案を受け入れ、「元禄改鋳」を回収し、貨幣の質を慶長金銀のレベルにまで戻した「正徳金銀」を発行した。良質になった分、市場の流通量は不足気味になった。そうするともともと強かった銀が再び勢いを増し、江戸の物価は上昇した。


江戸の物価が上昇することに耐えられない大岡忠相は1718年、江戸の両替商に対して、公定相金(1両=銀貨60匁)にするよう指示した。しかし両替商は市場価格を無視して公定レートにすれば2割以上も損することがわかっているので激しく反発し、一斉に店を閉めたといわれている。


そこで大岡は「1両=銀貨55匁」というレートを提示して妥協点を見出そうとしたが、両替商は納得しなかった。大岡は仕方なく相場の動向に任せることにした。まるでアダム・スミスの言うところの「神の見えざる手」に任せるという判断を一度はしたようだ。この頃から経済人が完全に市場経済をリードする時代に突入したといえよう。


そもそも新興都市であった江戸の両替商には上方を本店とする者が多く、銀相場が下がれば本店だけでなく上方の問屋、流通業者すべてが利益を損なうことになる。両替商は上方商人全体の既得権益と自由経済を守るために抵抗したのであろう。

By Master K/益田 慶