FX検定公認テキスト「外国為替FX投資の黄金律」 → 詳しくはこちら

小栗上野介が駆け抜けた時代 68 近代資本主義の萌芽  近江商人と資本主義

幕末に近江商人が営んだ事業は、小売・卸業、呉服業、両替商、酒造業・醤油業などです。近江商人は伊勢商人と並ぶ近世の代表的な行商人です。湖東、八幡、高島、日野など、地域ごとに得意とする商品が異なり、たとえば日野地方出身の日野商人の主力商品には清酒と薬がありました。


商人と言っても卸・小売業に特化していたのではなく、北関東地方の街道沿いを中心に店舗を設置し、清酒の製造・販売を行ってきました。また、「置き薬」のシステムを考えたのも日野商人と言われています。マーケットがある他の藩に進出して事業を展開していく戦略は、市場開拓の面からも資本主義の発想です。


幕末に頭角をあらわした近江商人は少なくありません。7代目小野善助はその一人です。初代善助は大溝藩(現在の滋賀県高島市)の出身。盛岡の叔父・村井権兵衛に呼ばれ、1682年京都から盛岡に進出し、「井筒屋善助店」を開いて陸羽地方との交易で成功しました。「井筒屋」は小野組の屋号です。


2代目は村井姓を名乗りましたが、小野の分家は多く、以降小野一族は、木綿、古手などの雑品を南部にもたらし、砂金、紅花、生糸などを持ち下り、次第に各地に支店を出して栄えました。やがて両替屋も営み、7代目善助が活躍した幕末には、三井組、島田組と並んで出納所御為替御用達となり、豪商に成長しました。明治維新には莫大な御用金によって新政府に加担し、新政府の財政確立に貢献。


政府・各府県の「為替方」になる一方、米穀・生糸取引を手がけ、製糸場や鉱山も経営。さらに後に三井組とともに「三井小野組合銀行」を設立、これが後に第一国立銀行となるなど、維新後、数年で巨大資本に発展しました。しかし政府が「為替方」に対する担保額の引き上げと担保提出強化の方針を打ち出すと、小野組はたちまち苦境に陥り、各府県が小野組に預け入れた官金の回収に動いたものの、これを支えきれず、破産に至ります。ちなみに盛岡・小野組に奉公し、頭角をあらわしたのが、後に古河鉱業を興し、古河財閥の祖となった古河市兵衛です。


著名な近江商人といえば、近江高島出身で京都に出て「高島屋飯田儀兵衛」と称して米穀店を営んでいた飯田儀兵衛と、その養子になる飯田新七がいます。新七は越前敦賀の出身ですが、京都の呉服屋に奉公中その勤勉ぶりを認められ、1831年、新七が27歳のとき、家業を呉服商に変え、屋号を「高島屋飯田呉服店」とし、京都烏丸松原で古着・木綿商を始めました。他店よりも早朝くから店を開け、安価な価格で販売。これが後の百貨店「高島屋」です。


湖東商人の伊藤長兵衛・忠兵衛兄弟は「伊藤忠商事」「丸紅」という二つの商社の創業者として富に有名です。犬上郡豊郷村(現豊郷町)に商家の次男として生まれ、実家は「紅長」(べんちょう)の屋号で繊維小売業を営んでいました。11歳から行商の経験を積み、1858年、兄の長兵衛とともに近江麻布の持ち下り商いを開始。

兄は仕入れに当たり、後に「伊藤長兵衛商店」を開業。九州・中国各地に地盤を広げます。忠兵衛は明治維新の混乱期に持ち下り行商に見切りをつけ、明治5年、大阪本町に呉服太物店「紅忠」(べんちゅう)を開き、麻布、尾張織物、関東織物を扱う「丸紅」の基礎を築きました。ここに「伊藤忠商事」と「丸紅」が誕生したのです。実家の屋号「紅長」を取り、○(マル)に「紅」という文字を入れ、のれんに使ったことから「丸紅」。忠兵衛は明治17年、「紅忠」を「紅伊藤本店」とし、明治26年、大阪市に「伊藤糸店」開業。中国との綿花、綿糸の貿易をはじめ、呉服卸売、雑貨輸入など積極的に業容を広げました。


このように幕末は、商人が豪商となり、企業家へと変身していく過程で欧米型の企業を構築した時期といえるでしょう。当時、勘定奉行を務めていた小栗上野介の「兵庫商社」構想もちょうど同じ時期であることを鑑みると、上野介も時代の流れを的確に捉えていたことがわかります。


By Master K/益田 慶