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100年企業14 旧財閥系の100年企業 日窒コンツェルンと藤山コンツェルン

日窒コンツェルンは、日本窒素肥料(現チッソ)を中心とした戦前の新興財閥で、15財閥のひとつに数えられた。日本で最初にカーバイドの製造を始めた野口遵(したがう)が1906年に曽木電気を設立し、鹿児島県に曽木水力発電所を開いたのが起源だ。野口は東京帝大工学部卒業後、ドイツの大手電機メーカーのシーメンス日本出張所で働き、電機技師として技術を培った。シーメンスはカーバイドを原料に窒素肥料をつくる特許を有していた。野口はその特許の実施権を買い取り、新たなビジネスモデルを描いていたのである。


野口が曽木水力発電所を開いたのは、そこで生まれた電力を使ってカーバイドの製造を考えていたからだ。同じ年に熊本県にカーバイド製造工場「日本カーバイド商会」を設立。2年後に曽木電気と合併し、「日本窒素肥料」と改め、石灰窒素の製造を開始した。現在のチッソは1906年を設立としているので、「100年企業」ということになる。


野口は人絹工業、合成アンモニアの製造にも成功し、朝鮮にも進出して朝鮮窒素肥料と朝鮮水力発電を設立した。政商としの手腕も発揮し、日本軍の進軍とともに満州まで進出した。1926年には長野県で信濃電気とともに信越窒素肥料を設立。これが現在の信越化学工業である。同社の初代社長には信濃毎日新聞社長、長野商業会議所会頭を務めた小坂財閥・小坂順造が就任した。また野口は日本窒素肥料株式会社延岡工場を「延岡アンモニア絹絲」として独立させ、社長を務めた。同社がのちの「旭化成」である。さらに日本窒素肥料のプラスチック事業から生まれたのが積水化学工業である。旭化成と積水化学は同根ということだ。日窒コンツェルンから生まれた「100年企業」はチッソのみだが、旭化成や信越化学工業といった化学メーカーが日窒コンツェルンから派生したことを考えると、大きな足跡を残したといえるだろう。


藤山コンツェルンは、佐賀生まれの藤山雷太が一代で築いた財閥。藤山は長崎県会議員として手腕を発揮しているときに三井中興の祖・中上川彦次郎に呼ばれて三井銀行に入社。抵当係長として頭角を現わし、所長となって芝浦製作所(のちの東芝)を再生したほか、渋沢栄一が会長を務める王子製紙の専務に32歳の若さで就任した。これは三井が王子製紙の大株主であったため、「物言う株主」として三井から送り込まれたようだ。藤山は渋沢を辞任に追い込むが、後ろ盾であった中上川の死去と王子製紙の営業不振が原因で、王子製紙と三井銀行を去る。


東京市街電鉄の取締役を経て、駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)取締役、日本火災保険(現日本興亜損保)副社長、歌舞伎座取締役など歴任し、因縁の深い渋沢栄一の依頼を受け、倒産寸前と評されていた「大日本製糖」の社長に就任し、再建に成功。1896年創立の大日本製糖は、1996年に明治製糖と合併し、大日本明治製糖となり、現在は三菱商事の子会社となっているものの、藤山が立て直した同社は製糖業界の「100年企業」である。藤山が大日本製糖を再建させた手法は、台湾で生産拡大であった。その後、朝鮮製糖、内外製糖などを吸収し、拡大した。


また大日本製糖は戦前に沖縄の北大東島と南大東島を所有していた。藤山は北大東島で採掘された天然肥料を原料に化学肥料を製造する「日東化学工業」(現三菱レイヨン)や「日本金銭登録機」(現日本NCR)経営し、藤山コンツェルン拡大した。藤山はのちに東京商工会議所会頭、日本商工会議所連合会会頭にも就任した。


ちなみに藤山の長男が、岸信介内閣の外務大臣を務めた藤山愛一郎である。藤山コンツェルンの後継者として大日本製糖や日東化学工業の社長などを歴任し、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、日本航空初代会長も務めた。その後、実業家から政治家に転身。外務大臣就任後に衆議院議員となり、岸派から分派して藤山派を結成。自民党総務会長、経済企画庁長官なども歴任した。


その藤山愛一郎が建設したホテルが、1960年に開業した「ホテルニュージャパン」だ。のちに横井英樹に買収され、1982年に火災にあったことで有名だ。実は愛一郎はホテルニュージャパンに事務所を構えており、火災の際に中国近現代史料コレクション「藤山現代中国文庫」が焼失したという。そこに藤山コンツェルンの落日を見た人も少なくない。


By Master K/益田 慶