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小栗上野介が駆け抜けた時代70 近代資本主義の萌芽 新貨条例 1両=1円=1ドル

日本における資本主義の成立は、株式会社の誕生とその発展と同意語です。株式会社の原型は小栗上野介が1867年に建議書を提出した兵庫商社でした。上野介が目指した西洋式コンペニーは、外国商館の活動を制約し、日本経済の矛盾を解決する貿易商社でした。関西の出資者が役員となり、大阪に事務所を開いたものの、政治情勢の急変により、約半年だけ稼動したのち事業を中止しました。


兵庫商社が株式会社の「原型」とされるのは、広く出資者を募り、共通の目的で組織を運営し、利益は出資額に応じて配当すると定めたからです。しかし、出資金の権利を示す「株式」という概念はまだ導入されていません。明治2年には、上野介と親しかった、三井組の三野村利左衛門が「兵庫商社」を継承したかのような共同出資の組織「通商会社」と「為替会社」を設立します。これは「社中」(出資者)に出資金に対して月一歩の利息を払うことを条件としていたので、現在の株式とは異なる方式でした。「通商会社」と「為替会社」はすぐにつぶれましたが、三野村は明治4年、「三井組バンク」を創立します。


明治2年には渋沢栄一が銀行と商業会社を併用した「商法会所」を静岡に設立しました。静岡藩が新政府から借入れていた石高拝借金53万両を、殖産興業を興す基本金として立ち上げた組織で、その利益を返納金に当てることを目的としました。同年には、福沢諭吉門下の実業家、早矢仕有的(はやしゆうてき)が「丸善」の前身である「丸屋商社」を創業しています。早矢仕は親子代々世襲の個人商の欠点を指摘し、ウェーランドの『経営哲学論』を参考に元金を出資する「元金社中(株主)」と実際に働く「働社中(社員)」によって構成する会社組織を日本で最初に採用しました。蛇足ですが、この早矢仕が「ハヤシライス」の考案者だという説がありますが、定かではありません。


そして明治4年(1871年)6月27日、日本最初の貨幣法「新貨条例」によって、1両=1円=1ドルに決まります。幣制改革を主導したのは大隈重信です。大隈は通貨単位を「両」から「円」に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を円形とすることなどを決定。同年、大阪に設置された造幣寮が新貨幣の鋳造を開始し、紙幣はドイツの会社に印刷を依頼し、新紙幣を発行しました。アメリカ出張中の伊藤博文の「世界の大勢は金本位に向かいつつある」という指摘を受けて金本位制が採用されます。こうして資本主義が発展する環境は整いました。


株式会社の条件をほぼ満たした最初の企業は、明治6年に設立された第一国立銀行でしょう。渋沢栄一が会頭を務めた同銀行こそが「統一金融機関コード0001」(現在は、みずほ銀行)なのです。同行は出資者を公募して1株100円の株式を発行し、2,448,000円の資本金で設立。取締役は株主が選挙で選び、頭取は取締役会で決められました。現在の株式会社と異なるのは、営業の損益は株高に応じて株主が負担するという規定や株式の譲渡が制限されていたことが挙げられます。渋沢は明治12年に「東京海上保険会社」を株式会社として設立します。商法に照らして株式会社の要件を満たした実質的な株式会社の設立といえば、1893年(明治26年)に誕生した「日本郵船株式会舎」ということになるでしょう。これは三菱グループの源流です。


明治に誕生した近代資本主義。これらの基盤をつくったのは幕末の幕臣でした。1860年に遣米使節団の一員としてアメリカに渡り、両とドルの交換レートの交渉に成功し、のちに近代的マネジメントの源流となる多くの政策を試みた小栗上野介がいたからこそ、その後に渋沢栄一や大隈重信、伊藤博文、岩崎弥太郎らが活躍できたといっても過言ではないでしょう。


そういった観点から小栗上野介の活躍を見直し、その時代を検証してきました。
長い間、ご愛読くださった『小栗上野介が駆け抜けた時代』は、このコラムをもって終了とします。



By Master K/益田 慶