小さな政府江戸幕府 23 江戸幕府の経済政策 「享保の改革」上米の制と定免法
吉宗が初めて実施した増税プラン「定免(じょうめん)法」は、幕府の収入を安定させるための年貢徴収法である。従来は年毎に収穫量を見てからその年貢量を決めていたが、定免法は過去数年の収穫率の平均から年貢率を決めるシステムなので、豊作・凶作にかかわらず一定の年貢を納めることになった。凶作の年は年貢の大幅減が認められることもあったという。過去数年の平均より豊作であれば農民は年貢量が減るのでメリットがあるが、実際には「享保の飢饉」が続き、豊作は叶わなかった。飢饉は皮肉なことに幕府にとっては安定した収入をもたらす結果となった。
この政策には二つの側面がある。ひとつは農民への搾取が激しくなったこと。この時期に一揆が増えていることから農民の不満が増したと想像できる。これは歴史の教科書が記す見方である。もうひとつは収穫高を増やす努力が実れば、農民の利益は増えるというメリットである。仮に収穫の半分を年貢として納めたとしても生産できる米の絶対量が増えていけば余剰が増えるということになる。不安材料は、日照り・干ばつ・洪水・台風だ。農業はリスクに満ちた職業といえるだろう。
このほか吉宗が試みた制度に「上米(あげまい)の制」がある。これは米を納める見返りに大名の参勤交代の江戸在住の期間を半減させる制度だ。幕府は大名に一万石に対して百石の米を納めさせた。各地の大名から集めた米は幕府の増収に貢献したが、実施されたのは1722~1730年と8年間に過ぎず、定着するには至らなかった。大名にとっては上納米を差し出せば江戸滞在費が半減となるので、江戸での滞在費も半減したはず。その収支を計算してみれば、多くの家来を連れて江戸まで行った地方の大名にとっては滞在費が半減されるほうがありがたいことだったのかもしれない。
享保の改革の仕上げ時期には、年貢増徴を推進した勘定奉行の神尾春央が辣腕をふるった。「胡麻の油と農民は絞れば絞るほど出るものなり」と言ったことで名高い人物だ。1744年には自ら中国地方に赴任して年貢率の強化、登記されず年貢設定がされていない隠田の摘発などを行った。神尾が発案した「有毛検見取(ありげけみどり)法」を採用する藩もあった。これは毎年の作柄、出来高を調べて農民の余禄を見逃さない所得税型の課税法だ。さらに課税の対象ではなかった河川敷や山林も「新田」と見なして年貢を課したという記録が残っている。
倹約令とこういった過酷な課税が合わさり、幕府の年貢収入は167万石に増えた。さらに飢饉対策費として諸大名に貸し付けた金を督促して1742年には完納させた。こうした増収、回収によって、享保の改革の末期には、幕府の収入は180万石にまで上がった。この石高は江戸時代を通して最高記録である。幕府の財政を再建するという目標は達成され、吉宗は名将軍と謳われたわけだ。
しかし、もうひとつの大きな課題である米価の安定、つまり物価の調整・安定はどのようになっていたのであろうか。米価は五代将軍・綱吉の時代から下落し続け、米価がそのまま収入に反映する武士は大いに困窮していた。
1730年に発効された「買米(かわせまい)令」は、幕府が市場の米を買い上げて貯蔵し、米価の引き上げを促す法令だ。諸藩や有力商人も強制的に従わされた。これは市場に流通する米の量を減らして米価を引き上げ、武士階級を救済すること、彼らの購買力を高めて景気回復を図ることを目的としている。また、飢饉に備え米を備蓄しておく囲米を奨励し、市場に米が出まわらないよう促し、諸藩に対する江戸・大坂への廻米・蔵屋敷の米売却の制限・禁止などの措置が取られた。米の流通量が減れば米価は上がる。よって武士階級の収入は上がる。米の流通量をコントロールしようとした幕府の狙いは、この一点に集中していた。
By Master K/益田 慶