小さな政府江戸幕府 14 江戸の行政 複数の職務を兼ねた町奉行と民間への委託

幕府で行政を担ったのは、老中や大老、大目付や三奉行(町奉行、寺社奉行、勘定奉行)などの職に就いた少数の武士だが、これら幕府官僚で最も激務だったのが江戸町奉行である。奉行所所在地から北町奉行・南町奉行町奉行と呼ばれた二人の江戸町奉行は、現在でいうなら東京都知事、警視総監、消防総監、東京都地方裁判所所長を兼任したような役職であった。奉行所は御番所、御役所とも呼ばれた。市役所や役場というより地方裁判所に近い場所である。


江戸町奉行はサラリーマンのように毎日登城し、老中の指示を受けたり、他の官僚と折衝したりしたほか、江戸における殺人や放火など刑事事件の訴訟事務を行い、さらに1ヶ月交替で江戸町人からの訴訟を受けつけた。こちらは民事訴訟の受理である。


幕政の重要事項の決定や裁判を行った、評定所と呼ばれた場所がある。老中、大目付、目付、三奉行などが毎月6回出席し、その都度案件を処理した場所だが、ここで中心となったのは三奉行である。江戸町奉行は評定所のメンバーとして国政にも関与したので、訴訟事務と行政事務をこなし、裁判官も務め、さらに法務大臣も兼ねた官僚ということになる。江戸町奉行として名高いのは、南町奉行の大岡越前守忠相、北・南両奉行を務めた遠山左衛門尉景元(遠山金四郎景元=「遠山の金さん」のモデル)、幕末の優れた幕僚・小栗忠順(上野介)などがいる。彼らがいかにスーパーマン的な仕事をこなしたのかは想像に難くない。


元禄時代に江戸が人口100万人都市であったことを見ると、様々な問題が発生していたと想像できる。町奉行にはそれぞれ与力、同心が部下として配置された。与力は都市行政の各部門の中間管理職。同心は与力より格下の役人で、現在なら一般の警察官といったところか。


江戸の都市行政を担う奉行所のスタッフは与力・同心を合わせても300人に満たなかったとされている。さらに行政の一部門である治安、具体的には市中の取り締まりにあたったのは20名ほどに過ぎなかったようだ。これでは100万人都市の治安を守れるはずもなく、実際には同心の下に岡引き、その子分の下引きが江戸の治安維持に大きく貢献していた。

そして驚くべきことに、奉行所は各町に置かれた名主(町役人)に各町の行政事務の処理を委託していたのである。江戸町奉行を東京都知事に置き変えるなら、知事は一部の行政事務を民間に委託し、都市行政を遂行したということになる。


名主は一人あたり、平均7~8町、約2000人以上の町人を担当していたようだ。彼らは役料をもらい、奉行所からの伝達、火事場での火消人足の手配、奉行所に提出される訴状や届書のチェック、町内のもめごとの調停など多岐にわたる仕事をした。いわば区長や町長のような存在だ。名主の上に3人の町年寄がおり、奉行所とのパイプ役を果たしていた。名主は各主組合に入り、組合内の名主を監視し、伝達事項を伝えた。不正を未然に防ぐためにお互いの町の行政事務をチェックさせたのである。江戸の行政はこのように民間人を使っていたので官僚組織がコンパクトになっていたともいえよう。


また町入用と呼ばれる行政にかかる費用は幕府でなく、民が負担していた。このシステムは税金に近いもので、地主が所持する家屋敷(不動産)の規模に応じて徴収された金が町入用に使われたのである。名主の役料も町入用によって賄われた。土地を持っている市民が行政にかかる費用を負担してくれれば幕府の持ち出しはない。幕府にとってベストな選択である。


このような都市行政のあり方を鑑みると、江戸の町人がいかに行政に参加していたということがわかる。そして幕府が巧みに町人をコントロールしていたという構造も見えてくる。現在でも当番制で夜回りを行っている町内会があるが、これは江戸時代から続く市民の自衛手段であると同時に、行政の仕事を市民が自主的に担っている例ともいえる。ともあれ、江戸の行政は町奉行が奮闘して成り立っていたということである。