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小栗上野介が駆け抜けた時代 59 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(8)

1862年に行われた「文久の改革」の中身を説明する前に、当時の諸藩の基本となる考え方を政治思想面から分類しておきます。諸藩には次の二つの派閥があったと考えるとわかりやすいでしょう。ひとつは薩摩藩に代表される公武合体派、もうひとつは長州藩に代表される尊皇攘夷派です。
開国を主張した薩摩藩と、外国人を排除して平和を保つ攘夷を訴えた長州藩は相容れない方向性ですが、この二つの流れが後に「討幕」に向かって手を結ぶことになるのです。


ここに公武合体派の急先鋒、薩摩藩藩主の父、島津久光が登場します。外様大名の父で、薩摩藩の実質的リーダーとはいえ、幕府には何の影響力も持たない人物です。現在でいえば知事の父といった位置でしょうか。


その久光が公武合体の立場から幕政改革の必要性を朝廷に説明し、同意を得ます。天皇の使いである勅使を江戸に派遣してもらい、それを警備するという名目で自身も兵を率いて江戸へ入り、幕政改革を迫ったことが「文久の改革」の発端です。久光は幕府と交渉し、徳川慶喜の将軍後見識、越前藩前藩主・松平慶永の政事総裁職就任を実現させます。


久光が朝廷の意向を踏まえて行動したとはいえ、これまで政治的な実権を持っていなかった朝廷の圧力によって改革を余儀なくされたことは、幕府の政治力が弱まっていることを証明しています。


改革で実行されたのは人事ばかりでなく、制度も改められました。それまで隔年交代制であった大名の参勤交代を3年に一度に変更、江戸在留期間も100日に改めました。また人質として江戸に置かれていた大名の妻子は帰国を許可されました。国政が混乱している最中なので、外交・貿易面での特筆すべき改革は見当たりませんが、軍事面では西洋式兵制(三兵戦術)の導入、石高に応じて旗本から農兵や金を徴収する「兵賦令」の発布などが挙げられます。


着目すべき点は参勤交代の期間を変更したことでしょう。地方の外様大名にとって参勤交代にかかるコストは莫大です。地方財政が困窮している際に大勢の家来を連れて江戸を往復するくらいなら、地方自治に資金を使いたいと考えるのが外様大名の本音でしょう。


さて、時間は1年前にさかのぼります。1861年、まだ安藤信正が老中として実権を握っていた頃の幕府は、遣欧使節の派遣を決定しています。これは英国の初代駐日大使オールコックの進言が採用されたものです。ちょうどロンドンで1862年5月から国際大博覧会(ロンドン万博)が開催されることになっていました。それにあわせて日本代表がイギリスに行けば、欧州の文明を一度に見ることができます。またそこで日本の優れた工芸品を展示することにすれば、日本からの輸出促進にもつながるとオールコックは考えたわけです。


一方、幕府がオールコックの進言を採用したのは、輸出促進ではなく、1858年の通商条約により、幕府は1863年より江戸と大坂の開市、兵庫と新潟の開港を約束しましたが、その開市開港の5年間の延長を懇願することと、和宮降嫁を実現する際に、10年以内に再び鎖国体制に戻すということを朝廷に公約したので、そのための了解を遣欧使節の派遣によって本国政府から取り付けようというわけです。


1861年(文久元年)12月22日、遣欧使節団は出発しました。幕府内部には、この時期の出発をいたずらに攘夷論者を刺激するものとして難色を示すものがありました。しかし安藤信正はこれを断行しました。この決断が、この翌年早々に起きる「坂下門外の変」の原因のひとつとなります。


一行は、正使、副使、観察使の3名に、通訳その他36名の部下を従えて英国軍艦オーディン号で出発しました。遣米使節団は総勢80名でしたから、それに比べると半分以下の規模です。これは幕府財政が苦しい折から、渡航費用を全面的に招待者側に依存したので、英国政府から人数の削減を求められたためです。招待費用を中心となって負担をしたのは英国ですが、そのほか、フランス、オランダ、ロシアなど、幕府と条約を締結していた国が分担しました。したがって、使節はこれらすべての国を歴訪することになったわけです。


By Master K/益田 慶