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小さな政府江戸幕府 21 江戸幕府の経済政策 新井白石の経済政策と紀伊藩主・徳川吉宗の実績

江戸時代中期、五代将軍・綱吉から七代将軍・家綱に至る時代は、幕府が財政赤字と物価上昇に苦しめられた時期だ。幕府最初の改鋳(元禄金銀と宝永金銀あわせて2500万両)によって一時的に差益を幕府にもたらした勘定奉行・荻原重秀は六代将軍家宣側近の新井白石とソリが合わず、新井は「物価が上昇したのは荻原の無策」「商人から賄賂をもらっている」といった内容の上申書を六代将軍・家宣に提出したという。荻原は寺社造営や土木普請など公共事業の発注にあたり、紀伊国屋文左衛門(紀文)から賄賂をもらっていたという記録があるので、新井の指摘はあながち間違いでもなかったようだ。荻原を追い落とした新井白石は、貨幣の含有量を元に戻すよう主張し、綱吉の時代に発行された金銀(元禄金銀)を回収し、正徳金銀を発行する。市場の貨幣量を減らすために貨幣の純度を元に戻すという政策だ。しかし、改鋳量は21万両と少なく、市場への影響力はなかった。


新井白石が実行した政策に「海舶互市新例」がある。これは国際貿易を制限するために制定した法令だ。新井は国内通貨量のうち金貨25%、銀貨75%が海外に流出したと計算し、長崎貿易における輸出規制を実施した。この政策の意図は金銀の流出に対する防衛策であるとともに、国産品の推進つまり産業の活性化にあった。輸入品のメインは、綿布、生糸、砂糖、絹織物などだった。それを国産品でまかなうように転換しようという政策である。また綱吉時代の放漫な財政感覚を引き締める目的もあったのだろう。それでも、物価上昇を鎮静化する決定的な経済政策とはなり得なかった。将軍の権力は衰退し、幕臣における譜代派と新参派の対立もあり、財政改革は進まなかった。


やがてまだ幼い七代将軍・家継が病死。後見人であった吉宗が八代将軍となり、新井白石を左遷し、「享保の改革」を実行するわけだが、その前に紀伊徳川家から初の将軍を迎えるにあたり、吉宗の何が高く評価されたのか、その手腕を見ておこう。紀伊藩は、徳川御三家のひとつ紀州徳川家が藩主として治める親藩だ。家康の10男・頼宣が初代藩主で、彼の孫にあたる吉宗は紀伊藩五代藩主である。のちに八代将軍となり、「幕府中興の祖」と仰がれるが、吉宗は紀伊藩主時代から政治手腕を発揮していた。見方を変えれば、紀州藩で成功した手法を幕政でも使ったということがいえる。


兄である三代・四代藩主が相次いで亡くなったことから、吉宗は22歳で紀伊藩主となった。当時の紀伊藩は、江戸の大火で焼失した江戸屋敷の再建、将軍の訪問を迎えるための新御殿の建設、相次いで他界した先代藩主の葬儀費用などが重なり、財政難に直面していた。初代藩主頼宣が幕府から借り入れた金10万両も未払いのまま残っていた。追い打ちをかけるように1707年には、地震と津波が紀州南岸を襲い、大きな被害が生まれていた。


吉宗が紀伊藩主として実行した財政の立て直し策は、藩政機構の簡素化と質素倹約の徹底であった。家柄にとらわれず有能な人材を登用しつつ、給料の一部を藩に差し出す「差上金」と呼ばれるスタイルによって家臣の給料を事実上カットし、リストラ(約80人の家臣を解雇)によって人件費を節約した。こういった賃金カットやリストラを実行すると、家臣の不満が爆発するのが世の常なので、吉宗は和歌山城の門外に「訴訟箱」を設け、不満を吸収し、同時に改革の提案を募った。これがのちの「目安箱」制度の起源である。


その一方で、吉宗は水利事業や新田開発によって米の増収を図り、特産品(みかん、材木、醤油)の販路の拡大を試みた。こうして幕府から借用していた10万両を返済。現在に置き換えるなら、新知事が府政や県政にメスを入れ、職員のリストラを決行し、財政の収益アップに成功したということだ。こういった藩主としての実績をもって吉宗は将軍になり、「享保の改革」を実行するのである。

By Master K/益田 慶