100年企業18 旧財閥系の100企業 地方財閥(阪神財閥)-旧川西財閥、嘉納財閥
阪神地区では明治初期に多くの紡績・繊維事業が始まった。紡績事業が拡大した理由は、渋沢栄一が企画し、藤田財閥の藤田伝三郎が1882年、日本初の本格的な紡績会社である大阪紡績(現東洋紡績)を大阪に設立したことにある。これにより地場産業が刺激され、時流に乗ろうとする起業家が相次いで登場したのだ。
大阪生まれの川西清兵衛が中心となり、投資家・小曽根喜一郎ら神戸の実業家27人を発起人として1896年に設立したのが「日本毛織」、通称ニッケだ。同社は現在もウールのトップメーカーとして営業を続ける「100年企業」だ。繊維・非繊維事業に多くの関連会社を持ち、ニッケ企業グループを築いている。川西は戦争景気によって軍用毛布の売上で資産をつくり、1907年には鉄道事業に乗り出したのち、皮革事業、生糸事業など多数の関連事業を出かけ、川西財閥を形成した。清兵衛は戦前、日本羊毛工業会会長、神戸商工会議所会頭も務めた。
川西財閥は日本毛織を核とする繊維財閥だが、まったく畑違いの機械製造事業でも高い評価と実績を残している。ベンチャー精神にあふれる清兵衛は1918年、元海軍機関将校の中島知久平の飛行機事業に参画。1年後には中島と決別したが、1903年に神戸に創業した「川西倉庫」に「川西機械製造所」を設立。初代社長の川西龍三は清兵衛の次男だ。1928年には飛行機部門を分離独立して「川西航空機」を設立した。ここから紫電改や二式飛行艇が誕生したのである。戦闘機ファンにとっては「伝説の戦闘機メーカー」である。
川西機械製造所は、戦前に真空管やレントゲンなど精密機械を生産し、当時の最高水準のものと評価された。戦後、解体清算されて誕生した神戸工業が1968年に富士通と合併して生まれたのが「富士通テン」である。同社は現在も創業地の神戸に本社を置いている。一方、川西航空機を母体として創業したのが現在の「新明和興業(現新明和工業)」だ。同社の創業には川西龍三がかかわったが、日立製作所の傘下としての再スタートだった。川西機械製造所と川西航空機は現存していないが、「100年企業」川西倉庫は現在、倉庫業と物流業を展開している。
ところで、川西清兵衛と決別した中島知久平は「中島飛行機」を設立し、エンジンや機体の開発に高い技術を発揮。太平洋戦争終戦まで東洋最大の航空機メーカーとなる。こちらも戦闘機ファンには「伝説の戦闘機メーカー」である。中島飛行機の解体後、技術者の多くが自動車産業へ転身し、そのうちの一社が富士重工業(スバル)であることはよく知られている。
さて、阪神といえば甲陽学院中学・高校(白鹿グループ)のように、資産家が設立した私立校が多い地区でもある。進学校として名高い灘中・灘高は、銘酒「菊正宗」や「白鶴」で名高い嘉納家が設立した学校だ。学校法人灘育英会は現在、菊正宗酒造の11代当主で社長の嘉納毅人氏が理事長を務めている。嘉納本家(本嘉納)は1659年に酒造業に進出。適度に硬度があり、鉄分を含まない地下水によって、江戸時代に良質の酒を量産できるようになり、「灘」は良質の酒の代名詞となった。本嘉納が家業として営む菊正宗酒蔵は、300年以上の歴史を持つ「100年企業」だ。
その本嘉納八代目と分家(白嘉納)が設立したのが、旧制灘中学であった。八代目嘉納治郎衛門は土地や建物、株などの投資事業を行い、灘商業銀行(のちに岡崎銀行ほかと合併し神戸銀行に)を設立し、自身は頭取に就任。酒造業と投資事業を営む嘉納財閥として名を馳せた。ちなみに治郎衛門に酒造業対象の銀行設立を進めたのは、のちに第4代総理となる松方正義であった。
一方、分家の白嘉納家は「白鶴」ブランドの醸造で酒造業を営み、日本最大の酒造メーカーへと成長した。1897年設立の白鶴酒造はもちろん「100年企業」である。ほかに灘の酒造業で財力を蓄えたのに「櫻正宗」ブランドで知られる山邑(やまむら)家がある。こちらも1717年創業の老舗「100年企業」である。
By Master K/益田 慶