小栗上野介が駆け抜けた時代 64 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(13)
イギリス公使オールコックの後任として1865年に駐日公使に着任したハリー・パークスは、天皇と将軍という二重構造は早晩崩れることを予測していました。英国政府から指令を受けて、パークスは兵庫・大坂などの開港や関税率の引き下げに加え、条約勅許を要求します。条約勅許とは、通商条約について朝廷の許可を得ることです。そもそも鎖国は徳川幕府が実施した外交。開国も幕府が決定すればよいのですが、尊皇派は「国家の重要案件は天皇の許可を得るべきだ」という論を展開してきました。
パークスの行動にアメリカ、フランス、オランダも追随し、英米仏蘭4ヵ国と幕府との交渉が始まります。幕府寄りであったフランスのロッシュがイギリスの主張に従ったのは、条約勅許は幕府にとって好ましいと考えたからでしょう。物価高騰を防ぐという理由から開港を拒む幕府と、物価高騰は貿易のせいではなく、幕府の物価政策のせいであるとする4ヵ国の主張とは真っ向から対立します。
1865年9月、4ヵ国は連合艦隊を組んで兵庫沖に現れ、威嚇を始めます。当時の将軍は若き徳川家茂、老中は阿部正外(まさとう)と松前崇広(たかひろ)。幕府にとっては、長州征伐どころではなくなったわけです。
朝廷の勅許が出ないことを想定した4ヵ国は「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られねば、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張しました。将軍後見職の一橋慶喜は、「無勅許における条約調印は無効」と主張しましたが、阿部・松前両老中は「もし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉を開始すれば、幕府は崩壊する」とした自説を譲りませんでした。徳川家茂は「外国の要求を受け入れるべし」と考え、阿部、松前は、やむを得ず無勅許で開港を承認します。ここで慶喜は「4ヵ国と戦争になれば敗北する。朝廷にも影響を与える」と判断し、譲歩します。
しかし慶喜は朝廷の意見として、阿部・松前両老中の官位を剥奪。追い詰められた将軍家茂は、両名を老中から外します。このように朝廷が幕府の人事に容易に介入できるようになったこと自体が、幕府の権力の低下を物語っています。
さて、兵庫・大坂などの開港と関税率の引き下げですが、最終的には攘夷主義者である孝明天皇の判断に委ねられます。天皇は兵庫の開港は不可とし、その代わり条約勅許を認め、関税率の改定を事務的に行うよう指示します。外交を好まない孝明天皇が関税率改定の決定権を握っていたことは、すでに幕府の経済政策が機能していないことを証明しています。
税率改定の交渉は1866年に江戸で行われました。安政の通商条約では輸入税5~35%、輸出税はすべて5%でした。イギリス本国がパークスに指示したのは、「このいずれをも15%にさせよ」というものでした。大減率です。この申し出を孝明天皇が承諾したのです。外交を拒んだ孝明天皇が貿易に詳しいはずもなく、また朝廷に口出しできる者がもはや存在していなかったことが幕府崩壊の要因だったのかもしれません。
税率改定の交渉の中身は、安政の通商条約では「従価税」であったものを、一律15%の「従量税」に変更せよというものです。「従価税」は価格の変動によって税額も変わる課税方式で、従価税は価格が上昇するほど税収が増え、価格が下落するほど税収が減ることになるので、インフレに対応できるのが利点です。現在の日本の物品税、消費税、輸入関税の大部分がこれです。「従量税」は平均価格を定めて量(重量、長さ、面積、個数など)にかけるものです。この場合、輸入品価格の高低は関税率に影響しないので、外国にとって有利な方式です。またインフレなどによる急激な価格変動には即応できず、負担の不均衡を招く点が短所です。
1866年に家茂が病死し、将軍職に就いた慶喜は積極的に朝廷に働きかけ、兵庫開港の勅許を得ます。幕府が頑なに拒否してきた兵庫開港は、ほかならぬ将軍の努力によって成し遂げられたのです。
By Master K/益田 慶