100年企業 23 産業別100年企業 製薬会社編 前編
本稿から「産業別100年企業」に入る。トップバッターは、江戸時代からすでに「薬種商」と呼ばれ、一般用医薬品の専業販売業者として、大きな産業となっていた製薬業界だ。製薬メーカーを核にして、逸早く製造工場、問屋、商社、運送、販売店舗など系列化が進んだ業界でもある。製薬会社には老舗企業が多いので、前・中・後編に分け、時系列に沿って紹介する。
現存する製薬会社で最も歴史のある企業といえば、鎌倉時代末に創業したとされる「三光丸本店」(奈良県)だ。1319年にはすでに現在「三光丸」と呼ばれている胃腸薬が創薬されていたようだ。創業から計算すれば「600年企業」である。当主の米田家は農業のかたわら「三光丸」の製造を副業とし、のちに織田信長の嫡男・信忠がこれを飲み、「妙薬」と称賛したと伝えられている。江戸時代に入ると配置売薬が始まり、奈良「大和売薬」は越中「富山売薬」に次ぐ勢力を広げた。明治時代に当時の米田家当主が、現在も機能している配置業者からなる販売組織を結成し、流通と販売を担っている。
社名にもなっている子供用生薬で名高い「宇津救命丸」は、豊臣秀吉による二度目の朝鮮出兵(慶長の役)が行われた1597年の創業。こちらは「400年企業」だ。宇津家の初代宇津権右衛門は、500年以上続いた下野の国(現在の栃木県)の国主、宇都宮家の御殿医として仕えていた。
しかし22代の国綱が秀吉の逆鱗にふれて国を追われたことで、権右衛門は1597年、下野国高根沢西根郷で帰農した。この地が同社の現在の工場所在地(栃木県塩谷郡高根沢町上高根沢)である。権右衛門は半農半医の家業を続け、村人の健康のために「金匱救命丸」を創製。この薬は近郷近在の人々に分け与えられ、その優れた効能が「宇津家の秘薬」と次第に評判となり、関東一円から 全国に広まっていった。
普及に一役買ったのが、江戸をはじめ各所の旅籠や造り酒屋などに置かれるようになったこと。つまり置薬として重宝されたのである。ちなみに現社長の宇津善博氏は、宇津家18代当主。宇津家は徳川家より歴史の長い名門家といえよう。
「宇津救命丸」が関東で抜群の知名度を持つ乳児薬であるのに対し、関西で知れ渡った乳児薬といえば「樋屋(ひや)奇応丸」の名が挙がる。製造会社は1622年創業の「樋屋製薬」。こちらは「300年企業」だ。
創業家である坂上家の初代忠兵衛が摂津国山本村より天満(現大阪市北区天満で、同社の本社所在地)に移居し、奇応丸を創製。屋号で社名にもなった「樋屋」の由来は、坂上中兵衛の家に近隣の家にはない「樋(とい)」があったからだとされている。現社長の坂上晴一氏は14代目。1781年創業の100年企業「武田薬品」に勤めたのち、樋屋製薬に入社し、老舗の社長となった。老舗が多い在阪製薬メーカーの中でも屈指の歴史を背負っている。
古くは「大阪の薬業御三家」(武田、塩野義、田辺)といわれた「田辺製薬」は、1678年に初代田辺屋五兵衛が大坂土佐堀で「田辺屋振出薬」を開いたことに始まる。その祖・田辺屋又左衛門は御朱印船を繰り出し、ルソン(フィリピン)、シャム(タイ)に渡って交易し、様々な輸入薬種を持ち帰っている。その孫が「田辺製薬」の創業者五兵衛だ。田辺製薬は2001年、業界最大手の大正製薬との経営統合を発表したが、その3ヶ月後に白紙撤回した。2007年10月、三菱ウェルファーマを吸収し、「田辺三菱製薬」に改称した。グループ会社として、田辺製薬販売ほか国内外に30以上の系列会社がある。
田辺製薬が三菱グループとの統合に至る過程に着目してみると、もうひとつの「田辺製薬」の歴史が浮き彫りになってくる。十二代田辺五兵衛の次男で二代目・田辺元三郎は1901年、東京日本橋本町に薬種問屋「田辺元三郎商店」を創業。大阪本家とはまったくの別会社として発展し、1943年には「東京田辺製薬」に改称。1999年に三菱化学と合併し、医療事業を分社化して「三菱東京製薬」が誕生。2001年にはウェルファイド(吉富製薬+ミドリ十字が1998年合併)と合併し、「三菱ウェルファーマ」が誕生。これを吸収した田辺製薬は、100年前に分裂した「東京田辺」をも取り込んだということになる。
By Master K/益田 慶