小栗上野介が駆け抜けた時代 61 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(10)
今週と来週のコラムは幕末の外交、特に外国公使との折衝と駐在外国人同士の主導権争いに着目してみます。幕府の官僚の弱点は長い鎖国による“外交オンチ”に尽きます。その象徴的な事件が「ヒュースケン殺害」です。駐在アメリカ総領事館の通訳兼ハリスの秘書を担っていたヒュースケンが1861年、攘夷派の薩摩藩士に襲撃され、殺害されました。ヒュースケンを暗殺すれば、幕府と列強の関係がまずくなり、幕府が窮地に立つだろうということを狙って行ったものです。
アメリカ本国は幕府からヒュースケン暗殺に対する誠意ある回答を引き出すようハリスに指示しました。ハリスはそれを「幕府から賠償金を取り立てるように」という意味の指示と考え、その後数ヶ月かけて幕府と交渉します。ハリス自身は「幕府は十分警護をしていた。しかし本人が不用心に出歩くということを繰り返したことから起きたのは明らか。だから幕府として責任を負うべき筋合いのものとは思えない」と語り、「ヒュースケンの死は彼の自業自得であり、幕府に責任はない」と各国公使宛に公言していましたが、最終的に本国のミッションに従ったということです。
ハリスに借りがあると感じていた老中・安藤信正は、この交渉に結局応ずることにし、ヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払うことを承諾。関税収入の洋銀を弔慰金に充てて交付したようです。以降幕府は、辻番所に外国人保護を訴える標識を立て、外国御用出役を新設するなど外国人警護に務めるようになります。
この事件は外交史から見れば、大きな分岐点になりました。これにより幕府は外国人の襲撃事件で賠償金を支払うという前例を作ってしまったからです。以後、襲撃事件が起こる度に、列強から賠償金をゆすり取られるようになります。そのピークが「下関砲台砲撃事件」(1864年)で、幕府はその莫大な償金に苦労し、債務の大半を支払いきれずにいる間に滅亡し、明治政府に引き継いでしまうことになります。
ヒュースケン事件以前にも外国人襲撃事件が頻発しており、当初その犯人が誰なのかわからないという状況が続いたので、駐在外国人は、幕府による政治的暗殺ではないかと疑心暗鬼になっていました。そんな折にヒュースケン事件が起こったことから、外国人はが過剰反応を示しました。幕府は、外国人に害意のないことを示すポーズとして、急ぎプロイセンとの話し合いをまとめ、事件の10日後にプロイセンとの通商条約に調印しています。
一方、幕府が新潟開港を実施しようとしないのに腹を立てていた英国公使オールコックは、この機を捉えて英国公使館にフランス及びオランダの代表を集め、数時間にわたって談合したようです。ヒュースケン事件を口実にしながら、その直接当事者である米国の代表をわざと呼ばずに会議を開いたのです。米国に取って代わって、対幕交渉の主導権を持とうとするオールコットの野心が手に取るように見えてきます。
オールコットは、幕府には外国人を保護する能力も誠意もないので、一時横浜に引き上げ、海兵隊の力を借りて自衛の道を講じようと決定しました。本来、在外公館は相手国の首府に駐在してこそ、その存在の意義があります。それを首府から一斉に離れるというのですから、幕府に対する揺さぶりは相当なものだったのでしょう。オールコックには複数の目論見がありました。
第一に、ハリスが勝手に約束した、開港・開市延期をもう一度元に戻すための圧力です。日本の開国により最大の利益を上げているのは、先鞭を付けた米国ではなく、英国の商人です。彼らは一日も早い全面開国を待ち望んでいたはずです。第二に、これまでハリスが務めていた在日外交団の幹事役をオールコックが奪い取り、英国の対日影響力を増大しようという狙いです。第三を挙げるなら、横浜の外国人居留地を、中国における外国人租界のように、自らの武力で守る治外法権の地とすることを狙った領土的野心があったのでしょう。
By Master K/益田 慶