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小さな政府江戸幕府 24 江戸幕府の経済政策 物価安定のための株仲間の公認と設立推進

米価下落と物価高に対処するために徳川吉宗が実行したのが株仲間公認と株仲間設立の推進である。1721年、幕府は江戸市中のあらゆる商人・職人に同業者仲間を積極的に結成することを促す法令を発した。当時、談合による価格操作が物価上昇のひとつの原因になっていたからだ。


政策の中身を紹介する前に株仲間について少し説明しておこう。もともとは同業の問屋によるごく私的なグループであった。さかのぼれば、信長や秀吉が推進した「楽市楽座」が起源となる。各地の戦国大名が広げた城下町には、新興商業者を育成し、経済の活性化を図る目的で、税の減免など規制が緩和された「楽」な市場が生まれた。いわば戦国大名が築いた「経済特区」である。信長が築いた近江国の安土と金森の楽市楽座は、のちに「近江商人」を生み出す土壌となった。


江戸幕府も楽市楽座路線を継承したものの、問屋業者が増えたことで、同業者組合が自然発生し、やがて彼らがカルテルを形成し、価格操作を行うようになっていた。株を所有することでメンバーとして認められたことから株仲間と呼ばれた。株は金銭によって売買された。余談だが、力士が引退後も日本相撲協会に残って「年寄」と呼ばれる身分となり、大相撲の発展のために働く際に必要となる証書を「年寄株」と呼ぶ。売買価格が1億円とも2億円ともされているが、このシステムも現代まで継承されている株仲間のひとつといえよう。


さて、江戸時代の商業に目を移してみれば、問屋がイニシアチブを握っており、主に輸送・保管を担っていた。主流は、荷主から委託された荷物を販売して口銭(販売手数料)と倉敷料(保管料)を得る荷受問屋である。


これに対して自己勘定で売買する仕入問屋も発展し、材木、米、薪、炭、油、竹など取扱商品別に分化していった。大坂では、商品の産地ごとに専門化した荷受問屋である国問屋が生まれ、これを中心に商品別に専門化した仕入問屋中心の流通組織へと転換していった。これらの問屋が同業者組合をつくり、メンバーの推薦を受け、株を買うことで仲間に参加したのである。


株仲間は金銭債務の保証の機能も持つようになる。問屋の取引の多くが信用取引、つまり商品を引き渡した後、「節季払い」や「二季払い」など一定期間を経てから代金は決済された。株仲間の問屋が荷主と値段を決めて購入した荷物が届けられなかった場合、株仲間全員がその荷主との取引を停止した。このように問屋を中心として商業は、急速に高度なシステムをつくりだしていったのである。


株仲間の発展により、彼らが流通機構を支配していったので、幕府は脅威になることを恐れ、規制の対象としていたが、享保の改革では、株仲間を統制すれば物価も統制できるという方向に動き、株仲間を公認したのである。

1723年、吉宗の求めに応じて江戸南町奉行大岡忠相は、北町奉行諏訪頼篤と連名で七条からなる「物価引き下げに関する意見書」を提出した。江戸の経済政策を担う大岡は、物価上昇の原因のひとつである、株仲間の談合による価格操作を監視し、さらにコントロールできる株仲間を結成させ、経済統制をしようと考えたのである。


幕府は信用取引の安定を図るために自主的に結成された株仲間を「願株」、流通統制のために幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。よって株仲間の公認とは「願株」の公認を指し、株仲間の推進とは「御免株」を増やすことである。公認された株仲間は、上納金を納めるかわりに販売権の独占といった特権を認められた。


大岡は、塩や醤油など生活必需品を扱う商人に問屋・仲買・小売ごとの御免株を結成させ、相場書(商品価格表)を提出させた。価格が高騰した際にはその理由を報告させた。江戸の御免株では理由がわからない時は、京都や大坂に調査員を派遣し、調べさせるとしたまである。


By Master K/益田 慶