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小さな政府江戸幕府 16 江戸の行政 都市政策(弱者のセーフティネット)

100万人都市・江戸は巨大な消費都市であったことから、江戸に行けば「仕事があるかもしれない」「生活が今より豊かになるかもしれない」と考え、多くの人々が流入し、その一部が無宿者や浮浪者となるケースも見られたという。彼らを潜在的犯罪者と見なして警戒する幕府は、たびたび「旧里帰農令」を発するとともに、1790年には石川島(現在の中央区)に町奉行管理下の「人足寄場」を設置した。


旧里帰農令とは、松平定信が老中在任期間に主導して進めた「寛政の改革」で実施された政策で、地方出身の農民たちに資金を与えて帰農させ、江戸から農村への人口移動を狙ったものだ。江戸を起点に見れば「働かない者は田舎へ帰れ」といった強烈な政策だが、地方を起点に見るならば過疎対策、人材確保対策でもある。現在、Uターン希望者や転入希望者に奨励金や住まい(借家)を与える制度を設けている地方自治体があることを鑑みれば、今にしてみれば旧里帰農令は画期的な政策であったといえよう。


一方の人足寄場とは、無宿人、浮浪人を石川島に設置した宿場に集め、更生させる自立支援施設のことだ。「鬼平犯科帳」で知られる火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が老中・松平定信に提言して実現したもので、これも「寛政の改革」で実施された政策である。初代の管理者には平蔵が就いたが、以降は町奉行が担った。300~400人の軽罪人を約3年間収容し、彼らが新たな犯罪に走る前に身柄を拘束し、劣悪な生活環境での重労働を強いることで、無宿人でいることの不利を自覚させ、無宿人を減少させる目的もあった。


自立支援のプログラムは、大工、建具製作の訓練、単純軽作業や土木作業の指導や講義などだ。現在の刑務所で行われている、工芸品や家具などの刑務作業とよく似たシステムで、労働に対する手当を支給し、手当額の一部を強制貯金し、3年の収容期間を終えて出所する際にはこの貯金を交付して更生資金に充てさせた。また、収容期間満了後、江戸での商売を希望する者には土地や店舗を、農民には田畑、大工になる者には道具を支給したという。この制度は現在でいうところの「弱者のセーフティネット」であり、これもまた画期的な政策といえよう。


余談だが、人足寄場は幕府からの運営資金が不足したため、長谷川平蔵は幕府から資金を借りて銭相場に投資したり、大名屋敷跡地を有力商人に資材置き場として賃貸したりするなどして稼いだ利益を人足寄場の運営資金に投入したという。施設の運営資金を生み出す手法は「鬼平犯科帳」では描かれていないが、平蔵には捕物だけでなく経営者や投資家の手腕もあったようだ。


「寛政の改革」では、相互扶助の制度も生まれている。名主役料や上下水道の維持経費、鐘役(鐘を叩いて時刻を知らせる仕事)、木戸番(町境に設けられた木戸の番人)、ゴミ回収、祭礼などに使われていた町費を節約し、その7割に幕府からの援助金1万両を加えた基金「七分積金」を設け、災害時の救済やハシゴ、手桶などの購入費用、道路や橋の修繕などに使われたのだ。


町入用節減額の10分の7を積金したことから「七分積金制度」と呼ぶ。しくみだけを見れば、町々の積金と幕府・富裕町人(主に地主)の出資金を資本とし、非常の時の救済に充てると同時に、町からの申請により名主、地主、拝領地主(武家)へ低利で貸付ける公庫制度ともいえる。この貸付制度はその利子収入によって救済資金の増資をはかるものであったが、同時に拝領町屋敷の地主(下級武士)を含む小地主層を保護するためのものであった。


幕府からすれば「公庫制度」だが、町人側からすれば目的は別にして現在の「互助会」のシステムに似ている。これらの事務が執行されていた「町会所」では、孤児、未亡人、負傷者らに米銭も支給していたという。町会所は救済目的の公民館といったところか。この町会所の設立によって江戸の市民は不時の災害から救われたという記録が残っている。


また幕府による救済が制度化したものとしては、火災や水害、地震などの被害者に米を支給したり、「お救い小屋」を建て、住まいを提供したりしたことが挙げられる。これなどは地震にあった地域に地方行政や国が仮設住宅を建てる、現在の復興制度の起源といえよう。江戸時代に生まれた優れた政策のひとつである。

By Master K/益田 慶