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小栗上野介が駆け抜けた時代 65 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(14)

1859年から始まった幕末の貿易。港として最も栄えたのは横浜でした。日米修好通商条約では「神奈川港」を開港地としましたが、幕府は東海道に直結し、当時すでに栄えていた「神奈川湊」を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地としたのです。横浜村には、短期間で居留地、波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられました。余談ですが、今に残る横浜中華街(横浜市)は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源としています。


幕府は、外国商館に出入りする商人たちが舶来品を売りさばくことはもちろん、「居住している外国人の商店からどんな商品を買い取ることも勝手である」と全国に布告しました。貿易開始直後、神奈川奉行が幕府に提出した報告書によれば、呉服、塗り物、箱物、鳥屋、薬師店、金物店などおよそ百軒が店開きをしたそうです。こうして、たちまち横浜は長崎を抜いて、国内の貿易の扱い高第一位となりました。


日本からの輸出品で最も多いのは生糸でした。ヨーロッパの生糸が蚕の病気で壊滅状態にあったことと、日本の生糸の品質のよさが欧州の商人に認められたからです。生糸貿易の主導権を握っていたのは外国商館です。彼らは欧州やアジアとの貿易でノウハウを持っています。一方の日本人商人や幕僚には貿易の知識も交渉能力も何もありませんでした。


しかし、やがて生糸の輸出がこれ以上増えると国内の絹織物生産に悪影響を及ぼすとして、幕府は抑制しようとします。大量の輸出によって生糸はどんどん値上がりし、さらに品薄になった生糸を貿易商が買い占めたため、生糸の値段は悪循環のように値上がりを続けました。いくら需要があっても、急に蚕が増えるわけでもなく、生産の増加は望めません。


1859年、ロンドン市場に初めて日本の生糸が登場したとき、欧州の商人は日本の市価より高い一梱200ドルくらいで買い上げました。横浜が開港すると、たちまち500ドルにはね上がり、さらに800ドルまで達しました。そのため、国内の需要はそっちのけで、生糸業者は全部輸出にまわしていきました。生糸が高値で売れるとなると、農家は桑畑を増やし、蚕を飼い、繭の増産にエネルギーを注ぐようになります。米主体の農家のあり方まで変わったのです。貿易が輸出国・輸入国の産業に大きな影響を与える実例として読んでください。


輸出品が値上がりすると、絹織物の産地である桐生や伊勢崎、京都・西陣の業者がいくら金を出しても原料の生糸が手に入らなくなり、営業が困難になります。「これは貿易の結果である」という抗議が幕府に寄せられます。西陣や桐生地方の織物関係者1500人が生糸輸出の禁止を幕府に懇願した、という記録が残っています。


そして生糸の輸出は、ほかの糸偏の産業にも大きな影響を及ぼしました。原料の生糸が国内に流通しなくなると、安価な綿糸や綿織物が輸入されるようになり、今度は日本の小規模手工業である、機織りによる綿糸、綿布などの生産も大きな打撃を受けることになったのです。絹も綿も商売にならない。これでは商人たちが「幕府の貿易政策はダメだ。佐幕派に献金しよう」と考えてもおかしくありません。


これらの現象は現在、形を変えてほかの産業で進行しています。かつて特定の野菜の産地であった地域が農業政策によって廃業せざるを得なくなりました。現在では、その野菜の産地であった町のスーパーには、安全に不安が残る安価な中国野菜が並んでいます。一方、他の地域から野菜を運んでくるとなると、国内の移動にかかるコストが販売価格に反映し、その結果、国内のブランド野菜は遠隔地でも手に入るが、すこぶる高額になるという現象が起こります。細々と続けている農家が「与党の農業政策はダメだ。野党を支持しよう」と方向転換するのは当然の成り行きでしょう。


By Master K/益田 慶