小さな政府江戸幕府 15 江戸の行政 都市政策(住宅とゴミ問題)
江戸時代中期以降の江戸の人口構成は、武家人口50万、町人人口50万とされている。江戸の面積の約70%が武家地と呼ばれる武家の居住地であった。50万人の町人が残り30%の土地で暮らしていたということは、必然的に町人の家は小さくならざるを得なかったのである。江戸(東京)の一般市民は400年前から「うさぎ小屋」に住んでいたということだ。
人口の多さだけでなく、江戸の地価は高額であったこともあり、家賃の滞納や共同施設の必要性などさまざまな問題が生じたようだ。人口密度の高い江戸の中心部と、農村地である周辺地域の店賃の格差は4~5倍にのぼっており、中心部では空き店舗が多く、また店賃の滞納も少なくなかったようだ。このような問題が発生したことで、民事制度や都市政策が進んだと推測できる。
町人たちが住まう典型的な住宅として時代劇や落語に登場するのが軒を連ねた長屋だ。狭い土地ながらこの長屋には都市生活を営むための多くの工夫がほどこされており、驚かされることが多い。地主は表通りに面した部分の土地を商店に貸し、その裏には裏長屋を建て、持ち家のない人々に貸し付ける町屋経営を行っていた。
ひとつの土地を用途に分けて貸し出すという、現在では当たり前となっている不動産業の発想は、この頃に生まれたのだろう。また長屋には共同の厠(トイレ)や井戸、長屋の住人が使う水道などが設けられていたというから、集合住宅の基礎となるインフラ整備が行われていたことがわかる。
武士と町人が暮らす江戸は「生産地」ではなく、巨大な「消費地」である。各地から運ばれてくる食料、道具類、着物などどれをとっても消費目的の品ばかりだ。さらに多発する火事や地震によって大量の建築廃材が排出されていたと想像できる。100万もの人口が暮らすなら大量のゴミも生じていたであろう。では、ゴミ問題はどのようになっていたのであろうか。江戸時代の庶民の暮らしを記した資料を漁ってみると、江戸ではゴミを処理する埋立地が設けられていたことが記されている。
幕府が市中に出したお触れ(幕府の公告)に「ゴミを下水に捨てることを禁じる」というものがある。ゴミ捨て禁止の場所には、下水・会所・川などが挙げられている。1648年に発令されたお触れが最も古い資料だが、それ以前の記録が発見されていないだけかもしれない。ともあれ、幕府もゴミ問題の解決に取り組んでいたことの証明である。1655年のお触れには、「ゴミは船に乗せて永代嶋へ捨てること」「ゴミを運ぶ船の運賃は町々で少しずつ負担すること」や「地域ごとにゴミ回収船がまわる日を決めよ」といったことが記してある。
船賃を町が負担することは別にして、町々のゴミを船(現代は回収車)が集めてゴミ捨て場に運ぶ・・・これは自治体が実施している現代のゴミ回収と同じシステムである。幕府がゴミ問題と正面から取り組み、練り上げた都市政策を実施していたことが見えてくる。武士が50万人も住んでいたことから自分たちのためにもこういった政策が必要だったのだろう。
ところで「ゴミは船に乗せて永代嶋へ捨てる」のお触れにある「永代嶋」とは現在の東京都江東区に該当する地域のことで、当時は隅田川に沿って多くの洲があり、それが島のような地形をしていたため永代嶋(島)と呼ばれていたという。地元の町人が幕府に請願し、永代浦干潟にゴミ捨て場を設置し、埋め立てを始めたのが始まりだ。
当時から問題解決策をひねりだす市井のアイディアマンはどこにでもいたということか。しかし、わずか3年で6万坪のゴミ埋立地となり、ゴミ捨て場は深川越中島(江東区)後方に移されている。蛇足だが、永代浦干潟の埋立地にはのちに深川佐賀町にあった材木問屋の多くが移り、「木場」と呼ばれるようになる。
大江戸ウォーターフロントでは、このように猛スピードでゴミ捨て場が生まれ、埋立地となっていったのである。幕府にとってはゴミの処理と同時に新たな領地が人工的に誕生したことになるが、都市にとってゴミ問題は政治レベルでの大問題であることは江戸も東京も本質的には同じであるようだ。
By Master K/益田 慶