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小栗上野介が駆け抜けた時代 62 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(11)

初代駐日外交代表オールコットは1860年末、英国公使館を横浜に移転します。これを知った幕府は困惑。一方、アメリカ初代総領事のハリスは、自身が不在の談合で決定した、列国公使館の横浜移転に反対し、オールコットあてに手紙を書きました。手紙の中でハリスは、自分は江戸での居住に何ら不安を感じていないこと、第二にヒュースケンの死は夜間外出が危険であることを幕府が繰り返し警告しているのに、これを無視したためであることを綴り、フランス公使やオランダ公使らに了解を求めたのです。在外代表部が、その首都にいないというのはどう考えても異常な事態ですから、各国は結局ハリスに同調しました。こうしてオールコックもしぶしぶ納得し、1861年1月には英国領事館自身も江戸に復帰する羽目になります。

 
幕府に対するオールコックの姿勢が大きく変わるのは、皮肉にも彼に対する攘夷浪士による襲撃がきっかけでした。英国公使館のおかれていた高輪の東禅寺が、水戸浪士17名によって襲撃されたのです。200人近い武士が警備していたといわれています。討ち入った浪士のうち数人がその場で殺され、重傷を負った者は捕らえられました。英国人では、第一書記官のオリファントと、たまたま来訪していた長崎領事のモリソンが負傷しました。


それまでオールコックは、幕府の行っている厳重な警備は、外国人を監視することを兼ねた嫌がらせくらいに考えていたようですが、目の当たりに浪士の襲撃の見て考えが一変しました。安易な開港場・開市場の拡大は、イギリスが条約を締結している相手政府を崩壊させるという悲劇の元となりかねないことをはじめて理解したのです。列強としての利権を確保するために、オリファント、モリソンに対する賠償金ということで、オールコックは、ヒュースケン事件の先例に倣い、1万ドルずつ、計2万ドルを幕府からゆすり取っています。


一方、ライバルの米国公使ハリスは、かねてから健康上の理由から辞任を希望していましたが、この時期、ようやくその許可がおりました。1862年春3月、ハリスは日本を去ります。ハリスは軍艦の支援も受けず、単身で日本を開国させるという偉業を成し遂げたのですから、本来なら、リンカーンから英雄として迎えられても良かったでしょう。しかし、実際にはほとんど相手にされず、その後、不遇のうちに没することになります。


その原因は、ハリスの行動に常に不明朗さがつきまとっていたことが挙げられます。金銀比価の違いから小判の大量流出が起きた時、そうした不正行為を取り締まる立場にいた彼自身が先頭に立って、小判の貯め込みをやっていたからです。また、横浜の米国商人の保護もほとんどしなかったので、在日米人の間から彼の罷免要求が出ていたともいわれています。彼の帰国は、そうした不明朗さを糾弾されての罷免という要素が強かったので、とても凱旋将軍というわけには行かなかったのです。


ハリスの後任はプリュインです。幕末史に名を刻んでいない理由は、彼を通じて幕府がアメリカから軍艦を買おうとした時、民間企業との間に入って利鞘を取ろうとしたものですから、幕府が距離を置いたからです。


オールコットはその後、幕府の内乱の危機を回避するためには開港・開市の延期が必要であることを悟ります。しかし、1863年の薩英戦争を契機にイギリスは幕府支持から薩摩藩に急速に接近していきます。薩摩藩は、外国船をいたずらに攻撃したり、異人斬りなどの「小攘夷」の愚を知り、開国による富国強兵を行い、外国に劣らない武力を備える必要性を悟ったのです。また、オールコットの後任公使パークスは、幕府にかわって薩摩などの雄藩が連合政権を作ることを期待し、薩摩藩や長州藩を密かに支援するようになります。


 
By Master K/益田 慶