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世界資源戦争 6 石油開発の歴史 イラン・イラク革命とOPEC諸国・非OPEC諸国の動向

1980年に勃発した「イラン・イラク戦争」は産油国の中東地域の不安定さを示す材料となった。しかし紛争の火種は「イスラム教内の各派の対立」という図式だけでは語り尽くせないほど複雑になっていた。イラン革命が起こるまでイランは長らく親米政権だったので軍備は米国製であったが、イラン革命の際にアメリカ人は国外退去していた。


イラン革命後、イラン国内では反米運動が起こった。アラブ諸国は王政・独裁制が多いのでイランのような革命が国内で勃発することを恐れ、イラクを支持し、米国や欧州、ソ連も積極的にイラク側についた。米国はイラクに武器を輸出し、ソ連は一方でアフガニスタンへの侵攻を開始した。ペルシャ湾をはさんでイランと向かい合うクウェートはイラクを全面的に支援し、資金と軍港を提供した。


こういった各国の思惑に石油が絡むと、さらに複雑になってくる。イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンに囲まれたペルシャ湾は巨大な油田地帯であり、石油輸送の重要な水路であるため、各国の紛争に巻き込まれると石油生産や輸送はストップする。たとえばクウェートは石油をタンカーで運ぶ際にイランの鼻先を通らなくてはいけないためタンカーにソ連の護衛をつけた。


米ソとクウェートの支援を受けたイラクは当初優勢だったが、イランは抵抗を続け、やがてイスラエルがイランの援助を始める。親米のイスラエルは米国の軍備を調達し、イランを支援。アラブ人の国シリアとイスラム教の国リビアはイランに味方した。イスラエル空軍がイラクに侵入したことで、イラクはイスラエル軍の防衛にも力を注がなければならなくなった。


1982年にはシリア経由のパイプラインが止められ、イラクは石油の輸出ができなくなる。イランが形勢を逆転し、イラク国内への攻勢を開始。イラク軍はイランのカーグ島石油基地を破壊し、イランも痛手を受けた。米国はイラクのサダム・フセインを公式に支援し、イランとイラクは応酬を繰り返した。イラク軍が反政府的なクルド人に化学兵器を使用したとされるのは、この時期である。米軍がペルシャ湾に出動すると、イランは米国のタンカーを攻撃した。


停戦は1988年。イランが国連決議を受諾したのである。この間、石油を取り巻く状況は大きく変わった。原油価格は1980年にスポットで1バレル40ドルの値をつけたのをピークに一転、下落基調に転じた。


その理由はいくつかある。二度にわたる石油ショックを受けて、ロシアやノルウェー、中国など非OPEC諸国にエネルギー資源開発が始まったこと、石油メジャーが非OPEC諸国に活路を求めたことに加え、石油ショックの影響で先進国の景気回復が遅れ、世界の石油消費量が伸び悩み、それに応じるようにOPEC諸国の原油生産量も減少していったのである。


この間、世界の原油生産量は小幅ながら増加しているということは、非OPEC諸国の供給能力が大幅に拡大したということだ。具体的にはメキシコ、アラスカ、北海などで進められていた油田開発がビジネスになってきたのである。OPECの生産シェアは79年に5割を切り、イラン・イラク戦争の勃発以降、世界の石油市場では供給過剰で原油がだぶつき、価格が下落に転じたのである。


70年代後半から80年代前半にOPECが生産量を減らした要因は、大きな戦争によって中東の産油国で原油の生産ができなくなったからではない。OPECは原油価格維持あるいは価格の安定のために生産量をコントロールしようとしたのである。加盟国の石油埋蔵量と生産能力は異なる。


またイラン対イラク、クウェートのように紛争を続ける不安定な国が多い。そこでOPECの盟主サウジアラビアは儒供に応じて自らの生産を拡大したり縮小したりする調整役を買って出たのである。同国は1日あたり1000万バレルの生産能力を有しながら、80年代前半の石油供給過剰時には生産量を3分の1にまで落として、価格の暴落を阻止しようとしたのである。


By Master K/益田 慶