100年企業 8 旧財閥系の100年企業 旧浅野財閥

浅野財閥は医者の子として現在の富山県氷見市に生まれた浅野総一郎が夜逃げ同然で24歳にして上京し、石炭の廃物であるコークスやコールタールを売って儲けたところから始まる。1878年、総一郎は横浜市営瓦斯局から毎日排出される燃料炭の残骸コークスの処理に困っていたことに着目し、東京・深川の官営セメント工場を訪ね、コークス利用の研究を依頼。


結果は良好で、さっそく瓦斯局と交渉し、安値で数千トンのコークスを買い取り、大きな利益を得た。さらに処理に困っていた廃物のコールタールの販売を委託し、当時コレラの流行で不足していた消毒用の石炭酸として再利用し、成功を収めた。総一郎が優れていたのは、リサイクルに目をつけたことだ。現在社会のキーワード「持続可能型社会」を100年以上も前にビジネスにしたのである。


総一郎は1884年、渋沢栄一の援助を受けて、官営の深川セメント工場(東京都)の払い下げを受け、浅野セメント(後の日本セメント、現太平洋セメント)を設立した。深川はセメント製造に適した立地だった。多摩川やその支流秋川の上流域には豊富な石灰石の埋蔵が知られており、鉄道が発展した明治時代にはセメントの原料である石灰石は深川まで運ばれ、加工されていた。主に栃木県安蘇郡葛生付近で採掘された石灰石が鉄道で深川まで運ばれ、また隅田川の泥土も原料に使われという。


日露戦争後、日本のセメントの需要は次第に上昇。特に第一次世界大戦後の増加は著しかった。同郷の安田財閥創始者・安田善次郎の支援を受けた総一郎は、第一次大戦に乗じて巨利を得て"セメント王"の地位を獲得した。

浅野セメントの系譜にある日本セメントが合併して生まれた現太平洋セメントは1881年を創業と謳っているので立派な「100年企業」である。

総一郎はセメント以外の事業でも才覚を発揮した。1883年には渋沢栄一、井上馨らとともに「共同運輸」(後に岩崎汽船と合併して日本郵船)を設立、1896年には安田善次郎らの出資によって東洋汽船を創立(後に航路と共に旅客船部門を日本郵船へ吸収合併)。海運業に乗り出した総一郎は、日本の港湾が欧米に比べて大きく立ち遅れていることを痛感し、ただちに東京~横浜間の遠浅な海岸に注目。そこに大型船が着岸できる港湾機能を有する工業用地を造成する計画に取りかかる。


東京都に品川湾埋立出願を、神奈川県庁に鶴見~川崎間の埋立許可願書を、東京市に東京湾築港の事業許可願書を提出した。いずれもスケールが大きすぎる計画であったため認可されなかったが、1908年に「鶴見埋立組合」を組織し、神奈川県庁に「鶴見・川崎地先の海面埋立」の事業許可申請を提出し、受理される。鶴見埋立組合が現在の「東亜建設工業」で、同社は1908年を創業と謳っているので、こちらも「100年企業」である。


この計画は、埋立面積5000万平方メートル、延長4100メートルの防波堤、運河の開削、道路・鉄道の施設、橋梁、繋船設備、航路標識なども完備した一大工業用地を建設するといった壮大なもので、埋立地建設のノウハウは京浜工業地帯や北九州小倉地区の埋立にも寄与した。

総一郎は今日のJR南武線、青海線、鶴見線、常磐線など、物資輸送を担う社会基盤も数多く残している。工業地帯の輸送には鉄道が不可欠なので、セメントや建設業とは切っても切れない関係にある。またコークス処理ノウハウを有していたことから、東京瓦斯(東京ガス)の設立にも総一郎は深くかかわっている。同社は1885年創業の「100年企業」だ。


1916年に設立した浅野造船所は、後に総一郎の息子が「日本鋼管」に発展させ、2002年、川崎製鉄と経営統合し、「JFEスチール」が誕生。同年、船舶・海洋部門は日立造船と経営統合し、ユニバーサル造船が誕生した。「沖電気」の前身である明工舎(1881年)の設立も総一郎が資金を提供して実現したもので、妻サクの伯母の夫・沖牙太郎が初代社長を務めたが、実質は浅野財閥の傘下であったといえよう。沖電気もまた「100年企業」のひとつである。


By Master K/益田 慶