小栗上野介が駆け抜けた時代 63 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(12)
1862年、小栗上野介は勘定奉行を命ぜられます。「強力な海軍を創設すべし」という上野介の主張が採用されたのです。かといって上野介は鎖国攘夷派ではなく、当時の幕臣の中では珍しく開国論者でした。アメリカの文明のすぐれた点を説き、軍備や商業、工業においては外国を模範として日本を改革しなければいけないという考え方を持っていたのです。
当時、世界最強の海軍はイギリス海軍でした。イギリス海軍と薩摩藩が戦った薩英戦争(1863年)によって、イギリスの強さを肌で知った薩摩藩、長州藩が、かえってイギリスと親密になっていったのとは反対に、幕府はイギリスに警戒心を深めていきました。アメリカは友好国でしたが、南北戦争の最中。オランダは友好的な国ですが、かつての実力はなく、ロシアはイギリスと争ってアジア侵略を進めている最中で、最も警戒しなければいけない大国でした。上野介が積極的に外交を進めたのはフランスでした。
1864年、ロッシュがフランス公使として日本にやってきます。ロッシュはイギリス外交官オールコックと同い年。ロッシュの就任はフランスが対日政策を重要視しはじめたことの証明です。彼はイギリスを出し抜くためにオールコックに隠れ、幕府に近づいていきます。攘夷問題で苦慮している幕府に対して、「仲介役になろう」と働きかけます。やがてライバルのオールコックがイギリスへ帰国することになり、ロッシュは堂々と幕府に食い込んでいきます。
当時の幕府の交渉役は、外国奉行・栗本鋤雲(じょうん)と勘定奉行の上野介です。栗本鋤雲はロッシュの通訳と親しかったことからフランスとのパイプ役として外国奉行に命じられ、上野介とも親交を深めました。上野介もフランスとの外交に力を注いでいきます。
上野介と栗本鋤雲は幕府にフランスの資本と技術を導入して横須賀に製鉄所を造り、フランス式陸軍を導入し、内閣制を敷き、徳川絶対主義体制をつくろうと働きかけます。これを背後で指導したのが駐日フランス公使レオン・ロッシュという図式です。同年12月、上野介は軍艦奉行に就任し、フランスの援助のもと、横須賀製鉄所の建設と幕府の軍制改革に着手し、ロッシュは軍事顧問団の派遣を実施します。幕府は横須賀製鉄所の建設を正式にロッシュに依頼し、ロッシュは母国から海軍造船官ヴェルニーを招きます。
一方のイギリスは1865年、オールコックの後任として、上海領事のハリー・パークスを送り込みます。フランスとの敵対関係から、薩長と親しくする一方で、幕府に対しては通商条約上に規定された兵庫などの開港を強硬に求めるなど、巧みな外交手腕を発揮します。
パークスは着任に際し、日本の国内事情を下調べし、有能な通訳であったアーネスト・サトウの助言により、今後の対日政策をおおよそ次のように結論づけたとされています。
「日本においては幕府の他にミカド(天皇)という大きな権威が存在し、いくつかの有力大名(薩摩藩・長州藩)はこれを支持して幕府を廃し、合議政体を作ろうと画策している。幕府の統治能力はすでに失われつつあり、これからはミカドを担ぐ反幕勢力の結集を後押しして、倒幕を計り、国際的信任のおける新政府のもとで外交を行い、イギリスの対日交易の安全伸張を期するべきだ」
やがてパークスは、武器商人のグラバーを介して薩摩藩主島津久光に接近します。武器購入でグラバーに多額の債務を抱えていた薩摩藩は、その武器で幕府を倒すという目標を掲げ、薩長連合を成立させ、パークスはこれを支援したのです。主な貿易国であるイギリスに見限られた幕府の頼みは、ロッシュ一人に絞られ、ますます親仏路線が強化されます。こうして倒幕派パークス、幕府派ロッシュの間で熾烈な外交戦争が繰り広げられたのです。
By Master K/益田 慶