小栗上野介が駆け抜けた時代 66 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(15)
江戸は1718年に人口100万人を越えていたとされていることから、当時としては世界最大の都市であったようです。人口が増えれば自ずと産業が発展します。イギリスやドイツのような産業革命を体験していなくても、日本には工業経営の新しい型が形成されていたようです。織物業、製糖業、製鉄業などの分野に部分的ではあるにせよ、マニュファクチュアが存在し、問屋制家内工業が生まれました。
織物業では商人や織元から原料の織糸を供給され、自分の作業場で機織を行い、製品の布を商人や織元に渡して織賃を受け取る「賃機(ちんばた)」システムが農家の副業として普及していました。これは織元から機械を借りて仕事をすることではなく、親機業から委託を受けて、下請け製織する業者のこと、あるいは業界の制度のことです。親機業者がデザインと資材一切を賃機業者に預託し、賃機業者は設備と労力を提供するというこのシステムは、現在でも西陣織の世界で息づいています。
横浜の開港によって生まれた居留地貿易を代表するものが生糸輸出です。すぐに総輸出の5~8割に達しましたが、先週のコラムで紹介したように生糸輸出の開始は、日本の絹業に大きな影響を与えました。
絹業は養蚕・製糸・織布の3つの基本工程に分かれており、生糸の輸出の増大にともない、養蚕・製糸業はともに発達のチャンスをつかみました。しかし製糸を原料としている織布部門は品不足とインフレによって、破壊的な打撃を受けたのです。
綿業は綿作・手防・織布の3つの工程に分かれています。産業革命の産物である機械製の綿布は、1865年頃から大量に日本に流入し、織布部門は原糸を輸入糸に転換することで新しい発展の方向を求めました。当時の輸入品目を見渡すと、綿織物、綿糸、毛織物が大半を占めています。綿製品は当時の日本の日常衣料品であったため、綿製品の輸入が農民の衣料品自給生産を縮小させ、商品経済を農民に浸透させたのでしょう。
こうして外国貿易の展開は衣料品をはじめとする消費物資の輸入によって、綿、砂糖、菜種などの国内市場を対象とする商品生産の衰退を招くとともに、また生糸、茶などの国外市場を対象とする商品生産の急激な発展をもたらしました。しかし、他面ではインフレの発生が産業分野の明暗を分けたのです。
幕末の江戸では、貿易にともなう商品需給の不均衡によって2倍半~7倍余のインフレが起こりました。このような激しいインフレは貿易商人に巨利をもたらし、生糸、茶など直接輸出品に携わっている商人や一部の豪商を裕福にするその一方で、年貢の増徴が農民をますます貧窮に追いやりました。こうして領主や封建制度に対する反発が激化し、全国的に産業の自由、経済生活の平等化などを求める一揆や百姓一揆、打ちこわしが激化しました。藩の財政も一部雄藩を除いては、いっそう悪化し、下級武士の貧窮化を促しました。特に下級武士は開港を断行した幕府ならびにそれに従った上級武士、さらに外国貿易によって莫大な利益をえた貿易商人を恨み、盛んに外人殺傷、貿易商人脅迫などの事件を巻き起こしました。
このようなことから、身分的支配体制は揺り動かされ、社会の統合力は弱まっていきました。そして経済的秩序の混乱が、社会的政治的不安定に拍車をかけ、下級武士層の主導する政治変革運動の力が広まったのです。
長い鎖国のなかでそれなりの安定を保っていた貨幣制度や諸物産の生産と流通のシステムが、開国による外国貿易の本格化とともに、それまで想像できなかったような変化をもたらしました。外国から入って来た新しい商品、新しい知識、新しい技術は、そうした商品を取り扱おうとする商人たちや、輸入品を模してこれに対抗しようとする生産者たちに、ビジネスのチャンスを生み出したのです。
By Master K/益田 慶