小さな政府江戸幕府 25 江戸幕府の経済政策 大岡忠相の物価統制策
南町奉行・大岡忠相が提案し、吉宗が承諾した、株仲間を活用した物価統制は、京都、大坂、奈良、堺などの都市でも同時に実行された。江戸の物価を統制するには、京都や大坂から入る物資の流れを把握しなければいけない。そこで大岡は浦賀奉行に江戸に入る積み荷の量を毎月報告させた。海路で江戸に運ばれる物資を、その通過ルートである浦賀でチェックさせたのである。また、大坂奉行には諸国と江戸へ送った全物資リストをつくって報告するよう依頼した。
しかし大坂奉行が「煩雑すぎてできない」と返答したので、大岡は主要11品目の江戸への出荷量に限定し、リスト送付を求めた。大岡が実務に優れているのは、積み荷の起点(大坂)と通貨点(浦賀)と終点(江戸)の数字を把握しようとしたことだ。江戸の船問屋に到着した積み荷をチェックすれば、買い占めや売り惜しみ、ひいては物価高騰を水際で防げると考えたのである。
大岡の斬新な提案は大筋認められ、老中から大坂町奉行と浦賀町奉行に「毎月の出荷数字を報告せよ」という命令が下った。大岡は1725年、関東から江戸に入ってくる生活必需品の調査にも着手する。しかし流通の各段階でのデータを把握しただけでは、物価高騰の対策にはならない。どうしても商人の取り締まりが必要だった。
この課題を解決するために大岡が目をつけたのが、江戸の問屋商人が元禄時代に結集して結成した通称「江戸十組問屋」。実質的には「二十二組問屋」で、その内訳は取扱いアイテムごとに区別されていた。たとえば綿買次問屋、油問屋、江戸組毛綿仕入積問屋などで、仲間の総人数は347名に及んだ。二十四組問屋には取締方、惣行事、大行事、通路人などの役員があり、仲間定法を定めて全体を管理していた。
これに呼応して大坂でも「二十四組問屋」が活動していた。この十組問屋と二十四組問屋の関係は、注文主と買次人の間柄で、その商品を運搬するのが廻船問屋という構図が成立していたのである。これにより上方と江戸を結ぶ貨物船の菱垣廻船は、十組問屋・二十四組問屋の定雇船という位置づけになっていった。大岡は彼らを管理・統制できれば大きな成果があがると考え、問屋に台帳を提出させ、物価を監視した。蛇足だが、この大坂と江戸を結ぶ定期船の運営を担った商人が財を築き、明治時代に阪神財閥へと成長していった。特に灘の酒を江戸に運ぶ仕事は「ドル箱」であった。
大岡の取り締まりにはこんなエピソードが残っている。1724年に油の値段が高騰した。大岡は油問屋を奉行所に呼び出し、価格高騰の要因を問い詰めた。その結果、油問屋が価格操作をして過分な利益を得ていたことが判明したので、その分を没収した。処分を受けたのは41名。幕府は搾油業者が西国に集中し、流通過程で独占性が高まり、それが価格操作を容易にしているとみて、関東近郊での菜種の作付けを奨励し、売り先も確保した。
大岡は米問屋仲間を再編成して、米価調整にも挑んでいる。消費者からすれば米価は低いほうがありがたいが、江戸の消費経済は一年ごとの参勤交代で江戸にやってきて滞在する武家の膨大な需要に支えられていた。米価が上昇すれば米を換金して生活費に充てている武家の消費力がアップし、ひいては町人側の利益にもなるという考え方だ。
1730年には、上方からの米を8人の米問屋に独占的に荷受させるというお触れを出す。大岡は再編成された米問屋組織を活用して、米価を引き上げようと計画したのである。このような努力によって物価対策は悪質業者の摘発という効果はあがったものの、米価の引き上げは期待したほどの成果があがらず、市場の流通量を調整するだけでは限界があった。米価の引き上げには金融政策の転換が必要だったのである。
By Master K/益田 慶