小栗上野介が駆け抜けた時代 60 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(9)
1862年、幕府は遣欧使節団を欧州に派遣しました。約半年に渡ってフランス、イギリス、オランダ、プロシア(現ドイツ)、ロシア、ポルトガルの6ヵ国を視察しました。正使は外国奉行兼勘定奉行の竹内保徳、副使は外国奉行兼神奈川奉行の松平康直。副使は当初、水野忠徳の予定でしたが、英国公使オールコックが強く異を唱えたのです。外国奉行・水野忠徳が神奈川奉行の職を兼ねていた頃、ロシア軍艦の士官殺害事件がありました。水野はその責任を問われて、外国奉行と神奈川奉行の職をともに解かれました。
この遣欧使節団の随員には通訳として福沢諭吉が加わっていたほか、松木弘安(後の寺島宗則)も参加していました。そしてこの使節団は、日本側が本当の目的とした通商条約の改正、つまり開港開市の延期に成功したのです。
遣欧使節団は、まず当初パリに行って条約改正交渉に挑みますが、交渉はうまくいかず、次の目的地であるロンドンへ向かいます。しかし英国外務省は現地情報が十分ではないため対応できず、結局使節団はそこでオールコックが英国に帰国するまで1ヶ月も待たされることになります。
オールコックは、帰国すると早速ラッセル外相に日本の状況を詳しく説明し、説得したので、英国政府はオールコックの提案に従い、通商条約の修正を承諾することにしました。遣欧使節団との間で「新潟、兵庫両港の開港及び江戸及び大阪の開市を1863年1月から5年間延期することを認める」という条約(通称ロンドン覚書)を締結。交換条件として、函館、横浜、長崎3港では条約をきちんと遵守すること、外国人を排斥する古法は廃止することなどがついていますが、さしあたり特に問題になるようなものではありませんでした。
日本市場に最大の利害関係を持つ英国が、このように譲歩したのですから、フランス以下の関係国もこれに倣いました。この通称条約修正の成功により、幕府は攘夷の実行問題で一息つくことができるようになったのです。この激動期に5年の猶予は実に大きなものといえます。
こうしてみると、オールコックのような駐日公使たちの働きがいかに重要であったのか見えてきます。日本の開国により最大の利益を上げているのは、先鞭をつけた米国ではなく、英国の商人です。彼らは一日も早い全面開国を待ち望んでいたわけです。そしてこれまでハリスが務めていた在日外交団の幹事役をオールコックが奪い取り、英国の対日影響力を増大しようと目論んでいたことが想像できます。
遣欧使節団派遣のちょうど1年前、1861年に「ロシア艦対馬占拠事件」が起こっています。ロシアの戦艦ポサドニックがいきなり対馬に来航し、土地租借などを要求して島の一部を占領するという前代未聞の事件でした。対馬藩ではとても手に負えず、新任の外国奉行である小栗上野介が交渉の任に当たりました。上野介はビリレフ艦長と面談するものの交渉は難航し、最終的にはイギリス公使オーツコックの介入により解決をみたわけです。小栗はこの件の責任をとって外国奉行を辞任します。
ここで影響力を誇示したのがオールコックでした。彼は指揮下の軍艦オーディン号を対馬に派遣してロシア艦を威圧し、ロシア艦を退去させたといわれています。一説には対馬藩主がオールコックを通じて英国の東インドシナ艦隊司令官ホープと交渉し、ホープ司令官が英国艦隊2隻を対馬に派遣したというものもあり、定かではありません。しかし、日本が列強のパワーバランスの渦に巻き込まれていたことは事実です。
クリミア戦争に敗れたロシアが、西への進出を諦めて、東に矛先を向けていることは明らかでした。この極東におけるロシアの脅威に対し、オールコックとしては早急に何らかの手を打つ必要があったのです。幕府は単純にオールコックがロシアを追い払ってくれたと考えたものですから、これにより、オールコックと幕閣の間に一定の信頼関係が生まれたことは確かです。
By Master K/益田 慶