小さな政府江戸幕府 19 江戸幕府の経済政策 勘定奉行荻原重秀の貨幣改鋳
江戸時代の経済政策といえば、まず改鋳と年貢率のアップが思い浮かぶだろう。前者は貨幣制度、後者は税制の分野となるが、両者は物価の変動、好不況と連動している。江戸時代の物価は、常に米価と連動した。年貢米収入に依存する幕政としては米価が最大の関心事であったといっても過言ではないだろう。米価が高すぎると庶民は困窮するが、米を換金して生活費にあてる武士は潤う。米価が下がると庶民の生活は楽になるが、換金率が低下するので武士の生活は苦しくなる。米価が下がり、物価が上がると、武士にとって「収入は減るが、支出は増える」という最悪の事態になる。つまり、米価は武士と庶民の為替レートだったのである。
米価が低落しはじめたのは、「生類憐みの令」で名高い五代将軍綱吉の頃だ。四代将軍家綱の時代に、江戸城天守閣と市街のほとんどを焼失し、死者が10万人にも及んだ「明暦の大火」が起きた。このため江戸の復興事業に莫大な資金が投じられた。また、三代将軍家光まで続いた、各地の金山・銀山における「ゴールドラッシュ」が落ちついた時期でもあった。さらに家綱の葬式、綱吉の将軍即位で出費がかさみ、加えて綱吉の母・桂昌院と綱吉が寺社の新改築などで浪費したことで幕府の財政は赤字に転落していた。
そこで財政建て直しのために貨幣改鋳政策が行われたのだ。当時の勘定奉行は荻原重秀。長い間実行されていなかった検地を四代将軍家綱の代に行い、世襲代官制の弊害を提言した人物だ。将軍の座についたばかりの綱吉は荻原の提言を受け入れ、世襲代官を一掃し、これを機に代官の官僚化が始まる。出世街道をのぼりはじめた荻原は、次に佐渡奉行に任ぜられ、生産量が落ち込んでいた佐渡金山を排水溝の掘削によって再生させる。また佐渡の大規模検地にも着手し、年貢収入を8割アップさせる。こうした手腕が認められ、荻原は勘定奉行に出世し、綱吉から経済政策を一任された。
荻原は大幅な財政赤字から脱出するために、市中に流通する貨幣量の増大を目指して、1695年、慶長金銀を改鋳し、金含有量を減らした元禄金銀をつくった。当時からすれば天才的な発想である。家康のつくった金貨、銀貨を回収して、金や銀の含有量を減らして貨幣を増やせば、増やした分は幕府の収入になる。その時の差益は金貨450万両、銀貨456万両。合計約1000万両(2兆円)とも500万両(1兆円)ともいわれている。慶長小判が発行されてから約100年後のことだから、経済規模は大きくなり、商取引に使われる通貨の需要は高まっていたと想像できる。それを見越して流通する通貨の量を増やすのは、経済をより発展させるためのひとつの方策である。もちろんインフレという副作用が伴うことは、経済に精通した荻原なら見通していたことだろう。
この経済政策の評価は二つに分かれる。ひとつは改鋳により経済が混乱し、物価が高騰したので「改鋳は失策」という見方。もうひとつは、インフレ率はさほどアップせず、庶民の生活への影響は少なかったものの、商業資本と富裕層がストックしていた大量の慶長金銀の実質購買力が低下し、幕府は改鋳差益金によって財政赤字を縮小できたという評価だ。
歴史書には、元禄時代は戦国時代以来の経済発展をもとに庶民生活が著しい向上を遂げ、様々な文化(元禄文化)が花開いた時代と記してある。その一方で、経済成長の軸から見れば、高度経済成長がひと段落し、低成長へと移行した転換期ともいえる。元禄の改鋳は、物価対策というより幕府の財政赤字を補うために用いられた経済政策だった。
同じ時期、幕府は経済活性化対策として寺社造営や土木普請など、様々な公共事業を展開している。ケインズ理論を先取りするような経済政策だ。この波に乗ったのが、かの有名な紀伊国屋文左衛門(紀文)と材木商・奈良屋茂左衛門(奈良茂)だ。特に紀伊国屋は同時の老中・柳沢吉保や勘定奉行荻原重秀に賄賂を贈って接近し、頻発した江戸の火事による再建工事を受注したとされている。彼らは幕府の公共事業を請け負うことで巨額の利益を得たのである。これは現在にも通じる、経済政策の負の側面である。
By Master K/益田 慶