小栗上野介が駆け抜けた時代 58 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(7)
安藤信正が老中を務めた1860~1862年は、小栗上野介が歴史の表舞台に登場した時期と重なります。1860年に上野介は外国奉行に抜擢されます。しかし、上野介はアメリカ公使通訳ヒュースケン殺害事件の後始末に加え、ロシア艦隊の対馬国不法占拠に対する交渉役を務めるなど難題を抱えることになります。
時代は大きな転機にさしかかっていました。そして当時の幕府の人事は、門閥や年功序列によって行われていた結果、前線指揮官であるべき地位に老人が多く、世代交代が求められていました。安藤が老中在職中の文久元(1861)年、まず御旗奉行、槍奉行、持ち頭及び先手という軍事上の重職に「極老の者」、つまり老人を任命しないことが決まります。これは軍事面の改革の第一弾で、続いて積極的な軍制改革が行われました。幕府の軍事面での中核組織として、「海陸御備え並びに軍制取調御用」という委員会を発足させ、軍制改革構想を検討させたのです。この委員会に、勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行及び大小目付という実力派を委員としたという点は「国益主法掛」と共通しています。この委員会に上野介と勝海舟という、後世に名を残す実力者が参加します。
この軍制改革案は、軍制を完全に洋式のものに切り替えるという壮大かつ抜本的なものでした。陸軍については、歩兵、騎兵、砲兵の三兵計1万3625人の常備軍を設立しようと計画します。海軍については、江戸及び大阪防衛のため2艦隊(艦船43隻、乗組員4904人)を作り、将来的には日本の沿岸全体を防衛するため、6艦隊(艦船370隻、乗組員6万1205人)を編成しようというものです。財政的にどこまで可能かはともかく、艦隊ごとに艦種を想定し、各艦ごとの水兵の端数までも計算するという点で、精密な立案でもあったようです。
しかし、「桜田門下の変」で安藤が失脚したので、安藤はその具体的な実施にまで着手する時間的余裕がありませんでした。安藤失脚後の1962年6月に初の勘定奉行勝手方に命じられた上野介が、後に横須賀製鉄所の建設に着手することになるわけです。
安藤失脚後に政権を担当したのは、一橋慶喜(将軍後見職)と松平慶永(政事総裁職)です。政事総裁職とは、幕末に新設された将軍後見職、京都守護職と並ぶ三要職のひとつです。
このように新たな役職が誕生した背景には紆余曲折があります。1862年に朝廷と薩摩藩は、越前福井藩主松平慶永を大老職に、一橋慶喜を将軍後見職に就任するよう求めました。将軍後見職とは、若年の将軍徳川家茂を補佐する役です。徳川家茂は御三家のひとつ紀州藩藩主。一方の一橋慶喜は水戸藩主の七男で、同じく御三家のひとつ一橋家を相続し、早くから将軍になることを待望されていました。
かつて14代将軍の後継者問題が浮上した際に、紀州徳川家の家茂を推す南紀派と慶喜を推す一橋派が対立し、南紀派の井伊直弼が大老に就任後、井伊の断行で家茂が14代将軍に決定したという因縁があります。井伊が反対派を強硬に処罰した「安政の大獄」で一橋派の多くの者が登城停止、謹慎処分を受けたので慶喜と松平が要職に就いたのは「一橋派の復讐」という面もあったのでしょう。朝廷や一橋派と争いを避けたい幕府は、新たに役職を新設せざるを得なくなり、こうして一橋慶喜と松平慶永による「文久の幕政改革」が進められたのです。
松平は当初攘夷派でしたが、後に積極開国論に転じ、開明派の藩主として知られた人物です。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推し、井伊直弼政権下の「安政の大獄」で謹慎処分を受けていたので、松平は政権が変わったことで復活を果たしたわけです。彼は公武合体派として幕府と朝廷の間の調整役を務めます。
では、続いて「文久の改革」の中身を見てみましょう。最も重要なことは、それまで国政を全面委任されていた幕府に対し、朝廷から改革が指示され、その大部分を受け入れざるを得なくなった点にあります。
By Master K/益田 慶