FX検定公認テキスト「外国為替FX投資の黄金律」 → 詳しくはこちら

小さな政府江戸幕府 17 江戸の行政 都市政策(消防制度)

「火事と喧嘩は江戸の華」とは、時代劇や時代小説でよく聞く言葉だが、約100万人が暮らす大都市・江戸にとって、火事は都市機能をマヒさせ、多くの人命を奪いかねない重大事だった。武家にとっても大名屋敷が焼けると、復旧に莫大な費用がかかるので大きな脅威だった。1657年の大火では江戸の町の約60%が焼失し、江戸城の本丸・二の丸・三の丸と天守も焼け、天守はその後、再建されることはなかった。死者は10万人に及んだとされている。


3代将軍家光は、6万石以上の大名16家を4組に編成(1万石について30人の人足)する「大名火消」に消防活動を行わせていた。これは若年寄の配下に属する組織で、江戸城や大名屋敷を家事から守る、いわば徳川家私設の消防隊だ。4代将軍家綱は、1657年の大火の反省から最初の公設消防「定(じょう)火消」を設置した。4人の旗本に「江戸定中火之番」を命じ、飯田橋、市ヶ谷、お茶の水、麹町に火消役の屋敷をつくり、与力や同心を付属させ、火消人足を常駐させて火事が起きたらすぐ出動できるように準備したのだ。これが現在の消防署の元である。


それでも大名屋敷中心の消防組織であったため、町屋を家事から守るまでには至らなかった。そこで、1718年に8代将軍徳川吉宗の命を受けた江戸南町奉行大岡越前守忠相が町人のための本格的な消防組織として創設したのが「町火消」である。これが時代劇に登場する、お揃いの半纏を身につけた「いろは48組」だ。


町奉行が消防団の設立を命令し、町奉行支配下の警察組織「火消人足改」(のちに火付盗賊改と統合。「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が長官)の与力・同心の管理下にあったとはいえ、町火消は幕府から「足留め金」と称する、わずかな金額が支給されるだけで、実態は町人が費用を自己負担する自衛的な消防団であった。「足留め金」とは、火事はいつ起きるかわからないので、火消人足は所属する組の近くにいるよう遠出が禁止されていたことから命名されたとされている。


町火消の費用を町人が負担したと前述したが、町内会が一戸一戸をまわって集金したお金でなく、どうやら大店の主人がスポンサーとなり、保険のつもりで町火消の頭にお金を渡し、日常的に彼らの生活の面倒をみていたようだ。商人や地主にとって自分の店や貸している長屋が家事で焼失することは大きな痛手だ。火事になったときに助けてくれる町火消と日ごろから親しくしておくことがリスクヘッジにつながったのだろう。現在なら警備会社に支払う必要経費のようなものである。


こうして見てみると、江戸の消防面での都市政策は、大きな枠組みは官僚がつくり、運営は民間に委ねるというやり方であったようだ。また町人からすれば「自分の身は自分で守る」という意識が強くあったのだろう。都市生活には行政によるインフラ整備のあとで、必ずそのシステムを維持するランニング資金・メンテナンス資金がつきまとう。幕府が命令しなくても需要と供給が生まれ、取引が発生したということだ。


ところで、消火活動だが、当時のそれは風下にあたる家を鳶口や刺股といった道具で壊し、延焼を防ぐなどの破壊消防が主であった。屋根の上に上ることも多かったので、火消人足には鳶や大工といった専門職が就いた。江戸中期にオランダから「龍吐水(りょうどすい)」と呼ばれる小さなポンプが伝来したが、水圧が低く放水量が少なかったため消火に貢献することは少なかったようだ。


これらはいわば消防のソフト面からのアプローチだが、ハード面でも工夫はあった。1657年の大火をきっかけに幕府は、瓦屋根や土蔵造りといった防火構造を奨励し、井戸の開発や水溜桶の設置を命じ、防火目的の空き地である火除(ひよけ)地を設定した。1723年には、「火の見やぐら」の設置が義務づけられ、2人ずつ番人を置くこととなった。


瓦屋根や土蔵造りを奨励するために幕府は武家・町人の身分に応じて無利息の10年月賦で金を貸したほか、町屋に対しては5年間租税を免じた。現在なら省エネ物件や地震対策物件、屋上緑化建造物に有利な融資を行う住宅制度のようなものである。これなどは近代国家に不可欠な制度で、江戸時代の画期的な政策といえよう。

By Master K/益田 慶