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100年企業 22 旧財閥系の100年企業 地方財閥 旧麻生財閥

九州の炭鉱王であった麻生一族は、現在もなお福岡県を中心に多岐にわたる事業を展開している。元外務大臣麻生太郎氏が「麻生セメント」の社長を務めた麻生財閥の御曹司であること、また母方の祖父が吉田茂であることはあまりにも有名だ。


麻生財閥は、幕末に現福岡県飯塚市に誕生した麻生太吉を起源とする地方財閥。明治に入ると、九州・筑豊地方の炭鉱開発に三井、三菱、住友など中央財閥の資本が押し寄せただ、地元には「筑豊御三家」と呼ばれる資本家がおり、いくつかの炭鉱を経営していた。その一人が麻生太吉だ。太吉は炭鉱業者として福岡で多くの採炭に携わり、炭鉱会社を設立。


開坑した炭坑を三菱や住友に譲渡しつつ資本を増やし、九州鉄道や九州コークス、九州電力の取締役や社長を務め、銀行も設立した。また政治家としても活躍した。太吉が炭鉱採掘事事業のために設けた個人事業「麻生商店」が誕生したのは1887年頃とされているが、同グループでは1872年を創業年としている。現在の「麻生グループ」の中核企業「麻生」は創業136年の「100年企業」となる。


麻生一族は炭鉱がいずれ廃れることを予見していたのだろう。太平洋戦争後、メイン事業を炭鉱からセメントへと切り替えることに成功したことが、今日の繁栄につながっている。炭鉱王・太吉が広げた炭鉱事業、電力事業、銀行事業、病院経営を受け継いだのが、太吉の孫にあたる麻生太賀吉である。祖父の経営する麻生商店に入社してすぐに社長となり、麻生鉱業と麻生セメントの社長を務め、のちに九州電力の会長も務め、九州財界の重鎮となる。この麻生太賀吉が吉田茂の娘と結婚し、首相となった義父を補佐するために福岡県から立候補し、政界にも進出。吉田茂の側近として政治資金を捻出したことはよく知られている。


さて、麻生グループの中核事業はセメント事業だが、「麻生セメント」は2001年に世界のセメント業界第一のラファージュ(仏)と合弁し、「麻生ラファージュセメント」に改称。現社長の麻生泰氏は麻生太郎氏の実弟。病院経営、環境事業、不動産業を営む「麻生」の代表も務めている。グループはほかに商社、教育事業会社など約40社を傘下におさめている。


筑豊の炭鉱で財を成した「筑豊御三家」のうち、麻生以外の二家にもふれておこう。安川家と貝島家だ。石炭販売からスタートし、実業家として名を馳せた安川敬一郎は北九州門司に拠点を設け、二男の松本健次郎とともに「安川松本商店」を開き、鉄道建設(筑豊線・伊田線等)、炭鉱経営、紡績業、製鉄業、学校経営にも参画した。安川が1907年、鉱山技術者の養成目的で設立した私立明治専門学校はのちに国に寄付され、現在の九州工業大学へと発展する。


また、経営していた炭鉱「明治鉱業」の電気用品の開発・製造を担うために1915年、北九州市に「安川電機」を創業。同社はまだ「100年企業」には満たないが、今日では産業用ロボットの製造で世界的に知られる企業で、同社は電機機械を核にした企業群から成る安川グループを国内外に築いている。


1918年には、「黒崎窯業」(現黒崎播磨)を創業。黒崎播磨は主力の耐火物事業では国内最大手の企業だ。安川一族は人材が豊富で、敬一郎の弟や息子たちも実業家として手腕を発揮した。中でも五男・第五郎は日本原子力研究所初代理事、日本原子力発電初代社長を務め、原子力業界に大きな影響力を発揮。また、九州電力会長、東京オリンピック組織委員会会長も務めている。炭鉱経営を振り出しに製造業に移り、財を築いた安川家も地方財閥のひとつといえよう。


炭鉱夫から炭鉱経営者に成り上がった貝島太助も「筑豊御三家」の一人である。小学校設立以外は、炭鉱業に専念したために炭鉱が廃れるとともに没落していった。「筑豊御三家」と呼ばれた地方財閥のうち、麻生グループと安川グループは石炭かに石油というエネルギーの転換期に炭鉱以外の産業に移行したことで今日も繁栄を続けているということだ。


By Master K/益田 慶


# 麻生太郎氏の母方の祖父が吉田茂であることは前述したが、吉田茂夫人(雪子)は西園寺内閣、山本権兵衛内閣の外務大臣、第一次大戦のパリ講和条約における全権大使・牧野伸顕の長女である。そして牧野伸顕は大久保利通の実子(三男)である。吉田茂自身の実父竹内綱は、元土佐藩士で後藤象二郎と並ぶ大物政治家・実業家である。自由党創立メンバーであり自由民権運動の旗手でもあった。さらに吉田茂の長兄・竹内明太郎もまた衆議院議員であり、小松製作所の創業者である。