小さな政府江戸幕府 22 江戸幕府の経済政策 「享保の改革」倹約と増税
八代将軍・徳川吉宗は在任期間(1716~1745年)に多くの政策を打ち出し、江戸幕府始まって以来最も大きな幕政改革を遂行した。年号から「享保の改革」と呼ばれている。詳しく調べてみると、「享保の改革」は前半(1716~1730年)と後半(1730~1745年)とでは内容が異なる。前半に遂行した改革あるいは手をつけなかった分野を後半で修正し、転換を試みたのである。その中から財政危機に直面していた幕府を救うために実行された財政政策を中心に見ていこう。それらは綱吉が浪費や米価の下落で生じた「元禄バブル崩壊の後始末」という側面を併せ持っている。
吉宗の財政政策を語る前に人材登用について説明しておこう。これも改革のひとつで、諸改革を実行するにあたり吉宗は前政権下で影響力のあった新井白石を解任し、新たな人材を登用した。見方を変えれば将軍の側近が政治を司る時代が続き、将軍が無能な名誉職となっていたのを是正したということだ。現在に置き換えるなら、総理大臣ではなく、各省の役人が陰で総理大臣を操っていたようなものである。吉宗は将軍就任の翌年、財政をあずかる勝手掛老中に京都所司代の水野忠之を任命。水野は「享保の改革」の前期を支える財政大臣である。同年、大岡忠相(大岡越前)を町奉行に抜擢し、首都江戸の改革と都市政策に着手した。大岡はさしあたり東京都知事兼最高裁判所判事兼法務大臣といったポジションか。
吉宗の人材登用制度は「足高(たしだか)の制」と呼ばれる法令に顕著にあらわれている。従来の各役職は基準の石高を満たしていないと就任できなかったが、基準の禄高(給与)以下の者が役職に就任する際に在職中のみ不足している役料(石高)を補い、その職を辞すれば元に戻すという画期的な制度である。能力はあるが家柄が低いために要職に就けないという人材のミスマッチを解消することと、役職を退任すれば石高は旧来の額に戻るため幕府の財政負担が軽減できることがメリットである。現在なら「能力主義」の採用と人件費アップの抑制を同時に実行するようなものである。
こういった吉宗の考え方によって要職に登用された人物として名高いのが大岡忠相と、吉宗時代後期に勘定奉行として辣腕をふるう神尾春央(はるひで)だ。また、吉宗時代に紀州藩の足軽から旗本に登用された田沼意次は、十代将軍・家治の時代に老中まで出世する。民間人では、治水や用水の改修工事で才能を発揮した田中丘隅がいる。田中は河川管理の責任者「川除御普請御用(かわよけごふしんごよう)」として幕府の治水事業に携わった。民間登用の「治水大臣」である。
では、吉宗が実行した財政政策を見ていこう。まず手をつけたのが「倹約令」を発令して消費を抑えることと増税だ。財政危機を克服するために「支出を少なくし、収入を多くする」とは、ごく当たり前のことだが、これを制度化したのは吉宗の手腕だ。しかし質素倹約は両刃の剣で、倹約を意識することで幕府の丼勘定は是正できるが、内需拡大にはつながらないというマイナス要素もある。消費意欲を減退させる政策は、吉宗が試みた改革のあらゆる面にあらわれている。
吉宗は年貢収入の増大を図るために河川敷や山林までを含む強引な新田開発を開始した一方で、年貢率を「四公六民」「三公七民」から「五公五民」(収穫の半分を年貢として納め、残りの半分を農民のものとする)に引き上げた。増税プランとして一定期間年貢を固定しつつ徐々に切り換えて増額する「定免(じょうめん)法」を実行。後期には出来高のうち翌年の再生産部分を残してすべて年貢として徴収する「有毛検見取(ありげけみどり)法」などの新税制を採用し、幕府財入を大幅に増大させる。
吉宗が実行した「痛みを伴う構造改革」はまず農民が犠牲を強いられたようだ。しかし新田開発によって米が増えれば米価がさらに下がり、武士は生活が苦しくなるという矛盾が生じる。吉宗が米価対策に着手するのは将軍就任期間の後期のこと。米価対策は改めて説明するが、吉宗が増税に力を注いだことから、改革の優先順位は財政増収にあったことがよくわかる。
By Master K/益田 慶